シネマジャーナル61号(2004年4月発行)の 「特集 アフガニスタンを描いた映画」の中で、 『午後の五時』(サミラ・マフマルバフ監督)および『ハナのアフガンノート』 (ハナ・マフマルバフ監督)の公開を前に来日した二人の記者会見や 関連のイベントの様子を掲載していますが、 紙面の都合でほんの一部しか報告できませんでしたので、 Web版特別記事で詳細をお届けします。堂々と語る若い女性監督の姿をごらんください!
両作品の上映スケジュールについては、銀座テアトルシネマのHPでご確認ください。 (『午後の五時』上映終了まで、 銀座テアトルシネマでシネジャ61号を取り扱っていただいています。)
→ http://www.cinemabox.com/schedule/ginza/index.shtml
なお、シネマジャーナル61号の 「特集 アフガニスタンを描いた映画」には、 「アフガニスタン ミニ知識」として、下記の記事を掲載しています。 本誌もごらんいただければ幸いです。
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2004年3月10日(水)12:00−13:15
イランの巨匠モフセン・マフマルバフの長女サミラ24歳と次女ハナ15歳が、 アフガニスタンで撮影した話題作の一般公開を前に、二人揃って来日し、 記者会見が行われた。サミラは4回目、ハナは2回目の来日であるが、 二人揃っての来日は初めてである。
—— 二人にとって、お父様の存在は?
サミラ: 父の映画への愛情が大きかったので、私たちも映画の世界に入りました。 父から二つ大きく学んだことがあります。人間に対する愛と、 判断を簡単にしないということです。
—— イランとアフガニスタンは、歴史的に同じ文化圏ですが、 双方の女性の立場や考え方の違いと、共通する部分は?
サミラ: 私たちは同じ言葉をしゃべっていて、全然問題なく会話ができました。 アフガニスタン女性は、歴史の中で理不尽を味わってきたと思います。 ブルカの下で何を考えているかを私は知りたかった。 声を聴いたとき、希望があって、夢があって、情熱がありました。 ブルカの下で、とても強くなっていて、それが声を聴いただけでもわかりました。
ハナ: イランではスカーフ、アフガニスタンではブルカが課せられていますが、 考えてみると、世界の女性の上には見えないブルカが被されているのではないでしょうか。 大統領になった女性は少ないし、 色々な分野で男性が女性が伸びない環境を作っていると思います。 世界の女性が外してほしいのは、ブルカではなく、その考え方。 これから、もっと世界で女性が活躍することを期待したいと思います。 今もこの記者会見場には女性が多くいらしていて嬉しく思います。 アフガニスタンの記者会見では男性ばかりで、映画は半分女性のことを描いているのに、 たった一人の女性も来てくれませんでした。
サミラ: イランというのは、18歳の女の子がカンヌで受賞するような映画を作れる国なのか、 それとも「りんご」の姉妹のように、 女性が家から出られない国なのかとよく質問を受けたのですが、 私は両方存在できる国と答えました。 アフガニスタンやイランの女性はプレッシャーがあったから、とても強くなっていて、 小さなチャンスを与えればとても伸びると思います。
—— イラクやアフガニスタンでも戦争があり、日本でも原爆を落とされたことがあります。 平和に対してのメッセージをお願いします。
ハナ: 私は10歳まで家の中でテレビを観たことがありませんでした。 テレビは政府のプロパガンダだと思っていましたから。 ですから、戦争のことも、世界で何が起こっているかも知らなかったのです。 あとから、自分の生まれる前から、イランはイラクと戦争をしていたり、 世界でもあちこちで戦争があって、 こんなにも身近なところに戦争があったと気が付きました。そして、戦争の後、 地雷は誰が片付けるのか、復興は誰が行うのかなど、 戦争の後どうするのかがとても大事な問題だと思います。 アフガニスタンで同じ年頃の女の子をみて、戦争でいろんな経験をして痛みを感じていて、 私には経験がないから、その痛みがわからない。
サミラ: ハナの話を聞いて感動したのですが、私は若い監督と言われたけれど、 ハナのそばにいると、私はとても年を取っているように感じます。 ハナはとても自分の目線でいろんなものを感じていると関心します。
—— 記者会見でも、映画の中でも、二人はとても雄弁。 日本の女性は人前であんなにも話せるかと思います。 私たちは自分の意見をちゃんと言えるように訓練されていません。 イランやアフガニスタンの女性はどのように育ってきたのでしょう?
