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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

米軍アメリカが最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』

2019年8月17日(土)より、沖縄・桜坂劇場にて先行公開、
8月24日(土)より、東京・ユーロスペースほか全国順次公開

佐古忠彦監督 撮影 宮崎暁美

 戦後、アメリカ占領下の沖縄で、米軍の圧政に真っ向から挑んだ瀬長亀次郎の戦いを描いたドキュメンタリー映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』(17)に続く第2弾として、『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』が公開される。

カメジローが残した230冊余りの日記や資料から、政治家としてだけでなく、妻や娘らと過ごす日常や、夫、父親としての顔も描き、不屈の精神の根底にあるものを浮かび上がらせる。前作では描かれなかった教公二法阻止闘争、毒ガス移送問題やコザ騒動、沖縄と核なども描き、返還へ向けて進んでいく熱い闘いが描かれ、沖縄の闘争の歴史をさらに知ることができる。そして、1971年12月4日の国会・衆議院沖縄・北方問題特別委員会での、カメジローと佐藤栄作首相の迫力ある論戦が12分間に渡り映し出され、沖縄の心、そして今なお解決されない問題の原点が浮き彫りになる。その魂の言葉を生みだした原点が日記に書き残され、カメジローがなぜこれほど不屈の道を歩み続けられたのかを知ることができ、その言葉が後世へのメッセージとして語りかけてくる。

音楽は前作と同じく坂本龍一が担当。語りは山根基世と役所広司。力強さと優しさを秘めた語りが胸に響く。カメジローの魂を込めた闘いと愛に満ちた生涯は必見です。

シネマジャーナル作品紹介 http://cinejour2019ikoufilm.seesaa.net/article/468820787.html
公式HP http://kamejiro2.ayapro.ne.jp/about.php


佐古監督 PROFILE  公式HPより

1988年 東京放送(TBS)入社
1996年~2006年 筑紫哲也NEWS23
2006年~2010年 政治部
2010年~2011年 Nスタ
2014年~2017年 報道LIVEあさチャン!サタデー Nスタニューズアイ
2013年~ 報道の魂(現 JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス)プロデューサー


近年の作品

2013年 「生きろ~戦場に残した伝言」
2014年 「生きろ~異色の司令官が伝えたこと」
    「茜雲の彼方へ~最後の特攻隊長の決断」
2015年 「戦後70年 千の証言スペシャル 戦場写真が語る沖縄戦・隠された真実」
2016年 報道の魂SP「米軍が最も恐れた男~あなたはカメジローを知っていますか」
2017年 映画『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』


© TBSテレビ

佐古忠彦監督インタビュー

取材 山村千絵 取材&写真 宮崎暁美

*カメジローさんにたどりつくまで

編集部(暁) 1970年は、私がちょうど高校卒業の年でカメジローさんが国会議員になった年です。私は高3にも関わらず「べ平連」の活動をしていました。なので沖縄のことにとても興味があったにも関わらず、カメジローさんの名前は覚えていませんでした。国会で佐藤首相と対峙している沖縄の国会議員の姿は見たことがあるので、もしかしたらそれがカメジローさんだったのかもしれません。しかし、前作『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』を観て、「瀬長亀次郎」という名前を認識しました。この続編が出来たことは凄いことだと思いました。佐古監督は1964年生まれですが、沖縄のことやカメジローさんのことはどのようなことから興味を持って映画にまでしようと思ったのでしょうか? TBSテレビに所属していますから、報道番組での取材からですか?

佐古監督 1996年に「ニュース23」という筑紫哲也さんの番組に入ることになりました。筑紫さんが新聞記者時代、復帰前の沖縄の特派員だったこともあり、沖縄への問題意識の高い番組で、先輩ディレクター、キャスター含め、自分なりのテーマを見つけ、沖縄へ出かけてはモノづくりをしていました。私もいつの間にか、その中の一人になっていきました。筑紫さんはよく「沖縄に行くと日本が見える。沖縄には、この国の矛盾が詰まっている」とおっしゃっていました。

