女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
38号 (1996.09)  pp. 31 -- 33

北京電影学院大学院 監督科での一年間とは

M.村山



北京電影学院正門前にて

 北京電影学院監督科というと第五世代の出た本科(大学に相当する四年制)が有名ですが、彼らが卒業したあとしばらく学生募集がなく、進修科(黄建新監督など出た)幹部養成科というプロを対象に募集した時期を経て、85年に再び学生を募集し、90年代初めに研究生(大学院生に相当する三年制)の課程が設置されました。私が現在所属しているのは、「監督科95年度(入学)研究生班」で、身分は進修生(聴講生)です。37号の藤岡さんと同じ身分ですが監督科は実習などがあり、時間が不規則なため、95年9月~96年6月の一年間は他のクラスの授業をとるということもできず、自分のクラスにどっぷりつかった一年でした。それだけに監督科の長所・短所をかいま見ることができ、あまり日本で紹介されることのなかった監督科の様子を暴露(?)できればと思っています。

 研究生のクラスは三年制ですが、学校での授業は実質一年半しかありません。あとの半年は卒業作品をとる時間にあてられ、三年生の一年間は卒論を書くという名目で、授業がありませんそこで大部分の学生はテレビドラマの制作に参加したり、映画制作の現場で助監督、スクリプターなどの経験をつむ訳です。

 一年間の授業で、カッコ内の部分は私は選択しなかったものですが、大きな柱となる授業は三つありました。
 1、表演 2、影視語言 3、劇作 です。1は、俳優科の先生が担当し、動物のまねから始まり、学期ごとに試験があります。試験の時には監督科の先生で都合がつく先生は皆来て批評します。この授業の目的は俳優を育てるのではなく、俳優とうまく仕事ができるように「俳優」を体験させる、また、一人芝居、二人芝居などをつくる過程で、舞台の空間の使い方、芝居の構想などを考えさせるということに重点が置かれているため発声諌習はありません。

 2と3はクラス担任の二人の先生がそれぞれ担当します。2がすなわち映画をつくる上での基礎となる知識を教えるはずなのですが・・・。今年は今までにないやり方で、とにかく作品をつくらせ、そのあとから理論が追っかけるという形になっています。というのは、今までの卒業生の作品があまりよいできではないという先生達の反省の上に、とにかく、「実習」を強化しようということで、今までに五分のもの一本、十分のもの三本作る機会が与えられました(もちろんフィルムではなくビデオです)。

1995年9月~1996年1月(第一学期)
午前(8:00~11:30)午後(1:30~4:30)
(外国語)電影技術概論
(政治)(計算機)
(外国語)表演
影視語言影視語言
劇作撮影芸術

1996年2月~1996年6月(第二学期)
午前(8:00~11:30)午後(1:30~4:30)
(外国語)電影芸術理論
表演(計算機)
(外国語)
影視語言と制作影視語言と制作
劇作照明/音楽分析

 3の授業は第五世代の担任でもあった先生が受け持っていて「脚本を書く」ことを学ぶ授業なのですが、授業中に書くことはなく、専ら宿題という形で課題が与えられ、提出後、授業中に皆の前で読み、分析・批評されます。また授業中は先生が「教えたい内容が含まれている」作品を選択し、ビデオで見せることが多く、中国でまだ放映されない新しい作品などを見ることができました。これらの作品は、香港・台湾経由で先生の元に集まってくるもので、「中国語圏」の強みでしょう。

 その他の科目でおもしろかったのは、「撮影芸術」です。張芸謀監督の同級生だった先生が教えているのですが、この先生、張監督に『紅夢』(だったと思うが)の撮影を頼まれたものの、「張芸謀は人の話をきかん」「映画をとるのは疲れる」などと私たちの前で言い、ことわったらしいのですが、香港映画で「七三一石井部隊」を扱ったおどろおどろしいのを撮ったりしている・・・不思議な人です。


