女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
『胡同のひまわり』来日記者会見

2006年4月25日(火) 於 渋谷セルリアンタワー東急ホテル

出席者:張楊(チャン・ヤン)監督、張凡(チャン・ファン)

胡同のひまわり 場面写真

初夏Bunkamuraル・シネマほかにてロードショーされる『胡同(フートン)のひまわり』は、1967年に主人公シャンヤンが生まれたところから始まります。そして1976年9歳のとき、1987年19歳のとき、1999年32歳のときと、象徴的な3つの時代を切りとって描くことにより、シャンヤン一家の変化と、30年間の北京の激変ぶりの両方をくっきりと描き出しています。

日本でも親の世代と子の世代では、考え方に大きなギャップが存在しますが、中国のこの30年の変化の大きさを考えると、文革の只中で苦労した親の世代と、毛沢東の死後の世界しか知らない子の世代では、埋めようのないギャップがあろうことは想像に難くありません。その上、この映画の父は画家として成功するという自分の果たせなかった夢を、息子に託さんとして、かなり強引な方法で英才教育をするのです。映画は子の視点から描かれているので、この父親が初めは少々常軌を逸した暴君のように見えます。しかし、子が親を1人の人間としてみることが出来るほどに大人になったとき、急激な変化の流れに乗りきれず苦労する不器用な父の姿が見えてきます。張楊監督の父もまた映画監督ですが、大きな成功を収めた人では無かったようです。監督はこの映画は自伝では無いと言っていますが、このあたりの息子の心情の変化は、監督自身の心情そのものなのではないかと思われます。

映画のもう1人の主人公は胡同(フートン)、そして四合院です。1976年のパートの冒頭で、細い路地を駆け回る子供たちをカメラが追って行きます。狭いながらも活気のある生活の場であった胡同を愛おしく思う監督の気持ちが伝わってくるシーンです。それが1999年のパートでは次々取り壊され、瓦礫の山と化していき、観ている方も哀惜の念を禁じ得ません。

さて公開に先立ち、張楊監督と9歳のときの主人公シャンヤンを演じた張凡(チャン・ファン)くんが来日し記者会見を開きました。監督は4度目の来日、12歳になった張凡くんは映画の中よりもちょっと大人になっていました。その会見の模様をお伝えしましょう。

チャン・ヤン、チャン・ファン

**ご挨拶**

監督:今日はこんなに沢山の方々が記者会見に来てくださってとても嬉しく思います。『胡同のひまわり』は日本で公開される私の3作目の映画ですが、より多くの日本の観客の皆さんに見ていただけるよう心から願っています。今日は本当にありがとうございます。

張凡:皆さん、こんにちは。僕はこの映画でチャン・シャンヤンを演じたチャン・ファンです。皆さんにお会いできてとても嬉しいです。皆さんにこの映画を見ていただけると嬉しいです。ありがとうございます。

**質疑応答**

司会:この映画は1976年から現代までの30年間を約10年で3つの時代に区切り、父と息子の関係を描いています。この3つの時代の中で父と息子の関係、また時代背景について説明いただけますでしょうか。

チャン・ヤン

監督:1976年というのは、中国の文化大革命がちょうど終わった年です。その当時の、父の世代というのは政治的にもまれて非常に苦難の多い人たちでした。その当時、両親たちは政治運動に忙しく、あまり子供にかまっている時間がありませんでした。時間も気力も無かったのです。ですから子供にとっては自由で、幸せな時代だったと思います。学校には行かなくても良いし、親はあまり干渉しないし、遊び回っていられました。しかし、両親が子供を教育する点においては、しつけの方法はとにかく手を出すという暴力的なしつけが多かったと思います。なぜならば文化大革命の中で、両親の世代は非常に辛い目にあっていました。例えば、職場で批判されたり、不公平なことがあったり、外でそのような目にあっていた分、家に帰ると我慢していたはけ口を子供に向けて当り散らしていました。子供のしつけにも政治的な面が表れているような時代でした。

