1895年、日清戦争に勝った日本は台湾を割譲し、1945年太平洋戦争で負けるまで、台湾は51年の間、日本の植民地だった。同化政策により学校教育は日本語で行われたため、この時代を過ごした人たちは日本語ができる。
この作品は、<日本統治時代><国民党蒋介石時代>と、台湾の激動の時代を生きてきた日本語世代と呼ばれる、現在80歳を超えた方へ取材したドキュメンタリーである。
酒井充子監督は、OL、新聞記者を経て、ドキュメンタリー映画、劇映画(『かもめ食堂』など)の映画製作、映画宣伝に関わり、7年をかけてこの作品を作りあげた。
登場される日本語世代の方たち:
茶畑で茶摘を今も行う楊足妹さん。原住民の権利確立を求め立法(国会)議員を15年務めた原住民パイワン族出身のタリグ・プジャズヤンさん。お転婆だったという陳清香さんは、当時台湾人はなかなか行けなかった女学校へ進学した。ビルマ戦線で戦った元日本兵で、二二八紀念館と台湾総督府でボランティア解説員をしている蕭錦文さん。貧しさから中学退学を考えていた時、黙って5円札をくれた日本人の先生への恩を忘れず、毎年、千葉県にある先生の墓参りをする宋定國さん。
http://www.taiwan-jinsei.com/cast.html
M: 1998年、1本の台湾映画との出会いが、台湾に興味をもったきっかけとのことですが、作品は何だったのですか?
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の『愛情萬歳』です。
M&K: エッ! 蔡明亮ではないだろうと思っていました(笑)。この作品を作った人だから、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督か楊徳昌(エドワード・ヤン)監督かなと思ったのですが、意外です。
友だちが、「きっと、私が好きだと思うから観てみたら」とビデオを貸してくれて、すごく共感して。それまでにも台湾映画は観ていたのですけど、あの映画に描かれている台北がとても魅力的で、自分の目で見てみたい!と、1998年に初めて台湾に行きました。その時に、1人の日本語を話せる方と出会いました。『悲情城市』も観ていたので、九份に行ったのですが、帰りにバス停で待っていた時に、おじいさんに日本語で話しかけられ、「自分が公学校時代(注)に可愛がってくれた先生がいたけど、引き揚げてしまって、会いたいけれど会えないでいる」と言われました。バスがすぐに来てしまって、挨拶もそこそこに別れてから、そのおじいさんの流暢な日本語と、先生を思い続けている気持ちは何だろう? と思いました。帰ってから、台湾という国と、当時の日本について知りたくなりました。それから台湾のことを調べ始めました。
(注)当時、日本人の子供は小学校に。台湾人の子供は公学校と呼ばれる学校に通っていた
M: もちろん、歴史の授業で台湾が日本の植民地だったということは習ったのですが、教科書にも詳しくは載っていなくて、知らない状態でした。『悲情城市』や、他の台湾映画を通して、台湾のことを知りました。
『悲情城市』を観た時には、消化できない部分があったけれど、この映画を撮った今、再度観たら、違う意味で響いてきました。
台湾へは1998年に行ったあと、九份のバス停で話しかけてきたおじいさんに会おうと、2000年にまた行ってみました。私の記憶では、バス停の向かいの家から出てきたと思っていましたので、訪ねてみたのですが、結局会えませんでした。もっときちんと聞いておけばよかったと残念でした。でも、同様の方がたくさんいるはずと思って、九份をまた歩いてみました。
そうしたら、雑貨屋さんをやっているおじいさんが、思い切り大きな音で軍歌を流して店先に座っていたので声をかけてみました。やはり流暢な日本語を話され、いろいろと話を伺いました。
当事、新聞記者をしていて、台湾のことを知ってもらう本ができたらと漠然と考えていたのですが、その後、映像の世界に入り、結局は映像で表現できたらと考えるようになりました。2度目に台湾に行った2000年に、やっぱり、ちゃんと話を聞かなきゃと気持が固まったんだと思います。2002年からは取材をする気持ちで行き始めました。
