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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『ローマ法王になる日まで』
ダニエーレ・ルケッティ監督インタビュー

現ローマ法王フランシスコの半生を描いた物語 『ローマ法王になる日まで』。
日本での公開を前に来日したダニエーレ・ルケッティ監督に、3誌合同でお話を伺いました。



『ローマ法王になる日まで』

原題:Chiamatemi Francesco - ll papa della gente
監督・原案・脚本:ダニエーレ・ルケッティ
主演:ロドリゴ・デ・ラ・セルナ、セルヒオ・エルナンデス、ムリエル・サンタ・アナ、メルセデス・モラーン

2013年3月、第266代ローマ法王に就任したホルヘ・マリオ・ベルゴリオは、イタリア移民2世のアルゼンチン人。266代にして、史上初のアメリカ大陸出身のローマ法王。

コンクラーべ(教皇選挙)のためにバチカンを訪れたベルゴリオ枢機卿は、自身の半生を振り返る。
1960年、ブエノスアイレス。大学で化学を学んでいたベルゴリオは、神に仕えることが自分の道と確信し、イエズス会に入会する。35歳の若さでアルゼンチン管区長に任命される。時は、ビデラ大統領による軍事独裁政権。多くの市民が反政府として捕らえられ、謎の失踪を遂げる。ベルゴリオのもとに、家族が行方不明になった一般市民や彼らを支援する神父たちが相談に訪れるが、神学校にも軍のスパイの神父がいて、安全な場ではなかった。ベルゴリオは行方不明者の家族の訴えに耳を傾けるオリベイラ判事に助言を求めるが、彼女も軍に目を付けられて、職場を追われる。恩師エステルの妊娠中の娘も失踪したと知り、ベルゴリオはたった一人でビデラ大統領官邸を訪れる。やがて、行方不明者家族の会のメンバーとして活動していたエステルと友人たちも、密告により逮捕されてしまう・・・

2015年/イタリア/スペイン語、イタリア語、ドイツ語/カラー/113分/2.39:1/ドルビーデジタル
配給:シンカ/ミモザフィルムズ
後援:駐日バチカン市国ローマ法王庁/在日アルゼンチン共和国大使館/イタリア大使館/イタリア文化会館/セルバンデス文化センター東京
推薦:カトリック中央協議会広報
(c)TAODUE SRL 2015
公式サイト:http://roma-houou.jp/

★2017年6月3日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー



ダニエーレ・ルケッティ監督


プロフィール

1960年7月26日、イタリア・ローマ生まれ。
父は彫刻家。学生時代は文学と美術史を学ぶ。友人のナンニ・モレッティが監督した『僕のビアンカ』(83)にエキストラ出演後、同監督のベルリン国際映画祭審査員グランプリ受賞作『ジュリオの当惑』(85)では助監督をつとめる。

自動車メーカーのスズキやフィアット、チーズブランドのガルバーニなどのCM制作を経て、オムニバス映画『Juke Box』(85)に参加。3年後、まだ映画デビュー間もないマルゲリータ・ブイを起用した長編デビュー作『イタリア不思議旅』(88)でイタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の最優秀新人監督賞を受賞。

ナンニ・モレッティを主役の一人に起用した、長編3作目『Il portaborse』(91)では、ドナテッロ賞の最優秀脚本賞受賞。

『マイ・ブラザー』(07・第20回東京国際映画祭ワールド・シネマ部門にて上映)で第60回カンヌ映画祭<ある視点>部門ノミネート。

『我らの生活』(10)で第63回カンヌ国際映画祭コンペティション部門ノミネート、主演エリオ・ジェルマーノが男優賞受賞。ドナテッロ賞では監督賞など3部門受賞。ルケッティの代表作となる。

他に東京国際映画祭で上映された監督の自伝的作品『ハッピー・イヤーズ』(13)など、コンスタントに作品を発表しているイタリアの名匠である。 (公式サイトより抜粋)


◎インタビュー

◆アルゼンチンの独裁政権時代を語れることに興味を持った

― プロデューサーから企画をいただいて、どういうところに一番興味を惹かれましたか?

