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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『湾生回家』
黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督 インタビュー

台湾で生まれ育った日本人“湾生”の望郷の思いを追った『湾生回家』の黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督には、大阪アジアン映画祭の折に、宮崎暁美がインタビューし、シネマジャーナル97号に掲載しています。この度、一般公開を前に監督が再来日されましたので、母が台湾からの引揚者である景山がぜひお話を伺いたいと、お時間をいただきました。



黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督
撮影:宮崎暁美

黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督

台湾のアカデミー賞といわれる金馬奨で、1998年に最優秀短編作品賞を受賞した『トゥー・ヤング』(第14回東京国際映画祭上映)で注目される。本作では、プロデューサーが同郷であった縁で監督に抜擢される。当初「湾生」を全く知らなかったが、「湾生」たちとの触れあいの中で、彼らの中に潜むドラマを発見し、「湾生」たちが戦後の混乱をどう生き延びたのか、 また、台湾でどんな生活を送り、台湾のことをどう思っているのか、「湾生」たちの孤独な心情に寄り添い、彼らの目線に立って本作を完成させた。
今年に入り、新作『傻瓜向錢衝』が台湾で公開され好評を博している。(公式サイトより)




『湾生回家』

監督:黄銘正(ホァン・ミンチェン)
製作:范健祐(ファン・ジェンヨウ)、内藤諭
出演:冨永勝、家倉多恵子、清水一也、松本洽盛、竹中(中村)信子、片山清子

台湾は、下関条約の締結された1895年から終戦の1945年までの50年間にわたり日本の統治下にありました。敗戦によって台湾から日本本土へ強制送還された日本人は、軍人・軍属を含め50万人近かったと言われています。中でも、「湾生」と呼ばれる台湾で生まれ育った約20万人の日本人にとっては、故郷である台湾から引き離される事態でした。

『湾生回家』は、そのような「湾生」たちの望郷の念を追ったドキュメンタリー映画。異国の地となってしまった故郷への里帰りの記録です。ホァン・ミンチェン監督をはじめ製作スタッフは、40名近い方に取材をし、そのうち6名の方の物語を中心に本作をまとめあげました。

戦後70年を経て作られた『湾生回家』は、台湾で3,200万台湾ドル(約1億400万円)、11週上映というドキュメンタリーとしては異例のロングラン。日本統治時代を知らない若者たちも劇場に足を運び、「湾生」たちの台湾に寄せる望郷の念に感動し涙したとのことです。
中華圏最大の映画賞のひとつ台湾の「金馬奨」では最優秀ドキュメンタリー作品にノミネート。日本では、大阪アジアン映画祭2016で観客賞を受賞しました。


大阪アジアン映画祭舞台挨拶
左から 内藤諭プロデューサー、范健祐(ファン・ジェンヨウ)プロデューサー、
竹中(中村)信子、松本洽盛、清水一也、家倉多恵子、冨永勝、黄銘正監督

2015年/台湾/カラー/DCP/111分
配給:太秦
(C)田澤文化有限公司
http://www.wansei.com/
★2016年11月12日(土)より岩波ホールにてロードショー




黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督

◎インタビュー

聞き手: 宮崎暁美(M) 景山咲子(K)

◆忘れ得ぬ遠い故郷

: 5年前に亡くなった母が台湾からの引き揚げ者ですので、とても興味を持って映画を拝見しました。母は昭和3年に神戸で生まれましたが、父親が基隆港の水先案内人に転職した為、6歳から終戦の年の17歳まで、約10年を台湾で過ごしました。ですので、基隆は、母にとって生まれた神戸以上に思い出のある町で、私は小さい時からよく話を聞かされました。私にとっても遠い故郷のような気がしています。
何より引き揚げて全国に散らばってしまった基隆の人たちとの絆が強くて、小学校、女学校、中学校との合同など様々な同窓会が毎年開かれていましたし、誰かが上京するというと集まっていました。同窓会で母校を訪ねたりもしています。簡単に故郷に帰れなくなっただけに、同窓生がまさに心のよりどころで故郷という感じだったように思います。
そのあたりが、描いてはいるけれど、描ききれてなかったような・・・というのが率直な感想です。故郷を同じくする人の繋がりがあまり描かれてなかったのが私としてはちょっと寂しかったです。

監督: 実は、花蓮会の集まりや、中野サンプラザでの同窓会の場面も撮りましたが、最終的には入れませんでした。

: 大勢取材した中から、6人にしぼったので、入れたくても入れられなかったことがたくさんあると思います。

監督: 清水一也さんの親戚の須田さん姉妹にもお会いしました。花蓮での楽しく美しい思い出をいろいろと語ってくれましたが入れられませんでした。小さい頃に蛙を捕まえて、ふぅ~っと膨らんだときの様子とか、蛇を捕まえた時のこととか、ほんとに楽しそうに話してくださいました。

