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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『願いと揺らぎ』我妻和樹監督 インタビュー

<監督profile>

1985年宮城県白石市出身 2004年に東北学院大学文学部史学科に入学。翌2005年3月より、東北歴史博物館と東北学院大学民俗学研究室の共同による宮城県本吉郡南三陸町戸倉地区波伝谷での民俗調査に参加。2008年3月の報告書の完成とともに大学を卒業し、その後個人で波伝谷でのドキュメンタリー映画製作を開始する。
2011年3月11日の東日本大震災時には自身も現地で被災。その後震災までの3年間に撮影した240時間の映像を『波伝谷に生きる人びと』(2014年/135分)としてまとめ、2014年夏に宮城県沿岸部縦断上映会を開催。その後自主映画監督の登竜門として知られるぴあフィルムフェスティバルのPFFアワード2014にて日本映画ペンクラブ賞を受賞し、2015年8月以降全国の映画館にて公開。
現在は長編ドキュメンタリー映画の製作を3本控える傍ら、みやぎシネマクラドル、吉岡宿にしぴりかの映画祭など地元の映像文化発展のための取り組みも行っている。


『願いと揺らぎ』

あのとき自分たちが選んだ道は正しかったのか。
被災地の“願いと揺らぎ”を振り返る渾身のドキュメンタリー。
震災後、被災地の各地で地域の伝統行事が復活し、それらの多くは復興を加速させる吉報として取り上げられた。しかしその過程にあった地域の人びとの混乱や葛藤を具体的に知る機会は非常に少ない。
本作は、宮城県三陸町の小さな漁村「波伝谷(はでんや)」に生きる人びとにとって最も大切な行事である「お獅子さま」復活の過程を、さまざまな立場の人に密着しながら追いかけたドキュメンタリー映画である。津波によって集落が壊滅し、コミュニティが分断されてしまった波伝谷では、ある若者の一声からお獅子さま復活の機運が高まる。それは唯一自分たちの本来の姿を象徴する存在として、先行きの見えない生活の中で人びとの心を結びつける大きな希望となるはずだった。
しかし波伝谷を離れて暮らしている人、家族を津波で失った人、さまざまな人がお獅子さま復活に想いを寄せる一方で、集落の高台移転、漁業の共同化など、多くの課題に直面して一向に足並みの揃わない波伝谷の人びと。震災によって生じたひずみは大きく、動けば動くほど想いはすれ違い、何が正解なのかも分からぬまま、多くの摩擦や衝突を重ねて最終的に「お獅子さま」は復活する。そして時が流れ、仮設住宅から高台へと移り、波伝谷で生きて行くことを決意した主人公は、改めて当時の地域の混乱と葛藤を振り返ることになる。
震災から6年、かつての姿は二度と同じ形では取り戻せないという現実の中で迷い、もがきながら、それでも復興に向けて歩み続けた被災地の“願いと揺らぎ”を鮮烈に映す作品。



(C)ピーストゥリー・プロダクツ

製作・配給:ピーストゥリー・プロダクツ 監督・撮影・編集:我妻和樹
プロデューサー:佐藤裕美宣伝:佐々木瑠郁
2017年/日本/HD/カラー・モノクロ/16:9/147分
公式 https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree
★2018年2月24日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開




我妻和樹監督インタビュー

-監督って映画を撮って終わりじゃなくて、いろんなことを言語化して説明したりしなきゃいけないと思うんですが、我妻監督はそういうの得意ですか? 

得意かどうかはわからないですが、まあ、自分の作品を広めるためだったら。
監督が黙ってても周りの人が代弁してくれればいいんですけどそういう体制でもないんで。やっぱり監督自身が言った方が周りには響くこともあると思うし。

-監督にはそういう責任があるんだとか言われちゃいますよね。
震災後の波伝谷を描こうとするときに、「お獅子さま」というテーマはどの時点で?

