山形の映画祭が終わってから、はや1ヶ月余り。そのあと、中国映画週間、東京国際映画祭、東京フィルメックスと映画祭が続き、山形の総まとめ記事が遅くなってしまいましたが、やっと掲載できます。シネマジャーナルからは4名のスタッフ、協力者が参加しました。3日、5日、6日、全日程参加とそれぞれですが、そのレポートを掲載します。すでに速報的に載せた記事は、各人のパートから飛べるようにリンクしています。
山形はこの映画祭が終わった後の10月31日(パリ現地時間)に「映像文化創造都市やまがた」として、ユネスコ世界文化遺産のユネスコ創造都市ネットワークに加盟認定されました!
これは、映画、デザイン、クラフト、メディアアート、音楽、食文化、文学など7分野あり、FILM(映画)分野での加盟が認定されたのだそうです。
山形市のホームページには下記のように記されています。
<世界でも高い評価を得ている「山形国際ドキュメンタリー映画祭」をはじめとした山形市の映像文化を育む環境が高く評価されたと考えています。さらに、山形市はグローバリズムの波に埋没することなく、地域の多彩な文化資産を育くんでおり、それらを将来に向けて横断的に活用し、また国連が提唱する世界平和や格差解消社会に向けた方針にも一致しながら、持続可能な都市として発展することが期待されるとの評価を頂いたと考えています>
「山形国際ドキュメンタリー映画祭」東京記者会見で、山ドキ気分を味わう(咲)
http://cinemajournal.seesaa.net/article/453513950.html
山形国際ドキュメンタリー映画祭 オープニング記事(暁)
http://cinemajournal.seesaa.net/article/454028538.html
10/11(水)山形国際ドキュメンタリー映画祭2017 各賞発表(暁)
http://cinemajournal.seesaa.net/article/454107706.html
例年のように山形市中央公民館(アズ七日町)、山形市民会館、フォーラム山形、山形美術館4ヶ所の会場を動き回ったスタッフそれぞれのレポートを。
ドキュメンタリー映画好きなら、ほとんどのひとが知っている世界的に有名な山形国際ドキュメンタリー映画祭。ずっと行きたい気持ちを抱えていた私が初めて訪れたのは2007年、『阿賀に生きる』等々で有名な佐藤真監督が他界してその追悼上映会が開催された年。佐藤真監督の教え子だった友人と埼玉から車で山形へ向かった。山形映画祭が始まった1989年当時、経済的に余裕が無かった故佐藤監督達は馬見ヶ崎川でキャンプをしながら映画祭に参加した~という逸話に倣い、同じようにキャンプしていた友人のテントに私達も泊まらせてもらった。(この友人は2011年、特別賞を獲ることになる『ソレイユのこどもたち』奥谷洋一郎監督)
監督も観客も全てのひとの交流の場として映画祭期間中だけ営業する「香味庵まるはち」で、日本全国から来ているドキュメンタリー好きの人達との夜通しのアルコール三昧。こんな映画祭も山形市も初めてだったし、映画鑑賞の合間には観光も楽しみ、山形の大自然にも感動。よくまあこんな地方都市で国際的な映画祭を開催し始めたものだと故小川紳介監督の偉業に感嘆した。
そんな大感激したヤマガタだったので、2007年以降はなるべく足を運び、2013年からは取材する側として参加。作品を観るだけでなく、なるべく映画関連のイベントにも立ち寄った。今年は「山形まなび館」で開催されていた「山形国際ドキュメンタリー映画祭の歴史を辿る」展示を観て映画祭の歴史を勉強しつつ、おなじ館内にあるカフェでちょっとひと休み、山形っ子のソウルフード「どんどん焼き」を食べたら、これが美味しくてっ!その後こちらは度々訪問することに(笑)。
そして市内にある食堂nitakiではカレー好きだったという故小川紳介監督が残したカレーのレシピをアレンジ再現した「牧野村スペシャルカレー」も賞味。楽しみは映画のみならず。 全日程8日間は仕事の関係で参加できず、いつも2,3日間のみの参加だが、今年は8本の作品を鑑賞することができた。どの作品も素晴らしく今年は例年に比べて感動もひとしおだった。
今回は私にとってもヤマガタ10年め、節目の年だった。
監督:アヌシュカ・ミーナークシ Anushka Meenakshi、イーシュワル・シュリクマール Iswar Srikumar
なかでも感動したこの作品は「アジア千波万波」部門で上映され見事、特別賞と日本映画監督協会賞をダブル受賞した。インドのミャンマー国境近く、ナガランド州フェクに暮らす農民の姿を追ったドキュメンタリー。
自給自足の苛酷な農作業を支えるものは音楽、いわゆる労働歌だ。私は2012年、千葉県の造り酒屋で初めて労働歌を目の前で聞いたが、こんな歌があることも知らなかったし、その旋律と詞に、それこそ酔いしれた。日本の民謡とも似ているが少し違う。国は違えど、インドの山奥でもあんな美しい労働歌が響き渡っていたなんて。この映画、全編が、夢のような歌声と踊りで満ち溢れて…。歌も踊りもアートも映画も、このように暮らしと密着して、「人が幸せに生きるためのもの」なんだと思う。農作業やら土木作業やら協働で行う重労働を、この人たちは歌いながら、踊りながら、楽しそうにやってしまうのであった。
宮澤賢治が夢見ていた「すべての農作業を芸術の域まで高めよ」という理想を、ここの村人たちはもう軽々と実現してしまっている。笑いながら、歌いながら、踊りながら、みんな生きてきたのだ。世界中の村々で、こんな光景があったのかもしれない。
授賞式での選評では「このように笑いで始まり笑いで終わる作品は稀有である」と言われた。監督の一人アヌシュカ・ミーナークシさんとは、クロージングパーティーのときに少しお話しした。
彼女たちはパフォーマンス集団に所属していて、日々の生活にある音やリズムを探求しているそうで、映画はその中のひとつの手段に過ぎないということだ。泣くような映画ではないのに、あまりのすばらしさに3回ぐらい泣きそうになってしまった。
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http://cinemajournal.seesaa.net/article/454121327.html?1511168100
監督:アルフォーズ・タンジュール Alfoz Tanjour
仕事柄、シリア関係の映画はこれまで何本も観てきて、その都度悩んだり、悶々とした思いを抱えることが多く、あまり好んで観たくなくなり、そのうちシリア作品からは遠ざかるようになってしまった…。なので、この『カーキ色の記憶』も積極的に観たいとは思わなかったのだが、スケジュール的にこの作品しか鑑賞できるものが他になく会場に足を運んだ。
しかしこの映画は、今までのようなシリア映画の残虐なシーンは少なく、タイトルが表す通り色鮮やかなカットや意味ありげなカラーがスクリーンを飾る、静かで美しいドキュメンタリーで、とても感動した。この作品を鑑賞した夜、香味庵でたまたま監督のアルフォーズさんと同じテーブルになり「今まで観たシリア映画の中で貴方の作品が一番素晴らしかった」と直接伝えてみたが私のプアー・イングリッシュで、ちゃんと伝わったかどうか(苦笑)。そして大変失礼なのだが監督のその外見から、うんと年上のかたかと思っていたら私と同じ1970年代産と知りびっくり仰天…よほどの人生を歩んできたのだろう…。こちらの作品は見事、山形市長賞(最優秀賞)を受賞。監督とヤマガタでお酒を酌み交わしたこと忘れません、心よりおめでとうございます。
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http://cinemajournal.seesaa.net/article/454080417.html
