2010年3月19日
*ストーリー*
修道院で生活するセリーヌは、13世紀フランドル地方のキリスト教神秘主義的詩人ハデウェイヒに傾倒し、激しく感化され、その盲目的な信仰心ゆえに修道院を追われる。パリの大邸宅に戻るが、裕福な家庭で、やり場のない気持ちをもてあました彼女は、イスラーム系のふたりの男性ヤシーヌとナシールと出会う。やがてセリーヌは神への情熱的で倒錯的な愛に駆られ、恩寵と狂気のはざまで、危険な道へと導かれてゆく。
★ブリュノ・デュモン 1958年生まれ。哲学教師として活動した後、ジャーナリストなど様々な職業を経験。1997年に『ジーザスの日々』で衝撃的な監督デビューを果たし、カンヌ国際映画祭特別新人賞を獲得。続く『ユマニテ』(99)でも同映画祭でグランプリを含む3部門で受賞。『フランドル』(06)で再び審査員特別グランプリを受賞している。現在のフランス映画界で、揺るぎないヴィジョンを感じさせる希有な監督のひとり。
イスラーム系の男性が登場したことから、これは是非監督のお話を伺いたいと、インタビューを申し入れました。いかにも哲学がご専門で気難しそうな雰囲気の監督を前に、稚拙な質問しか出来ない私は萎縮してタジタジでした。
― 見終わって感じたのが、非情に純粋な人間が宗教を政治的に利用しようとする人の犠牲になっているという現実でした。修道院で断食をしているセリーヌに、シスターが「殉教はダメよ」と諭す場面がありましたが、まさにこれがこの作品のメッセージだったと感じました。
監督:解釈は人それぞれですから、全く自由です。私の意図はもちろんあります。
― 「暴力は必然」と語る兄ナシール。一方で「暴力は暴力を生む」と反論する弟ヤシン。フランスに多く住むイスラーム系住人の典型を、この対照的な兄弟二人に凝縮させたように思いました。イスラーム系住人についてのリサーチはどのように行ったのでしょうか? 郊外の低所得者アパートの場面は、ドキュメンタリーの様にも見えました。
監督:長い時間をかけてリサーチしました。映画的に価値がないといけないので、表現したいものを撮れる舞台となるところを探さなくてはなりませんでした。ドキュメンタリータッチかどうかは疑問です。私は映画を撮るとき、人の内面を描きたいと思っています。直接内面を撮ることはできないので、風景や背景でしか表現できません。そういう意味で、撮影場所は慎重に選びますが、背景自体にはあまり意味がありません。余計なものを出来るだけ排して描くようにしています。社会的な現実を映し出そうとしているのではなく、精神的なものを表現したいのです。内面を表現できる背景を使いたいのです。
― ヒロインを演じたジュリー・ソコロウブスキさんは、まさにその内面を表わせる人だと思いました。彼女ありきで、『ハデウェイヒ』を撮ろうと思われたのですか?
監督:最初に企画があって、彼女に出会ったのです。映画を通じて皆さんが感じるのとは全く逆です。
― ジュリーさんとはどのように出会ったのですか?
監督:平凡な偶然の出会いでした。私の作品を映画館に観に来ていて、彼女の存在感が印象に残りました。個性があって、特別なものを感じました。その時には、この作品に起用することは考えてなかったのですが、何の気なしに連絡先を聞きました。その後、自分の映画に合う人を探すにあたって、若いシスターから選んでみようと思ったけれど見つけられなくて、彼女を思い出して、会ってみようと連絡を取りました。彼女は女優になるという興味もなく、信仰心もない子でした。でも、話をしてみて、お互いを知ることができて、引き受けてもらうことになりました。プロの俳優でなく、まったくの素人です。彼女を通して、セリーヌという彫刻を作り上げるように映画を撮りました。私自身の考えを押し付けずに、演じる彼女の存在を尊重して、一緒に人物像を作り上げていくことに、私は魅力を感じます。
― ハデウェイヒは、フランスでは誰もが知っている詩人ですか?