サミラ: アフガニスタンでブルカの下から聴こえた声にすごく驚きました。 どうしてこんなに自分の意見をちゃんと言えるのかと。 何千年も沈黙させられていたので、一気にしゃべってくれたのかという気がします。 自分は自由で、どこでも話せるから彼女たちの気持ちがわからないのかもしれません。 世界の女性はブルカを被せられていて、魂を説明できるのは、顔や体ではなく、 声だと思います。
自由を与えるためにアメリカはアフガニスタンを攻撃したと言って、映像を見ても、 ランボーのように、ターリバン政権が倒れた後、幸せになったという映像が多かったです。 情報が溢れている世界に住んでいて、世界は一つの村になっているといわれているけれど、 発達したところと、遅れているところとの間には、大きな風が吹いています。 911のテロが、アメリカ以外の国で起こっていたら、 世界的なニュースにはなってなかったでしょう。 911以降、アフガニスタンの映像がたくさん流れました。 アメリカはデモクラシーをアフガニスタンにもたらすつもりなら、 なぜ911のテロが起こるまで待っていたのでしょう? 私の映画の中では、たくさんの夢や希望を描いています。 撮影したときの状況を考えると、ハッピーエンドで終わらせることができませんでした。 アフガニスタンの問題は、ターリバンのときの問題だけではありません。
私が行ったとき、まだ地雷があちこちにあって、学校の廻りにも、 ペンの形などをした地雷があって、子供たちが犠牲になっていました。誰が地雷を作ったのでしょう?
飢えに困っている国でなく、デモクラシーを作ろうとしている国が地雷を作っています。 地雷や兵器を作っている国は、誰かが買ってくれないと利益を得れない。 そのために戦争を起こさないといけない・・・。売った後には、 今度は生活品を売るためにデモクラシーを持っていけば、商品が売れるというわけです。 兵器の代わりに、国を再建するためのものを与えていれば、もっと変わっていたでしょう。
ハナ: 私たちが映画を作るときには、どういう風に受けるかを見て、次の映画を作ります。 戦争の後がどうなるかわからないのに、また次の戦争を起こしています。 実際に行って、飢えで悩んでいる人や、親族を亡くした人がいかに多いか知って、 彼らから学んでほしい。皆さんも一度ブルカを被ってみてください。 24時間何も食べないでみてください。
—— これからもイランで映画を撮りますか?それとも外国で撮ることも考えていますか?
サミラ: 今まで作った映画を振り返ると、イランやその周辺国で撮っています。 これまでの撮影場所は、言葉もわかるし、文化もわかるところです。 お父さんの言葉ですが、そのような質問をされたとき、 どこに行っても映画を作れると答えています。 でも、日本のように、言葉がわからないと、 ツーリストが撮った薄っぺらいものになってしまいます。 心の奥で、何を考えているのかわからないですから。 アフガニスタンやイラクは本国の人たちが作ればいいのですが、作れる人がいないので、 代わりに撮ったのです。あの地域に、欧米の人が行って、 ほんとに心のわかる映画ができると思いません。 一つの国のほんとの心の声が聞えるのは、CNNやBBCや商業的な映画ではなくて、 アート系の映画だと思います。 911の後、アフガニスタンの映像がたくさん流れてきたけれど、ほんとの姿は見えない。 同じ決まった映像ばかりが流れていました。
ハナ: サミラの作った映画を観ると、必ずしもアフガニスタンだけでなく、 アメリカでも起こりえることだと思います。
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質問が今回公開される映画そのものよりも、アフガニスタンやイランにおける女性の問題や、 戦争のことに集中してしまったが、堂々と答える姉妹に、 父マフマルバフの子育ての信念を見た思いがする。
『午後の五時』を観たときに、スペインのフランコ政権のもとで、 非業の死を遂げたロルカの詩をモチーフにしているのが、 とても意味のあることのように思えた。 サミラの思いを聞いてみたかったのだが記者会見では別の質問をしてしまい、 心残りだったので、会見が終わって声をかけるチャンスを見つけたのだが、 ロルカの詩をいつ頃から知っていたのかを聞くのが精一杯だった。 姉妹口をそろえて小さいときから知っていたと言い、「大好きです」とにっこり。 さすが、詩の国イラン。詩に親しむ伝統は生きていると感じた。
3月12日(金)
19:00 映画『ハナのアフガンノート』上映
20:15 シンポジウム「学校教育に縛られない」〜アフガニスタンーイランー日本 教育と子どもたち〜
出演:ハナ・マフマルパフ(映画監督)、田場寿子(15歳・不登校当事者)
司会:石井志昴(不登校経験者)
共催:NPO法人全国不登校新聞社、NPO法人東京シューレ
協力:東京テアトル、ムヴィオラ
会場:東京シューレ新宿
2003年 イラン
監督:ハナ・マフマルバフ
*ストーリー* サミラが老人や若い女性に次々に映画出演を説得していく。 「映画なら出れない。恥をかく」 「ターリバーンは嫌い。まだ恐怖が去らないの。だから出れない」 難航するキャスティング・・・。
当初、『午後の五時』のメイキングを撮る予定だったハナ。 現場でアフガニスタンの人達が、皆、何かを怖れていて、 それが今のアフガニスタンの現状だと思ったので、 それを映画にしようと思ったという。
司会: 13歳で、なぜこんな映画を作ってしまったのでしょう?