震災後も避難生活とか撮ってたんですけども、すぐに行き詰ってしまったんですよね。震災前から波伝谷に入ってその暮らしを撮っていたんですけど、震災が起きてすっかり変わっちゃって。その前に撮ってたものと今現在目の前で起こってる事って全く違うことで、もう違う問題とかであふれていて。撮影しててもすぐ行き詰っちゃって。まあその中でも『波伝谷に生きる人びと』の編集とかしながらやってたんですけども。
そしたらある段階で…年が明けた頃ですね、ミキオさんのお母さんのトミ子さんから「我妻くん、獅子舞の写真もらえないかな。息子たちが獅子舞を復活させようと思ってるみたいなんだ。若い人たちが集まるみたいだよ」って言われて。部落の中では極秘のことだったんですけども、直接ミキオさんにお願いしてぜひその決起集会を撮らせてくれと。なんでそう思ったかって言うと、僕が民俗学の調査で初めて波伝谷に行ったときにいちばん最初に出会った行事が獅子舞だったんですね。そこで凄く衝撃を受けて、僕にとってもその獅子舞が行われる3月の第2日曜日は特別な日だったんです。



-そうして初めて波伝谷に行ったのが2005年の3月12日。震災のちょうど6年前だったわけですね。

波伝谷の人たちにとっても僕にとっても大切な行事です。卒論も波伝谷と獅子舞のことを書いて、100点をもらいました。異例のことだと思うんですけど。ただ、震災によって元々の暮らしがすっかり変っちゃって、その中で獅子舞を復活させたいっていったときに、何か震災前の暮らしとつながるものを感じたんですよね。波伝谷の人たちの中に、本来の姿を取り戻したいとか、バラバラになった心をひとつにできるんじゃないかっていう願いがあるからこそ、それを復活させようと思ったわけですよね。ちょうど僕自身も震災後をどういう風に撮っていいかわからなくなってた時期だったので、それだったら獅子舞が復活するまでをしっかり撮って、小さな話かもしれないけども、それでまずひとつのカタチにしてみようと思ったんです。ところが最初から集会の撮影は拒否されてしまうんですが…。

-講の集まりで「自分たちの手で準備したいんだ」ってミキオさんが発言する時には、だいぶ緊張されていたようですが… 若者だけで集まることが極秘だったり、集落の中ではそういう雰囲気があるんでしょうか?

やっぱり秩序を重んじるっていうか、なるべくみんなの和を乱さないようにという思いがあるんだと思います。誰かが突出しちゃうと歯車が乱れちゃうという… 震災前からそういうバランス感覚っていうのはみんな大事にしてきたんですよね。今回佐藤忠男先生にパンフレットに寄稿していただいたんですが、柳田國男が「日本にも民主主義は根付いていて、それは都会ではなくて地方の田舎にあったんだ」と書いていて、佐藤忠男先生はそれを読んですごく感銘を受けたらしいんですね。でもそうはいうものの、自分では見たことがなくて「本当なのか?」っていうことを何十年も疑問を持たれていて… それが実は、『波伝谷に生きる人びと』を観てその疑問が払拭されたと。いわゆる村の寄り合いシステムっていうのは多数決主義ではなく、みんなの総意、落としどころを考えるんですね。それはマイノリティに対する配慮だったり、和とか秩序を重んじるっていうのは、みんな地域の中で深く関わりながら生きているので、遺恨を残さないためにもどうするかっていうことを大事にしてきたと思うんです。まあ、全然そう思えないような現場もたくさん見てきたんですけど…若い人も普段の生活の中で上の年代の人たちと接して何か物事をやる機会っていうのが日常的にたくさんあるので、ああいうミキオさんのような若い年代の人たちにも体の中にそういう空気が染み込んでるわけですね。

-長幼の区別っていうのはあると思うんですが、上の人も下を面倒見たりみんなの総意でやっていこうっていう意識があるから上手くいくんでしょうね。実はアメリカ先住民の人たちもそういう仕組みを持っていて、合衆国憲法をつくるときにそれを参考にしたっていう話があって… もともと、長い間に培われてきたものがあるんでしょうね

やっぱりそうだと思うんですよね。三陸の人たちも長い自然との関わり合いの中で、みんな助け合いながら生活していかなくちゃならないという中で出来上がってきたものが、契約講だったり結であったり親族関係とのバランスだったりとか、やっぱり土地との関係っていうのもそこにはあると思うんですよね。

-大きなところでの多数決っていう民主主義はもう機能していないと思うんですが、実は日本の社会にはもともとそういうものがあった

それがいいものかどうかはまたちょっと別だと思うんですけれども。外の人からしてみればすごく非合理的に見える部分はあると思います。なんでこうグイグイいかないんだとか。でもそこで生きてる人たちにはそれなりの論理があって、支援に対してもいろんな捉え方があるわけで。