M: 5人の方が登場しますが、どのような形で出会ったのでしょうか。
最終的に5人に絞ったのですが、紹介や偶然の出会いなど、いろいろです。
最初、台湾人の友人に案内してもらう形で始めました。車を走らせて、原住民の村の役場に行って、日本語を話せる人はいませんか? と聞いたり、別の台湾人の人に知り合いを紹介してもらったりしました。途中までは人に案内してもらって話しを聞かせてもらいに行きましが、最終的には自分で電車を乗り継いで取材もしました。
降りたところで駅前の商店とかに入って、ほんとにぶしつけなんですが、日本語しかできないので日本語で話してみるんですよ。そうしたら、この人日本人だとわかってくれて、どこからか日本語を話せるお年寄りを連れてきてくれるんですよ。そこから、どんどん広がっていきました。また、台北市内では廟に行ってみると、必ずお年寄りがいて、日本語を話せる人に出会えます。
K: 母は戦前基隆(キールン)に住んでいて戦後引き揚げてきたのですが、今も台湾の同級生たちから綺麗な日本語の手紙が届いたりします。でも、228事件のことは、ずっと封印していて教えてくれなかったと言っていました。10年くらい前に初めて、「川が血に染まった」ということを聞かされショックだったそうです。戒厳令が敷かれ、暗い時代が続いていたんだなという印象があります。
おっしゃる通りです。私が取材をしたのは、民進党の時代になってからでした。台湾が民主的な時代になってゆく時期だったはずなのですが、やはり228事件や白色テロの記憶が残っていて、「僕はいいんだけど、政治の状況が変わったときに、自分が映画に出たことで、子どもや孫になにかあったら困るから名前は出さないでね」と、おっしゃる方もいました。そんなに深い傷になって残っているということにびっくりしました。
M: 二二八紀念館と台湾総督府でボランティア解説員をしている蕭錦文さんは、日本兵としてビルマ戦線で戦った方ですが、この白色テロの時代、あぶなく殺されそうになった経験を話され、「戦争で生き延びたのに、これで死んじゃうのか」と語られていたのが印象的でした。
「いっそ、戦場で死にたかった」みたいにおっしゃっていましたね。
M: 今の80歳代以上の方たちというのは、ほんとに激動の時代を生きてきた人たちだったんだなと思いました。
「台湾の日本語世代の人たちにお会いするたびに、自分が日本人であるということについて考えさせられます。多感な青少年期を日本人として過ごした日本語世代の存在は、台湾だけでなく、日本の歴史の一部として記憶されるべきだと思います」と、監督が語られているのを知り、ぜひインタビューしたいと思いました。
今の若い世代は、台湾が51年も日本の植民地だったということを知らない人も多いのではないでしょうか。私自身、台湾の映画を観るまでは、ほとんど知りませんでした。初めて観た台湾の映画は『悲情城市』だったのですが、台湾のことを何も知らなかったとショックでした。映画は、人々にいろいろなことを知らせる有効な手段ですよね。この映画も、ぜひたくさんの人に観てもらい、隣国台湾の歴史を知ってもらいたいと思います。
歴史の授業では、明治以降をきちんと教えられてないですよね。記述も少なく、台湾のことをちゃんと知らなかったことを情けないと思いました。現代史の授業は、学期末になることが多くて、「ちゃんと教科書読んでおいてね」みたいなことが多いですよね。
K: 明治以降の歴史を、知らせないための策略かなと思えるところもありますね。
M: 『台湾人生』チラシのキャッチフレーズに「悔しさと懐かしさと。本当に解けない数学なんです」とあるように、ここに出演している方たちは、取材に応じてくれたわけですから、日本人に対して親しみをもっている方たちかと思います。228事件、白色テロなど、国民党に対する反感の裏返しかもしれないという話しも聞きますが、実際はどうなのでしょう。51年も植民地だったわけですし、差別は歴然としてあったわけですが、日本人に恨みを持つ台湾人は、ほんとに少ないのでしょうか?