 私が、最初に取り組んだ特集企画は、「日米地位協定」に関するもので、協定に矛盾を感じての取材でした。なぜ、沖縄はこういう状態に置かれているのか?筑紫さんがおっしゃっていた矛盾がいつも目の前に広がっていて、沖縄は自分のテーマになっていきました。この「日米地位協定」に関する特集の取材は、ある事故をきっかけにしたものです。沖縄で浪人生活を送っていた少年が米兵との交通事故で亡くなりました。少年は本土出身で、お父様は当時兵庫県で教師をなさっていましたが、日米両政府の事故の扱い方や被害者への対応に疑問を持ち、「被害者の会」を立ち上げて行動していくんです。亡くなった少年は、ある彫刻家の弟子になりたいという目標があり、沖縄で浪人生活を送っていました。

編集部(暁) 金城実さん?


佐古監督 そうです。金城実さんと少年のお父様は、関西で教師として同僚だったことがあり、金城さんは、小さいころから少年を知る存在でした。そんな付き合いもあり、「彫刻家になりたい」と言って少年は沖縄に移り住んだんです。金城さんも、「被害者の会」でともに行動していきますが、思えば、私にとって、その金城さんとの出会いが亀次郎さんを初めて知るきっかけでした。

 金城さんの作品に、「銃剣とブルドーザー」という塑像があります。ベトナム戦争で使われたブルドーザー、その横に銃剣を構えた米兵、それに民衆と沖縄のリーダーたちが向き合う作品です。そのリーダーたちの名前を金城さんが教えてくれました。これは、屋良朝苗、これは安里清信、これは瀬長亀次郎だ・・。それが「カメジロー」の名を聞いた最初だったかなと。その後行く先々でカメジローさんの名を聞くことになりますが、取材は沖縄戦やいまの基地問題が多く、なかなか戦後史に触れることがありませんでした。そして、戦後70年の年、2015年に沖縄戦の特番を作った後、「今度こそ戦後史をやりたい」と思い、やるならずっとお名前を聴いていたカメジローを通して戦後史を見れば、いろんなものが見えてくるのではないかと。それがカメジローさんにアプローチした流れなんです。たどり着くまでに20年近くかかってますが(笑)

編集部(暁) まさに観客にとってもそうだと思うんです。


*TVから映画へ

編集部(千)  私は1970年代生まれなので、なおさらカメジローさんのことは親戚のおじさんから話を聞くくらいで、実体としてのカメジローさんは、前作を拝見して初めて迫ってきた状況です(苦笑)。私も普段は都内で普通に働いていますし、佐古監督も本業は大手テレビ局勤務の社員で、その仕事をしながら、よくこんな映画作られたなと思いました。

佐古監督  最初は深夜のドキュメンタリー番組として作りました。この番組は夜中なものですから、普通は視聴者の方々からの反応があることはあまりないんです。ところがこのカメジローさんの番組は物凄い反応がありましてびっくりしました。私が伝えたいと思ったことが、伝わったのかもしれないと。それで、だったらもう少し違ったかたちで、この作品をブラッシュアップさせて、伝えることが出来るかなと思ったときに映画にしたいと。それとテレビ局が作るドキュメンタリー映画と言えば東海テレビさんが有名で、ブランドになってますが、そういった分野にも挑戦したいなと思ったのです。

編集部(千)  ただ、普通に働いていて、時間がとにかく無い状況で表現活動をする、創作をする、といったことは凄く大変です。ましてや大手テレビ局にお勤めの監督が、どうやって時間のやり繰りなどをしながら作られたのでしょうか?

佐古監督  当時まだ毎日、テレビに出ていましたし、よく言われるんですよね。「よく作れたね」と(苦笑)。何かに突き動かされていたというようなことがあるのかもしれませんが…。

編集部(暁)  勤務先のテレビ局に企画を出して通って、作ったということですよね?

佐古監督  基本的にはそうです。でないと製作費もなにも出ませんから(笑)。今回はもうTVに出演していないので、そういう意味では、ものを作るのにずいぶん時間を使えるようになりました。


*カメジローさんのエピソード

編集部(千)  沖縄県那覇市「不屈館」には瀬長カメジローさんの大量のアーカイヴがありますが、あの中からどういう風に素材をピックアップして、編集されていったのでしょうか?