-ある意味、物事を決めて進めていかないと進まないってことがあるので、その辺が長幼の別をすごく大事にするというか、ああいうミキオさんが緊張するようなことにもつながるのかなあ、と。

そこを女の人たちがパワーで引っ張って行くっていうのがまた面白いところだと思うんですね。女の人が結構活躍してますよね。

-女の人の集会もみんなで話し合って、また対立っぽくなってもひとりが何か発言するとそれによってまた流れが変わるとか… 何かおもしろいですよね。そういうことがリアルタイムで画面に映ってるってすごいことだなーって思うんですね 。

そういうことの現場を捉えられたっていうのは、もう無くなりつつある村社会の記録という意味でも貴重なものだとは思います。


-映画を「つくる人の思い」にちょっと興味があるんですが、今回震災があって、ありえないような流れというか 経緯があったと思うんですけれども、我妻監督はなんで映画を志したのか、なんで映画をつくって見せたいのかとか、そういう事って…あの、ちょっと聞いてもいいですか?

そうですねー。難しいですねー。ふだんあまり意識してないところでもあるんですが…。

-今回の映画でもいいんですけど、なぜそんなに見せたいと思うんですか?

そういう根本的なところを…(笑)。まあ、単純ですけどつくって良いものが出来たら人に見せたいですよね。作品づくりにおいては、まあ題材にも寄ると思うんですけれども、人間とか社会の複雑さとか、いかに人間がいろんな矛盾をはらんでいて、愚かだけど愛おしいとか… なんというか、まず「人間を描く」ということがあるじゃないですか。まずそれで共感してほしいものがあると同時に、それが誰も経験していないものとか、誰でもどこかで経験したはずなんだけれどもまだ上手く表現できていないものとか…そういう人間の側面みたいなものを提示したいっていうのはありますよね。いかに社会が複雑なものであるかとか、たぶん根本的にはそういうのが描きたいっていうのがあると思うんですよね

-単純化されたりこれはこうだって決めつけられたりしてることを映像で具体的に「そうじゃないんだ」って。

実を言うと映像だけじゃなくても時間と余裕さえあれば文章なんかでも表現したいということもあるんですけれども。なんで映像になっちゃったかって言うと、小学生の頃から映画が好きで、はじまりは『赤毛のアン』だったんですけど、直接的に感情に訴えるっていうか言葉では捉えきれない部分だったりとか。複雑さとかなんとか言いつつも、僕自身はもっと感情的なところを表現したいと思っているんです。本当は字幕とか一切使いたくなくて、映像だけで勝負したいんですよね。字幕とかで説明しちゃうのは力量がないからだと思うんですけれど。…なんか上手く言えないんですが。

-いやいや。ほんとうは単純なことでいいって気もしている…?

単純なことでいいと思うんですけれども、どう表現するかにもよると思います。すでに誰かがやっていることとおなじことをやっても意味はないわけで。

-やっぱりそれは「人に伝えたい」っていうことがあるんですね。

はい。人に伝えたいっていうことはあると思います。もともと僕はドキュメンタリーを志していたわけではなくって 劇映画とかファンタジーとかそういうものをやりたいなーと思っていた人間なので。


-今回の映画なんですけれども、「お獅子さま」って卒論のテーマでも書かれたということだったんですけれども、共同体の中でどんな役割をするのか… ここで象徴されている事っていうのは普遍的な事であるというようなことがプレスシートにも書かれていたと思いますが…「お獅子さま」って何でしょうか?

