1968年生まれ。新潟県長岡市出身。同志社大学卒業。三池崇史監督、堤幸彦監督、柳町光男監督らの助監督を経て、『9/10 ジュウブンノキュウ』(2006年)で監督デビュー。『カフェ代官山 それぞれの明日」(2009年)、 「half awake」(2011年)、「暴走」(2013年)
1988年生まれ。東京都出身。『茶の味』(04/石井克人監督)で映画デビュー。以降、『グミ・チョコレート・パイン』(07/ケラリーノ・サンドロヴィッチ監督)、『ハッピーフライト』(08/矢口史靖監督)、『色即ぜねれいしょん』(09/田口トモロヲ監督)、『あぜ道のダンディ』(11/石井裕也監督)、『舟を編む』(13/石井裕也監督)、『イニシエーション・ラブ』(15/堤幸彦監督)、『エミアビのはじまりとはじまり』(16/渡辺謙作監督)などに出演。2017年は本作の他、『ろんぐ・ぐっどばい〜探偵 古井栗之助〜』(いまおかしんじ監督)、『密使と番人』(三宅唱監督)と主演作が続く。また、明後日プロデュースVol.2 芝居噺「名人長二」で初舞台を踏むなど、活躍の場を広げている。
山室軍平は明治5年岡山県の貧しい農家に生まれた。病弱であったが、好物の卵を断って神に祈った母の愛情によって育まれた。それは“軍平が丈夫に育ち、人の役に立ってほしい”というものであった。利発な子どもだった軍平を、子どものない叔父が養子にと望み9歳で親元を離れる。進学する約束を反故にした養家を離れ、15歳で東京へ家出。印刷工として一人学びながら生きることになった。キリスト教と出会い、新島襄の開いた同志社に進学する。軍平の不器用ながら夢に向かう情熱を多くの人が支え、母が願ったように人のために生きる日々が始まった。
公式HP http://yamamurogunpei.com/
★2017年10月21日(土)より新宿武蔵野館、岡山シネマクレールほか全国順次ロードショー
―今この作品を送り出すことについて
監督 山室軍平は、人のために生きることに生涯をかけた人です。山室軍平を知る機会があって、知るほどにその人、生き方が素敵だなぁと思いました。はじめはドキュメンタリーとして作るというお話だったんです。社会の中でお金も地位もない、苦しんでいる人たちのために生きようと決心し、その思いを持ち続けた人をどういう風に描こうかと考えたとき、その業績よりも、むしろ彼の志や強い思いを語りたいと劇映画にすることになりました。
企画が立ち上がったのは2015年の秋、様々な資料を読み込んで勉強しました、2016年2月には脚本ができ、それからキャスティング。まず森岡さんから決まり、メインキャストは6月ころには揃いました。資金がなかなか集まらなかったところ、多くの方に助けていただきました。準備には長くかかりましたが、撮影は7月に2週間ほどで終了。移動も含めてですからけっこうきついスケジュールでした。明治のころの話ですが、時代劇に強いスタッフがいてくれて助かりました。舞台の一つとなる同志社大には実際に山室軍平たちが学んだ19世紀の校舎が今も残っているのでロケ地として使って、山室の同志社時代もリアリティのある映像が撮れました。学生たちも当時の学生たちのように着物を着て参加してくれています。
―森岡さんはどのように役作りなさったのでしょう?
森岡 実在した人物かつ宗教家ということで、うまく演じられるのか不安でした。まず山室軍平さんという人物について知ることから始めました。著書を読んだり、救世軍について調べたり、教会に通って礼拝に参加したりしました。
―ちなみにクリスチャンですか?(違いますとお二人)山室軍平さんの信仰心はとても強くて、それが身体や精神の芯となっていると思ったのですが、お二人はどうやって理解されたのでしょうか。
監督 山室軍平の情熱や精神や思いを描こうとしたとき、キリスト教は重要なファクターではあります。そして彼の根本には「愛」というものがあります。彼の学んだ聖書や説教を読んで僕も勉強して、それを理解しようと努めました。
―森岡さんは「心を綺麗に綺麗にしよう」と努力されたそうですね。
森岡 普段の行いがどれだけ演技に反映されるかはわからないのですが、山室さんになるべく精神を近づけて、と思ったのです。お酒も飲まれない方なので、僕もやめていました。自分の宗教心は曖昧でしたが、軍平さんの信仰心、折れない心や情熱は、僕が俳優として誰かに何かを伝えたいというのと共通しているのではないか、近いのではないかと思いました。
―9歳で養子に出されたのは、時代を考えると珍しくはないのですが、家出して上京したのが満14歳というのには驚きました。独立心が強かったんでしょうね。
監督 人に頼っていないですね。自分で生きようとしています。映画では丁寧に描いてはいませんが、山室軍平の自伝には詳しく書かれています。出てくるときには伊藤博文に書生にしてくれとか、岡山出身の同郷の人を頼って押しかけたりしたようです。
―直情的で行動的、困ったときはいつも他の人から助けてもらえる人ですよね。同志社の学費を出してくれた吉田清太郎さんが自分のお金を軍平に回したために困窮して、空腹なあまり死んだ猫を食べたというのも実話なんですね。演じた水澤紳吾さんは役に入り込んで絶食されたのですか?
監督 脚本には7日間とありますが、水澤君は3日間飲まず食わずだったそうです。僕は指示していません。昔なら言ったかもしれないけど(笑)。
―監督は俳優さんたちに細かく演出する方ですか?任せる方ですか?