ハナ: ここに来られて光栄です。こういう機会を作っていただきありがとうございます。 逆に私の方から質問したいのですが、どうして田場さんはその歳でイラストレーターになれたのでしょう? 私は7歳で初めて学校に行ったのですが、マグナエを被って12年間も皆と同じことをしなければいけないと思ったら、うんざりしました。最初の1週間は、同年代のお友達と一緒で、先生も優しくて楽しかったのですが、2週間目に入ると、退屈して学校から逃げる日が多くて、2年間学校に通っていたと公表されていますが、実質はその半分位は家にいました。父も監督で、他の家族も皆、私が生まれる前から映画の製作に携わっていました。生まれてから、皆が映画を作っているのをみていて、自然に8歳の時に映画をつくることになりました。 今日は会場に自分より年下か同年代の人が多いと思ったら、そうじゃないですね。 アフガニスタンで映画を作ったときの記者会見で記者が全員男性だったときもショックでした。 田場さんも16歳。世の中で、女性と子供がいつも損をしています。女性のくせに、子供のくせにと言われて・・・
田場寿子: 小学校3年の終わりごろから、いじめを受けて不登校になりました。中学になって、ほとんど通わなくなりました。先生のことも好きになれなかったです。家にいた猫を描いたのをみて、小説の挿絵に採用してくれました。悲しみや苦しみが溜まったときの発散方法として,絵を描いていました。
司会: ハナさんも共感しているのではと思います。ハナさんといえば、学校に行かないでマフマルバフ映画学校で育ってきました。学校に行かないで学ぶということは、どんなことでしょう?
ハナ: 普通の学校と違って、どんな風にしたら、より良い人間になるかをまず学びました。社会学、倫理学、心理学など・・・。そして今度はどうしたらより良い暮らしができるかを身につけるため、料理・スポーツ・水泳・自転車などなどを学びました。その後、映画に関する授業で、脚本から監督までさまざまなことを学びました。 姉が言っているように、父は人に教えるのが好き。7歳のとき、イランの有名な女性の画家と知り合い、絵を描き始めました。最初の1年は朝から晩まで絵を描いていました。たいした絵ではなかったけれど、描いても描いても父が額に飾って、ピカソみたいとお客にも自慢していました。サミラやメイサムが撮った写真も自慢していました。私が描いた絵を一つ選んで、「人生の色」という自分の本の表紙にもしてくれました。もう少し大人になって、父に「上手じゃないのに、どうして飾ったり表紙にしたりしてくれたの?」と聞くと、「ピカソだって小さいときはもっと下手だったよ」と、父は私に自信を持たせてくれました。映画を作ったときにも、こんな若さで、まだ子供なのに・・・と言われましたが、なぜ年齢にこだわるのでしょう? 若ければイラストレーターになれないなんて、誰が決めたのでしょう?
田場: 私の父は学校の先生。だからって私は先生になっていない。(彼女が描いた猫の絵を見せる。ハナちゃんも嬉しそう。)
ハナ: 偶然にも今、猫を飼っていて、数日前に4匹の子猫を産みました。
司会: 高校に進学してみて、「合わない」と思ったそうですが?
田場: 父に高校に行かないで働くしかないんだったら死ねと言われたので、定時制に入りましたが、もう毎日死にたいと思いました。それで沖縄に逃亡して、やっと生きる喜びを思い出しました。
司会: ハナさんは田場さんの話を聞いて、日本で学校に行かない人がいると知ってどんな風に感じましたか?