監督:ソン・ユニョク Song Yun-hyeok
映画祭表彰式の時にソン・ユニク監督は「このひと達の代弁者として、これからも頑張ります」的な発言をしていたので、このひと達って、どんな人たちのことだろうと最終日の受賞作品上映を楽しみにしていた。
この作品は韓国の貧民層を舞台に監督自身もそこで暮らし、カメラを回している。
わたし自身の体験と重ねてしまうのだが、18才の夏、生まれて初めて横浜寿町のドヤ街へ行き、あまりにも衝撃的で、「オシャレな横浜元町の、通り一本挟んだ場所にドヤ街がある」ということを、のほほんと暮らしている周りの友人達にも知ってもらいたくて、わたしは写真を撮り始めた。ボランティアもしたし、ドヤにも泊り、通いながらずっと写真を撮り続けていたのだが、ほどなく挫折…
少し言い訳すると私が女だったから、危ない目に何度も遭って、怖くてひとりで撮りに行くことが出来なくなった…。ソン監督は男性だから、その点は大丈夫なのかもしれない。韓国も日本も格差社会の問題は大体似ていて、生活保護を受けていると自由に生きられないということや、生活苦から精神を病んでしまうこと、お金が無いことが悪循環を生み、どんどん落ちていってしまうこと等々、似たような話は数え上げればキリがない。この映画はまだ現在進行形だと思う。
ソン監督にはこの問題についてこれからも撮り続けて欲しい。アジア千波万波奨励賞受賞作品。
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http://cinemajournal.seesaa.net/article/454105445.html
監督:我妻和樹 Agatsuma Kazuki
2011年3月11日、東日本大震災による地震と津波に襲われた宮城県南三陸町の波伝谷地区。そこに暮らす人々の被災後の姿を追う。復興への願いと、それぞれの立場からくる心の揺らぎが、伝統行事「お獅子さま」復活の過程を巡って描き出されていく。2013年のヤマガタで上映された『波伝谷に生きる人びと』の続編にあたる作品。震災を機にいろんな驚くべき映画が生まれて、それはほんとうに奇跡的なことだと思うのだが、その中でもこれは稀有な作品だと思った。映画や音楽をつくる人、芸術家やアーティストと呼ばれる人たちの思いも、震災のような圧倒的な出来事があると、大きく揺れるだろう。そうでない人もいるし、それはそれでいいのだが、震災後には「何のためにそれをつくるのか」「それをつくることはどういうことか」という切実な問いを持ってしまった人たちも少なからずいた。しかし人間に限らず、万物は揺れているものだろう。「願い」と「揺らぎ」は、対立するものでもなければ、違うものでもないと思った。そして、ほんとうの奇跡はこの一瞬一瞬にいつも起こっていて、選ばれたつくり手のカットの中には、それが映るんだと思う。なぜ日本人の暮らしの中からいちばん大切な「お獅子さま」が失われてしまったのか…それは震災のずっと前から起こっていることで、震災後によく登場した「絆」という言葉は本来あまり良い意味ではないらしい。ドキュメンタリー映画の嘘のつき方というのもますます巧妙になっていて、意識的にせよ無意識的にせよ悪意を忍ばせる作品も多々あるんだと思うが、そんな中で、映画と現実に対する我妻監督の素直で誠実な姿勢は有り難い。2016年、宮城県の吉岡宿で開催された「第1回にしぴりかの映画祭」で我妻監督と初めてお会いした。「ヤマガタとは規模は違うけれど、にしぴりかも映画祭の内容は負けていない」と語る我妻監督は、にしぴりか映画祭のスタッフでもある。最終日に香味庵で少しだけお話しすることができた。「フィールドワークとして波伝谷の記録映像を撮っていた時にたまたま震災があって、それでドキュメンタリー映画作家になったと思われがちだけれど、ほんとうは小学校の時、実写版『赤毛のアン』を観てからいつか劇映画を撮ってみたいと思っていたんです」と、映画への熱い思いを語ってくれた。まだしばらくドキュメンタリー映画の制作が続くようで、もちろんそれもたいへん楽しみにしているのだが、そのうち我妻監督の劇映画も、ぜひ観てみたいと思った。
★2018年2月ポレポレ東中野ほか全国順次公開
公式サイト https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree/blank-5
(取材協力 せこ三平)
☆スタッフ日記ブログでもレポートしてます
http://cinemajournal.seesaa.net/article/454121327.html
いつも数日間しか滞在できないヤマガタ、今回も3日間だけの滞在になった。いつか全日程に参加してドキュメンタリーの日々を送りたい。あとボランティアもしてみたいなあ。
☆twitterでも映画祭のこと呟いてます
https://twitter.com/chierinsunshine
☆映画祭の画像はinstagramにも投稿してます
https://www.instagram.com/chie_yamamura/
2017年8月に、5泊6日で中国(北京・上海・杭州)を訪れた。いつもはビンボー個人旅行だが、今回はなんと中国外交部(日本でいう外務省)の組織「中国人民外交学会」(中国最大のシンクタンク)のご招待旅行。日中国交正常化45周年を記念して、「東海日中関係学会」のメンバー7人が招待され、そこになぜかワタクシめが紛れ込んだというわけ。そのおかげで普段会えないような人に会い、見られないような場所にも行き、中国の変化…いや、激変を目の当たりにすることができた。
私は2007年~2008年の1年間北京に住み、その後7年前、3年前と中国を訪問し、「チャイナ・なう」というラジオ番組のパーソナリティー(取材・構成)もやっている。自分ではそれなりに中国の近況を捉えているつもりだったが、今回の旅行でその「自信」が見事にひっくり返ってしまった。「中国は3ヶ月行かなければ別の国」と言われるが、想像をはるかに超える変化にボーゼン。「なになにこの進み方!中国はもうとっくに、日本の先を行く近未来ライフスタイルに移行してるじゃん!」
変化その①スマホによるオンライン決済サービスの拡大。実生活の支払いは殆どスマホでできる・・・というより、現金は嫌がられる。若い中国人の多くは財布を持っていない。屋台で飲食しても、そこに張り付けられているQRコードにスマホをかざすだけ。中国の銀行に口座がない旅行者は、スマホで決済できず苦労する。
②スマホを使ったサービスの拡大。スマホが決済機能を持つので、シェアバイク(自転車のレンタル)に象徴される「現地調達」が可能(専用のアプリをダウンロードすれば、GPS機能でどこに自転車があるかわかる。使った後は乗り捨てできる)
③買い物は通販(オンラインショッピング)が爆発的に拡大している。今年の利用者は5億人以上。百貨店や~城という大規模商店がどんどんつぶれている。
④顔認識技術を導入した「無人コンビニ」のようなサービスが試行されている。などなど。浙江省で巨大ネット企業の「阿里巴巴(アリババ)」の見学をしたが、あらゆるものがショッピングの対象になり、荷物の積み込みは自動化され、中国の道路網に問題があってもドローンでの配送実現化が近いという状況を聞いた。説明役の若いスタッフ(高学歴)は自信にあふれ、これからの中国の発展をミジンも疑っていない様子が印象的だった。