そうですね… 何と言えばいいか…。難しいですね(笑)でも、ひとつの行事って昔から形を変えずに その地域の中でずっと続いてきたって思われがちですけど、実はその祭りの趣旨自体もその時代によってガラッと変わったり、何かに利用されたりとか… 例えば今回のその震災でのお獅子様の復活ってのも本来の波伝谷の人たちの 中でもう一回 結束を取り戻すために利用されたようなものだと思うんですよ。 形は変わってると思うんです。形は変わっても何か変わらないものが根底にあると思っていて、表面的ではなく実は背後に‥何と言ったらいいか…。

-みなさん単純に楽しみにされてるんですよね。

単純に楽しみにされてるんですね。でも、このお獅子様が波伝谷の文脈から離れて外でただやられるものになるって事はありえないし、そうなってしまったらもう波伝谷の人々にとってのお獅子様ではなくなってしまうし。あの波伝谷という土地で自分たちでやるからこそ意味のあることであって。

-あの、芸術とか映画とか表現っていろいろありますけど、歌でもダンスでも、そういうのと切り離されて商品化されて消費されたりするじゃないですか。もともと発生した時はこういうところが「原点」っていうか… 一回性の、そこだけのものですよね。そんな感じなのかなーと。

あ、そういえば僕が言わなくても、原一男さんが書いてくれてました! ソウル…公式サイトの原さんのコメントで…

(公式サイトコメントより引用)“その地域の祭りが活気に満ち溢れて催されているなら、その地域の共同体は活き活きと機能している証である。祭りとは地域共同体のソウル=魂そのものだからだ” -原一男(映画監督)

-それじゃ、完全同意、ということでいいんですね。

完全同意ってっわけじゃないですけど(笑)。

-被写体との距離ってドキュメンタリー絡みで言われることが多いと思うんですが この作品はそういう意味で「すごいなあ」って言われると思うんですけれども その辺の所って監督は どう捉えてますか。

この映画を撮ってる段階でも  僕と波伝谷の人たちの間で 信頼関係があったかって言うと 僕はそんなこともないと思っていて… 。震災前は撮るのに精一杯っていう感じだったんですよ。自分の中で映画を作った実績もなければ下積みもないし、 波伝谷の人たちに対する自信のなさっていうのがあって、常に遠慮して撮ってたんですけど。 震災後の『願いと揺らぎ』の撮影に関しては、同じ姿勢だと邪魔者にしかならないから、僕の中ではもう嫌われてもいいから、否定されてもいいから、とにかく「あなたたちのことを伝えたいんだ」という姿勢で行こうと決めたんですよね。若者の中ではミキオさんは僕に対して心を開いてくれた人だったんですけれども、僕のことをあんまりよく思ってなかった人もいて、撮影の時もそういう人がいるとすごく撮りづらかったりしたんですけど、でも、嫌われてもいいから もうグイグイ 行こうと。震災後は今までの自分と変わらないと、やっぱりちゃんと伝えられない…『波伝谷に生きる人びと』の時から僕自身は撮っていながら常に自己矛盾ていうか壁に直面してたんですよね。大事なところでカメラを回せないっていうのは「伝える」っていう意識が足りないからじゃないかって…要は 波伝谷の人々を見ているようで実は自分のことしか見てないんじゃないか、自分のことしか考えてないんじゃないか… そんな次元でやってたところでどうなんだっていう疑問が常にありながら、打破できなかった。どうにもできなかったんですよ。

-遠慮してしまうということが、逆に自分のことしか考えてないからだっていうふうに捉えたんですね。

『波伝谷に生きる人びと』のときはその距離感で良かったと思うんです。「被写体である波伝谷の人たちに育ててもらった一人の若者」って感じがするので。二つの作品の作り手の姿勢の違いはそこにあると思うんですね。やっぱり震災があってお世話になった人たちが こういう状況になって、その中で「何ができるのか」っていう気持ちもあったと思いますね。それはちゃんと撮って伝えることだから、 伝えるためには多少相手にしんどい思いをさせても… まあ、ただ脇で撮ってただけなんですが、少なくともそういうところで遠慮したりはしないようにしようと。迷惑をかけてはいけないですが。

-「人として向き合う勇気もなく、 映像作家として向き合う覚悟もなく」…って、悩んだ時期の事をプレス資料に書かれてましたけれども 今そのバランスっていうのはどうなんでしょうか。 映像作家としての意識が前に出てきたということなんでしょうか。

『波伝谷に生きる人びと』っていうのを作って世の中に広めて、波伝谷の人たちも「我妻はこういうことがしたかったんだな」ってわかったと思うんですよ。それまでは何もなかったから。 だから作品ができたことで深まる信頼関係っていうのがあると思うんですよね。 だからといって今、腰を据えて撮影してるというわけでもないんですけど。 波伝谷の人たちとの交流は続いていて、むしろ今はカメラとか入れないで付き合いたい時期だと思ってます。 やっぱりその関係性がずっと続いていることが大事だと思うんです。いずれまた表現したいと思った時に、それまでの積み重ねがまた大事になって来る…常に「過程」なんじゃないかなあと思うんです。