ハナ: 自分のことを話すと映画のことがどこかへ行ってしまいそうなので、映画のことを話したいのですが・・。アフガニスタンの人のことを忘れられないようにと映画を作りましたので。世界の人がアフガニスタンを忘れているのでは・・・と。私は10歳の頃まで、近隣の国で戦争をしていることや、イランでも自分が生まれるちょっと前に戦争をしていたことを知らなかったので、いい生活をしていた自分を恥じました。楽な生活をして、苦しんでいる人に目を向けてないのではと。私たちがここにいる間にも、アフガニスタンでは飢えで苦しんでいます。ターリバーンが去って平和に なったと思われるかもしれませんが、まだまだ苦しんでいます。あるとき、父がアフガニスタンから帰ってきてショックを受けていて、しばらく食事も喉を通らないことがありました。抱きかかえていた子が腕の中で亡くなったのだそうです。私もアフガニスタンに行って、苦しみや悲しみを世界の人に教えなくてはと感じました。
司会: 田場さんに不登校を振り返って、ひとこと。
田場: 不登校はまだ癒えない傷。学校に行っていたら、ここにいなかった。学校は合わなかった。 今、動物実験や捨て猫、捨て犬の問題に興味を持っています。絵を通してでも、皆に知ってもらいたいと思っています。今日は猫の絵を100枚ほど持ってきました。1 枚100円で買っていただければ嬉しいです。
ハナ: 8歳で映画を作って面白さを知り、ずっと作っていこうと思いました。田場さんの虐待されている動物を皆に知らせようという話を聞いて感動しました。籠の中に 閉じ込められている鳥のことをよくサミラと話すのですが、最初は可愛がっていて捨ててしまう。イランでは犬を飼うことを禁じられているのですが、私は犬を飼っていて散歩に行くたびに、見つかるのではと、おびえています。 田場さんが持ってこられた絵が売れなくて残ってしまったら、田場さんが一生懸命宣伝しているのに、申し訳ないです。皆さんどうぞお買いになってください。
自分の映画の話もちゃんと聴いて欲しいと主張すると同時に、一緒に壇上に上がった 田場さんのことを気遣うハナに圧倒されっぱなしの日本勢だった。
日時:2004年 3月13日(土)
上映会 13:30−15:15
講演&ディスカッション 15:30−17:00
主催:五女子大学コンソーシアム
協力:東京テアトル、ムヴィオラ
場所:東京女子大学 善福寺キャンパス 24202教室
2003年 イラン・仏
監督:サミラ・マフマルバフ
*ストーリー* 押し殺したような声でサーアテ・パンジ・ブード(午後の五時だった) と語るロルカの詩が物悲しく響く。ロバを連れ沙漠を行く女。 一転して校庭いっぱいの女生徒たち。何になりたい?先生、医者、科学者・・・。 大統領になりたいというノグレは、厳格な父が馬車で宗教学校に見送るのだが、白いハイヒールに履き替えて颯爽と普通校へ向う。
帰還民の詩人が寄せる淡い恋心。彼の自転車の後に乗って、 荒廃した町を行く姿がすがすがしい。
サミラ、主役アゲレ・レザイ共に22歳の時の作品。
この日の催しは女性限定。ほんの一握り男性も混じる会場で、『午後の五時』 上映の後、サミラ・マフマルバフ監督と通訳のショーレ・ゴルパリアンさんが登場し、 熱心に質疑応答が行われた。
サミラ: ありがとうございます。ようこそお越しくださいました。 言いたいことはすべて映像にしています。さっそく皆さんから質問を受けたいと思います。
—— 3人の女性が大統領になったら、こんな社会にしたいを発言していたのは、 監督が台詞を作ったのでしょうか?それとも自発的な台詞だったのでしょうか? 皆、はっきりと意見を述べていたのが印象的でした。