映画の原稿のはずなのに、長々と今の中国の状況を書いてごめんなさい。こんな中国の発展に驚きつつも、「やはり物事には、必ず光と影があるのではないだろうか。この驚異的な変化の陰には、きっと隠された、切り捨てられた何かがあるはず」という思いがあって、それを知るにはドキュメンタリー映画が一番だと思った。「中国政府からは警戒され、取締りの対象になり、国内では上映の機会がほとんどない」という中国(および中国語圏)のドキュメンタリー映画に「山形国際ドキュメンタリー映画祭」で触れて、「光と影」の両方を知りたい・・・という気持ちが強くなった。それで今回の自分のテーマは『山形国際ドキュメンタリー映画祭・中国映画特集』ということに。
「山形ドキュメンタリー映画祭」で観た中国関連映画は8本。
中国関連映画全部ではないが、かなりの作品をカバーでき、監督のトークを聞くことが出来て、中国の抱える問題の「影」をおぼろげながら知ることができたように思う。
2014年8月、第11回北京インディペンデント映画祭(北京独立映像展)の開催直前、映画祭は当局によって強制的に中止させられた。会場の北京郊外、栄荘では、村民と称する私服警官の妨害、映画祭事務局の家宅捜索、スタッフを警察に呼んでの事情聴取、DVDや資料の押収など緊迫した状況が続く。到着していた多くのゲスト、観客、ボランティアスタッフなどがカメラだけでなくスマホ等を使って現場で妨害を受けながら撮影を続け、映画はその「映像の切れ端」を丹念に集めて保存し、編集して作られた。
北京独立映像展は、中国でも数少ない重要な民間のインディペンデント映画祭。2006年からスタートし、最初は順調に開催されていたが、2011年から中止の圧力が強まり、2014年からは上映が出来なくなった。中国の民間映画祭は立て続けに中止という目に遭っていて、この映画祭が中止に追い込まれたことで、民間の映画祭はほとんど消えたに等しい状況だという。
上映のあと、中国人監督5人が集まってトークが行われた。どの監督も「この映画祭(北京独立映像展のこと)で上映されることを期待して映画を作ってきた」「わたしたちのような映画が中国で上映される唯一の機会だった」「こうした映画祭が無くなったことで、『どうせ誰も見てくれない』と、作る意欲が減退した」「作り続けて行くとしても、監督と観客の交流の場がなくなったことは淋しい」など、口々に強制的に中止に追い込まれたドキュメンタリー映画祭を惜しんでいた。表立った政府批判はしなかったものの、自由な発表の場が政府によって潰され、「表現の自由」が奪われたことへの怒りと悲しみが、言葉の端々に滲んでいた。
ドキュメンタリー映画にはその国の権力者が隠したいこと、矛盾点、追及されてはまずいこと(まさに影の部分)が描かれ、その分圧力を受けやすくなる。その典型がこの「北京独立映像展」だ。
習近平主席は「一党独裁+資本主義経済」という体制を取りつつ、体制や政策に批判的だったり抗議するような人々に対しては弾圧をためらわない。
よその国がどんな政治体制を取ろうと、基本的には他国は口をはさむべきではないと思う。しかしその体制の中で人権や表現の自由など、人間が等しく持っているはずの権利が侵害されているなら、他国のことであろうとそれに対して抗議するとか、表現者を支援するとかの何らかのことは必要ではないだろうか。特に、私たちにもかかわりの深い「映画」というジャンルの人々が、自由に作品を発表できない状況を見過ごしていいのだろうか…そんなことを考えさせられ、胸が痛んだ。
長江の河口、上海から南京、武漢、三峡ダム、重慶を経て長江上流の宜賓(イーピン)までさかのぼる貨物船。監督はその船の上にカメラを据え、固定撮影をしながら気になる地点では下船してその土地の人々を撮る。そこに現れたのは、河の両岸に広がるゆがんだ中国の発展だった・・・
監督の目に映るのは中国の経済発展から取り残されたような人々だ。ゴミ捨て場で食べ物を漁る人、今にも壊れそうな家に住む家族、川は三峡ダムを境にして水の色がハッキリ変わるほど、藻の繁茂と汚泥で汚染されている。重慶では、橋の下に住むホームレスが肩を寄せ合うようにして暮らしているが、その向こう岸は高層ビルが立ち並び、不夜城のように煌々と灯りがともる。これほどはっきりした「格差」の構図はちょっとないだろう。
シュー監督は大柄で坊主頭、ちょっとコワモテ風の男性。「中国の下層階級や中国社会の周縁に押しやられた人々を描くのが使命」と、熱く語った。監督は長江に近い場所で生まれ育ち、泳いで遊んだりして川に馴染みが深いそう。それが政府によって「死に向かう川」にされていることへの怒りが伝わった。
長江はなぜ「死に向かう川」なのか?その理由は①環境汚染による水質の悪化②三峡ダムの崩落などによる変化③人々が川に親しみを覚えなくなり愛さなくなった…という3点だという。そしてこの映画を「風景や環境の映画ではなく、政治の映画としてみてほしい」と語っていた。その通り、環境破壊や格差の広がりなど、まさにすべてが政治的課題。
日本でも格差の拡大は大きな問題になっているし、「貧困率」、中でも子供の貧困率が高まっていることにも危機をおぼえる。しかしこの映画に見る中国の格差は「無限大」だ。どの国でも発展の仕方は、時に跛行するとは言え、切り捨てられたもの(人、環境、文化…)への目配りや怒りを忘れてはいけないという監督の思いがよく伝わってきた。
アジア千波万波 小川伸介賞
『映画のない映画祭』と同じように、「現政権への抗議」や「改革を求める人間」に対して厳しい弾圧で臨むのは、「一国両制」だったはずの香港でも同じ。「香港人による高度な自治」が約束されていたはずの香港なのに、親中派の人間しか行政長官(香港政府のトップ)に選ばれないような選挙制度に反発、誰でもが一票を閉じられる「民主的な普通選挙」の権利を訴えた運動が「雨傘運動」だ(「雨傘革命」ともいう)。学生が中心だったこの運動について、その内部にいた監督が、リアルな映像を20の章に分けて編集したのがこの作品。運動の参加者は、悩みながらも「いまここで声を上げなければ、香港の未来はない」と考えて、道路の占拠活動を続ける。
参加者と警官の対峙や衝突も描かれるが、むしろ参加学生たちの日常生活がリアルに描かれているところが魅力的。父母にデモへ行くことに反対されたり、バイトの合間を縫ってデモに参加する学生や若い労働者。「ほんとにこの活動で選挙制度が変わるのだろうか」と悩みながら、占拠している道路のバリケードの中で勉強したり本を読んだりする女子大生…
「雨傘運動」(「雨傘革命」)とは何だったのか…という疑問が、このドキュメンタリー映画を通じてよく理解できた。そんな歴史を記録する映画を残してくれた監督にお礼が言いたい。
それにしても、彼らが熱望する「自由な普通選挙」が行われているはずの日本で、これほど選挙の人気がない(投票率はたいてい50%前後)のはなぜ?大きな問題だ。
東京・新宿に20年以上住んでいる中国人・李小牧さんは、飲食店や風俗店の客引きをする「歌舞伎町案内人」として有名。雑誌への寄稿も多く、「作家」の肩書も持つ。
李さんは2015年の新宿区議会選挙に出馬しようと決意する。そのため2014年には日本に帰化した。民主党からの立候補と決めて海江田万里党首に会いに行き、前妻に保証人になってもらい(現在の妻は中国人)、選挙の手続きも済ますが、周囲に選挙活動に詳しい人はおらず、ドタバタ選挙戦が始まる。選挙戦のさなか、中国の家族が文化大革命中に受けた迫害や、日中関係のはざまで苦しんだ過去も思い出される。結果は落選だった・・・
李さんが立候補を思い立ったのは「日本人でありさえすれば、どんな仕事についていても、ワタシのように水商売についていた人であっても選挙に立候補することができる。中国では考えられない。そのことに魅力を感じた」という点だという。実際中国では、選挙といっても村長とか地区の代表選挙ぐらいの限られた部分でしか行われておらず、立候補できるのも共産党が指名した人だけ・・・という状況。区議選の結果は落選だったものの、李さんは次の選挙にもチャレンジするそうだ。