監督:13世紀フランドルにいた神秘主義者です。詩も書いたし、神学者でもありました。フランスでは、ほとんど知られていません。オランダでは、少し知っている人がいるでしょう。
― 監督の故郷、フランドルの人ということで興味を持たれたのでしょうか?
監督:まさにそうです。フラマンジュには、女性神秘主義者が多くいるのですが、フランドルには少ないのです。
― どんな人物だったと伝えられているのでしょうか? キャラクターは、セリーヌに重なるところがあるのでしょうか?
監督: ハデウェイヒは、13世紀に生きた人。当時は愛について多く語られていた時代でした。宗教を信仰している世界でも、愛が語られていたことに衝撃を受けました。信仰心の強い人が愛について激しい詩を書いているのです。神を強く求めているのが、人間の男性を思うのと同じような熱い恋愛感情なのに驚きました。ハデウェイヒの心を現代版にセリーヌに置き換えて表現しました。共通点は心だけ。他は何も共通点がありません。
― 神様に異性を感じていることに驚きましたが、今の説明で納得しました。ジュリーが素顔なのにもびっくりしました。眉毛も産毛もそのままというところに驚きました。
監督:映画の仕事をする時に、いつも思っているのが理想を持たないこと。だから、プロを使いません。真実は普通のものから生まれます。プロだと理想像を持ちたがります。平凡である、普通であること、その人が世界で一つであることが、普遍的で真実を訴えることが出来るのです。愛は様々な多様性の中から生まれるもの。理想からでは一つになってしまう。何も生まれないし、真実を語れない。普通だからこそ表現できるものがあります。ジュリーはナチュラルで理想とは全く違う。彼女が素だとおっしゃっていただいて嬉しいです。平凡だからこそ観客の心を掴めるのだと思います。
― 冒頭の方で、部屋で祈っている時、窓の外の景色が揺れていましたが、それは外が工事中だからなのですが、これも意図したものですね? 彼女の尋常じゃない気持が、周りがどうあっても信仰心は揺るがないという風に感じたと、今日ここに来られなかったスタッフが言ってました。
監督:そうとも取れますね。精神的に世界と離れて、一般社会と切り離された状態です。修道院は閉ざされた空間。精神が閉ざされているともいえます。
― ナシール役とヤシン役は、どのようにして見つけたのですか? リサーチする中で、イメージに合う素の姿を持つ人を選んだのでしょうか?
監督: 役を演じてもらうには、フィクションの中でやってもらわないといけません。素の部分と嘘の部分が勿論あります。ヤシンとは裁判所の廊下で出会いました。ヤシンは不良っぽいイメージの人物だったので、裁判所に行けば何かをしでかした青年がいるだろうと行ってみたのです。兄のナシール役には、もっと頭のいいインテリを探しました。宗教心が強い為にテロリストに至る人物なので、哲学のわかる人が必要でした。彼は実際に哲学の教師で、役をよく理解してくれました。ただ演じるのではなく、役柄と自分の関係を理解できる人物が必要だったのです。
― 監督ご自身の宗教的立場は? 一般的日本人の私はあまり信仰心がないのですが・・・
監督: 私自身も信仰心がないので、宗教にのめり込むことには理解しがたいものがあります。今日、宗教を信じてテロリズムに走る人たちがいますが、愛と暴力を結びつけていくことに神秘的なものでしか理解できません。いろいろと解釈はあるけれど、すべてを理解しなくてもいいと思います。
― 宗教は本来平和を求めるもので、のめり込み過ぎてテロに走るのは間違いだと思います。
監督:まさにその通りです。宗教で心が救われることもあるけれど、暴力に導かれることもあります。宗教は平和のイメージだけど、暴力も存在します。宗教は暴力を認めている部分があります。
― 自爆テロの現場はどこで撮影したのですか?
監督:凱旋門の前で撮影しました。実際に爆破はしていませんが・・・ もちろん、撮影後は綺麗に元通りにしました。
(ずっと神妙な顔をしていた監督ですが、ここで初めてニヤっと笑いました。緊張しまくっていた私でしたが、いただいていたインタビュー時間もそろそろ終わりに近づき、ほっと胸をなでおろしました。)
― 心を描く深い作品を今後も期待しています。本日はありがとうございました。
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