2016年4月23日(土)よりBunkamuraル・シネマほかにて全国順次ロードショー
急激に発展する中国社会で時代に翻弄されながらも力強く生きる女性の半生を、過去・現在・未来、1999年~2025年の26年に渡って描いた作品。
1999年、山西省・汾陽/フェンヤン。小学校教師のタオは、幼馴染みの炭鉱で働くリャンズーと実業家のジンシェンの二人から想いを寄せられていた。タオは三人の友情を大切にしていたが、実業家のジンシェンと結婚し息子を出産。息子はドルにちなんで、ダオラーと名付けられた。
2014年、ジンシェンと離婚をしていたタオは汾陽にいて、上海で父親と暮らす我が子への想いを胸に過ごす。そして、自分の父親の葬儀で息子ダオラーと再会する。しかし、離れて暮らす息子は都会っ子になっていてうまく会話ができず、意思の疎通が難しい。そしてダオラーから、近々オーストラリアに移住すると聞かされる。
2025年、オーストラリアに長く暮らすダオラーは中国語をほとんど忘れている。19歳になったダオラーは、大学の中国語教師ミアとの出会いで、中国に暮らす母親のことを思い出し、母を訪ねようとするが…。
原題 『山河故人』
監督・脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ
プロデューサー市山尚三
音楽:半野喜弘
出演:タオ:チャオ・タオ、ミア:シルヴィア・チャン、ジンシェン:チャン・イー、リャンズー:リャン・ジンドン、ダオラー:ドン・ズージェン
製作 2015年 製作国 中国・日本・フランス合作
配給:ビターズ・エンド、オフィス北野
公式HP http://www.bitters.co.jp/sanga/
ジャ・ジャンクー監督と、監督の第二作『プラットホーム』以降、すべての作品に出演しているチャオ・タオさんのお二人が、前作『罪の手ざわり』以来、二人そろって来日。記者会見を行った。
監督:皆さん、こんにちは。ほんとに嬉しいと思うのは、作品を皆さんにご紹介できて上映の機会に皆様にお目にかかれることです。感謝したいのは、ずっと信じてくださったオフィス北野さん、ビターズエンドさん、そして、映画を上映してくださる文化村ル・シネマさんにお礼を申し上げたいと思います。
目の状態がよくないので、サングラスをかけたりすると思いますがよろしくお願いします。
タオ:『山河ノスタルジア』が日本で公開されることになりましたが、待ちに待った機会です。日本の皆さんに観ていただけることを、心から嬉しく思います。
ありがとうございます。
― 監督に伺います。1999年から2025年の26年という長い時間を通して急激に発展する中国の移り変わりと、変わりゆく中でも変わらぬ人の心や故郷への思いを描いていると思いますが、そもそもこの作品を撮ろうと思ったきっかけを教えてください。
監督:前作『罪の手ざわり』を撮り終えて、これを撮りたいと構想し始めました。皆さんがご覧になると、前作と本作は違うように見えると思いますが、実は同じものを違う形で撮ったと僕は捉えています。なぜ、この2作品が似ているかというと、どちらの作品も中国社会の急激な変化や経済発展のもとで影響を受けた人々にかかわる話なのです。『罪の手ざわり』では暴力という形で顕在化して表に出てきました。貧富の差がもたらしたものや、社会的に危ないものを切り取りました。『山河ノスタルジア』の場合は、一般の人々の感情にどんな影響をもたらしたかを描いています。それは、なかなか語られないものだし、なかなか見てもらえないものだと思います。ヒロインのタオは、子供の親権を元夫に渡してしまっています。彼女が考えた価値基準は、夫のほうが収入がいいので、自分が育てるよりも子供にいい未来を与えられると思ったという点で、中国社会の今の風潮を表わしていると思います。かつての作品では、急激な変化による生存の危機に重きを置いて撮ってきました。今回は、感情の動きに重きを置いて撮ろうと思いました。それはなぜかというと、物語の中の人物もそうだし、僕自身もそうなのですが、社会の変化など外的な影響を受けていると思います。人の感情をないがしろにしてきたのではないかという思いがあります。
実生活の中で矛盾を感じているのは、生きる中で身近な人たちとの心の通い合いを大事にしたいのに、コミュニケートしたり、かかわる時間が非常に少なくなっています。撮ってみたかったのは、登場人物が26年間という長い時間の中で、どう変わっていったのかの過程です。時間の流れの中で、豊富に手に入れたものもあるけれど、その代償として失ったものもあると思います。
― チャオ・タオさんに伺います。25歳から50歳までの長い女性の半生を演じられる上で、どのような点を心がけられましたでしょうか?