: 母も縄かなと思って縄跳びをしようと掴んだら蛇だったので、階段を三段飛びで駆け下りたことをよく話してくれました。小さい頃の思い出はいつまでも心に残っていますよね。それが、簡単に帰れない故郷だけに思いが強いのではないかと、この映画を観てもそれぞれの方から感じました。

監督: まさにそうですね。


黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督

◆戦後の台湾では日本時代を語るのはタブーだった

: 日本が引き揚げたあとに、大陸からやってきた国民党の行いがひどかったので、台湾にもともといる人たちは日本に対して好意的な感情を持っていると、かつてよく聞きました。 今は世代も変わって、さまざまな生まれの人がいて、感情もそれぞれの背景で違うと思いますが、実際、どうなのでしょうか?

監督: 私の若い頃は、日本時代のことについて教えられた記憶が何もないです。存在自体を話すことが許されなかった時代でした。話すことはタブーで、戒厳令も出ていて、政治的に微妙なことで話せないことでした。戒厳令が解かれてから、色々日本時代の話が出てきましたが、当時はまだ資料も少なくて、なかなか語られないものとしてずっと存在してきました。戦後70年経って、やっとこのような映画を作れる状況になりました。

: そんな状態だったのですね。母は台湾人の同級生の方たちとも、ずっと親しくしていました。 でも、228事件のことを、ずっと話してくれなかったそうです。母が『悲情城市』を観てびっくりして、事件の経験を尋ねた時にも話してくれなくて、数年経ってから、基隆の川が血で染まったことを語ってくれたそうです。それほどに戦後の台湾の大変な時代だったのだと思いました。監督のまわりにいる日本語世代の方たちも、あまり表立って日本時代のことを話せなかったのでしょうか?

監督: 戒厳令が解かれたのは1987年ですけど、お母様のお友達はきっと心理的につらくて話せなかったのでしょうね。台湾のいい家の人たちは、自分の子どもを医者にして政治とまったく関係のない世界で人生を歩ませたいと考えていました。 エリートの道は医者という時代でした。

: 監督のおじいさんやおばあさんは日本語世代だと思いますが、日本統治時代のことを内輪ではよく話してくださいましたか?

監督: 多少は話してくれましたが、多くは話してくれませんでした。祖父は阿里山の役所に勤めていたのですが、郷長(村長のような立場)の方が、228事件の少し後に逮捕されたそうです。

: もっと祖父母の世代の方たちは、日本統治時代のことを懐かしんで話してくれたのかと思っていました。

監督: 祖父母もそんなに話さなかったですが、父は小学校に入る6歳の頃、日本人が引き揚げていったことや、母も日本人に好感を持っていたことを話してくれたことがあります。ですが、私自身は学校では日本がどんな悪いことをしたかを教えられて育ちました。私が小学校の時、蒋介石の名前が出ると、しゃんと起立しないといけませんでした。先生がほかのことを話していて、いきなり蒋介石の名前を出して、ちゃんと直立するかチェックするのです。蒋介石が亡くなった時、お葬式をテレビで中継していて、キャスターが黙祷を捧げてくださいと呼びかけました。私と妹は起立して黙祷していましたが、後ろを振り向いたら、両親は黙祷していませんでした。「どうして?」と聞いたと思うのですが、「おまえたちがしていればいい」と、なぜ黙祷しないかは答えてくれませんでした。

: 台湾では映画の始まる前に起立して国歌を聞かなければならなかったと聞いていたのですが、昨年台湾に行ったら今はしないと聞きました。何年前くらいになくなったのでしょう?

監督: いつごろからなくなったでしょうね。小学校の時、全校生徒で観にいったのは反共映画でした。私は歴史を描こうとは思わない。歴史は時の権力者によってつくられるものですから。

: 監督は、嘉義のご出身とのことですが、映画では故郷の嘉義ではなく花蓮を中心にされていますね。

: 取材にあたって、出演者でもある竹中(中村)信子さんの本「植民地台湾の日本女性生活史」は参考にされたのですか?

監督: 中村さんの書かれた日本占領時代の日本女性の生活史が中国語に翻訳されていて、序文を読んで感動して、内藤プロデューサーに頼んで中村さんを探していただいて、幸いなことにコンタクトすることができて、取材しました。

: 映画を観終わってから、林雅行監督(『風を聴く 台湾・九份物語』『雨が舞う 金瓜石残照』『老兵挽歌 異郷に生きる』他)から案内をいただいて、その竹中(中村)さんの本のことを知りました。まだ読んでいないので、これからぜひ読んでみたいと思います。

監督: 台湾では4冊本で出ています。


黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督

◆歴史に翻弄されながら懸命に生きてきた人たち

: この映画に出てくる方たちが引き揚げたのは、1946年の3月から4月にかけてですが、その1ヵ月くらいに日本人はまとめて引き揚げた状況だったのですか?

