ニューヨーク在住の若手日本人監督が、西アフリカのリベリアと、ニューヨークのリベリア人コミュニティを舞台に描いた人間ドラマ『リベリアの白い血』。
8月5日からの日本での公開を機に一時帰国された福永壮志監督に、この映画に込めた思いをお伺いする機会をいただきました。
北海道出身でニューヨークを拠点にする映画監督。
2015年に初の長編劇映画となる『リベリアの白い血』(原題:Out of My Hand)がベルリン国際映画祭のパノラマ部門に正式出品される。同作は世界各地の映画祭で上映された後、ロサンゼルス映画祭で最高賞を受賞。米インディペンデント映画界の最重要イベントの一つ、インディペンデント・スピリットアワードでは、日本人監督として初めてジョン・カサヴェテス賞にノミネートされる。
2016年には、カンヌ国際映画祭が実施するプログラム、シネフォンダシオン・レジデンスに世界中から選ばれた六人の若手監督の内の一人に選出され、長編二作目の脚本に取り組む。(公式サイトより)
『リベリアの白い血』 原題:Out of My Hand
監督:福永壮志
撮影:村上涼/オーウェン・ドノバン
音楽:タイヨンダイ・ブラクストン (ex.BATTLES)
製作総指揮:ジョシュ・ウィック、マシュー・パーカー
製作:ドナリ・ブラクストン/マイク・フォックス
出演:ビショップ・ブレイ、ゼノビア・テイラー、デューク・マーフィー・デニス、ロドニー・ロジャース・べックレー、ディヴィッド・ロバーツ、シェリー・モラドほか
西アフリカ、リベリア共和国。ゴム農園で働くシスコは、過酷な労働環境の改善を求めて仲間たちと共に立ち上がる。ストをするも状況は変わらない。そんな折、出稼ぎ先のニューヨークから従兄弟のマーヴィンが一時帰国する。ニューヨークでの生活も決して楽ではないと聞かされるが、少しでも稼いで仕送りをしようと、愛する家族の元を離れ単身で自由の国アメリカに赴く。
ニューヨークのリベリア人コミュニティに身を寄せ、タクシードライバーとして働き始めたシスコは、厳しい現実と直面しながらも徐々に大都会での生活に慣れていく。
そんなある日、ジェイコブと名乗る男に声をかけられる。リベリアでの内戦の時代に、共に兵士として戦った男だった。思い出したくない過去を知るジェイコブが、執拗にシスコの前に現われるようになる・・・
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北海道 ディノスシネマズ札幌劇場 9/2(土)~ ※初日福永監督挨拶
北海道 ディノスシネマズ室蘭 9/2(土)~ ※初日福永監督挨拶
宮城県 フォーラム仙台 9/23(土)~10/6(金)
栃木県 宇都宮ヒカリ座 9/16(土)~9/28(木)
愛知県 名古屋 シネマスコーレ 9/16(土)~9/22(金) ※初日福永監督挨拶
大阪府 シネ・ヌーヴォ 9/23(土)~10/13(金) ※初日福永監督挨拶
香川県 ソレイユ・2 9/9(土)~9/22(金)
※カメラマン村上涼さん出身地 初日福永監督舞台挨拶
大分県 シネマ5 9/23(土)~9/29(金)
本作の配給・宣伝を務めるニコニコフィルムの蔦 哲一朗さん(ご自身も映画監督、『祖谷物語 おくのひと』他)の母校である東京工芸大学(中野坂上)の明るく広々とした学生食堂で福永監督にお話を伺いました。
M:アフリカには昔から興味があったのですが、リベリアという国が奴隷を帰国させるために作られた国ということや、英語が公用語ということを知らなかったので、映画を観て学びました。
*注:リベリア共和国: 1847年独立。国名は、ラテン語のLiber(自由な)から来ている。
K:リベリアのゴム園の過酷な労働環境や、ニューヨークのリベリア人のコミュニティという、日本人には縁遠い世界のことを知ることができて興味津々でした。
一方で、思い出したくない過去の自分を知る人物に出会ってしまって葛藤するとか、より良い暮らしを求めて新天地に行くというテーマは、とても普遍的なものなので、どこの国の方にも共感を得ることができる映画だと思いました。
ニューヨークは、まさに人種のるつぼ。プレス資料に、移民を背景にした映画を構想していた中で、村上涼さんのドキュメンタリーに触発されてリベリア移民を主人公にされたとありましたが、当初はリベリア以外の移民を念頭においていたのでしょうか?