司会:その後、1987年、1999年と時代背景が変わります。

監督:80年代は、大きな変化があった時代です。これまで閉鎖的だった社会が大きく外に開かれて、外国の思想や文化がなだれ込み、大きな影響を与えたわけです。私は中学、高校、大学の学生時代をそのような環境の中で過ごしました。例えばロック・ミュージックなど、そういう新しい文化が若者たちには多大な変化をもたらしました。ファッションも大きく変わり開放的になった時期でした。流行の服は香港に近い広州から、中国各地に広まっていきました。一部の若者たちは広州に行き、そこで最新の服を仕入れ、北京で売っていました。当時、流行ったのはロングヘアとベルボトムでした。そしてこの時代は、私のような若者の世代と両親の世代との衝突が鮮明になった時代でもありました。学校ではロングヘアの生徒は、門で待っている先生にはさみで髪を切られていました。ベルボトムも許されませんでした。親の世代には若者のこういった変化は受け入れがたいものでした。
90年代末になると中国は経済的に大きな発展を遂げ、生活面でも思想面でも外国と変わらなくなってきました。従って70年代と比べると社会が大きく変化したわけです。70年代は皆が同じように貧しかった時代でした。精神的な面を重んじて、それを良しとしていました。しかし90年代に入るとすべてはお金で判断する時代になりました。貧富の差が増々拡大し、お金をどのように稼ぐかということが、人間の一番の目的になってきたような気がします。両親の世代は70年代まで共産主義に対する信仰を拠り所として生きてきた世代ですが、このような時代になると共産主義に対する信仰をどんどん無くしてきてしまいました。かといって、90年代の風潮にはとてもついていけないわけです。彼らが一生かかって貯めるお金は、現代の若者の1,2年分の給料と同じというように、格差が見られるようになりました。

司会:監督と主人公のシャンヤンの設定は同い年ですが、同じ時代を生き、監督自身も18才まで胡同に住んでいたそうですね。自分と重なる部分や反対に対照的な部分はどこでしょうか。

監督:この作品は私の少年時代からの視点で時代の変化を描いたものです。でも完全に自伝というわけではありません。しかし、この中に描かれた数多くのディテールはほとんど私の記憶や経験に基づいて作られました。例えば、私が18才まで住んでいた四合院というのは、元々は清朝の西太后の御付きの宦官が住んでいたお屋敷でした。しかし私が少年時代を過ごした頃には、昔のような面影は無く色々な建て増しを重ね、70戸の家族が集まって住んでおり、大きな長屋のようになっていました。それでも、私たちのような少年にとって、四合院は非常に面白くて楽しい場所でした。胡同は私にとって、懐かしい思い出として残っています。私が住んでいた四合院も1999年に壊されてビルになりました。今、その場所に立っているマンションの中に私の両親は住んでいますが、昔の胡同の雰囲気はすっかりなくなってしまいました。

司会:チャン・ファン君は、映画で胡同の中で生活していましたが、どのように感じましたか?

チャン・ファン

張凡:僕は今、実際に四合院に住んでいるのですが、すごく便利です。ドアを開けるとすぐに外にでられるし、外には庭があって花を植えることができるし、動物を飼うこともできます。

司会:アパートだと動物を飼ったりできないのですか?

張凡:アパートでも飼えるかもしれませんが、四合院ほど便利ではないし、すぐに外に行くことができません。花や種を植えることもできないです。

司会:子供にとって胡同というのは魅力的な場所のようですね。

張凡:はい。

Q:少年を演出するにあたって監督が一番大変だったことは何ですか?

監督:実は子供に演技指導するのはとても簡単なことなんです。特にこれまで演技を全くしたことがない子供が一番やりやすい。なぜかというと、プロの俳優には決まった観念があり、こう演じなければいけないという雑念があって、純ではないのです。そういった意味で、まったく未経験の子供に演技を指導するのは簡単なことでした。問題は、私が映画で描こうとする子供の性格を表すようなキャスティングができるかどうかです。そういった子供を選んだ後は、自由にその性格を発揮できるように存分にやってもらうだけでした。子供を演出するとき、映画の意味など難しいことは一切言いませんでした。ここでこれをやってねと指示すれば良かっただけです。私の子供時代にやった遊びを助監督と一緒に教えました。その遊びに夢中になったらしめたもので、その時の演技が非常に自然になるわけです。

Q:今、監督が自由にさせてあげたとおっしゃいましたがが、チャン・ファン君が撮影中に一番楽しかったことと大変だったことを教えて下さい。

張凡:一番楽しかったのは、隣に住んでいる男の子と一緒に屋根に登って、帰ってきたお父さんをパチンコで撃って、お父さんの頭に命中させるシーンです。一番大変だったのは、泣くシーン全部でした。