ゲストとして登場した李さんは、「選挙を見ると、改めて日本は民主主義国家だと感激する」と語り、「もう1回チャレンジする。前回は1ヶ月しか選挙運動が出来なかったけれど、今度は4年間ある!」と意欲満々だった。若い女性監督(もとNHK記者)、シン・フェイさんとの息もピッタリ。「李さんは編集への口出しは一切しなかったです」「そりゃそうさ、だって言論、出版の自由は守らなくてはならないから(笑)」。
日本の選挙制度には不満を覚えることが多い。2大政党制を目指したという「小選挙区制」は、現在のところ自民党にだけ有利に働く制度だし、「一票の格差」もなかなか解消されない。女性の立場から言うと、世界中ではほぼ常識化している「クオータ制」(割当制。男女それぞれの性が少なくとも4割確保できる選挙制度。この選挙制度を適用することで女性議員を増やす)も実現する様子がないし、世界一高い「選挙供託金」の問題もある。しかしそれでも、民主主義の手続きを踏んだ普通選挙制度は機能している。『乱世備忘―僕らの雨傘運動』や『選挙に出たい』の2本の映画を見ると、そのことを「改めて大事にしなくてはね」と思えた。
若い女性監督が、2014年から14ヶ月の間、中国河北省の出稼ぎ労働者の過程に住み込み、カメラを固定して定点観測のように一家の暮らしを描いた作品。家族は食事をし、話し合い、ケンカをする。ふるさとの農村と都会の借家を往復しながら暮らす家族。1年間で少しずつ変わっていく家族が、中国社会の変化とシンクロする…。説明もインタビューもなく、ほとんど室内だけの撮影で進行する3時間は、見続けるのがなかなか大変だったが、中国の「ごく普通の農村出稼ぎ家族」の実態はよく伝わった。将来、貴重な記録として大切な作品になるのではないだろうか。
インターナショナル・コンペティション部門 優秀賞
引きこもりの状態になった映画監督が、自分の内面を見つめつつカメラを構えて部屋の外に出て行く…
シャー・チン監督は、2003年のこの映画祭で『一緒の時』という作品で小川紳介賞を受賞したという才能ある(らしい)監督。その監督が自分の殻にこもり、窓から他者を観察するだけになるまでには、様々な経緯があったのだろう。カメラを武器にして、監督が少しずつ外に出てくる過程が面白い。それにしても、「実利に一番関心があり、現実的で楽天的」と思われがちな中国人野中にも、こうした哲学的、実存的な悩みを抱えて懊悩する芸術家がいるんだなぁ・・・と知った。いや、これ、ちょっと偏見ですね。ごめんなさい。
中国河南省で、障害を視力や聴力に持つ子どもたち300人が通う「特別支援学校」の、教師とそこに暮らす子どもたちを撮り続けた作品。
2011年から6年間、この学校に通い続けたという監督(男女2人)の熱意が素晴らしい。中国でも日本でも、障がい者教育に当たる人は、「無私」の気持がないといい仕事はできない。中心になる聾の女の子、ハンズの指導に当たる教師は、自分の家にこの子を引き取って24時間面倒を見る。その姿が人の心を打つ。障がい者の人生は学校の中だけではなく、むしろそこを出た時から本格的にスタートすることもよくわかる。監督たちは「この映画はまだ途中。この後も撮り続けていきたい」と抱負を語った。
アジア千波万波 特別賞
ミャンマー、カチン州の翡翠採掘場で働く中国系ミャンマー人たち。その中の一人が、この映画を撮ったチャオ監督の兄だ。16年ぶりに兄と会い、翡翠採掘に同行する監督がそこで見たものは、人生の一発逆転を狙って山に入り込む麻薬中毒者や刑務所帰りの人々…またその場所は、政府軍とカチン独立軍との戦争が続く真っただ中だった…
設定からしてドラマティックで、見たことのない翡翠採掘場の光景や、兵隊に機械やスクーターを押収されたりする危機、また、兄に対するアンビバレントな気持ちなど、ドラマ化できそうなほど見どころ満載の作品だった。
「中国の発展ショック」でかなりノボせた私の頭は、今回8本の中国系映画に出会って、すっかり「クールダウン」できた。そこで気づいたのは・・・。
「どの国にも必ず光と影がある。そのどちらかを過剰にあげつらうのではなく、バランスをとりながら冷静に観察し分析していく事が大切」という、まったく平凡な結論だった。そんな心の均衡を取り戻させてくれた「山形国際ドキュメンタリー映画祭」に、改めて感謝したい。
第1回から行ってみたかったけど、なかなか行くことができなかった山形国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)。いつもシネマジャーナルの秋に発行される号の締め切り間際にある映画祭だったので、原稿書きや編集作業に追われ、映画祭に行っている場合ではなく行けなかった。でも、一昨年(2015)、台湾のドキュメンタリーの特集があり、これはなんとしても行かなくてはと行ったのがきっかけで、この映画祭と山形の街にはまってしまった(シネマジャーナル95、96号掲載)。そして、今年はなんと5日から12日までの8日間全部行ってみた。 5日夕方からのオープニングから参加。山形市中央公民館で開催され、山形交響楽団の演奏から始まった。山形交響楽団は1972年に設立された楽団で45年もの歴史がある。素晴らしい演奏を聴くことができた。
そしてYIDFFと縁があり、2017年4月12日に85歳で亡くなった、作家、批評家、研究者としても大きな功績を遺した映像作家・松本俊夫監督を追悼し『西陣』『銀輪』『つぶれかかった右眼のために』の上映があった。
今回、6日から12日までの間に観た作品は15本。日数のわりに観た作品数が少ないのは3時間以上の作品も多く、質疑応答の時間も入れると5時間くらいという作品もいくつかあり、日数の割りには少ないという次第。会場も山形市中央公民館(アズ七日町)、山形市民会館、フォーラム山形、山形美術館の4ヶ所あり離れているので、なるべく移動せず同じ会場で続けて観られるようにしたためたくさんは観ることができなかった。移動時間のことを考えると、もっと若い時にこの映画祭に目覚めればよかったと思う。
*シネマジャーナルHP スタッフ日記記事
山形国際ドキュメンタリー映画祭2017が10月5日に開幕しました
http://cinemajournal.seesaa.net/article/454028538.html
*編集部注 松本俊夫の特集上映「追悼・松本俊夫 ロゴスとカオスのはざまで」が、12月9日から22日まで、東京渋谷のシアター・イメージフォーラムで開催される。
「追悼・松本俊夫 ロゴスとカオスのはざまで」公式HP
http://www.imageforum.co.jp/matsumototoshio/
「追悼・松本俊夫 ロゴスとカオスのはざまで」イメージフォーラムのHP
http://www.imageforum.co.jp/theatre/movies/1205/
今回、現代アフリカをテーマに「アフリカを/から観る」として22作品が上映されたけど3本だけ観ることができた。21世紀はアフリカの世紀、資本主義最後のフロンティアとして熱い視線を注がれてはいるが、革命、原理主義勢力や民族主義者の跳梁、疫病の発生など、混乱がアフリカに暗い影を落としている。そんな、現代アフリカとそこで生きる人々の姿をリアルに描き出す作品などが上映された。
小学生くらいから野生動物への興味があり、アフリカに関心を持っていた。そして、いつかアフリカに行って野性動物を見たいと思っていた。そんな私なので、アフリカの人々に対する欧米の人たちの態度に小学生ながら憤慨していた。私の尊敬する人の中に、野口秀世、シュバイツアー、キング牧師、リンカーンの名前があるが、それは、この頃から培ってきたアフリカの人への思いに繋がっているのかもしれない。
今もアフリカに対する関心があるので、今回3本だけだけど、アフリカを描いた作品を観に行った。
