女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
38号 (1996.09)  pp. 34 -- 37


姜文インタビュー!
初監督作品
『阳光灿烂的日子』(『太陽の少年』)について聞く

八一映画製作所にて

宮崎 暁美


 私が初めてみた中国映画は『芙蓉鎮』。そして、これに主演していたのが姜文(チアン・ウエン)でした。私はすっかりこの映画の姜文の演技に魅せられてしまい、その後、なんと二十二回もみてしまった! そして、この映画がきっかけで中国映画にはまっていった。この映画をみる前には中国映画なんて中国共産党の宣伝映画だろうと思っていたので、その意味でも『芙蓉鎮』は私の中国観を変えた映画。そして私の人生も。

 全然、中国に興味のなかった私がこの映画を初めてみた後、一ヵ月もしないうちに中国語を始めてしまったし、台湾や香港の映画にも興味を持つようになっていった。姜文に出会ってなかったら、その後の周潤發や劉徳華との出会いもなかったかなとも思う。

 シネジャとの出会いもこの作品の映評がきっかけ。他の雑誌ではこの映画の女主人公のことばかり書いであって、私はそれに不満だった。確かに一番の主人公は劉暁慶(リュウ・シャオチン)だとは思うけど、彼の演技がこの映画を感動的なものにしていると思った私にとって、彼の事はなんで評価されてないの!と思っていたら、シネジャではちゃんと彼の演技について書いであった。それで私と同じ思いの人たちがいる!と嬉しくなりシネジャと関わるようになって、いつのまにかどっぷりとはまっていたというわけです。

 そんな私が今年の夏、北京に行くことになり、なんとか姜文に会えないかと色々あたってみたけど、日本にいる間には彼の連絡先がわからず諦めていたところ、いつも“北京便り”を寄せてくれている藤岡さんや、今回、北京電影学院の生活をレポートしてくれた村山さんたちのおかげで、思いもかけず彼に会うことができました。

 私が北京に行ったのは7/3。7/5には姜文主演の『秦頌(周暁文監督)』(36号参照)が公開され、映画雑誌や新聞を賑わしていた(もちろん私もさっそくみに行った)。この後も、張芸謀監督や陳凱歌監督の作品に出演と、今や中国の影帝と言われている彼だけど、日本での知名度は中国の女優や香港の男優、女優と較べると低いのが残念。『宋家皇朝』の公開も待ち遠しい状態の姜文だけど、このインタビューは、なんと張芸謀監督の『有話好好説』(日本公開タイトル『キープ・クール』)のロケ現場、八一映画製作所で行われ、インタビューの後、撮影風景までみせてもらえた! その上、姜文ばかりでなく張芸謀監督とも会うことができて、私にとっては一生忘れられない思い出になりました。

 それではそのインタビューの模様をレポートしましょう。主には日本公開も予定されている初監督作品『阳光灿烂的日子(陽光燦爛的日子)』についてです。内容について詳しいことはシネジャ34号“北京便りI『阳光灿烂的日子』北京で公開!”で藤岡さんがレポートしていますので参照して下さい。(インタビューは7/19、八一映画製作所の建物の外にイスを出してきて撮影の合間に行われた)




宮崎(以下 ) 俳優であるあなたが『阳光灿烂的日子』を監督しようと思ったきっかけは? この映画ができるまでにどのくらいの年月がかかりましたか?

姜文(以下 ) 91年頃、王朔(ワン・シュオ)の小説を見て子供の頃の思い出と重なる部分を合わせて映画にしたいと思ったし、それと、マスカーニの「村の騎士(カヴァレーリア・ルスティカーナ)」が好きで、この音楽と映画のイメージを重ねて、この話をもとに自分の思いを表わしたいと思った。アメリカへ行った時にマーチン・スコセッシ監督にも、ぜひ映画化したらいいと勧められた。
 最初は王朔が自分で脚本を書く予定だったけど、結局自分で脚本を書いた。92年5/1~6/13までかかって、毎日机に向かい、がむしゃらに書いた。窓からみえる景色は90年代、でも自分の頭の中は70年代で、その間を行きつ戻りつ脚本を書いた。脚本を通じてイメージが広がり、どうしても映画に仕上げたいと思ったけどその当時はお金がなかった。その間に周暁文監督の『龍謄中国(香港題名『大路』)』に出たり、TVドラマ『北京人在紐約(ニューヨークの北京人)』に出たりしていた。ようやく出資してくれる人をみつけ、93年8/23に撮影は始まり6ヶ月かかって撮り終わった。その後5ヵ月かかって6回編集をやり直して出来上がった。

 編集はどんな感じだったのですか?

 最初の編集段階では25万フィートで4時間のものだった。現像は日本、ミックスと音入れはドイツでやったけど、ドイツのシュレンドルフ監督(『ブリキの太鼓』など)がみてくれて励ましてくれた。そして、まだ出来てもいないのにベネチア映画祭に推薦してくれて、参加するように言ってきてくれた。それを聞いてまだ出来てもいないのに出品したらと言ってきてくれたのが嬉しかった。7/8に始めて出来上がったのは9/8。開幕の三日前だった。
 結局、1991年~1994年までかかり、1200ものカットを50時間ぐらい撮った中から2時間くらいの映画を作った。

 撮影はいかがでしたか?