監督:ニューヨークの日本人の話にしようかなどと考えは巡らせていました。 ニューヨークを拠点に映像関係で活躍する先輩であり義兄弟(注:妹さんの配偶者)でもあった村上涼さんが、2007年と2008年にリベリアでゴム農園の労働者を追ったドキュメンタリーの制作を手伝ううちに、過酷な中でひたむきに働く姿に感銘を受けました。映像から受けたショックが大きくて、何か形にしたいという気持ちが高まって、当時構想していたニューヨークに住む移民の映画の主人公の背景を、リベリアのゴム農園の労働者に設定しました。脚本は、アメリカ人のドナリ・ブラクストンと二人で書いています。
K:村上涼さんは、本作ではリベリア部分の撮影を担当されましたが、撮影中にマラリアに罹られ、ニューヨークに戻られた後、まだ33歳という若さで亡くなられたとのこと。ご活躍が期待されていたのに残念です。
M:もともと村上さんがリベリアのドキュメンタリーを撮ろうと思われたのは、どこかから依頼があったものなのですか?
監督:聞いた話では、国連のプロジェクトでリベリアのドキュメンタリーを撮る話があって、調べて準備をしていたけれど、話がなくなったそうです。村上さんの中で気持ちが高まっていたので、仕事としては中止になったけど、自身のドキュメンタリーとして撮ろうと決めて単独で撮っています。
K:そのドキュメンタリーも内戦の傷跡を描いたものだったのでしょうか?
監督:村上さんが初めて撮りに行ったのが、2007年で、まだ内戦が終って4年位しか経ってない頃でした。でも、村上さんのドキュメンタリーには、内戦の色はほとんどありません。僕が訪れたのは、もっと後で、内戦から10年経った頃です。この映画の脚本を書くためにいろいろ調べていくうちに、近年のリベリアの歴史の中で内戦はものすごく大きな出来事で、現代のリベリアを描くのに自然に触れることになりました。
*注:リベリアの内戦 :第一次内戦1989年~1996年、第二次内戦1999年~2003年
K:リベリアの部分で、教会で説教師が出てきましたが、リベリアはキリスト教徒が多いのですね。
監督:キリスト教徒が多いですね。説教師の方については、完全に本人役で出てもらっています。内戦中に多くの人を殺したという言葉は本物です。悪いこともさんざんして、内戦後、改心して説教しているというのが彼の人生です。あの部分はほぼドキュメンタリーです。
K:リベリアで取材しているうちに出会ったのですか?
監督:調べていくうちに、有名な人なのでわかりました。内戦の歴史や、特殊な国民性を彼自身が体現していると思ったので、そのまま作品の中にいれました。
K:特殊な国民性とは?
監督:何千人も殺した責任ある人が改心したということを受け入れるおおらかさがあります。指示して殺した数が桁違いに多いのに、そういう人物と知っていて受け入れています。そういう人で政治家になっている人もいます。おおらかというか、傷跡も受け入れないと生きていけないという世界ですね。
K:ニューヨークでは、リベリア人のコミュニティが出てきましたが・・・
監督:スタテン島のパークヒルという治安があまりよくない地域で低所得者層用のアパートの中にリベリア人のコミュニティがあります。 ニューヨークに移ったあとは、そこを舞台の一つにしています。
ここで言っておきたいのですが、僕は政治的な映画を作ろうと思ってやってない。かわいそうなアリカ人の話には絶対したくない。人の強さや、ひたむきに一生懸命生きている人を描きたかったのです。
K:アメリカでは公開されていますが、リベリアでは上映されたのでしょうか?
監督:リベリアでは映画館というものがなくて、インド人が経営している映画館があるらしいのですが、普段皆が気軽に行くような場所にはないそうです。配給という定義がないし、インフラとして整ってないのでシステムとして成り立っていません。でも、現地で観てもらうのが大事な目標でしたので、今年2月後半に、現地のJICA(ジャイカ:独立行政法人 国際協力機構)や在リベリア日本国大使館(在ガーナ日本国大使館が兼轄)などの協力を得て、コミュニティでの無料上映会を3回開きました。僕も立ち会って反応も直接聞くことができました。
K:反応はいかがでしたか?