タオ:タオという人物を演じるのは大きなチャレンジでした。やはり年齢の幅が大きいので、どうリアルに年齢に応じた演技ができるか。その年齢の人が持つ経験を役としてどのように出せるか、この二つのことが大きなチャレンジでした。この人物を演じるにあたって、二つのことが大きな演技上の経験になりました。一つは、2000年、『プラットホーム』で当時の若者がどうだったかを経験しました。次に、2011年、イタリアのアンドレア・セグア監督の『ある海辺の詩人~小さなヴェニスで~』で母親の役を演じました。若い時と母親の両方をこの2作で経験したことが大きな参考になりました。 20年代の若い女性から40年代の情感豊かな女性を演じるにあたり、相当の工夫がいるものでした。演じる上で身体的な面と情感的な面、それぞれの年代にあった形でどう演じ分けていくかが大きな課題でした。若いときの身体機能は特別なものがあります。若者はいろんなことを観るとすぐ興奮して大きな喜びを表現したりします。40代になると情感は豊かになりますが、だんだん若さが失われていくと、情感と身体が入れ替わるような感じです。それをどう演じるかが大きな課題でした。監督が脚本の中で語りたかったのは、タオだけの運命でなく、タオの人生をどのように辿っていくか。1999年、2014年、2025年という時間の幅がありますので、私にとっては間の空間の時間をタオがどう過ごしたかを空想によって考えて演じる必要がありました。撮影に入る前に、生まれてからタオがどんな人生を歩んだかをノートに書いていきました。小学校の時、中学校の時・・・と、そうするとタオが私の中で熟成していって、撮影の時にはタオという人物が作り上げられていました。
Q:冒頭とラストで使われていた『GO WEST』の曲は、どういう思いで使われたのでしょうか? この曲に対する想いなど聞かせてください。
監督:1999年の脚本で、ここから始めようと思いました。中国では2回目の急激な経済改革の年でした。今回の作品は登場人物を通して長いスタンスで描こうと思っていましたが、自分より上の年代の人の話を作るつもりはありませんでした。1999年は自分が若者だった。自分が経てきた時間に重ねて作ろうと思いました。脚本を書いていた時に、1990年代に仕事以外に若者は何をしていたのかなと思ったとき、ディスコのことを一番に思いました。1990年代なかばに大きな都市でディスコが流行りだして、1990年代後半には僕たちの小さな町にもディスコができました。僕もしょっちゅうディスコに行ってました。
『GO WEST』は皆に歓迎された人気のある曲でした。あの時代に流行っていた曲で、受け入れた人々の気持ちを反映していると思います。歌詞の内容が前に進んでいこうというもの。当時、ディスコで『GO WEST』がかかると、見知らぬ人とも手を繋いだり、肩を寄せて一緒になって踊りました。儀式的な感じもありました。ですので、この音楽で始めるのが的確なのではと思いました。皆で踊ってる姿を撮っているのですが、その後、その地を去っていく人もいるだろうし、亡くなる人もいる。最後に一人で踊っているのは、26年の時を象徴した設定です。
私は本音で思っているのですが、この作品を作ったのは仏教的な意味もあります。人間の生涯の中で生きる、死ぬ、老いる、病苦、そして縁という人間が現われて去って行くこと。縁があれば一緒になる。縁がなければ別れていく。人間の生命力を思うとき、人間の基本的営みをベースとして生命力が発揮されるように思います。
実は、ラストシーンをどうしようかと、撮影中にずっと考えていました。脚本を書き終えた時のラストは、これはもう一つ何か考えないといけないと思っていました。孤独だけど生命力のあるものを描ければいいなと思っていました。車の中で突然思いついたのは、雪の中で中年の女性が青春時代に聴いた曲を思いながら踊っている場面を思いついて、とても興奮しました。
Q:監督はいつも風景が重要だと思うのですが、映画と人生において、風景をどのようにとらえていますか?
