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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『惑う After the Rain』
林弘樹監督 インタビュー

林弘樹監督

1974年生まれ。さいたま市出身。獨協大卒業後、黒沢清、北野武、和田誠監督他の下で鍛えられる。2003年映画製作・企画会社FireWorksを設立。

http://www.fireworks-film.com/

『惑う After the Rain』の公開を控えた林弘樹監督にお目にかかりました。年末のお忙しいときに、監督になるまでのご苦労や、地域のみんなを巻き込んだ映画作りのお話が興味深く、ついつい時間オーバー。新作紹介よりも長くなってしまいました。監督の映画愛をたっぷり浴びてください。(取材:白石映子)


=映画の道に進むまで

 そもそも医者志望だったんです。母が病院に行っても原因不明な難病でしたので、幼な心に最愛の母のためにと〝医者ひとすじ〟でした。映画は、小さい頃から厳しい父と一緒に観に行っていましたが、特に映画好きということではありませんでした。
 僕の人生を変えたのは、中学生のときに観た『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989/ジュゼッペ・トルナトーレ監督)です。友達と観て、魂を揺さぶられました。理由もわからず感動していたんですが、進路を考えた17歳のときに、その感動が蘇りました。医者にならなくていいのかという葛藤はありましたが。エキストラでもスタッフでも、一生に一度でいいからこういう映画に少しでも携わってクレジットされたら…と思いました。監督になろうとはまだ考えてなかったです。
 映画をやるなら“イタリアに行ってトルナトーレ監督の弟子になるか、アメリカのUCLAで学ぶか”でも、父が許すとは思えない。そんな中で悶々と英語を勉強していたら、父も病気で倒れてしまいました。母に負担をかけたくなかったですし、もう外国は無理だなと日本の大学に行くことにしました。
 映画はフィルムだ! と、8ミリカメラを買ってまわりを撮り始めました。ファインダー越しに世界を見るのが楽しかった。物語のあるものを作りたかったのですが、映像詩のようなものでした。自主映画ですね。
 大学の映画サークルや映研、OBにも映画の作り方を教われなかった。ちょうどビデオカメラが出始めていたので、「フィルム?」みたいな反応でした。一人で撮って失敗を繰り返して学んでいきました。カメラをカタカタ回して“映画みたいだな”と感じてました(笑)。映画だから人に見せなきゃ、と見せると「つまんない」「暗い」と言われました。友人もだんだん手伝ってくれなくなるのですが、ちょこちょこと作り続けてはいました。今でも当時のフィルムは残してあります。

=下積み時代

 卒業して入った映画界は今まで育ててきたものが全部ぶっ壊されるような体験でした。最初の映画の現場は『CURE』(1997年/黒沢清監督)。初めて目の前でライティングしたりするのを見て“映画がここにある!”と感動しました。
 いろいろな現場へ行き、制作の見習いから入って助手となるんですが、自分が全然役に立たなくて、すごく辛かった。何でもやらなきゃいけないのに、頭も身体も動かなくなる。だんだん元気はなくなるし、寝る時間はないし、車で事故るし。若いから体力はあっても、精神的に辛かった。初めて不登校になる子どもの気持ちがわかりましたね。「行きたくない~」みたいな(笑)。現場スタッフルームに行けば「あ、林また来ちゃったよ」という声が聞こえる。僕が現場に来るか来ないか賭けられていたんです。まあよくあることなんですけどね。「中途半端に大学なんか行きやがって」とか「自主映画なんかやってきたからダメなんだ」とか、あらゆる方向から叩かれました。ただ、単に悪く言うだけの人ともいれば、助監督になってからは、「これからいつかは監督になるんだから」という意味合いで「そんなんじゃダメだよ」と言ってくれる人もいると気づきました。
 『新・静かなるドン』(1997年/原隆仁監督)のときに助監督が急に来られなくなって、代わりに初めてカチンコを打ちました。やっぱりまだ何にもわかってなかったですけど、このときから演出部に移って助監督になったんです。
「助監督は寝る時間を削っても脚本や企画書を作るものだ」と聞いて、忙しくても意地でも書いて持っていきました。すると「百年早いよ」「調子乗ってんじゃねぇぞ」と突き返されました。怒られながらも続けていたら、スタッフやキャストから「お前が監督をやるときには手伝ってやるよ」と言ってくれるようになりましたね。


=両親の介護と仕事

 映画の仕事と同時に両親の介護を姉や周りの人に支えられて7年続けていましたが、だんだんと現場に行く時間がなくなってきました。それで一日3時間くらいの拘束時間で稼げる仕事を探して、営業の仕事につきました。
 いずれはオファーがなくても自分でお金を貯めて映画を撮ろうと思っていたので、30歳までには1000万以上の資金を貯めるつもりでした。それには営業力が必要だと。〝目に見えないものを物語り、相手に納得してもらわないと、人もお金も動かない〟と、わかったんです。
 全国規模の家庭教師センターで働き、教材販売の営業の仕事をするんですが“営業もストーリー”だなと考え、脚本を作ってやってました。全国80店舗の営業マンの中でトップ3に入る売上成績を上げ続け、4、5年やって1500万くらい貯めました。でもやればやるほど“自分の本当の仕事じゃない”という気がして苦しくなってきました。焦りもあり、どんどん自分を見失ってくるんです。
 本業である映画の仕事は準備だけ手伝うくらいに少なくなり、そうこうしている間に映画館はどんどんつぶれていく。当時は洋画が主流で、邦画はお金をかけて作っても公開されなかったり、Vシネマのようなビデオセールスやレンタル中心の時代でしたからね。
 多くのお客さんに観てもらえないと日本の映画はだんだんダメになる。僕は一生に一本でいいから『ニュー・シネマ・パラダイス』のような映画が作りたかったのに、そこまでたどり着けない。とにかく観客を動員できる映画を作らなければ! と考えていたのが20代前半です。
 26歳のときに父が亡くなって呪縛が解けたような気がしました。資金も作りましたし、これを境に営業の仕事は辞め、退路を断ちました。27歳でパイロット版(試験版)を作り、28歳で『らくだ銀座』(2003年)で監督デビューしました。