少なからずいらっしゃいます。反日的な人がいないとは言えないです。この映画の出演者でも、茶摘みをしている楊さん以外の4人の方は、愛情はあるけど、端々に恨めしい気持や悔しい気持も出てきますよね。台湾には親日的な感情と、そうじゃないものが混じり合っていると思っていただけるといいと思います。台湾の日本語世代の人たちは、日本に捨てられたという思いが強く、日本がもっと台湾に向き合って欲しいと望んでいます。
また、宋さんのようにいい先生にめぐり合って、いまだにお墓参りしているような人もいる。そのことを美化したかったわけじゃないですが、人と人との繋がりが、その時代にもあったということを言いたかったんです。もちろん、私自身は植民地支配を良しとはしませんが、そんな時代でも、先生と生徒の深い絆が生まれたということがあったんですね。植民地としての台湾に行ってた日本人が、すべて悪かったとは思わないし、先生にしても、支配してやろうと思っていった人より、子供に教育をという人も多かったのではないでしょうか。
K: 私の父方の祖父が台湾の中学校の事務方をやっていたのですが、転勤として行ったと聞いています。一般庶民にとって、植民地政策の片棒をかついでいるという意識はなかったのだと思います。
M: どういう日本人と出会ったかによって違うんですね。『バッテンライ ~南の島の水ものがたり~』を観たのですが、台湾南部華南の干ばつ、水害、塩害に苦しむ平原に、台湾の人々と力を合わせて感慨用のダムを作った八田與一(はったよいち)という技術者がいたということを知り驚きました。こういう日本人がいたということも、きっと大きいのですね。
私もこの取材をすることによって八田與一さんのことを知ったのですが、台湾ですごく有名な人です。恐らく日本の首相の名前より、台湾の方によく知られてますね。
国民党時代に日本の物はことごとく壊されたのに、八田さんの銅像は誰かが隠していて、平和な時代になって出してきたそうです。日本人が知らなくて、台湾の人が知っている人のNo1ですね。ダムにはまだ行っていないので、いつか行ってみたいです。
K: 5人の方には何度かお会いしたのですか? この作品を作るまでに7年くらいかかっていますね。仕事の合間に都合をつけていかれたと思いますが、何回くらい行かれたのですか。
そうですね。基隆の陳清香さんとは、2000年にある方の紹介で初めてお会いしたのですが、カメラを回す前からのお付合いです。当時、フリーランスで仕事をしていて、映画の作品ごとに契約をして、1作品が終わると、1週間から10日位取材に行きました。
K: 陳さんは、靖国神社への参拝の件で、「小泉はあっぱれ。靖国神社参拝、なぜ悪い」とおっしゃっていましたが…
M: びっくりしましたね。『靖国 YASUKUNI』の中で、合祀取り下げを訴える金素梅さんら、台湾の方たちが出てきますが、そういう人たちがほとんどだと思っていたので、こういう台湾の方もいるんだと、この発言は驚きでした。
逆に日本語世代の方は、陳さんのようにおっしゃる方が多いですね。この世代の方は東京に来たら、靖国神社にきっとお参りにいくと思います。靖国への合祀反対を言っているのは、実際に戦争に行った世代の子供、孫世代ですよね。国民党の政策ともリンクしていて、そういう動きを起こすということで、国内に対してのアピールということもあると思うので、一緒にはできないですね。
M: この映画で、台湾の中でも両方の意見があるということを知りました。まさか、日本の首相による靖国参拝に対して、台湾で賛成の人がいるとは思ってもみなかったので、びっくりしました。それにしても、台湾から21万人もの人が日本人として戦争に行ったということを知り衝撃でした。台湾人軍属のことは知ってはいましたが、こんなにたくさんだったとは思っていませんでした。これは日本人として、ぜひ、知っておかなくてはいけないことだと思いました。
K: しかも、無理やり軍に徴用されたというより、軍に所属すれば、日本人と同じに扱ってもらえるということを信じて志願したという方の発言にはびっくりしました。