この作品はアンゴラの人たちの独立運動を振り返った作品だった。
1960年代は、植民地だったアフリカの国々が次々と独立した時代。教科書やニュースで知ってはいたけど、その頃、まだ小学生くらいだった私は、具体的に現地の人たちのどのような活動、行動があって、独立が成り立っていったのかということは知らなかった。独立したものの現代も内戦が続いている国もあるし、いろいろな苦難が続いている国も多いのが現状である。
アンゴラはポルトガルの植民地で1975年に独立したが、人々は1961年から14年もの間、独立のために戦った。その前に、市民的不服従の時代があったという(1948年~59年)。しかし、独立を果たしてすぐ1975年から2002年までの27年もの間、内戦が続いた。
ポルトガルの植民地時代からの独立の戦いの様子が、その時代を生き抜いた人々の証言で語られていたが、職場での行動や、町、学生、市民を巻き込んで独立の機運が高まった様子がよくわかった。
他の国も、それぞれ独立に向けていろいろな行動があったことだろうと思わせてくれた。
アフリカ各国の独立運動の歴史について、具体的にどのように戦ったかという話は知らなかったので、当時の様子がわかり、とても貴重な時代の証言を聞くことができた。そして、ヨーロッパ各国の支配が、アフリカをずたずたにしてしまったと実感した。
人類のゆりかごアフリカは、地球の文明、文化発祥の地。アフリカ諸国の歴史の長さを、アフリカからの視点でとらえている。16万年前のホモサピエンスの出現。人類の起源。欧米人はアフリカを支配し貶めたけど、アフリカにふさわしい歴史を残す必要がある。文明化されていない、文化がないと、欧米流の考え方、宗教、生活、服装、建築、行動などを押し付け差別したが、アフリカ人としてのアイデンティティを取り戻す。アフリカにルーツを持つ人々、アフリカ以外の人々も、我々はどこから来たのか、歴史から学ぶ必要がある。歴史とは我々の思い出と語る。
アフリカには鉱物が多く、その権益を求めてヨーロッパから人が入り、さらには奴隷制度により労働力として現地人を支配し、奴隷として何十万もの人がアフリカから連れ出された。その後は植民地化。独立後はヨーロッパの国々が支配したところが国境になってしまった。エチオピアだけが植民地化されなかったらしいが、それでも数年はイタリアに支配されてしまったらしい。
ヨーロッパ人が引いた国境によって分断されてしまったアフリカ。
アフリカの価値観、自分たちの歴史を取り戻したいと語る。
民主主義と独裁軍事政権がせめぎあう中、ナセルは中学生の頃からエジプトの解放を目指す民族運動に関心を寄せ、抗議活動に参加し警察に捕らえられた。1937年頃軍人になったが、イギリスの保護国になっていたエジプトの軍隊の中で不平等と差別を感じ、根深い不平等を根絶すべくエジプトの独立を目指し、自由将校団を結成し1952年に革命を実行し大統領になった。スエズ運河は、スエズ運河会社が利益をイギリスやフランスの株主に分配し、エジプトにはわずかな分配分しかなかったため、1956年、アスワン=ハイダム建設費の財源とするためスエズ運河を国有化。
しかし、イギリス、フランス、イスラエルがエジプトに侵攻する第2次中東戦争(スエズ戦争)が勃発した。イスラエルがシナイ半島を占領し、エジプトは不利な状況になったが、国際世論が非難し、スエズ運河の管理はエジプトに委ねられることになった。
宗教的ではなく、自由で解放的な革命、憲法にのっとった革命を目指したが、独自の社会主義を築こうとして、目的遂行のためには反対勢力の抑圧や追放、言論封殺を行うようになっていった。
しかし、1970年、ナセル大統領は心臓発作により、52歳の若さで急死。
第3世界のリーダー的な役割をしていたナセル大統領のことを覚えている。エジプトは希望の星だった。しかし、イスラエルとの中東戦争は消耗戦のようになっていった。世界が大きく変わる時代を生きた人だったなと、この作品を観て改めて思った。
ミャンマー北部カチン州、政府軍とカチン独立軍との内戦のただ中。この紛争地域にある翡翠鉱山(翡翠城)で一攫千金を狙い翡翠を採掘する監督の兄と仲間たち。兄の翡翠城での暮らしをカメラで追いながら、貧しさの中で生きてきた兄の半生を描き出す。1982年生まれの趙德胤監督は16歳で台湾に移民した中華系ミャンマー人。監督の10歳上の兄は16歳で家を出て翡翠城で採鉱夫をしていたが、アヘン中毒になり薬物法違反でマンダレー刑務所に。出所後、監督は16年ぶりに兄と再会し、翡翠を見つけて金持ちになるという夢を捨てきれない兄と一緒に翡翠城へ行く。
翡翠城は木がまったく生えていない赤茶けた土肌の鉱山で、兄たちは杭とハンマーだけで露天掘りを始めた。良質な翡翠がみつかれば一夜にして大金持ちだが、出なければ借金が残る。
内戦で業者が引き上げた跡を違法採掘しているので、採掘者は警察や軍の目をかいくぐりながら山肌を削る。大枚をはたいて買った削岩機を警官に押収されたり、兵士や警官に追われて急斜面を逃げ下りたりしても採掘を続ける男たち。雨風をしのぐだけの掘っ建て小屋暮らし。バイクをなくすアクシデントも続く。そんな中で、始めはぎこちなかった兄と弟。兄弟の関係が変わっていき、撮るうちに協力的になっていったと監督は話していた。
貧しい暮らしの中で、薬の密輸入に手を出した両親も刑務所へ入ったことがあると言っていたし、別の兄姉たちはタイでの不法就労の経験があるという家庭で、どうして監督だけが台湾に移民することができたのか気になるところ。それとも家族のそういう生活の中での援助が、映画監督への道を開いてくれたのか・・・。
去年、東京フィルメックス2016で上映された作品で一番印象に残ったのが、この趙德胤監督の『マンダレーへの道』(2016)だった。こちらはドキュメンタリーではなくドラマだが、ミャンマーに住む華人がタイへ出稼ぎのため密入国する話。苦労して国境を越えて働きに行き、さらに上を目指していたのに、何をやってもうまくいかない。これでもこれでもかという庶民の悲哀。さらにそういう人たちを騙そうとする人たちも描かれる。タイでの不法就労の経験がある趙德胤監督の兄&姉も、工場の工員長とか従姉役で出演していた。『翡翠之城』もそうだけど、監督の家族や周りの人たちの体験が、この『マンダレーへの道』のような作品を作らせているのだろう。こういう人たちがいるということを知らせたいという使命感のようなものを感じた。
『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』など数々の尖った作品を生み出してきた原一男監督が、23年ぶりに製作した、アスベスト工場の元労働者らが国を相手に起こした訴訟の行く末を記録した215分の長編ドキュメンタリー。明治時代から石綿(アスベスト)産業で栄えた大阪・泉南地域。
アスベストは肺に吸い込むと、長い潜伏期間の末に肺ガンや中皮腫を発症する。アスベスト被害を被った石綿工場の元労働者と家族、近隣住民たちが国を相手に国家賠償請求訴訟を起こした「大阪・泉南アスベスト国賠訴訟」を追った、最高裁判決までの8年半の記録である。
原監督のカメラは「市民の会」の調査などに、日本だけでなく韓国へも同行し、裁判闘争や原告たちの生活に密着。人間模様を記録する。そして、単に裁判闘争を描いただけでなく、被害者をたくさん出してきた差別構造をも映し出す。しかし、一審で勝訴するも国は控訴を繰り返し、長引く裁判は原告たちの身体をむしばみ、原告は次々と亡くなっていった。
上映後、村松昭夫弁護士が「まだ戦っています。アスベスト問題での一番の被害者は建設現場。ここが解決されない限り、日本のアスベスト被害者は救われない。10月27日に東京高裁で初めて建設アスベスト訴訟の判決が出ますが、それまでまだまだ困難な状況は続きます。でも行政に判断させるのではなく、司法で対等に議論すること。そこに、裁判が持っている社会を動かしていく原動力があると思います。いつまで続くか分かりませんが最後までやり続けたい。そして、情報をオープンにした方が、知恵と力が集まると皆さんに言いたい」と力強く語ると、会場から拍手が沸き起こった。