© TBSテレビ

佐古監督  前作を作ったときにも、あまりにもカメジローさんの世界が広すぎるし深すぎるし、もっともっと伝えたいエピソードが沢山ありました。アーカイヴは、日記が一番あるのですが、カメジローさんが執筆した原稿とか、カメジローさんに関する資料とかが全部残っているのですが、そこにはカメジローのいろいろな顔があります。前作を観てくれた人たちから、「政治家としてのカメジローさんはわかったけど、家にいる時のカメジローさんはどんな顔だったんだろうとか、夫として父親としてのカメジローさんは?」とか「かっこいいカメジローさんはよくわかったけど、かっこ悪いカメジローはいないのか」というような、もっと本当の意味での素顔のカメジローを見てみたいとのお声もいただいていたし、私自身もそう思ったので、もう一回日記を読ませてもらいました。そうしたらほんとにいろいろな顔があって、また、なぜ不屈の精神を持つように至ったのかということを知りたいという声もありました。前作を作った時に、他にも盛り込みたいエピソードがいっぱいあったのですが、とばしてしまった歴史もありましたので、その空白を埋めたかったというのもありました。たとえばカメジローさんが那覇市長を追放されるところまでは、わりと詳しく描きましたが、その後、復帰までを駆け足で描きましたので、歴史の空白を埋めながら、カメジローさんがそこに、どのように関わっていたのか、日記にどのように表現していたのか紐解きたかったのです。

編集部(暁)  お父さんとの関係が出てきますが、1作目で、戦争中にカメジローが「米軍が攻めてくるから逃げたほうがいい」と言った時に、お父さんは「日本軍を信用しないのか」と言って、ぎりぎりになってから逃げたというエピソードが出ていましたし、2作目でも父親との葛藤というのが出ていましたが、お父さんは最後はカメジローのことを理解したのでしょうか?

佐古監督  ぎりぎり理解しかけた時に亡くなってしまいました。カメジローさんは最初に選挙に出て落ちるのですが、その時に「それみたことか」とお父さんに言われるんです。ところが初めて立法院議員にトップ当選した1952年に「おまえもそれくらいはできるんだな」と言ったそうです。ただ、こういった関係性だったので、カメジローさんが地元に帰ってきても、なかなか実家には寄り付かないで違う所に寝泊りしていたり、よく千尋さん(瀬長亀次郎 次女)が笑って言っていたのですが、お母さんのことはいっぱい書き残しているのに、お父さんのことは出てこないと(笑)。

編集部(千)  前回と今回も音楽が坂本龍一さんですが、なにかご縁があったりするのでしょうか?

佐古監督  ニュース23時代、私が担当していたほとんどの期間のテーマ曲が、坂本龍一さんがおつくりになった曲で、そのころからのご縁です。沖縄にとても思いを持っていらっしゃるし、坂本さんの思いや表現を載せていただけたら最高だなあと、1作目の制作の際、ご相談したところ、カメジローの人生と沖縄の歩みを表す素晴らしい楽曲をいただき、さらに2作目もカメジローの闘いのその先にある世界をイメージさせる、感動的な曲を作って下さいました。

編集部(暁)  沖縄のドキュメンタリー映画はたくさんあって、戦争のこととか、辺野古のことなど闘いや運動の歴史ばかりだと拒否反応を示して、なかなか観てもらえなかったりするのですが、カメジローさんのようなアジテーターでありながら、愛すべきキャラクターを持つ人がいたというのも、映画を作ったひとつの要因ですか?