-我妻監督の名声が上がっていくほど人として付き合うということが難しくなってくるということもあると思うんですが… 監督のことを快く思わなかった方も、憶測ですけど、被写体に対して暴力的な映像が多い中で「映像を撮りにきた青年」っていうのがあったのかも。

僕に関しては波伝谷の人たちから「作品ありき」で見られたことはなかったと思うんですね。単純にめんどくさがられていただけというか(笑)僕のことを良く思ってなかった人たちに関しても、今も僕のことを否定してるかって言うと、もうあれから時間も経ってるしそんなことないと思うんですね。それでも気に入らない人はいると思うんですが、それはしょうがないと思います。ただ形にしたことの変化というのは大きいと思います。実は震災の前の年にチリ地震で津波がきて養殖の被害があったんですが、ある若い人から、「アンダ津波の時も歩いてたっちゃー。そのまま死ねばおもしろかったのにな」って言われたんですよ(笑)。言われたときはけっこうへこみました。でも今は作品が出来たことをすごく感謝されてて「我妻先生が記録に残してくれたから…」って。そういう元気の良いお兄さんが、やはり津波で家を流されて、大事な人を失くして、ものすごい悲しみを抱えているんですよね。そういうのもあって、最近では僕が撮影していることに拒否反応を示す人はあまりいなくなってきました。その関係性がいいかどうかは分かりませんが。ただ、震災前からずっと、どんな場面でも守ってくれた人がいたわけです。地域の中で重要な人物たちが僕に撮らせてくれたわけで、「それじゃあ俺たちも撮らせなきゃ」みたいな、なんとなくそういう空気ができてたんですよ。「我妻は否定しちゃいけない」みたいな。個人個人で言えば多少反感があったとしても、でもそれは否定しちゃいけないみたいな、そういう居場所を与えられて僕が撮ってたわけなんですよね。

-あの厄年のお祝いの挨拶は感動しました。あんなに心のこもった「心からの挨拶」というのはあまりないので…。それが映っていることが貴重だなーって。

僕自身の姿勢が変わったから撮れたっていうことだけじゃなくて、震災前から我妻は受け入れなきゃいけないみたいな、そういう空気があったからこそ撮れた思うんですね。震災前にみんなと同じものを曲がりなりにも共有して、時間を一緒に過ごしてきたからこそ、そういう場面に入り込めたってことがあると思うんです。やっぱり「おめえも一緒に被災した仲だしな」って言われたこともありますし。


-ドキュメンタリー作家としては理想的な状況ができたと思うんですが。

僕自身がそれを上手く活用できたかというとそういうわけではないと思うんですけども。

-いやいやいや。今2本目の公開になって、そういう流れっていうのが偶然っていうか、もしかしたら必然? みたいな事って考えたことがありますか。

今回の作品は、このぐらいのスケールになるとは思っていなかったんですよ。震災後どう撮って行けばいいか わからない中で「 小さく考えよう」と思ったんです。手広くやらないで 小さくやろうと思ったんですが、まあ、結果的には147分と大きい作品になりました。元々は 『波伝谷に生きる人びと』の 正式な続編とも考えてなかったんです。最初はスピンオフ的な位置付けでした。結果的には、この2本があって初めて見えてくるっていうものがあると思うんですね。それぞれどちらかだけ観てももちろんいいと思うんですが、この二つを通して見えてくるっていうものは、被災した地域の長い時間の中での歴史というか、 変わったものもあれば失われなかったものもある…っていう、長い目で言ったらひとつの「過程」であると思うんですね。 震災がすべてではなくて。このトータル12年の記録の中でそれがちゃんと表現できたんじゃないかなと僕自身は思ってるんですね。だから、撮影当初にやろうとしていたことが、震災を経てより深まったというところはあると思います。『波伝谷に生きる人びと』では、土地で生きている人たちの「ともに生きる」ってどういうことか…っていう「共生」のあり方だったり「営み」だったり… 人びとの暮らしっていうのは描けたかもしれないけど、人間を掘り下げて描けたかっていうとそんな感じがしてなくて。『願いと揺らぎ』の方ではやっぱりそこで、人間が描けたって実感があるんですけれども。 前作を踏襲して前作でできなかったことだったり、前作でやろうとしたテーマをより深めたりとか… 片方だけ観てもいいんですけど、二つ通して観るといいんじゃないかなという気がしますね。

-その深まりというのは元々想定していたことだったんですか?