監督:反応はすごくよかったです。 リベリアの人が観ても、まさにリベリアの映画だと自己投影して観てくれました。ニューヨークに初めて着いたシーンでは、中には信じてない観客もいて、隣の人に「これは主人公がただ夢を見ているだけだよ」と言う人もいました。
また、僕たちだったら笑いに繋がらないところで笑いが起きていたりしました。対立する同業者で友達のフランシスが皮肉な冗談をよく飛ばすのですが、それがツボにはまるようで、皆よく笑ってました。また、ニューヨーク篇で娼婦のマリアがジェイコブに見つかって朝飛び出して行くところで、シスコに対してざまぁみろという感じで笑ってました。
K:シスコ役のビショップ・ブレイさん、一見とても誠実でまじめそうな人物だけど、違う面も持っていることを、とてもうまく演じてましたね。
監督:これまでローカルなリベリアや西アフリカ製作の映画やドラマには出ていたけれど、質的に低いものでした。映画産業自体が小さいので、俳優だけでは暮らしていけません。普段は駐車場で働いています。
K:本作はリベリア政府の映画組合が初めて外国と共同制作した作品ですね。
監督:内戦後にできた映画組合ですが、それほど大きくなくて、国からの資金もあまり出てないです。組合に所属しながら、他の仕事もしないとやっていけないのが実情です。
K:年間にどれくらい映画がつくられているのでしょう?
監督:それほど多くないですね。しかもDVDで出されているだけですね。DVDを売ってる場所で観たり、家で観たりという状況ですね。
K:映画の中で、ラジオのニュースが映画館で600名がテロの犠牲になったと報じたのを聞いて、「ビデオ屋で600人?」と言っている場面があって、映画館という概念がないのだなと思いました。 リベリアで本作のDVDはリリースされているのでしょうか?
監督:この間上映会をしたばかりですし、アメリカの配給会社が権利を持っていて、そこと相談しないと出せません。リベリアで1回出てしまったら、すぐにコピーされてしまいます。僕としては配給して稼ごうという気は全然ないのですが、製作側に少しでも還元される形で多くの人に観てもらう方法で配給できればいいなと思っています。
K:アメリカや諸外国での公開はいかがでしたか?
監督:ニューヨークとロサンジェルスの劇場で1週間公開して、その後、各地で上映されました。その後、Netflix で配給になりました。海外は最初英語圏で公開されました。イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ。その後、英語圏以外のヨーロッパ各地にも広がっています。
K:原題『アウト・オブ・マイ・ハンド』に込めた思いは?
監督:色々な意味があるのですが、ゴムの原料採集が手作業ということがまずあります。Handsになると、自分の手に負えないという意味になります。 主人公が抱えるフラストレーションなど、限界を超えて何とかしようとする姿勢。また労働者のつくったものが搾取されて手から離れて、企業の利益に繋がるという意味合いもあります。
K:日本公開タイトル『リベリアの白い血』も、監督ご自身が付けたのでしょうか?
監督:それは配給と相談して決めました。最終的に自分もOKを出しましたが、邦題となると何がいいのか難しくて、日本の配給の意向が大きいです。
M:映画を観る前は、白い血ってなんだろうと思ったら、ゴムの白だとわかりました。白人支配のイメージも受けました。
監督:決めてから、皆さんから色々反応をいただています。 馴染みのないリベリアをまずタイトルに入れようと思いました。印象に残るものをと考えました。これが一本目なので、まだ学んでいることが多くて、印象に残ってイメージのわくタイトルがいいということがわかりました。
K:「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016」では、原題の『アウト・オブ・マイ・ハンド』で上映されましたが、実はタイトルが印象に残っていませんでした。毎年通っている映画祭で、観なかった映画も、タイトルは覚えているというケースが多いのですが。
監督:あの時点で配給は決まっていたのですが、日本公開タイトルはまだ決まっていませんでした。
*参考:SKIPシティ国際Dシネマ映画祭2016でのQ&A
http://www.skipcity-dcf.jp/2016/news/dailynews/20160719_01.html
M:ゴム園というと、東南アジアやブラジルのイメージでした。あれだけ太い木なので、リベリアでも古くからゴムの木があるのだなと思いました。アフリカにもあるのだなと。
監督:アフリカでゴムが取れるのはリベリアくらいだと思います。建国の歴史がアメリカから解放された奴隷が帰還するために作られたということがあって、アメリカとの繋がりが強いですね。 ゴムもファイアストン社との繋がりです。今はブリヂストンに買収されましたが、ブリヂストンのタイヤもリベリアで採集されたゴムからできたものが多いと思います。
注)ファイアストン社(アメリカの自動車タイヤメーカー)
1926年にリベリア政府と99年間の貸与契約を結んで、現地人約9,000人の労働者を雇って、世界最大のゴム農園を開発。不況により1988年に日本のブリヂストン社が同社を買収。ゴム農園もブリヂストンが引き継いだが、管理はアメリカ人が担当。
K:監督は、高校卒業後、すぐにニューヨークに行かれたのでしょうか?