Q:監督自身の胡同が取り壊されることに対する思いや、北京の都市の再開発などの政策についての感想やご意見を教えて下さい。

胡同のひまわり 場面写真

監督:北京の現在の状況については、非常に勿体ないと思う面が多々あります。これまで北京の街は非常に良い状態で保存されており、古い建築物が数多く残っていました。しかしこの20年程の間のものすごい速さで盲目的ともいえるような都市開発がなされてきました。皆が近代化=ビルを建てることだと思い込み、経済発展の象徴であると言わんばかりに、古い価値のある建物を壊してはビルに変えていってしまったわけです。しかしこの20年あまりを経過して、北京の人々や政府もこの状態を考え直すようになりました。高層ビルだらけの都市などどこにでもあります。北京がもつ本当に特色ある胡同などの建物を多く残していくことこそ、北京らしさを保つことなのだと考えるようになりました。それでここ数年、やっと胡同も保存しようとする運動や政府の働きかけも行われるようになりました。しかし、大変残念なことに、既に多くの物や素晴らしい場所が壊されてしまった後でした。

Q:前作『こころの湯』にもありましたが、古いものが壊されていく中で、人と人とのつながりにもとても大きな影響を与えているのではないかと思います。監督自身は、そのように壊されていくことへの危機感や遺憾の念はあるのでしょうか?

監督:個人的には、良い生活、便利な生活をしたいというのは誰しもが思うものです。確かに昔の家は住み難かったのです。例えば、私の母は四合院に住みながら、なんとかして新しいマンションに住みたいとずっと願っていました。マンションの方が清潔で便利だからです。そして都市の開発とともに都市の文化、生活文化そのものが変わっていったと思います。ビルが建ってからは、胡同の時代のようなゆったりとしたリズムがほとんど無くなってしまいました。そして人間関係も大きく変わっていきました。四合院に住んでいた人たちは、隣同士がとても密接な関係でした。洗い場も一緒でしたし、生活の色々な場面を共にしてきたのです。まるで四合院の中が、一つの大家族のような感じだったのです。しかし、アパートに移ると以前のように度々顔を合わせることはなくなり、人間関係が段々と疎遠になってしまったのです。

胡同のひまわり 場面写真

Q:チャン・ファン君が日本に来て驚いたこと、感想はありますか?

張凡:一番驚いたことは、東京がとても衛生的で気候も良いということです。それにたくさんの物がオートマチック化されているということです。印象深かったのは、東京の人はものすごくマナーが良くて、環境と同じようにとても感じが良かったことです。

Q:映画冒頭で描かれる背景は文化大革命の終わりの時期で、中国の観客にとってはすぐに理解でき、また懐かしさもありますが、日本の観客はこの時代の状況はよく分からないかもしれません。そういう日本の市場に対してどの様な期待を持っていますか? またこの作品が国際的である要素はどこにあると思いますか?

監督:確かに今の日本の特に若者には、中国の文化大革命についてあまり分からないかもしれませんが、逆にこの作品を観ることが文革とその後30年の中国の変化について分かっていただく良い機会になると思います。また、この映画の重要なテーマは父と子の関係で、これは国や環境を問わず、内容は違っても同じようにこの複雑な関係が存在していると思います。ですから日本の観客にも共鳴していただける部分があるのだと信じています。父と子の関係は世界共通だと思います。

チャン・ヤン、チャン・ファン

司会:最後に皆様へメッセージと見どころを教えて下さい。

監督:この映画は30年に渡る父と子のわだかまりを描いています。映画を観ていただいて、是非観客の皆さん一人一人に自分の家族を思っていただきたいと思います。たぶん皆さんそれぞれが、この映画で描かれることに思い当たるところがあると思います。この映画を観ながら自分をスクリーンの人物に投影して、家族との関係をもう一度考えて、その中で経験してきた苦しみや悲しみや喜びなど、色々感じ取っていただけると非常に嬉しいです

張凡:最初にも言いましたが、どうぞ皆さん是非この映画を見て下さい。よろしくお願いします。ありがとうございました。

作品紹介はこちら

return to top

(取材・写真・まとめ: 梅木)
本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ:
order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。