佐古監督  おっしゃる通り、闘いの光景ばかりがニュースに出て来ると、それを見ただけで拒否反応を示す人がいたり、沖縄の市町村長が銀座でデモ行進をすればヘイトスピーチのようなものが出てきたり、そして「また沖縄が反対している」というだけの無理解な批判の声が上がったりする。それは、そこに至る沖縄の歴史が全然伝わっていないからだと思うんです。沖縄の戦後に何があったのか、をカメジローさんを通して描くことで、少しでも見え方が変わり、理解につながるのではないかという思いはずっとありました。

 2007年に、教科書の記述で沖縄戦の集団死から日本軍の関与が削除されたことに抗議する県民大会がありましたが、歴史を改ざんされたという思いで県民の怒りは大変なものでした。左も右も超越した、あれこそオール沖縄だという方もいますが、その後も県民大会や演説会での翁長知事とそこに集まる県民たちと、カメジローさんを取りまく民衆たちの風景が似ていると思ったんです。翁長さんとカメジローさんは政治的歩みが全く違うのに、なぜ二人を取り巻く風景が重なって見えるのか。実はそれこそが沖縄の歴史が表すものではないか。翁長さんは「イデオロギーよりアイデンティティー」と言いましたが、カメジローさんも「小異を捨てずに大同につく」と言いました。そこには、オール沖縄につながる精神がある気がします。

 前作を沖縄で上映した時に、ものすごい行列ができて「もういちどカメジローに会いに来た」って言った方が多くいました。ある記者さんに聞いたのですが、新聞の取材でたまたまお客様に話しを聞いたら「私はある政党の支持者だけれども、この人は政党もなにも関係ないんだ」と。政党でカテゴライズされがちですが、沖縄の歴史や意味を考えればそういったことを超越したなにかがカメジローさんにはあったからこそ、このような民衆との距離感とかそういうものが表れるのだと。そういう姿を通して見ればなにか伝えられるかなと。それが1作目で始めたことで、歴史を見れば今が見えてくると思いましたし、そういうテーマは自分の中で2作目も貫いているつもりなのですが、ではカメジローさんの別の部分、もっと深いところ、沖縄の民衆はどう動いて、その後の復帰に突き進んで行き、そして今にどう繋がっているのか?そこをあらためてもう1回見てみたいとの気持ちが2作目では描けたらよいなあと。

編集部 観客の方々にメッセージをお願いします。

佐古監督  重なりますが、なぜ今があるのか?もう一度歴史を見ることで、見えてくるものが沢山あると思います。ぜひ「カメジロー不屈の生涯」に触れることで、おそらくいろいろな見え方があると思いますが、今までのこともこれからのことも、考えるきっかけになるのではないかと。カメジローさんが何故こんなに愛されるのか、ぜひ劇場でご覧いただけたらとても嬉しく思います。


『米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー』公式HP http://www.kamejiro.ayapro.ne.jp/


取材を終えて

去年の3月、沖縄県那覇市にあるシネジャとはご縁のある映画館・桜坂劇場で『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』を拝見しました。 http://cinemajournal.seesaa.net/article/458525465.html

 沖縄で観たとゆうこともあり、涙が流れてとまらず・・・それが大手テレビ局のテレビマンが監督したとのことでビックリしたのでした(私はテレビを捨てて20年近くになります、爆)
とても丁寧に言葉を紡ぐかたで、さすが元アナウンサー!! と。そして案外テレビも悪くないのではないかと、ひさしぶりにテレビが欲しくなってしまいました。

桜坂劇場のあと、初めて沖縄県名護市辺野古と不屈館=瀬長カメジロー資料館:公式サイト  http://www.senaga-kamejiro.com/index.html  へも行きました。
 https://kogacinema.exblog.jp/29408715/

 今なお続く基地問題エトセトラ・・・10月から消費税も10パーセントになりますが、この税収は何に使われるのでしょうか?おしえてーよーカメジロ~あなたなーらーどうする~byネーネーズ。と思わず唄いたくなります・・・ ぜひカメジロー3作めも期待してます。(千)



前作の『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』で、カメジローさんのことを知りました。沖縄と沖縄が抱えている問題にとても興味があったのに、カメジローさんのことを知らなかったとは、我ながら驚きました。それにしても、こんなにも魅力ある人物がいたとは。米軍の支配下にあった沖縄が置かれた不利な立場からの脱却を目指すために、信念を持って行動するカメジローさんのような人物が必要だった。それにしても愛すべきキャラクター。映画の魅力はなんといっても登場人物に興味をもてるかどうか。信念をもって生きたカメジローさんのことを皆さん知ってほしい(暁)。



●『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 カメジロー不屈の生涯』関連記事(名古屋にて)

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