もともと長い映画が好きでない私は、215分!そんなに長い時間必要なの?と思ったけど、力作である。8年以上にも渡る裁判闘争を表すには、このぐらいの時間が必要だった。監督は原告団の人たちを丁寧に追い、石綿の被害を明らかにしていく。
『ニッポン国VS泉南石綿村』は、東京フィルメックスでも上映され、ここでも「観客賞」を受賞した。フィルメックスでの原一男監督のコメントは、こちらで紹介しています。
シネマジャーナルHP 特別記事
第18回(2017)東京フィルメックス授賞式報告
http://www.cinemajournal.net/special/2017/filmex/index.html
*『ニッポン国VS泉南石綿村』は、2018年3月 渋谷のユーロスペース 他全国順次公開されます。
公式HP http://docudocu.jp/ishiwata/
インドのミャンマーとの国境近くの山村、約5,000人が暮らすナガランド州ナガ族の村。急斜面の棚田で農作業をする人々。自給自足の村の協同作業を支えるコール&レスポンス(「呼びかけと応答」の意。音楽での掛け合い)の労作歌(ワークソング)が響きわたる。その歌がとても魅力的だった。歌で語られる言葉の掛け合いのリズムと農作業。15人くらいの男女がムレというグループを作って集団で共同農作業をしている。日常生活でも助け合っている様子も描かれ、彼らをつないでいる歌が流れる。古くから伝わる農作業の歌が多いようだけど、時には即興で歌の掛け合いをしている。
最初少人数の人が田を踏み固め、段々に人が増え、畦を作って、棚田ができる作業の様子がロングショットで描かれていたが、大変な作業なのに、皆、笑いに満ちて働いている。一方で、独立紛争での戦闘や略奪、拷問によって多くの人が亡くなり、家や農地が破壊され、多くの村が焼かれてしまったことが語られ、穏やかな人々の表情の奥には苦い記憶が残る。迷彩服の兵士が村の中を巡回するシーンもあり、のどかばかりではないとわかる。なんとなく、この村の人たちと雲南の人たちがダブって見えたけど、インド人の顔ではなく民族的にはモンゴロイド系の人々だと思うので、侵略されインド領になってしまった歴史があるのかもしれない。
生活にかかせない歌。収穫から脱穀(稲の上を10人くらいの人が、輪になって歌いながら踏む)、籾をシーツのような白い布で包み、山道を背負って運ぶ。たくさんの人がいっせいに仕事をすれば一連の作業も早く終わる。この作業を、それぞれの畑やグループで続けているのだろう。
なんか桃源郷のようなこの村の姿と、歌による協働作業。昔から、このように暮らしてきたであろう人々の姿がとても心地よかった。田畑も、恋も、友情も、喪失も、皆が歌とともにある。歌は村を包み込み、受け継がれていく。
楊超(ヤン・チャオ)監督の『長江図』(日本タイトル『長江 愛の詩』)製作の過程で、楊超監督の誘いでこの撮影の旅に同行し、作ったもう一つの長江ドキュメンタリー。揚子江(長江)を上海から宜賓まで遡っていく過程で出会う人たちを撮っているのだけど、なにもしないでぶらぶらしている老人や、長江の川岸でゴミをあさって歩き、大丈夫?と思えるような汚そうなものを食べているところを延々写したり、ホームレスの老人がバッグにお金(葬式用の紙銭)がたくさん入っているところを見せたりで、何を言いたいのかと思ったし、汚泥にまみれた長江の流れや川岸の姿が映りだされたりで、途中で観るのが辛くなったけど、中国で起きた事件や事故の数、長江での自殺者の数とか、中国の現実を知らせるようなナレーションが入ってきて、ハッとした。川を遡る船の上から監督は移り変わる景色、沿岸に暮らす人の姿を映しながら、中国の現実を映し出しているのだと思った。
橋の下に住むホームレスが、犬も一緒に肩を寄せ合うようにして暮らしているシーンがあり、向こう岸では高層ビルが立ち並んでいて、時代に取り残されたような光景のように見えたけど、そこは重慶で、街中は夜も煌々と明るい。高野さんの項にもあるように、これほどはっきりした「格差」の構図はちょっとない。
徐辛監督は長江のほとりで生まれ、子供の頃から長江で泳いだり遊んだりして、川を見て育ってきたが、今や長江は死にかけている川だという。確かに河口近くの汚い水の流れを見ると、救いようがないのかもとも思う。でも監督は希望を失っていないと言っていた。まさに人間しだいということだろう。高野さんが、貧困や格差のこと、人、環境、文化など、切り捨てられたものに対する目配りや怒りを忘れてはいけないという監督の思いのことなど書いているが、まさに監督はそれを表したかったのだろう。
『長江図』に出演していた俳優たちが、突然叫び声を上げたり(シン・ジーレイ)、川に飛び込んだり(チン・ハン)と狂気を表現するような場面も一瞬出てくるが、これは映画の撮影場面をその場で撮ったものらしい。一見、意味不明なものが並んでいたりするけど、全体を通してみると監督の長江に対する思い、中国に対する思いというものが伝わってくるような気がした。撮影は2011年ごろらしい。今はまた、長江の様子が変わってきていることだろう。果たして良い方に変化しているのか、あるいはもっと環境が悪くなっているのか知りたいところである。
*楊超(ヤン・チャオ)監督の『長江図』は『長江 愛の詩』という日本タイトルで、2018年2月17日からシネマート新宿、YEBIS GARDEN CINEMA他にて全国順次公開!される。
公式HP http://cyoukou-ainouta.jp/
武漢のある出稼ぎ労働者家庭における食卓風景を13の章立てで描き出す180分。寝室、居間、ダイニングを兼ねた狭い一室にカメラを置き、3世代5人の家族(夫婦と子供二人、夫の母親)の食事風景を1年に渡って記録。故郷にある家と出稼ぎのために借りている武漢の家。その二つの家を行ったり来たりしながら暮らす一家。会話の中から、彼らが直面している様々な問題を知り、経済成長著しい中国社会の中で、都市と地方の格差や、都市化の波、中国社会の変化がかいま見える。
しかし、登場人物がカメラを意識していないように見えたのは悪くないけど、長廻しの定点カメラの前の食事中の光景は、家族間の歯に衣着せぬ会話が展開する。
そういうシーンが延々続き、途中で私は「こんな映像を観たくない」と苛立ちはじめた。というのは、私の家は4人姉妹で、私の家でも子供の頃、食卓がうるさかったので、それを思いだすとうんざりするからだった。しかも、妹の家族と一緒に食事を取ると、今も、こういうバトルがあり、それがいやで、なるべく妹の家で食事をしないようにしている私としては、イライラするのも当然である。だから「一人の食事は寂しい」などという言葉を聞くと、私は「そんなことはない。自分のスタイルで好きなように食べられる」と反発する。もちろん興味ある会話がある食事は楽しいけど、一人が寂しいなんて思ったことはない。
脳卒中で動きにくくなった義母がゆっくり行動する時に、「何をのろのろしているのよ!」と嫁が罵声を浴びせるシーンが出てきた時には驚いてしまった。「そんな!」と思い、この人は脳卒中のことを全然わかってないひどいなと思った。そして、どうして監督はこんなシーンを出すのかな?とも思った。しかし、ずっと我慢して観ていると(笑)、1年たった時、家族の変化と共に、中国の社会の状況が伝わってきて貴重な記録かもと思った。
監督の前作『空想の森』(2008)。この『空想の森』の自主上映で日本全国を回った田代監督は、この上映活動を通じていろいろな人と知り合った。