 撮影は始めはとても嬉しかったけど、とても大変だった。だから終わった時にはすっかり気が抜けてしまった。そして、出来上がった時にはほんとに自分が撮ったものとは信じられなかった。

村山 最初の場面の毛澤東像を下から仰ぐように撮影した映像は今までにはなかったものだと思いますが自分で考えたものですか?

 そうです。

 日本の観客にどのようにみてもらいたいですか?

 自分の経験をたくさん折り込んではいるけど、誰にでもある世界を撮ったので、国の違いに関係なく子供から大人になるまでの感覚は普遍的なものだと思うので理解してもらえると思う。

 文革の時代を背景にしていますが、その時代の青春像はやはり違うものがあるという意味もあるのですか?

 CNNやBBCの取材でも文革と映画との関わりを聞かれたがその時代の青春像を表わしてはいるけど、背景として文革があるだけで、文革時代の青春を表わしたかった訳ではない。でも文革は中国の青春期だと思う。それに人間の青春と重ね合わせて考えることも可能だ。

 初めて監督を経験してみていかがでしたか?

 しんどかったけど、創りあげた時の達成感は快いものだった。それに、俳優の経験も生かせたと思う。

 また監督する予定はありますか?

 二作目を考えている。まだストーリーがしっかり出来ている段階ではないけれど中日戦争の頃の話で、付近に日本軍が駐留している村が舞台。ある時、荷物が送られてきて開けてみたら日本兵と通訳だった。村人たちは日本兵を殺せば近くの駐留軍に報復されるだろうと処理に困って、どうしたものかと通訳を通して日本兵と話すのだけど、殺されることを恐れた通訳はほんとのことを言わず、話が噛み合わない。そのすれ違いの妙、「ブラック・ユーモア」を表わしてみたい。時代設定は中日戦争の頃を考えているけど、「人間の愚かさ」は時代に関係なく不変だということを表わしたい。できれば日本との合作を考えているけどなかなか難しい。(略)

 他の作品のことも聞きたいのですが、私は『芙蓉鎮』であなたがホウキを持ってワルツのステップを踏みながら道の掃除をするシーンがとても好きなのですが、あれは自分で考えられたのですか?

 原作にそういうシーンはあったのですが、どういうふうに演じるかは自分で考えました。

 今まで、知識人、御輿担ぎ職人、刑務所帰りの青年、宦官、紙屑売り、刑事、音楽家、実業家、皇帝など、様々な役を演じていますが、これからはどんな役に挑戦してみたいですか?

 今、特別に考えているものはないけど、これからも色々な役に挑戦していきたいと思っている。


 ここ迄話したところで次の撮影の準備ができて、姜文は屋内の撮影場所に行き、約1時間のインタビューでした。最初は口数も少なかったけど、話してるうちに雄弁になり、特に次の作品の話の時には通訳の人がどこで区切って訳したらいいかわからないくらい雄弁に思いを語って、ほんとはもっと詳しく喋ってたのだけど、要約だけ載せました。それに細かい数字を覚えているのにはびっくり。数字にこだわる中国人そのものの人でした。

 インタビューの後、映画の撮影場所に行ったら、そこにはなんと張芸謀監督もいた(あたり前か)。まさか張芸謀にも会えるとは思ってもみなかったので、嬉しさ2倍。しかも映画の撮影現場をみるのは初めてだったのでドキドキ。レストランの上の屋根裏部屋? という設定だったので、狭いところで撮っていたから、私たちは邪魔にならないように隅っこにいたため、演じているシーンはみることができなかったけど、部屋の外のモニターをみながら指示を出している監督の横で私たちもモニターを覗いたり、部屋から出てきては霧吹きで“汗”を造っている姜文を眺めていました。

 インタビューには黒いTシャツにGパンで現われたので衣装を着替えてラフな格好で来たのかなと思ったけど、なんとそれが衣装だった。何度も何度も同じシーンを撮っていて、映画ってこんなちょっとのシーンの積み重ねなんだと、ほんとに大変だなと実感した。

 1時間程撮影したら終わりだったらしく、みんな下に降りていったのでついていった。監督と姜文が打ち解けて話していたので張芸謀監督にも紹介してもらい、『上海ルージュ』のことが載っているシネマジャーナル37号を渡したら嬉しそうにみていた。姜文が着替えたら写真を撮ることになったので、その間、監督に恐る恐る写真を撮らせてもらえますか? と聞いたら快くOKが出てホット一息。建物の外に出て、張芸謀監督の写真を撮り、一緒に残ってくれた村山さん共々ツーショットまで撮ってしまった!