2012年に撮ってた時点でいいものが撮れているという実感はありましたが、時間が経ってより深まった部分はあると思います。最初は獅子舞を復活させる過程でのいろんな人間ドラマ、すれ違いとか、それだけで描こうと思っていて、獅子舞当日のことは最初から一切描かないって決めてました。ただ、2012年当時から時間が経って、今編集するに当たって、2012年時点で終わらせるのもどうかという疑問が自分の中にあったんですね。そのとき、当時ぶつかれなかったミキオさんに、もう一度ぶつかってみようと思いました。映画のラストではミキオさんが映像を見ながら当時を振り返る形になっていますが、当時は自分たちの判断が正しいのかどうかも分からないから、ミキオさんも「撮らないで」って言ったと思うんですね。でも仮設住宅で先行きの見えない時期を過ぎて、多くの被災地で4年とか5年して高台に家を建てたり… 家を建てたってことはそこで生きて行くってことを決意したわけで、ようやく足元が固まったというか… そういうときに自分たちのこれまでのこと、当時の混乱とか整理がつかなかったものを振り返って、これまでの時間をある程度意味付けできるようになったっていうのが、たぶん『願いと揺らぎ』のラストだと思うんですね。そういう意味では、多くの被災地にとっても、これまでの震災後の時間を振り返るという、なんていうか…

-過去の捉え直し… 前向きに生きるための過去の再編集みたいな。

そうですね。そういうことができるようになった時期だったんじゃないかと思うんですね。そこが本当の意味の復興のスタートだと思うんですよ。 当事者たちにとっては国の政策とのいろんなズレがある中で、なんとかそれに慣れながら生活してたわけですけど、これからはほんとうに自分たちの力でコミュニティを再建していかなければいけないという、ほんとうの意味でのスタートに当たって、被災地の「願いと揺らぎ」を振り返るという作品は、2012年の時点でつくってたらそこまで表現できなかったと思うんですね。5年間もミキオさんのインタビューを引っ張ってたことが結果的にはこの作品にとってはすごく良かったと思うんですね。時間の厚みを感じさせるというか。

-こういう経過、プロセスに監督自身が居ることで、見えなかったテーマが見えてきたり、流れを記録していくことで何かが表現出来るっていうことですよね。

まあ、偶然に身を委ねるってことでもないんですけどね…。

-いや、そこに何かどうも、偶然のように流れに反応することで、何かすごいこと、不思議なことが起きてるような…「作り手」としてそこにいるのか… どうも偶然、必然って考えると何かに「作らされてる」っていう感じにも見えるんですね。

なんかもっと大きな意図、大きなものに動かされてる… みたいな(笑)

-「映画の神様に呼ばれた」って書いたんですが。

去年の3月の豊島区の上映会(※佐藤裕美プロデューサーが主催した東北支援チャリティ上映会)の時のアンケートに書いてくれてましたよね(笑)でも『波伝谷に生きる人びと』もそういうふうに思ってくださる方はいますね。

-コミュニティーの再建、ということをおっしゃいましたが、震災前から「お獅子さま」みたいなことは共同体の中で失われてしまっていて、もうお祭りとか、共同体自体がもう壊滅状態というか…。それが震災があったことで、こういう映画もつくられるようになって、ある意味「結びなおし」というか…「絆」っていうのはもともとはあんまり良い言葉ではないらしいんですが… 過去に戻ってもしょうがないので、つながりを結びなおして、新しく創っていこうという状況があると思うんですが。

