このページはJavaScriptが使われています。
女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『シアター・プノンペン』
ソト・クォーリーカー監督インタビュー

ソト・クォーリーカー監督 バックは歌舞伎座

2014年、第27回東京国際映画祭で『遺されたフィルム』というタイトルで上映され、「アジアの未来」部門、国際交流基金アジアセンター特別賞を受賞した作品が、『シアター・プノンペン』のタイトルで7月2日より公開される。

2016.7月2日~ 岩波ホール(東京)で公開
2016.8月6日~  シネマスコーレ(名古屋)
2016.8月13日~ シネ・リーブル梅田(大阪)
2016.9月10日~ 長野ロキシー(長野)
2016.9月24日~ 盛岡ルミエール(岩手)
(時期未定)元町映画館(神戸)、京都みなみ会館

ストーリー

カンボジアの首都プノンペンに住む女子大生のソポンは、病を患う母と厳格な軍人の父、口うるさい弟との息苦しい生活にうんざりしていた。父が独断で進める将軍の息子とのお見合いが行われることになり、怒ったソポンは父親と喧嘩して家出してしまう。バイクの駐輪場として使われている廃墟のような映画館にもぐりこみ寝起きしていたが、ある日、ソポンは映写室に放置されているボロボロのフィルムを上映してみた。
それは、クメール・ルージュがカンボジアを支配する前年、1974年に作られた『長い家路』という作品で、ヒロインを演じていたのは、病の床にある母の若き日の姿だった。美しく輝いていた母の知られざる女優時代を知り、クメール王国を舞台にしたおとぎ話に、ソポンは惹き込まれた。しかし、内戦の混乱で映画の最終巻が紛失し、結末は観ることができなかった。その映画に興味を持ったソポンは、病床の母の為に映画を完成させようと決心し、映画館を管理している映写技師ソクと、失われた最終巻をリメイクし始めた。
その過程で、過去と現在、犠牲者と彼らを苦しめたクメール・ルージュのことや、両親の出会いを知り、この時代を生きた人々の、数奇な運命が明らかになる。1975年からカンボジアを呑み込んだ暗黒の4年。知識人、一般大衆も巻き込み、空前の悲劇が生みだされ、カンボジア国民の4分の1の人が虐殺されたという。『シアター・プノンペン』は、その悲劇の時代にかろうじて残った恋愛映画を巡って繰り広げられるヒューマン・ドラマでカンボジアの人たちの思いが詰まった作品。
監督はカンボジア初の女性監督ソト・クォーリーカー。国際交流基金アジアセンターと東京国際映画祭共同プロジェクトによるオムニバス映画「アジア三面鏡」も製作中。

※クメール・ルージュ(フランス語) 『シアター・プノンペン』HPより
 カンボジア共産党のこと。指導者ポル・ポトの名前をとり、ポル・ポト派とも呼ばれている。


『シアター・プノンペン』公式HP http://www.t-phnompenh.com/


(C)2014 HANUMAN CO.LTD



ソト・クォーリーカー監督
ソト・クォーリーカー監督紹介  公式HPより

 1973年、カンボジア出身。クメール・ルージュ政権下、及び、その崩壊後の混乱と内戦の時代のカンボジアで育つ。2001年に『トゥームレイダー』(サイモン・ウェスト監督 アンジェリーナ・ジョリー主演)のライン・プロデューサーを務める。自身の映画製作会社ハヌマン・フィルムズ(Hanuman Films)で、『ルイン(Ruin)』(2013年ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門審査員特別賞)など数多くの映画とドキュメンタリーをプロデュース。2014年、初監督となる本作で、第27回東京国際映画祭「アジアの未来」部門国際交流基金アジアセンター特別賞(スピリット・オブ・アジア賞)受賞。各国の映画祭から注目される。カンボジア映画界期待の女性監督である。 国際交流基金アジアセンターと東京国際映画祭の共同プロジェクトで、アジア出身の映画監督3人が同一のテーマでオムニバス映画を製作する「アジア三面鏡」の3人の監督の一人に選ばれ、2016年の完成を目指して製作中である。


ソト・クォーリーカー監督インタビュー

2016.5.24

*カンボジアの歴史を描きたかった

― カンボジアの悲劇の記憶を表現した作品ですが、映画製作に加わった人たちや、家族の模様を通して、現在のカンボジア(プノンペン)の若者の生態や、女性が置かれている状態なども組み込んでいました。何よりも映画にとても思いを寄せた作品だと思いました。
映画館を舞台にし、映画撮影のシーンを入れたことで、映画へのオマージュを感じましたが、最初から映画を伏線にして、カンボジアの歴史を描こうと思ったのですか?
また、母と娘、古い時代と現代の女性の生き方や考え方なども対比して描いていて、女性監督ならではと思いました。