監督:アメリカで英語で授業を受ける英語力がなかったので、高校を卒業して、まず秋田にあるミネソタ州の経営する英語学校で1年半勉強しました。(注:ミネソタ州立大学機構秋田校 1990年-2003年 秋田県雄和町) そこからミネソタ州立大学に編入すればミネソタ州民と同じ授業料でした。ミネソタ州立大学に転校して、一般教養を2年学びました。その間に映画をやろうと決めて、12年前にニューヨークに移りました。
K:昔から映画は好きでしたか?
監督:ずっと好きでした。
K:特に影響を受けた映画や監督は?
監督:影響を受けた映画はたくさんありますが、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』を高校2年生の時に観て、その時の衝撃がすごく大きかったです。最後のシーンも全然理解できなかったけれど、とにかく面白いものを観たという印象があって、あの衝撃は何だったんだろうと、後々の映画を作りたいという思いに繋がりました。
K:イランのアミール・ナデリ監督も『2001年宇宙の旅』に大きく影響を受けたとおっしゃっていました。公開当時にこれは観なくてはとロンドンまで行ったけど、チケットが売り切れていて、偶然出会ったキューブリック監督からチケットを貰って観ることができたそうです。
監督:公開当時に観たら、それはまたすごかったでしょうね。
K&M:私たちも日本での公開当時に観ています。まだ高校生の頃でハテナと思いながら観ました。監督は高校2年生の時に観たというと、2001年を過ぎたころですね。
監督:ちょうど2001年ごろですね。
K:次回作は?
監督:北海道のアイヌをとりあげます。
本拠はニューヨークにおいて、行ったり来たりで作ります。
K&M:次回作も楽しみにしています。本日はありがとうございました。
取材は1時10分からの指定だったのですが、1時前に到着。インタビュー場所である東京工芸大学の学生食堂は学生さんたちでいっぱい。話し声が鳴り響いていました。1時10分には授業が始まるのでと、それまで自己紹介を兼ねて世間話。
私が24年にわたって、商社の経済協力部に所属していて、西アフリカのセネガル、マリ、ギニア、ガーナなどには駐在員事務所があったので結構馴染みがあったこと、リベリアにはODA(政府開発援助)があまり出ていなかったこともあって、私にとって未知の国だったことなど、とりとめなく話してしまいました。
監督はまだ30代半ばなのに、とても落ち着かれていて、深みのある人間ドラマを作られた貫禄を感じました。今後が楽しみな監督です。(咲)
子供の頃、行きたかったところは南米とアフリカだった。しかも、尊敬する人はリンカーン、シュバイツアー、野口英世、キング牧師。なのに、リベリアという国が、アメリカに奴隷として連れ去られた人たちの子孫がアフリカに戻って作った国というのを知らなかった。この映画でリベリアの成り立ちを知った。その子孫が貧しさから逃れるために、またアメリカに移住するというのも皮肉な話ではあるけれど、ブラジルに移住した日本人の子孫である日系ブラジル人も日本に来ているし、それは時代の流れでしょうがないことなのかもしれない。
それにしても映画はいろいろなことを教えてくれる。歴史と時代を映す鏡だと思う。それをテーマにしていないような話の中にもそういう要素が含まれている。だから面白い(暁)。