2011年3月11日の東日本大震災が起こった後、『空想の森』の上映などで知り合った人たちがどうしているかが気になり、この日をきっかけに、今を記録しようと2011年に風の映画舎を立ち上げ、撮影を始めたという。話を聞かせてもらった方120人、2年に渡って暮らしを撮らせてもらった家族6組。この映画は、その中の3家族の物語。
北海道大沼で山を開梱してヤギと牛を放牧し、チーズを作って暮らす山田農場の山田一家。洞爺湖で廃材を使って古い家を直し、パン屋と古物屋をして暮らす今野家、対岸の青森県大間町で漁師をして暮らす、山本家と大間原発の反対運動をする元郵便局員。この3家族の震災後からの2年間に寄り添った2011年4月からの記録。山田農場では牛や山羊の飼育や搾乳、子牛の出産、子供の誕生などが映し出され、パン屋ラムヤートでは、パン作りや主人の大工仕事(家作り)などが描かれる。
山田家も今野家も、大間原発には反対の立場で裁判に出て証言をし、大間では最後まで土地を売らずに原発反対の立場を貫き亡くなった方がいたり、元郵便局員や漁師一家は実際に運動の様子なども語るが、原発反対運動を描いた作品ではない。そういう思いを持ちながら、地域に密着して生きる人々の営みを描く。こういう人たちのネットワークが描かれ心強く思う。
それはやはり「空想の森」と「新得」が作った縁なのではないだろうか。
実は田代監督とは『空想の森』で知り合った。また田代監督が「映画との出会いを作ってくれた方で、現場で教えてくれた人です」と語る藤本幸久監督の作品は、私の人生にも大きな影響を与えている。
田代陽子さんは1996年に北海道の新得町で開催された第1回SHINTOKU空想の森映画祭で、初めてドキュメンタリー映画と出会い、ドキュメンタリー映画の面白さに目覚め、SHINTOKU空想の森映画祭の事務局として7年映画祭を切り盛りしていた。
そして、映画祭の実行委員長だった藤本幸久監督(森の映画社)の元でドキュメンタリー映画の製作に携わるようになった。『森と水のゆめ ~大雪・トムラウシ~』(1999年/藤本幸久監督)で助監督として映画製作の現場を初めて経験し、『闇を掘る』(2001年/藤本幸久監督)では、編集・仕上げ作業、興業を経験、映画ができるまでの全ての工程の経験を積む。2002年、藤本監督のプロデュースで自身の初監督作品『空想の森』の製作を開始し2008年に完成させた。これは新得町で農業をして暮らす自分の一番身近な人たちの日常を描いた作品だった。
*藤本幸久監督 『教えられなかった戦争-侵略・マレー半島』(シネマジャーナル23号1992年発行で紹介)『闇を掘る』『アメリカ-戦争する国の人びと』『ラブ沖縄@辺野古 @高江』『笹の墓標』『高江ー森が泣いている』など。シネマジャーナル94号で特集を組み、藤本幸久監督&影山あさ子監督作品紹介と影山あさ子監督インタビューを掲載している。
2006年から10回開催された北京独立映像展は、中国インディペンデント映画の貴重な上映の場だったが、当局からの規制は年々強化され、2014年ついに映像展は完全閉鎖を余儀なくされた。
2014年8月、宋荘の北京インディペンデント映画祭(北京独立映像展)が開催前日、当局によって閉鎖され、中止に追い込まれたのだ。さらにこの北京独立映像展生みの親である美術評論家・栗憲庭(リ・シェンティン)と栗憲庭電影基金アートディレクターの王宏偉(ワン・ホンウェイ)が当局に拘束され、映画祭はできなくなってしまった。そして、この映画祭に集まった監督や観客などがスマホなどで撮影した映像を集め、王我監督が事の顛末を記録した映画を作った。当局や村民と称する人たちが、妨害する様子、観客や来客、監督たちが抗議する様子、二人を連れていく警官たちも映し出され、とてもエキサイティングな作品になっていた。「スマホの映像を集めて映画ができるんだ」と今回の映画祭で一番印象に残った。
1990年、中国で初めて個人が製作したインディペンデント作品が誕生した。それは呉文光(ウー・ウェングァン)監督の『流浪北京』(1990)。北京のボヘミアン・アーティストたちを捉えたものだった。この作品は1991年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映され、呉文光監督は18年後の2009年、審査員として山形に帰ってきた。
2000年代はデジタル化が進み、多くのアーティストがドキュメンタリー製作に参入するようになり、2006年には美術評論家の栗憲庭(リ・シェンティン)が北京郊外の宋荘に中国初のインディペンデント映画基金を設立し、北京独立映像展が誕生した。宋荘は中国最大のアーティスト・コロニーで、たくさんのアーティストが住んでいるという。ちなみに今回『カーロ・ミオ・ベン(愛しき人よ)』が上映された蘇青(スー・チン)監督、米娜(ミー・ナ)監督がやっているという「米娜餐庁」はオーガニック素材を使ったレストランだそう。栗憲庭が館長を務める「宋荘美術館」(=北京独立映像展会場)のすぐそばにあり、映画祭期間中は観客や監督、ゲストがよく訪れていたと語っていた。山形における香味庵みたいな場所とも言っていた。
栗憲庭と共に警察に連れていかれた栗憲庭電影基金アートディレクターの王宏偉/ワン・ホンウェイは賈樟柯/ジャ・ジャンクー監督のほとんどの作品に出演している俳優でもあるが、2013年にポレポレ東中野で行われた「中国インディペンデント映画祭」のゲストで来場し、当局による妨害の話をしていたけど、まさか次の年に逮捕されてしまっていたとは…。
小学生の頃、アフリカのことに興味を持った私にとって、人種差別の問題は最初に認識した社会問題だった。中学生や高校生の頃にアフリカ系アメリカ人の作家ジェームズ・ボールドウィンの名を知り、著書「山にのぼりて告げよ」「白人へのブルース」などを読んだ記憶はあるのだけど、なにせ50年近くも前なので、内容までは覚えていない。
そして、このドキュメンタリーは、そのジェームズ・ボールドウィンの未完の原稿「Remember This House」を元に描いた作品ということで観ることにした。暗殺された3人の公民権運動の活動家メドガー・エヴェース(1963年)、マルコムX(1965年)、マーティン・ルーサー・キング(1968年)の軌跡を通して、アフリカ系アメリカ人の激動の現代史が語られる。この3人のうち、メドガー・エヴェースという人の名前は聞いたことがない。あるいは忘れてしまったのか。3人とも暗殺されてしまったのだけど、キング牧師とかマルコムXは、今も語られることがあるけど、メドガー・エヴェースという人は忘れ去られてしまったのかもしれない。
ボールドウィンの講演や、テレビでの発言などのアーカイブ映像を軸に、あの頃の映画や音楽の記録映像を交えながら、公民権運動が盛り上がった時代が映し出される。その後、黒人たちは公民権を手にしたものの、差別の本質は今も変わっていないことが浮き彫りにされる。
ハイチ出身のラウル・ペック監督が長い間、温めてきた企画で、ナレーションはサミュエル・L・ジャクソンが務めている。
南北戦争は1865年に終わり、奴隷制度はなくなり、黒人には自由が与えられたというけど、それから100年たった1960年代でも、人種差別は大きかった。そして、今でも黒人に対する差別や偏見はある。それでも50年以上前に、ボールドウィンのような白人に物申す黒人がいたから、今があると思う。
今回、少しでも安く行きたいと夜行バスで行くことにして、10月4日の夜出発。夜行バスは、昔、スキーに行く時よく使っていたけど、最近は夜行バスに乗ることなんてほとんどなかった。ドライブインに寄って、何か買ったり、帰りの土産を買うためにその地方の特産品の品定めなども楽しみだったのに、なんと休憩所に寄ってもトイレは中にあるからと、乗客は降りることができなかった。なんで夜行バスは途中で降りることができなくなってしまったんだろう。楽しみだったのに。それはないなと思って、帰りは新幹線に。