 その後、姜文が着替えて出てきてくれて2~3カット撮影。91年来日の時と同じくムスッとした顔をしていたので、あの時と同じく「笑一下(ちょっと笑ってください)」と言ったら笑ってくれたけど、監督にも笑われてしまった。それにしても張芸謀監督がみているところで姜文を撮影したので、緊張してしまった。91年、来日の時の写真を何枚か姜文にあげたら(22号参照)、監督と一緒に写真をみながら二人で笑って何か話している。田壮壮監督も写っていたので、もしかしたらそんな話題でも話していたのかしら。私はその中の「笑一下」と言った時、笑ってくれた姜文の写真にサインをして欲しかったけど、「この写真は僕が欲しい」とだだっこのように言われてしまった。やっぱりこの人お茶目だわ(22号、題名は「姜文ってお茶目」)と諦め、ちょうど持っていた本の裏にサインをしてもらった。

 撮影所に入る時、前の撮影が押して待ち合わせた時間に会うことが出来ず、行き違いになってしまい、撮影所の外の餐庁(食堂)で待っていたら姜文自身が車(チェロキー)に乗って迎えに来てくれて(運転は別の人)撮影所の中に入れたのだけど、帰りも同じく姜文の車に同乗し、撮影所の外まで送ってくれた。まさか、門の外まで送ってくれるとは思ってもみなかったので感謝。撮影所の中は広くて出入りするのにも時間がかかるし、八一は解放軍の撮影所なので居住区は自由に出入りができるけど、撮影所の中には一般人はなかなか入れないからかもしれない。監督たちは20人くらい乗れるマイクロバスへ。監督が手を振ってくれたので私たちも思わず手を振ってしまった。門の外で降ろしてもらった後、また監督たちの車が来たので、ミーハーな私たちはまた手を振ったら、監督も笑って手を振ってくれた。日本を出る時は姜文にインタビューができたり、張芸謀監督にも会えるとは思ってもみなかったので、帰りは夢心地の気分でした。


 このインタビューが実現するのに手をつくしてくれた現在北京電影学院に留学中の藤岡さん村山さん、そして通訳をしてくれた北京在住の原口純子さんに感謝します。原口さんは日本ビクターが毎月出している[Rolling Sound Review]というペーパーに“現在的北京”という記事を書いています。このペーパーは輸入レコード店のアジア物コーナーに行くと置いてあります。


姜文フィルモグラフィ

『ラスト・エンプレス(末代皇后)』陳家林監督 1985 日本未公開 ビデオ化のみ
『芙蓉鎮(芙蓉鎮) 』謝晋監督 1986
『花轎泪』張暖忻監督 1987 仏との合作・日本未公開
『紅いコーリャン(紅高梁)』張芸謀監督 1987
『春桃(春桃)』凌子風監督 1988
『黒い雪の年(本命年)』謝飛監督 1989
『最後の宦官李蓮英(大太監李蓮英)』田壮壮監督 1990
『龍謄中国』周暁文監督 1992 日本未公開
『ニューヨークの北京人(北京人在紐約)』TV番組 鄭暁龍・馮小剛監督 1993 日本未公開 ビデオあり
『宋家皇朝』張姉婷監督 1995 未公開
『秦頌』周暁文監督 1995 日本未公開
『有話好好説』張芸諜監督 1996 8月撮影中
『刺秦』陳凱歌監督 撮彰予定



姜文監督


☆姜文インタビュー印象記     M.村山

「夏雨、姜文にインタビューを申し込みたいんだけど‥‥‥」
「じゃあ、会社(姜文の会社、“陽光燦欄公司”のこと)に電話してみたら?」
「電話番号知らないよ」
「教えるよ‥‥」
ということで、あっけなく実現してしまったインタビュー。

 当日は撮影の都合で約束の時間より2時間遅れとなり、待ちきれなくなった私たちが連絡をとるため電話を捜しに八一撮影所(軍管制)の中に入っていって、招待所で電話をかけていたら職員にていよく追い払われたりと、姜文本人が現われるまではハラハラしましたが、インタビューは順調に進み、撮影現場まで見られて大感激。

 おまけといっては失礼ですが、張芸謀監督のお側でモニターを覗くなどラッキーでした。すっかり気をよくした私たちは監督や姜文とツーショット写真は撮るわ、握手はするわ、姜文の車に乗っかって撮影所の入口まで送ってもらうわと、ミーハーの王道をつき進みました。あまり愛想がよくないと聞いていた監督も、この日は機嫌良く、帰りのロケバスから私たちを見かけて手を振ってくれるなど‥‥うれしかった。

 それにしても姜文に向かって、それまではあまり中国語を話さなかった宮崎さんが「笑一笑(笑って!) 」と、言ってカメラを構えたのには驚くと共に、「さすが度胸がある」と妙に感心してしまいました。そばで見ていた張監督も笑い出し、結構受けていました。

「きょうのインタビューは成功だったね!」と、自己満足で足取り軽く意気揚揚と帰った私たちでした。



張芸謀監督





北京特集

  1. 北京電影学院大学院 監督科での一年間とは
  2. 姜文インタビュー! 初監督作品『阳光灿烂的日子』について聞く
  3. 夏雨インタビュー 北京市内にて
  4. 北京滞在記+劉徳華のコンサートを見に香港へも行ってきましたの記



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