サミラ: 911のテロのあと、アフガニスタンの映像はいっぱい流れましたが、 父が『カンダハール』を作ったとき、 まだ911の前で世界は誰もアフガニスタンのことを知りませんでした。 ターリバーンは去ったけれど、まだまだ問題が解決したわけではありません。 アフガニスタンに行って、ブルカの下の女性の声を聴いたら、意見をはっきり言うし、 現実を描くなら、そうした女性の声をそのまま見せるのがいいと思いました。 映画の最初のエピソードで、学校で将来何になりたい?と行く場面がありますが、 あれは実際、私が「大統領になりたい?」と聞いたときに、 すぐには誰もなりたいと言わなかったけれど、30分ほどして、 なりたいという人が現れて、そうするとそれに対して意見を言う人もいて、 それがとても面白かったのです。実際、アフガニスタンに行って女子校に行けば、 そのパワーに驚くと思います。ほんとに現実に見た女性をそのまま映像に出しました。 プレッシャーがあってこそ、彼女たちは強くなったのではないかと思います。 『午後の五時』は、スペインのロルカの詩で、小さいときから好きでした。 2〜3ヶ月前まで、ロルカは牛の死の為にあの詩を書いたと思っていました。 あれはマタドールの為に書いたものとわかりました。 私は映画が政治的なものになってしまうのはいやだったので、詩人を役に入れて、 詩的な雰囲気を出したいと思いました。詩人が政治とは正反対の世界にいるけれど、 大統領になりたいという彼女のためになら、宣伝もしてしまう。 好きになった彼女のためなら、なんでもしてしまいます。
詩の「午後の五時」は、牛が死んだあとすべてが死んだような雰囲気を詠っています。 午後5時というぴったりした時間が、今のアフガニスタンを表しているという風にも感じて、 取り入れました。
——(大学生) ほぼ同年齢です。素晴らしい活動をされていると感心しました。 印象に残っているのは、ミナが父親などを殺されたけれど、 復讐はしないと言ったところです。
サミラ: すべてミナ本人の言葉です。彼女がターリバーンを許すと言ったとき、とても感動しました。
—— 『カンダハール』からこの映画まで通じていると感じました。 ターリバーンは去りましたが、再びアフガニスタンで映画を作りますか? 私たちはカーブルで成人のための「希望の学校」を作りました。
サミラ: アフガニスタンには、いろんなものはないかもしれません。けれど、宝は人。特に女性。 不思議なところで、絶望したりしたときに、 小さなことでもアフガニスタンですれば人間として価値があると。 次にアフガニスタンでどう撮るか・・・
母がアフガニスタンで撮影を終えたばかりです。 私がまた行くかどうかはわかりません。でも、アフガニスタンはとても好きです。
—— サミラさんにお会いできて嬉しい。 崩壊された街をとても綺麗に撮っていらっしゃいました。 平和なところに暮らしている私たちに映像で見せてくれることに感謝します。 アメリカやイギリスでなく、フランス兵士を出したのは政治色を弱めるという設定ですか? また、お父さんの作品も好きなのですが、おとうさんから受け継がれた映画理念や、 ご自身の映画理念は?
サミラ: 宮殿をロケの為見て歩いたとき、兵士がガードして行ったり来たりしていて、 話しかけたら「ボンジュール」とフランス語が返ってきました。彼はとてもソフトで、 弟と同じくらいで、可愛くてシュールな感じで、 シャンゼリゼでも歩いているかのようでした。 遠い国から来て、アフガニスタンの宮殿の前にいるのを見て、 この人なら愛の為に来ている感じがすると思いました。
父のことですが、私は今24歳で、24年間ずっと一緒に暮らしてきて、 毎日のように影響を受けてきました。 世界にたくさんいる映画人は皆家族を持っているでしょうけれど、皆が皆、 子供が映画人になったわけではないと思います。父は映画に対する愛情しかない。 それが私たちにもしみこんだのだと思います。父がパン屋さんだったとしても、 たくさん学ぶことがあったと思います。映画の生徒としては私はいい生徒だと思います。 父が教えてくれたもう一つのことは、人間に対する愛情。 それはまだ父にいい点をもらえないかもしれません。もう一つ、 父は映画を道具としては簡単に教えてくれました。大事なのは、技術ではなくて、 考え方や見る目だと思います。映画をペンのように使うことを教えてくれました。 相手を良く見て、言うことをよく聞いて、それを映画に使うということを。
—— 主人公ノグレを演じた方が芯が強くて役柄にぴったりだと思いました。 彼女とのエピソードは?
最後が暗い終わり方でしたが、アフガニスタンの女性の希望についてどう考えていますか?