10月5日早朝に着いたので、紅葉見学に蔵王に行ったのだけど、この日は寒くて、なんと霧氷を見ることができた。 そして、今回、高野さんからお誘いがあり、山形のお酒「十四代」の飲み比べができる店へ行き、初めて「十四代」を飲むことができた。味に深みがあって、こんなに喉越しも良いお酒を飲んだのは初めて。東京に帰ってからも探してみたけど、私が行くような店には置いてないですね。また、次回山形に行った時にぜひ飲んでみたい。
今回は、山形市中央公民館(アズ七日町)、山形市民会館、フォーラム山形、山形美術館全部に行ったけど、映画の時間に間に合わせるため、けっこう大変だった。時間に間に合わないので、タクシーも利用したけど、やっぱりもっと若いときに山形に目覚めればよかったと後悔しきり。でも次回もぜひ行ってみたい。次回は、この4ヶ所に歩いていけるところに泊まれるよう宿泊場所を考えたい。まだ、22時から始まる香味庵には行ってないので、ここが終わって帰れる宿を確保して、行ってみたい。(笑)
いつも2年に1回の世界に誇れる映画祭を心から楽しみにしている。常宿の方も近くの果物屋や居酒屋も「変わりなく」迎えてくれた。「映画祭が始まったから、もうすぐお見えになるって言っていたところなんです」と言ってくれた。 しかし「変わった」点もあった。街を歩いて見ると少し暗さを感じた。目印のコンビニが閉店したからだろうか・・・。
作品においても作品自体はとても素晴らしいのだが、監督さんの「言葉」に疑問を感じたのが2作品あった。これは他の映画祭では感じなかったことなので、特記したい。
経済成長が著しいインドの巨大な紡績工場。工事内部は大きな機械が並んでいて機械を操作する出稼ぎ労働者たちの姿を映し撮っている。
監督さんは祖父が紡績工場を所有していた家柄で、カリフォルニア芸術大学で映像技術を学んだ方。黙々と働く人々とは当然、身分の違う方。監督自身も「私がホテルで飲むワインの値段は、運んで来たボーイの1ヶ月分の給料」と言っていた。撮影した工場は祖父のものだから、監督さんなら踏み込めない場所ではない。しかし労働者たちはそんなことなど知らないらしい。
最後に労働者たちは「俺たちを撮ってどうする?上にかけあって12時間労働を8時間にしてくれるよう言ってくれ、言ってくれるなら俺たちはなんでも協力する」と口々に懇願されてドキュメンタリーは終わっていた。その終わり方は悪くないし監督に向けられた願いが簡単に叶うとも思わない。だけど監督さんはトークでこう言ったのだ。「皆さんが最後のシーンを見て、何をしたらいいのかを考えてほしい」と言ったのだ。まあ、通訳を介してだから本当にこう言ったのかはわからないが、最後の労働者の願いを聞いて「どうすることも出来んよ。監督さんこそ出来ることたくさんあると思うが……」とだんだん腹が立って来た。
作品は、撮影技術といい、照明といい、音声音響の整音がしっかりしていて、中国のワン・ビン監督の『鉄西区』(2003)を彷彿とさせる瞬間もあった。
イランにある少女たちの更正施設は高い塀と鉄の門の中にある。彼女たちは窃盗、麻薬、殺人などの罪を犯してここに入って来た。そこでは自分たちの苦労をお互いに理解しあって暮らしている。時には笑ったり、踊ったりと楽しいひと時もあった。
メヘルダード・オスコウイ監督さんは彼女たち一人ひとりと対話をしていた。家庭内の事情は非常に辛いもので、「将来の夢は ?」と聞くと、即座に「死ぬこと」と言う子もいた。この施設が「天国」で家には帰りたくないと言い切っていた女の子がたくさんいた。
家庭内の性暴力、麻薬の常習の両親、そのせいで自身も麻薬に溺れた子、車の窃盗、売春を強要されていた父親を殺してしまった子、罪はとても大きいがそうしなければ生きていけなかったことも理解できた。出てくる女の子たちはいっぱい悩みを抱えているはずなのに、とても魅力的で瞳がキラキラしていた。
上映後のトークの時、監督さんは通訳をまじえてよどみなくお話された。それまでに少年院や刑務所のドキュメンタリーを撮っていたが、少女の施設にカメラを入れるまでには、申請から2年かかったと話してくれた。撮る条件には撮影後は絶対個人的に接触しないことが含まれていた。
そして申請がおりてから撮影に入る前に「若い男子学生を彼女たちの中に入って貰って、男性と話ししやすい環境にした」と言ったのだ。この言葉を聞いたとき「女性監督が撮ったならどうだったのだろう?」と感じた。年頃の娘さん(皆、とても美しい)に若い青年・・・これに引っかかった。きっと初回上映だから審査員が聞いていると思う。特殊な状況下のドキュメンタリーだったので興味深い内容だったが、この発言がマイナスになったのではないかと一人、気を揉んだ。
最後にロバート&フランシス・フラハティ賞(大賞)を受賞した『オラとニコデムの家』の感想を。
ポーランドのセロックに住む家族。酒飲みの父親と自閉症の13歳の弟、母親は離れて暮らしていて、日頃の家事などはぜんぶ14歳の少女オラの役目。もうすぐ弟の聖餐式で聖書の問答集を暗記させるなど、オラは毎日文句を言いながらもお母さんの役目をしている。たまに友達と遊ぶのにも家事をやってから父親の許可をもらうオラだった。元のように母親も一緒に暮らせるのはいつになるのだろうか……。
酒飲みで働かない父親、母親は男を作って出て行き、その男の赤ん坊を産んだがあまり上手くいっていない(と、想像した)。そして落ち着きのない弟……こんな家庭がオラの肩にズシンとかかっている。どうも生活保護を受けているらしく、調査員が父親を酒場の入り口で見たというと、たまたまそこにいただけで入っていないとのらりくらり。今も酒が入っているねと問われても、飲んでいないとうそぶく。どうしょうもない親父だ。
弟の聖餐式に現れた母親は赤ん坊を抱っこして平然としている。それにこの家に帰って来たい様子で娘に相談している。娘のオラには口を聞くが弟には見向きもしない。弟は学校に行ってるが問題児。家ではパソコンに夢中で、それ以外はみんなお姉さんまかせ。靴ひもも結べない。書いててうんざりしてくる。こんな両親ならいらない!と大声で叫びたかった。オラが美人で賢いのが唯一、希望の種だが、いい方向に伸びていってほしいと願うばかりだ。
それにしても「カメラ」があっての「家庭劇」みたいなドキュメンタリー。よほど空気の存在ほどに「いるのが当然」の監督力に脱帽する。
http://mikki-eigazanmai.seesaa.net/archives/20171006-1.html
『また一年』『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』
http://mikki-eigazanmai.seesaa.net/archives/20171007-1.html
『パシフィックあるいは満ち足りた人々』『オラとニコデムの家(聖餐式)』
http://mikki-eigazanmai.seesaa.net/archives/20171008-1.html
『カラブリア』『ニッポン国VS泉南石綿村』
http://mikki-eigazanmai.seesaa.net/archives/20171009-1.html
『夜明けの夢』『航跡(スービック海軍基地)』
http://mikki-eigazanmai.seesaa.net/archives/20171010-1.html
『隠された心臓』『機械』
http://mikki-eigazanmai.seesaa.net/archives/20171011-1.html
『このささいな父の存在』『ドンキー・ホーテ』