血判書を出して「僕、行きたいです」と、言った人もいたそうです。一方で、今回、映画には出ていただけなかったんですけど、私立の中学で成績優秀だった方で、担任から特攻に志願してほしいと言われた人もいて、本人は、志願するのはいいけれど父と相談したいと言ったら、先生がお父さんに会いにきて、お父さんが「次男三男だったらいいけど、長男だけは家に置いておきたい」と言ったので特攻には行かず、それで命拾いをしたと語り、同じクラスで2人特攻に行って帰ってこなかった人がいると涙ながらに話されて、そのときはなんとも言えない気持になりました。カメラの前で改めて話してほしいとお願いしたけど、カメラの前では話せないと断られました。そういう方が、たくさんいらっしゃいます。
M: パイワン族のタリグさんは2008年に亡くなってしまったそうですが、日本統治時代を知っている人が亡くなられていく流れは止められない。貴重な記録になっていますね。監督が地道にやってきたことを、私たちもなんとか広げるお手伝いをしたいと思います。
K: 国民党への思いというのはどうなのでしょうか。日本統治から解放された後、228事件、白色テロ、戒厳令と続く中で、同胞だと思っていた人たちがそうではなかったということがあって、いろいろな気持が混ざり合っていると思いますが…。
本省人と外省人ということですか? 日本語世代は、自分たちと区別して「支那人」という言い方をされるのですが、自分たちは支那人とは違うと、はっきり言いますね。台湾人意識は、若い世代も含めて高いと思います。ただ、若い世代は、個人個人の付き合いの中で、外省人、内省人、そんなの関係ないという風になってきていますね。
でも、私がインタビューさせていただいた日本語世代の方たちは、228事件や白色テロの目撃者であり、肌で感じているので、そこはどうしようもない溝がありますね。ただ、普段の生活、個人個人の付き合いの中で、あなたは支那人だからと言ったような区別はなくて、大きな意味でおっしゃっていると思います。
M: 台湾に住んでいる日本人は多いですが、取材でお世話になった方とかいらっしゃいますか?
片倉佳史さんという台北在住のライターの方にパイワン族の方を紹介してもらいました。
M: 去年台湾では『海角七号(岬 七番地みたいな意味)』(魏徳聖/サミュエル・ウェイ監督)が大ヒットし、「『海角七号』観に行った?」というのが挨拶がわりになったそうですが、その後、台湾の映画に関心を持つ人が増えたそうですね。この作品は、去年幕張であった海洋映画祭で観ました。(シネマジャーナル75号にて紹介)
また、去年台湾に行ったとき、『1895 乙末』という、台湾が日本に割譲されたときの抵抗運動を描いた作品も大ヒットし、その週の1位になっていましたが、これも観ることができました。娯楽作ではない台湾映画が続けてヒットし、台湾映画界も転換期を迎えているのかもしれませんね。あやかって、『海角七号』、日本で公開されるといいですね。
そうみたいですね。私も、海洋映画祭で観ましたよ。
実は『海角七号』に主演している田中千絵ちゃんのマネジメントをしている会社の担当が、2002年の撮影の時に案内してくれた台湾人の友だちなんです。とういうこともあって、『海角七号』を撮っている時に、こちらも撮影で行っていたので、田中千絵ちゃんたちと一緒にご飯を食べたりしていました。『海角七号』の編集段階で、監督からみてほしいと言われ、編集途中で音とかも入っていない状態でしたが、みせていただき、感想や意見の交換をしました。だから、こんなにヒットし、台湾の人が台湾映画(娯楽作品ではない作品)に目を向けるきっかけになったというのが嬉しいです。
K: 10数年前に台湾に行った時、『無言の丘(無言的山丘)』(日本統治時代の金瓜石金鉱山を舞台にした1992年の作品)という映画が公開されていて、どこの映画館も人が並んでいてびっくりしたのを思い出しました。観ることができなかったのが残念でしたが、あの時代のことに、皆さん興味があるのだなと思いました。
今までずっと表現できなかったことができるようになって(戒厳令が1987年に解除された)、どっと作品が出てきたんですね。蒋介石が亡くなってからは(1975年)、戒厳令も随分やわらいだとは思いますが、それでも、戒厳令があった当時は命に関わったから、なんでも自由には表現できなかったんです。去年、また国民党政権になって、またどう変わってゆくかが気になるところですが…。
K: 今後の作品のことですが、考えられていることはあるのですか?