 現在クラスには大陸の学生が三人、台湾から二人、マレーシアから一人の合計六人の研究生と、私を含めて二人の進修生がいます(一人は台湾人)。最初は言葉の問題もあり、何となく疎外感があったのですが、表演の授業や実習を通して仲間意識が生まれ、一年たったいまはかなり楽な気持ちになりました。また、実習では撮影は撮影科の学生に、録音は録音科の学生、美術は美術科の学生に協力してもらうというように、他の科の学生との接触も多く、またこのように実習ができるのも、「映画大学」の強みであり、監督科以外でも一度は「実習」を経験するので(脚本科であっても)、監督科以外の監督志望の学生を数多く見かけます。


★外国人として

 「アジアで唯一の映画大学」と言われ日本でも有名(なのでしょうか?)な北京電影学院ですが、外国人にとっては「学費が高い」「設備が不十分」「融通がきかない」等々、不満はたくさんあります。また実際に卒業作品をとる際、外国人留学生には(正規の研究生であっても)学校はお金を出しません。学校がくれるだけのお金で作品は撮れず、学生自身も投資してくれる人なり会社なり捜さなくてはならないのですが、「大陸の学生重視、外国人留学生軽視」と思ってしまいます。卒業作品は実は撮らなくてもよい、ということが最近わかったのですが、(当然撮らなければならないものだと思っていたので考えが及ばなかった)だからといって「じゃあ撮らない」と簡単にはいかず、半年後、頭の痛い問題になりそうです。

 学院にとって「外国人留学生ってなんだろう」と話し合うといつもでてくる答えは「金づる」ですが、外国人は実際問題として各製作所に所属することはできず、大陸の先生方にとって大陸の学生の指導に力が入るのも、「中国映画界」のことを思えば当たり前のことかもしれません。全て公平に平等にというのは無理なのでしょう。こういう不満は日本で勉強している留学生の中にもあるんじゃないかなと中国で勉強している日本人は考え、もっと楽しいことを考えると・・・。よくミーハー的にうれしくなるのは、映画の中で見た俳優、監督さんたちを学院内外で見かけること。北京製作所と隣接しているため、学校の行き来やお昼などに見かけるわけです。学校の創立記念日には気がつくと張豊毅(さらばわが愛)がとなりに立っていて、思わずツーショットの写真でも撮ってもらおうかなと思いましたが、周りにそういう人がいなくて、はずかしくてやめました(残念!) また、学生がアルバイトとしてテレビドラマや映画に参加していると友達ということで見学したり、詳しい話を聞けたりと映画界を身近に感じます。(中国の監督や俳優は割と気さくにおしゃべりしてくれます)

 学院の留学生(映画専攻)はやはり台湾・香港の学生が多く、マレーシア・シンガポール・カナダなどの国籍でも「華僑」出身で、まだまだ「中国語圏」以外の学生は少ないなあと感じます。しかしその中で韓国人のパワーには驚くものがあり、個人的には中国語圏映画に興味を持っている日本人がもっと留学してくれるといいなあと思います。熱烈歓迎!

 北京に来てからあっという聞に過ぎた一年半。当初は一年半の留学でとっとと帰国するつもりでしたが、さすが四千年の歴史を持つ国だけある不思議なおもしろさ(生活習慣、人間関係等々)をもう少し味わいたくて、そして何といっても中国映画(界)をもうしばらくながめていたいということで私の留学期間もあと一年?二年?とのびそうです。タクシーに乗り、私が日本人だとわかると「山口百恵を知ってるか?」「高倉健は男らしい」「日本映画はおもしろい!」と話しかけられます。日本では中国人がタクシーに乗ってもまだまだこんな話題は一般的ではないでしょう。もう少し中国映画が日本でメジャーになることを祈りつつ、これからも中国映画に注目しつづけながら、今回は(また機会があったら書くゾ!という意志表示)このへんで、再見!





北京特集

  1. 北京電影学院大学院 監督科での一年間とは
  2. 姜文インタビュー! 初監督作品『阳光灿烂的日子』について聞く
  3. 夏雨インタビュー  北京市内にて
  4. 北京滞在記+劉徳華のコンサートを見に香港へも行ってきましたの記



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