そうですね。「ゼロからの復興」って言いますけど、ほんとうにゼロからだったら、故郷って意識もなくなっちゃうと思うんですよね。それまでに続いていたものがあって、それをそのまま継承できるわけではないので、やっぱりその中で何を大事にしていくかっていう選択、判断に「自分たちらしさ」っていうものを… それを変えてしまったらそこじゃなくなるようなもの… 今までのことを大事にした上で、そこから始める復興こそ自分たちのほんとうの復興だと思うんですよね。ただ新しいものにパッと切り替わったのでは、もうそれは復興ではなくって、ただ「変わった」っていうことだと思うんですね。

-そうですねー。 あの、監督自身の故郷は今どんな状況ですか(笑)

自分の身近にもそういうコミュニティとかつながりとかあったと思うんですけど、接点がなかったんですよね。まあ田舎の方なんですけど。だからこそ 波伝谷に魅力を感じたんです。地域のつながりとかってすごく美しいノスタルジックなイメージがあるじゃないですか。そんなことばっかりではなくて、実際にはしがらみとかめんどくさいことがいろいろあると思うんですけども、でもそういう煩わしさを含めても、そのつながり、関わり合いがその人がそこで生きている履歴と言うか証しと言うか… 良いものも悪いものもあって… 『波伝谷に生きる人びと』のキャッチコピーでも「光と影の両面を持ちながら…」っていうのを書いていたんですが、それこそが「絆」なんじゃないかなって思うんですね。映画評論家の三浦哲哉さんも言及してくださってましたけど…。

(公式サイトコメントより引用)我妻和樹監督『願いと揺らぎ』は、震災時にそこに居合わせてしまった若い作り手自身の想いを率直に吐露する側面を持ちつつも、それが丹念な民俗学的観察のまなざしと溶け合うことで稀有な傑作となった。本作を通して私たちは、「絆」と呼ばれたものが具体的に何だったのかを教えられるだろう。震災から6年後の決定的な成果ではないだろうか。--三浦哲哉(映画評論家)

…もともと震災というところから映画づくりが始まっていないというところが、他と違うところなのかなあ、と思います。もちろん震災から入ってもいい映画をつくっている方はたくさんいますけど。

-映画の終わりに「続く」とありましたが、波伝谷はこれからもずっと撮り続けようと。

うーん、今のところ腰を据えて撮影すると言うよりも…

-寄り添っていく…?

そうですね。そのうちにまた撮りたいと思った時に…。

-今日はどうもありがとうございました。最後にシネマジャーナルの読者にひとことお願いします。

あんまり固いことを言ってもしょうがないので、とりあえず騙されたと思って観てください(笑)たぶん今年公開される映画の中ではダントツで地味な映画かとは思いますが、『この世界の片隅に』のように口コミで広がるといいなあと思います。





シネジャ作品紹介
http://cinemajournal-review.seesaa.net/article/456690825.html


◆ インタビューを終えて

映画がすばらしいということだけでなく、実は、我妻監督とは同郷、高校も同窓ということで、心の中で熱烈応援させていただいておりました。仙台弁にまるごと回帰したはずのワダスも、同郷の人に面と向かうと、なんだがおしょすくて、よそいきの言葉でしゃべっつまうんだっちゃねー。この辺りが関西の人とは違うトーホグ人の純朴さっつーごどだべがねー? ずいぶんと変なごども訊いっつまったげんちょも、戸惑いながらも快く真摯に答えてくれた我妻監督。まんずどーもねー。おらほの天才は「いがらしみきお」だげではねーのっしゃ。これがらも応援してっから、がんばってけさいねー!(せ)




シネジャ・スタッフ日記
http://cinemajournal.seesaa.net/article/456683327.html

「地味な映画」と監督自身は話しているけど、その地味さが監督の色であり、その朴訥とした雰囲気の中で慎重に言葉を選ぶ姿が印象的でした。「寄り添う」 …夫婦だって家族だって寄り添って生きていくのはムズカシイのに、ましてや被写体と「共にある」ことを続けるのは相当なエナジーが必要だと思う… けれども我妻監督に限らず「被災地」を舞台に作品をつくり表現活動をしている作家の方々には、これからも特に期待し注目しています。取材した日は2月某日。バレンタインに近いこともあって差し入れにチョコレートを持参しました。そしたら美味しそうにパクパク召し上がっていたので、私はココロの中で「差し入れ大成功☆」ニヤリとしてました(笑) 我妻監督お忙しいところ有り難うございました!! (千)


(取材 せこ三平  撮影 山村千絵)

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