まだ漠然としてはいるのですが、今回出演してくれた日本語世代の孫の世代に興味が移っていて、若い世代が全然違う視線で日本を見ているので、そのことを撮ってみたいなと思います。
K: 私もこの映画を観ていて、お孫さんの世代で日本語ができる方とかも出てきたので、次はぜひ、台湾の若い世代の方がどういう思いでいるのかというのをみたいと思いました。日本の漫画がそのまま実名でドラマになったりしていますよね。
台湾ではケーブルテレビが発達していて、どこに行っても日本の番組をよく見ています。お年寄りはNHKだけど、若者は民放ですね。オイシイ、カワイイとか、TV番組でよく出てくる言葉は、若い人は皆知っています。それは面白いところです。
K: 新聞記者も面白かったと思うのですが、記者時代を経て映画を作る世界に入っていったのはどういうきっかけだったのですか?
映画を観るのは、元々好きだったんです。でも、作る側に回るということは考えたことがなかったんです。1996年から北海道新聞の記者になり、函館ロープウェー映画祭の取材に行って、映画を作る側の監督やプロデューサーに話を聞いていくうちに、作ることに興味を持ちました。函館でしょっちゅう映画のロケもしていて、その現場を取材していくうちに映画作りというのが身近になってきて、それで映像の世界に入りました。
M: 実は北海道が大好きで、車で1ヶ月半くらい北海道を旅してまわったとき、いつも北海道新聞を買っていました。それで、北海道新聞社に勤めていたという経歴を見て、どうして北海道の新聞社に行ったのか聞いてみたかったのですが…。
北海道にすごく行きたかったわけじゃないんです。山口の田舎育ちで、東京に疲れたということもあって癒しを求めて北海道へ。縁があって北海道。縁があって映画の世界に。ポイントポイントでは、もちろん自分で決めて会社をやめたりしているのですけど…
私を台湾に連れていってくれたのは台湾映画。映画の力は大きいと思います。『台湾人生』を観て、台湾への興味を持って、日本語世代の方たちに会いに行ってみようかと思ってくださる方が出てきたら嬉しいですね
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台湾映画を随分観てきましたし、ある程度、台湾の歴史を知っていたつもりでしたが、このところ、台湾の日本統治時代を描いた作品、『風を聴く ~台湾・九份物語~』『雨が舞う ~金瓜石 残照~』(林雅行監督)、NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー「アジアの一等国」、『バッテンライ』(石黒昇監督)、去年台湾で観た『1895 乙末』などともに、この作品を見て、実際は知らなかったのだと気づかされました。こんなにも日本人としての教育があったのか、日本人よりも日本人らしい方たちが台湾にこんなにいるというのが驚きでした。かつて日本人だった方たちの存在は、日本の歴史として認識されるべきという監督の言葉に共感します。(M)
『台湾人生』公式サイト http://www.taiwan-jinsei.com/
『台湾人生』は、シネマジャーナル76号でも紹介しています
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