ソト・クォーリーカー監督

監督:この映画を作った目的はカンボジアの歴史を描きたいと思ったからです。クメール・ルージュ時代のことを話すことはタブーになっていて、カンボジアの人たちにとっては触れたくない過去。家族間、親子間でも辛かったこの時代の話などはしません。この映画の中に、その時代を生き抜いた人たち、被害者も加害者も盛り込むことによって、違う世代の人たちがあの時代のことについて話し合えるようになればと思いました。

―その思いは伝わったと思いますか?

監督:私と母の間で父が亡くなった辛い過去について話せなかったのが話せるようになりました。また、若い人たちが私のところにきて、この映画によって両親たちの体験がトラウマになっていることを理解することができるようになったと言われました。微力ですが助けになったと思います。
この歴史を隠し続けていたつらい世代の人たちも、子供たちや若い人たちにもっと話していいのだと思うようになったと言ってくれました。

―カンボジアで公開した時は2週間の予定が、5週間になったそうですね。

監督:カンボジア映画史上一番のロングランになりました。


*難しかったキャスティング

― キャスティングはどのようにして決めていったのですか? キャスティングの段階で面白い出会いとかありましたか?


      マー・リネット 主演(ソポン役)   ディ・サヴェット(ソポンの母役)  ソク・ソトゥン(シアター・プノンペンの主人役)
2014年 東京国際映画祭にて

監督:お母さん役は、最初からディ・サヴェットさんにしたいと思っていて、彼女をイメージしながらラインを書きました。主人公ソポン役と映画技術師ソク役のキャスティングが難しかった。 カンボジアでは伝統的に女の子は親の言うことをよく聞くけれど、ソポンは普通の女の子じゃない。頑固だし、気が強いし、反抗的なので、ソポン役の女の子を探すのが難しかった。実はカンボジアでは、まだソポンのように自分の意見をしっかり言えるような女の子はほとんどいません。おとなしくて家にいてという感じの女の子がほとんどです。ソポンを演じきれる女優さんを探すのに、外国に住んでいる人にすればという意見もあったけれど、カンボジアで実際に住んでいて、つらい家族のバックグランドがある人をと思い、6ヶ月かけてみつけました。マー・リネットは女優経験がなかったけれど、父親を亡くしています。そして、彼女も歴史を知りたいと思っているところが私と似ていました。私の家に呼んで一緒に生活しながらソポンのキャラクターを作り上げていきました。
映写技師はこの時代を生き抜いた人。彼の役というのはお兄さんをポル・ポト派に売ってしまった人。あの時代を語りたくない上に、ある意味悪役を演じなくてはならないということで、大事な役だけどなかなかその役を演じてくれる人がいなかったんです。生きてはいるけど、魂は死んでいるという難しい役柄です。一般のカンボジアの人は過去をなかったことにして生きているのに、過去にしがみついているというキャラクターで、今のカンボジアに生きている人とは逆のキャラクターです。このキャラクターに没頭してもらうためソク・ソトゥンさんのスケジュールを6ヶ月間押さえてもらいました。

― 監督はポル・ポトの時代、3歳~7歳くらいだったと思いますが、どのようにして生き延びることができたと思いますか。お父様は亡くなりお母様と一緒にいたのでしょうか。

監督:一言では言い切れない。たくさんの方が亡くなった中で生き延びることができたのは運だけではすまされないし、言葉にできないものがあります。母がよく言うのは、お父さんが自分の命を持って私たちを守ってくれたということです。今でもなぜ私は生きているのだろうと思います。 クメール・ルージュが占拠していた時代。かすかな記憶はあるのですが、自身の体験なのか、母から聞いて想像したことなのか定かではありません。クメール・ルージュが退散したあとのことは、もう6歳だったのでよく覚えています。

― つらいことを聞いてごめんなさい。


*英語を学ぶ

― 映画に興味があって、外国からの取材や映画撮影にかかわる仕事をしてきたのですか?
1999年にカンボジアが外国に対してオープンになったのがきっかけで、コーディネーター、通訳をしたとのことですが、英語を勉強して、海外とのつながりがある仕事をしたことが、映画を作ろうと思うことに繋がったのですか?