監督: 終戦後の1945年の秋から2年間の間に引き揚げています。

: 私の母は、終戦後すぐの秋に引き揚げています。つてのあった人は早く帰れたのだと思います。母も祖母も早く帰りたいとすぐに帰ってきたのですが、あとから思えば、ゆっくり荷物を整理して帰ればよかったと言っていました。その時に持ち帰った行李が今も家にあります。 内地で甘い物が不足していると聞いて、台湾の砂糖をお土産に行李に入れていたのですが、船に荷物を積む時に海に落とされてしまい、砂糖が塩になってしまったことをよく聞かされました。 台湾からの引き揚げは、満州や朝鮮ほどの混乱はなかったとはいえ、持ち帰れたのは一人行李一つでしたから、暑いのに重ね着し、靴下も何枚も穿いたと語っていたのも思い出します。引き揚げの経験者がほんとうに少なくなってきているので、早いうちに続編も作っていただければ嬉しいです。

監督: 日本と台湾を結びつけるテーマがあれば、ぜひ早めに作りたいと思っています。当時、引き揚げに関して、あわただしく準備して、持ち帰れるものにも制限があったので、日本人が残していった数多くの財産は国民党のものになってしまいました。今、もめごとが起きているのは、 国民党=国なのかという論争があるからです。

: 湾生に関しては、これからいろいろ出てくるといいなと思っています。日本人の視点でも、酒井充子監督の『台湾人生』などがありますが、台湾を故郷とする日本人が大勢いることが描かれたことはほとんどなかったし、日本の統治時代を経験した人もどんどん少なくなっているので、今でなければ撮れないものを台湾でも日本でも作られればいいなと思っています。どうぞ続編もよろしくお願いします。

監督: 取材していて、ほんとに温かい気持ちになりました。歴史が犯した罪は事実として消せないけれど、その中でも懸命に生きてきた人たちの存在は素晴らしいものがあって、その存在を広い心で受け取れることが、この映画でもあると思っています。

: 日本人にとっても、大きな驚きだと思います。

監督: 神戸大学3年の日本史専攻の女性と話す機会があって、これからどう自分の人生を進むべきかと悩んでいらして、この映画の家倉さんが「日本の異邦人で、自分は何者だろう」と語る場面を観て、自分は何者でどこにいるのだろうと考えたとおっしゃっていて、映画をそのように観て下さる方もいるのだと思いました。

: 母の同級生たちでまだ生きている人もいますので、ぜひ観てほしいと宣伝します。本日は、お話できて嬉しかったです。ありがとうございました。



☆取材を終えて


インタビューを始める前に、母が遺した「基隆市日新小学校同窓会名簿」や、台湾の母校を同窓生の方たちと訪問した時の写真を監督にお見せしました。取材中に、こういう資料は数多くご覧になってきたと思ったのですが、熱心にご覧になってくださって嬉しい限りでした。
同窓会名簿は、何度も更新されていて、大正15年の第一回卒業生から、昭和21年の卒業生と在学した人たちまで掲載されています。現住所は日本各地から台湾までにわたり、住所不明の方も大勢います。引き揚げで、ばらばらになったのに、よくここまで調べ上げたものだと感心します。1998年(平成10年)作成の名簿の最後には、この年に淡路島で開催された同窓会に180名もの参加者があったことが記されていました。簡単に帰れなくなった故郷への強い思いを感じます。
母は台湾時代の友人たちとは、ほんとうに親しくしていて、その中には台湾の方もいました。日本人以上に美しい日本語の手紙に感心したものです。
歴史に翻弄された人々を記録した『湾生回家』をきっかけに、過去は過去として、日本と台湾の絆が深まればいいなと思います。(咲)



今年の大阪アジアン映画祭で、初めて観た時の感動が忘れられません。「湾生」という言葉をこの作品で知りましたが、こんなにも自分の生まれ故郷を思う湾生たちの心に驚きました。また、台湾では若い方たちがたくさん観に来てくれたという話もとても嬉しかった。
この中で、日本に帰れないまま母親に捨てられたと思っていた片山清子さんと、その家族が清子さんの母親の墓を探しに何度も日本を訪ねとうとうみつけた話は、きっと日本人にとって台湾の家族の人たちの清子さんへの思いに涙せずにはいられないでしょう。
以前台湾を訪ねた時、平渓線の終点菁桐(チントン)駅で電車の便がなくて困っていた時に車に乗せてくれた方がいて、その方の祖母が日本人で基隆に住んでいるけど、祖母は一度も日本に帰ったことがないと言っていたけど、その方の祖母は、今、思えば「湾生」だったのだなと思いました。そんな日本人も、けっこういるのかもしれません。歴史に埋もれた真実を表に出してくることの大切さを、この映画でも感じました。(暁)

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取材: 宮崎暁美(撮影)、景山咲子(記録)
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