=地域の人を巻き込む


『人生ごっこ!?』 (C)Fire Works
『ふるさとがえり』 (C)えな「心の合併」プロジェクト/ものがたり法人FireWorks
『空飛ぶ金魚と世界のひみつ』 (C)2013 APCC/FireWorks

 『らくだ銀座』で全国を回ってタネを蒔いていたのがどんどん輪が広がって、その後の『人生ごっこ!?』(2008年)『ふるさとがえり』(2011年)『空飛ぶ金魚と世界のひみつ』(2013年)へと繋がっていきました。
 プロフェッショナルなら、作った作品に対して責任を取らないといけない、とずっと考えてきました。きちんと多くの人に観てもらって映画として全うさせようと。そして「こういう映画が観たい」という熱意のある人たちと一緒に作ろう、と思ったんです。10万人に観せたいんだったら3万人を、20万人に観せたいんだったら5、6万人をこの“映画作り自体”に巻き込めばいいのではないか。地域の人々、プロフェッショナルな心のある人たちとやっていきたい。これは最初なかなか理解してもらえなかったですが。
 僕は場作りをし、プロセスの設計をしますが、実際に動くのは地域の人たちです。キーパーソンが中心となり、様々な役割を担う人たちが動いていきます。行動する人もいれば支援する人もいる。あと行政、会社、学校などそれぞれの立場をこえてできることが、映画作りにはあるんです。
 巡回上映していくと「うちのまちでもやりたい」という輪が広がり、『ふるさとがえり』はこれまで全国1300箇所で上映しています。三島でも上映されたのが縁で、新作『惑う』を作るプロジェクトが動き出しました。


=『惑うAfter the Rain』

《物語》信用金庫に勤めるいずみは、父・誠志郎が早くに亡くなった後、自分と妹のかえでを女手一つで育て上げた母・イトを守ろうと気を張って生きてきた。縁あって伴侶になる人に出会い、明日の挙式を控えている。母と二人きりの最後の夜、父の夢が「いつか娘たちをこの家から嫁がせること」だったことを知る。いずみはあらためて両親から受けた深い愛情を思い起こすのだった。


(C)2016みしまびとプロジェクト/
ものがたり法人FireWorks

 プロジェクトではまず映画作りを通じて何を実現したいのか、関わる意味というか動機付けから始めました。「未来を創る人をつくる」というコンセプトで、地方創生のモデル事業にも認定されましたが、映画の完成までには3年かかっています。
 三島をくまなく歩きまわりました。昔から文化、教育に力を入れてきて、今は豊かで大きな問題もない町です。40年~80年前まで遡りながら、今を掘り下げていって、未来につながるようなストーリーを練りました。
 メイン舞台となる家(楽寿園・梅御殿)は、三島の人なら四季折々に必ず行くような身近な場所です。梅御殿は公民館のように使われ、本来持っていた光が損なわれているように見えました。でも僕の感覚ではあそこしかないな、映画作りでもう一度、魂入れをやろうと。


=関係性にこだわり、家族を描く

 地域、組織、暮らしの中の関係性は目に見えない間(ま)の部分です。最小単位が家族、さらに核は夫婦で、元は他人です。
 監督12年目に、奇をてらわず直球で家族を描きたかったんです。三島は教育を中心にしていたので私塾。それをつなぎとめている一つの空間としてあの家が必要でした。日本家屋は壁とドアの今の家とは違って、ふすまや障子で仕切られるけれど、開ければ一つの座敷になり、縁側で家と庭、外もつながります。


=キャスト

 まず軸となる母親を一番に決めました。長い時間を一人キャストで通すので〝童顔で年を重ねても芯の強さや可愛らしさがある〟ということで宮崎美子さん。次は長女です。前の2作品に出ている佐藤仁美さんとはいつか真剣勝負をと話していました。いろいろ候補はありましたが、彼女に着地しました。父親役は難航。父親は〝いないのにいる〟存在で、強面だけど愛情深いイメージでした。早くから「ぜひやりたい」と言ってくれていた小市慢太郎さんに。当初のイメージとは違いますが、実にはまっていましたね。次女は未知の魅力・可能性のある人ということで中西美帆さん。子役のオーディションは最後までかかりました。子役には細かく指導せず、気持ち作りをします。日本舞踊の稽古から入りましたのでちょうどよかったです。



★2017年1月21日(土)有楽町スバル座ほか全国順次ロードショー
http://madou.jp/
(C)2016みしまびとプロジェクト/ものがたり法人FireWorks


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