監督:1992年頃、国連が救済に入ってきて、英語が出来ればより良い仕事につけるので、英語を学ぼうというトレンドみたいなものがありました。でも、私はお金がなくて学校には行けないので、音楽を聴いたりして自力で学びました。また、母はフランス語ができてツアーガイドの仕事をしていたので、母の手伝いをしながら英語を身につけていきました。記憶力はすごく良かったんです。
一つに集中するとパワーが出て一生懸命やるタイプで、外国のメディアが来てカンボジアの歴史を知りたいとリサーチを頼まれると一生懸命調べ、的確な資料を提供しました。もちろん説明は英語でしゃべるわけですから、そうやって英語を身につけていきました。頑張れば頑張るほど仕事も入ってきました。2004年にはイギリス人のニックと結婚して英語も上達しました(笑)。


*映画を作ろうと思ったきっかけ

― カンボジアのクルーで映画を作るまでには、外国の映画クルーとの仕事をしたことが経験になった?


ソト・クォーリーカー監督

監督:2001年、アンジェリーナ・ジョリーが出演した『トゥームレイダー』をカンボジアで撮影した時、セットで仕事をしました。映画ができあがった時にハリウッドに招待され、大きなスクリーンで作品を観て、あの時撮ったシーンが、こういう風になるんだと感動し、この時に私も自分で映画を撮ってみたいと思いました。
また、2005年、BBCがクメール・ルージュに関するドキュメンタリーを制作した時に、私がリサーチや通訳、取材をコーディネートしたのですが、その時、いろいろなリーダーをインタビューしていく中で、私はカンボジア人として非常につらい思いをしました。イギリス人は他人事なのでひとつの記録として撮っていくだけで感情的にならないけれど、私は違いました。この感情をどうにかしたいと思ったし、カンボジアの人たちはこのつらい時代をどう見ているのかというのを、カンボジア人の声で伝えたかった。外から見たカンボジアではなく、内から見たカンボジアを伝えたいと思いました。それが2005年くらいからでした。

―クメール・ルージュの時代に見たニュース映像で頭蓋骨の積まれた様がショッキングでした。今回、本物を撮影されたのでしょうか?

監督:あれ自体はセットだったのですが、カンボジアには田んぼの横に、各地にあのような頭蓋骨が積まれたストゥーパ(祠のような建物)があります。飢えで亡くなった人も多くて、畑にも骨がいっぱいあります。本物を撮影するのは心が痛むのでセットを作りましたが、リアリティを追及しました。

―アジア出身の映画監督3人が同一のテーマでオムニバス映画を製作する「アジア三面鏡」を撮っているそうですが、東京国際映画祭で上映されるのを楽しみにしています。


取材 記録:景山咲子 まとめ、写真:宮崎暁美


☆取材を終えて

 カンボジアではクメール・ルージュの時代のことを忘れないために、この時代のことが戒めのように話されているのかと思っていたら、この時代の話をするのはタブーになっていて、家族の中でも話さないとは思ってもみませんでした。主人公のお母さんは恋人が殺され、生き延びるためにポル・ポト派の軍人と結婚したのでしょうか。その後悔が、病の原因なのかもしれません。そういう苦い思いがある人もいるので、古い傷口に触れないようにカンボジアの人たちは生きてきたのかもしれません。
 ソポンのように気が強くて、自分の意見をいうような女の子はほとんどいないと言っていましたが、監督はこういう女性が出てきてほしいという願いを込めて、主人公をこういうキャラクターにしたのでしょう。(暁)



 2012年の東京国際映画祭で上映された『ゴールデン・スランバース』は、フランス生まれのカンボジア人ダヴィ・チュウ監督がクメール・ルージュ以前の映画史をたどったものでした。1960年からの15年間に約400本もの映画が作られていたのに、難を逃れたのはわずかな本数。 ダヴィ・チュウ監督が確認しているのは30本ですべてVCD。もとの素材はVHSで、個人的に集められていたもの。プリントが存在するかどうかは、わからないそうです。
2012年の東京国際映画祭で上映された『天女伝説プー・チュク・ソー』『怪奇ヘビ男』は、ティ・リム・クゥン監督がたまたまタイにいて持っていたプリント6本の内の2本。その他プリントが存在するのは、クゥン監督が米国にいる息子さんにあげた2本とのこと。難を逃れたのは、ほんとうに運。

『シアター・プノンペン』の中でも、映画人が粛清の対象になったことが語られていました。
監督にお話をお伺いして、文化がないがしろにされ、多くの人民が虐殺されたつらい記憶を心の奥深くにしまって暮らしている人たちがいることを、若い人たちに知ってもらいたいという監督の思いを強く感じたひと時でした。(咲)


    トーク                 監督、出演者、製作者                民族衣装の監督   

2014年 東京国際映画祭で

return to top

本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ: order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。