サミラ: ハナの映画でどうやって彼女を納得させたかは描いています。 アゲレはほんとに強い女性で、2回結婚して3人の子供がいます。一人目の夫は戦死、 二人目はパキスタンに行ってまだ帰ってきていません。とても強い方です。 私は自分のすべてのエネルギー、すべての愛情を出して彼女を説得しました。 エネルギーを使い果たして、撮影の1日目に倒れたほどです。 アゲレは撮影に入ってからも、遅れてきたりして心配させられました。 きっと今会えば「ごめんなさい」と言ってくれると思います。キャスティングのとき、 なかなかOKしてくれなくて、ある日「My Dear Sister やっぱりやれない」 と手紙を残したりしたのですが、今、よく手紙がきて、「次はいつ撮る?」 とかいってきます。
映画の終わりですが、映画の中では夢や希望を描いていると思います。 大統領って何? というと、人に責任を持つこと。 自分の寝るところもないのに、人の世話をしたりして、 ノグレは大統領にはなれないけれど、素質はあると思います。 映画を撮ったのは2002年秋。暗い終わり方はそのときの現実。 終わり方をリアルにしたかった。今でも貧困や飢えで苦しんでいます。 いつ明るくなるのか・・・
アメリカ人はランボーのように簡単に映画を作ってしまいます。 ターリバーンを追い出して自由をもたらしたと言っていますが・・・。 ノグレのお父さんは、ターリバーンの心を信じ込んでいた人で、 それがアフガニスタンのその世代の人。私がスカーフを被っていたら、 私を見ないようにする男性が実際にいました。赤ん坊も飢えで弱くなっていますが、 スタッフからもやめた方がいいと。飛行機が飛び交って、地雷で死ぬ人がいて・・・ これが現実だからと、そのままに描きました。今、飛行機は簡単な移動の手段ですが、 アフガニスタンでは今でも弱ったロバ車が移動の手段です。
—— 白いハイヒールのシーンは、自由の象徴かなと最初思いましたが、 詩を詠んでいるときには脱いでいました。 単に自由というだけではないような気がしたのですが、込めた思いは?
サミラ: 白い靴が女性的だったのも意味があります。女性らしさを見せることが、 イランでもアフガニスタンでも罪になることがあります。ですので、 ノグレを女性らしく見せるということに、白い靴を使ったのです。 アフガニスタンの女性はブルカを被っていて、皆同じに見えました。でもよく見ると、 ブルカの下の足元のハイヒールやマニキュアに気が付きました。 靴を脱いだことに気が付いてくださってありがとうございました。 大統領になりたいというパワーをどこで出そうと考えて、ハイヒールを使いました。 信仰学校の中では、足の音を出さないようにしなさいと言われます。 セクシーな感じになるから。ドンドンと足の音を立てるとこにも意味があります。
—— 音楽を効果的に使う事を考えなかったのでしょうか?また、アフガニスタンでの反応は?
サミラ: 音楽は使っています。おっしゃるとおり、あまり使うのは好きではありませんが…。 自然に光があって、溶け込んでいるような使い方をして、 真の魂を表したいと思いました。アフガニスタンでは、まだ公開されていません。 映画館は少ないし、カーブルで2館くらいで、インドの踊りやアクションが上映されていて、 男性ばかりです。 バルマク監督の『アフガン零年』もまだ政府は観せたくないらしいです。 『アフガン零年』と共に、何とかテレビで放映できればいいなと思っています。
—— 美しい映画を持って、ようこそいらっしゃいました。 深い悲しみや怒りをそのままぶつける形でなく、 詩的に心に染み込むような語り口で描かれていたと思います。 とても映画作りは難しいと思いますが、どうやって克服されたのでしょうか? 叫ぶ、戦うという言葉でなくて、ロルカの詩を使われたのも素晴らしいと思いました。
サミラ: 一つ言いたいのは、彼らは素人。プロでもスターでもありません。 カンヌであるとき、何人か一緒のインタビューで、 「ハリウッドの大スターを使いたくないですか?」と聞かれたことがありました。 私は「ノグレはハリウッドスターのように見えませんか?」と答えました。 演技を撮るのはとても難しいことです。一番いいのは、機材をなるべく小さくして、 カメラの前の人物を大きく撮ることです。毎回、相手に愛情を持って一人一人に接します。 心で感じて接すれば答えてくれます。私は前もってストーリーを決めて、 それにキャラクターを合わせることはしません。映画にとって、 カメラの前に来る人が主人公。私の映画は愛。今、私の映画を解剖していますが、 すべての秘密をわかってもつまらないと思います。
堂々と語る姉サミラを、妹ハナが最前列左端でじっと尊敬する眼差しで見ていたのが 印象的だった。