監督:若い頃、自分が政治的に熱心に活動していて、16歳の時、サン・ピエトロ広場で当時のアルゼンチンのビデラ大統領の独裁政権に対するデモに参加したことがあります。この映画で70年代のアルゼンチンの独裁政治について語れることに興味を持ちました。また、自分はカトリック教徒じゃないけれど、法王がカトリックじゃない人間にも感銘を受けさせる人物であることにも興味を持ちました。

― 監督が16歳の時に当時の独裁政治に対して運動されたとのこと。あの時代、中南米全体あちこちで軍政が行われていました。アルゼンチンで取材された時に、この作品を作り上げていく上で、どんな方と出会いましたか? そこから発見されたことは、どんなことがありますか?


ダニエーレ・ルケッティ監督 撮影:景山咲子

監督:取材をしていて、あらゆるタイプの情報と出会いました。彼を嫌っている人も多くて、イエズス会やカトリック教徒の中にも独裁と結託していたとか、権力主義者だったとか、彼の通ってきた道には死体が並んでいたとか言う人がいると思えば、6歳の時から法王になるべき風格があったという人もいました。都合のいい話もする人もいて、信憑性のある描き方をするために間を取らなければなりませんでした。いろんな情報を捨てて再構築しなくてはなりませんでした。真実を語るために嘘もつかなければならないこともありました。でも、非常に驚いたのは、彼に対してネガティブなことをいう人が暴力的な言葉を使っていて、最終的にはそういう人の方が嘘をついていたということでした。
拷問を受けた神父二人に関しては、一人は亡くなっていましたし、もう一人の方には話を聞けませんでした。ベルゴリオのせいで拷問を受けたという人もいたのですが、そうではないことを証明してくれた人がいました。
オリベイラ判事に関しては、本人は亡くなっていますが、娘さんに会うことができて、いろいろと教えてもらうことができました。
ベルゴリオは友達も多くて、そういう彼と非常に近い人たちにも会うことができました。彼らがベルゴリオを知った頃にはまだ小さかったのですが、いろんな事実を直接見聞きしいて、とてもよく知っていました。
アルゼンチンでは、今も独裁政権のことは全く終わったことではなくて、共産主義から守ってくれたという好意的な人も、いまだにいます。アルゼンチンは理解するのに難しい状況があって、移民や難民の受け入れに関しても、いろんな意見があります。町の中に、もう一つ町があるような感じで、非常に貧しい地区もあって、麻薬や犯罪の温床になっていて、娼婦もいたりして悲惨な状態になっています。知識人や社会的見識を持った人も、貧民地区はなくしてしまいたいと思っても、何もしなくて、ほんとうにどうにかしなくてはと考えるのは教会だけです。



©TAODUE SRL 2015

◆法王には確認取れないままに完成するも、バチカンで7千人招いての上映会を開いてくださった

― アルゼンチンの軍事独裁政権の過酷な時代を経てきたことが、法王フランシスコの弱者への温かい眼差しを作ったことをずっしり感じさせてくれる映画でした。
法王ご本人には取材せずに作られたとのこと、法王ご自身は完成した映画をご覧になったのでしょうか?

監督:ちょっとした秘話があります。脚本を書いた段階でも、撮影中にも、何度かお会いしたいと試みました。脚本に間違いはないか、こんな部分は描いてほしくないかとか、お聞きしたかったのです。最終的にはプロデューサーが手紙を渡そうと、バチカンの衛兵のところにも行ったけど、なしのつぶてでした。映画を撮り終わった頃に、法王に一番近い秘書から電話があって観たいと言われました。もう撮り終わっていたので、変えることは出来なくて、そのまま側近の方に観ていただいたのですが、黙って最後まで観てくださって、これは真実に近いとおっしゃってくれました。バチカンで上映したいと、聖職者や貧しい人など7千人を招いて上映会も開いてくださいました。法王ご本人はその時にはいらっしゃらなかったのですが、翌日、DVDを欲しいと言われ、お渡ししました。

― 文句は言われなかったのですね。

監督:何も言ってこなかったのですが、ある種、それがバチカンの教会のやり方です。バチカンについての映画は、これまでスキャンダルのようなものの時も、沈黙を貫いてきて、それが一番政治的に安心だということだと思います。今や、火あぶりにすることなど出来ないですから。



©TAODUE SRL 2015

◆演じる役者は似ていなくても、本人を思い起こさせてくれればいい

― 取材を重ねて脚本を作られて、実際に撮影する時にはどんな演出をされたのでしょうか?