監督 話したうえで任せますね。だいたい3~4時間くらいは主要な役の俳優とは話します。それから、本読みのときにどういう風に作っていこうとか。キャラクター、テーマを実現するにはどうするか、と俳優にぶつけていきます。撮影現場では演技を見て、テーマやキャラクターが伝わらないと思えばまた俳優と話し合っています。
森岡 僕は軍平さんのまっすぐさを、堅苦しくなくユニークにやってみようと考えていたのです。でも軍平さん自体がユニークなキャラクターなのではなくて、まっすぐなところが、どこか滑稽さを伴う、そっちのユニークさじゃないかということを話しました。そこが大事なところなんじゃないか、と。
―森岡さんはたくさんの役を演じていらっしゃいますが、今回の役と自分とは近いですか?
森岡 自分と、ですか…。(としばし考え込む)
監督 森岡君は軍平と似ていますよ。きまじめさとか、情熱のまっすぐさとか。(森岡:ありがとうございます)ふざけてるときもありますけど。子役時代以外、ほとんどのシーンに出ているのですが、自分の出番のないときにも必ず現場に来ていました。
―軍平さんの母親とのエピソードがとても印象的です。ご自分のお母さんとの関わりでなにか思うところは?
監督 比べるものではないと思うんですが(笑)。この山室軍平のお母さんが子どもために卵を食べなかったというエピソードは、軍平を知る人にはとても有名です。
僕自身の経験でも、子どもの時は親の愛情は当然のように受けていて、全く感謝もしないでいます。自分が成人して一人で暮らすようになったときに親が気にかけてくれたこと、子どもを持ったときに親の気持ちがわかったりしました。
軍平がずっと後に実家に帰ったときに母親がまだ卵を食べずにいて、もっと後になって「健康のために食べて」と言っても「神様と約束したから」と食べないのを見て、子どものときよりも強く親の愛情を感じたのではないかと思いました。その部分は非常に大切にしました。
森岡 母親の愛情もですが、ほかの人からも愛された記憶があるので、きっと軍平さんは常に愛を携えていかなくてはと思っていたのではないか。そういう「受け取った記憶があるから人にも与えることができる」のではないか、と感じました。
―監督は山室軍平さんのことは同志社大の学生時代からご存じだったとのことですが、今の学生たちに山室さんのことは知られているのでしょうか?
監督 今は、認知度は高くないと思います。ただ、1920年代に同志社出身で「社会に最も貢献した人」を表彰したのですが、それが山室軍平なんです。中退したのですが新島襄の精神を受け継いでいる人なんですね。今も同志社大学のクラーク記念館という校舎の壁にその時に作られた山室軍平のタブレットがあります。この映画をきっかけにもっと知られると嬉しいです。
―監督としてこれだけは譲れないことはありますか? 森岡さんは俳優として。
監督 うーん、なんだろうなぁ。僕、実はよく人と喧嘩するんですよ。特にプロデューサーと衝突するんですよ。ということは、やっぱり譲れないことがあるんでしょう。
映像にOKを出し続けるのが仕事で、この作品が出来上がったのですが、僕は俳優自身のキャラクターが魅力的だと感じます。現場で観た芝居も良かったけれど、映像になってさらに役に生きていたと思います。
森岡 やれるものは全部受けたいし、関わって来た作品は全て面白くなるよう力を尽くしたいとは思います。でも身体は一つですし…。たとえば人を殺すようなことや、そういうのを肯定している作品はちょっとできないです。作品が出来上がったら、もうくよくよしないで、次に反省点を生かすことにしています。
―「私の1本」を教えてください
監督 ジャン・ルノワール監督の『黄金の馬車』(1953年)です。学生時代に観て凄い映画だ!と思ったのを覚えています。ロッセリーニの妻のアンナ・マニャーニが主演です。俳優が皆生き生きしているし、音楽は全部ヴィヴァルディで、ストーリーはわかりやすいし、単純な映画なんですけど映画ってこういうものなんだと思った映画です。
映画好きになったきっかけは溝口健二監督。自主映画ではこんな作品は作れないと思って現場に入りました。スタッフや俳優の力がワンカットの中に充実している、しっかりと引き出されている映画が好きなんです。溝口監督の『赤線地帯』(1956年)を今回参考にしようと見直したんですけど、参考にするどころか、どうしたらこんな映画が作れるんだろうと思いましたね。
森岡 なかなか1本に絞るのは難しい…。僕もルノワール監督は大好きです。中でも『フレンチ・カンカン』(1954年)や『南部の人』(1945年)は好きですね。日本の映画は…パッと出ません。子どものときに初めて観たのは『ウェスト・サイド物語』(1961年)です。(え~、凄いね。子どものときに?と監督)親に連れて行ってもらったリバイバル上映だと思うんですが、印象に残っています。
監督 子どものときの僕はもう「東映漫画まつり」。幼稚園くらいからお祖母さんに連れられていつも観ていました。学校で割引券をもらって休みのときにいつも行ってましたよ。
―長時間ありがとうございました。
東條監督、森岡龍さんにお目にかかるのはこれが初めてです。森岡さんは以前の作品をいくつか観ていました。『エミアビのはじまりとはじまり』で相方に死なれた漫才師の姿が印象に残っていて、つい役柄を重ねていましたが、ご本人は全く違う真面目な方で本作の軍平さんに近いものがありました。一つの質問をしっかり受け取って、言葉を選んで返答されました。好青年です。
軍平さんは東條監督の母校、同志社と関わりの深い人物です。東條監督は軍平さんの生き方に魅了され、ご自分の企画ではなかったのにも関わらずいつしか資金集めと制作の準備に奔走されていたとか。参考に差し上げた弊誌への感想もお忙しい中、お寄せいただきました。やはり軍平さんと同じように熱く誠実な方のようです。この作品が多くの方に届きますように。
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