監督:撮る側も役者自身もカトリックではありませんでした。若い時のベルゴリオを演じたロドリゴ・デ・ラ・セルナさんはアルゼンチンのスター俳優で、これまで前衛的な役も演じてきた人だけど、今回は保守的な人物を演じなくてはならない。それは脚本を読むことで解決できました。ベルゴリオは曖昧な時期を生きてきて、つかみきれないところがあります。役者は言葉だけでなく、言葉以外の表現もするのですが、今回、特にそれが大きかったと思います。
役者二人共ベルゴリオに似てないし、役者二人もお互い全然似てない。似なければいけないわけじゃなくて、人物を思い出させなくてはいけない。一瞬思い出させる、それが大事。観客は、観ていて、その中に似ているところを探そうとします。それで役者二人は納得したようなところがあります。イタリアで公開された時に、ある有名な雑誌が、役者二人とベルゴリオの若い時、今の法王を並べて、そっくりと出しました。(笑)


◆法王と同じブエノスアイレス、フローレス地区出身の役者を起用

― 役者にイタリア系の人を起用することも考えたのでしょうか?

監督:プロデューサーはイタリア人の役者も考えたようですが、ベルゴリオは若いころはイタリア語をしゃべっていませんでした。ブエノスアイレスのフローレスという地区の出身で、そこでは、ポルテーニョというその地区の言葉をしゃべっています。ブエノスアイレスの中でも独特の言葉です。 フローレスはもともと裕福な人の住む地区だったのですが、貧しくて、仕事をすることで一代でお金を得て中流階級になった人も住む地区です。若い頃のベルゴリオを演じたロドリゴ・デ・ラ・セルナも、同じ地区の生まれで、言葉の面では最適でした。

― 法王がイタリア移民の二世であることが、イタリア人である監督やプロデューサーのヴァルセッキさんにとっては、半生を描きたいという動機にもなったのでしょうか?

監督:彼がイタリア系なのがどれほど重要かはわかりません。ベルゴリオ自身、祖母がイタリア人で、祖母の影響を受けたと言われています。祖母はイタリアから来た敬虔なカトリック教徒で、彼を勇気づけてカトリックに導いたと言われています。スペイン語も覚えずにいたそうです。
アルゼンチンにはイタリア系の移民がいっぱいいますが、アルゼンチンは移民を受け入れる素地があって、移民してきた人もすぐにアルゼンチン化してしまいます。イタリア系であっても、自分たちはアルゼンチン人だという意識です。
アルゼンチンはちょっと変わった国だと思います。基本的にヨーロッパからの移民で出来ているのですが、移民してきた時に、アルゼンチンに独自の文化や社会がなかったから、ゼロから国を作りました。新しい国を作ったので、イタリアから来て、伝統を重んじようと思っても、新しい文化に組み入れられてしまうというようなところがありました。例えば、北米では、イタリア移民、ドイツ移民、ユダヤ系など、それぞれが自分たちのコミュニティを作りましたが、アルゼンチンではそういうことはなく、同化してしまいました。



©TAODUE SRL 2015

◆人生、何度でもやり直せる!

― 日本の観客へのメッセージを!

監督:人間は3回でも生きなおすことができます。ベルゴリオは、アルゼンチンのテロリズムの時代、独裁政権の時代、経済危機の時代という3つの時代を生きて、すべてが終ったと思ったら、法王に選ばれました。ある種、現代のお伽噺のようです。人生、何度でもやりなおすことができる!
イタリア人の監督がアルゼンチンのことを描いて、しかも、カトリック信者でない者が、カトリックの一番の中心を描いたわけですから、日本の観客の方がどのように観てくださるか、ぜひ知りたいです。



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★取材を終えて

カトリック世界を描いた宗教的な物語かと思っていたら、1970年~80年代のアルゼンチンの独裁政権時代を中心に描いていて、ぐっと惹かれた映画でした。監督にお話をお伺いしたら、監督ご自身も、演じた役者さんたちも宗教的なことにはあまり興味がないとのこと。だからこそ、ローマ法王にのぼりつめたホルヘ・マリオ・ベルゴリオという人物の人間的な姿を描くことができたのではないかと感じました。キリスト教世界に関心のない人にも、ぜひご覧いただきたい映画です。

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(取材:景山咲子)
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