監督:仕事上から答えます。脚本を書いたあとロケハンに出かけます。実際の風景を見て、脚本を書き直します。ですから風景に対するとらえ方というのは、ロケ場所に関していえば、影響力がある場所を探したい。スタッフにもいつもそこが何かもたらすところか考えてと言っている。
たとえば、冬の黄河は凍るじゃないですか。凍った風景は美しいだけでなく記憶を伴っていたり、凍った音も含まれます。花火をしたり、そういう記憶にもつながりますが、それも風景だと考えます。
僕が1999年に設定した風景と、未来の2025年に設定したオーストラリアの風景はすごく異なるものがあると思います。1999年の黄河の風景は、登場人物たちが生まれたり、育ったり、友情や愛情を育んだ場所でもあります。風景と人間との交流も濃蜜だったんじゃないかと思います。
移住先のオーストラリアの光景は、借りてきて住んでいる仮住まいという感情があります。オーストラリアの風景には大海原が出てきますよね。それも自分が昔いた場所との隔絶というか断絶も感じます。オーストラリアと故郷の風景に対する感情は違います。オーストラリアで出会った人たちとの関係性は、故郷で出会った人たちより浅いという感じがします。
風景の中には長い時間を経てきた風景や建物も好みます。フェンヤンの目印というかランドマークの塔は、以前の作品にも使いましたが、明の時代からあったものです。そういう建物などは時代の変化の中で危機にもさらされてきたし、その中で残ってきたものです。
人間の感情と同じで、時代がいかに変わっても母と子の感情は変わらないし、人間と人間のつながりや感情の問題は残っている。そうしてありながら古くからあるものが残っている。未来も残っているかもしれない。時代を経たという空間、黄河も含めて、そういったものを好みます。
そういうものを意図的に作品の中に入れたつもりです。
Q:この作品の中で、サリー・イップの「珍重」という歌が印象的に使われていますが、以前の作品『プラットホーム』でもサリー・イップの曲が使われていました。その時代のヒット曲を出すことで、時代を印象づけるという効果を狙っていると思いますが、監督自身もサリー・イップさんの歌が好きで、これを使いたかったということがありますか?
また、中国での公開では、こういう曲が出てきた時の観客の反応はどんな感じなのでしょう。
監督:おっしゃるとおりで、私もサリー・イップさんの曲はすごく好きです。ですからデビュー作だった『一瞬の夢』から始まって、『プラットホーム』『四川の歌』、今回の作品と、ずっと彼女の歌を使ってきました。サリー・イップさんの歌だけでなく80年代~90年頃の曲がすごく好きです。山口百恵さんの曲など、今でも聴きます。最近なぜその頃の歌が好きかということに気がつきました。その理由は、流行歌自体が変わったなと思うからです。今、流行っている流行歌にもいい曲がありますが、昔の曲のほうに、より深い情というのを感じています。
「珍重」(1990)の歌詞を書いた人は香港の人(潘偉源さん)ですが、お会いした時に彼の言っていることに一理あるなと思いました。別れの時「体に気をつけるんだよ。みたいな別れがたいようなタイトルになっているけど、今だったらバイバイの一言で終わってしまうんじゃないの」なんて言っていました。
さらにサリー・イップの曲が好きなのは、彼女の歌には「義」があるから。たとえば、今回の作品の主人公タオは、三角関係になってしまったリャンズーが病気になったときに助けようとした。それがやはり「義」だと思うんです。人間としての気持ち、大事な部分だと思います。でも、今はそれが薄くなってきているのではないかと思います。
Q:タオの夫ジンシェンはたくさんの銃を所有していましたが、なぜそんなに銃にこだわりがあったのか。今回は発砲はしてないですが、監督はそのことに何を込めたのでしょう。
監督:前作の時にあまりに発砲しすぎたので、今回は発砲を控えました(会場爆笑)。確かに銃というものが、その人の性格の表れというのもあるかと思います。炭鉱のオーナーでなくてもいいのですが、当時、個人的にオーナーというか、急に金持ちになった人というのは、どこかグレーゾーンというか、なんか真っ当な商売をしていないようなところがある。今回の登場人物にも象徴されている。彼らのロジックというのは野生的で、なにかあったときには暴力でというのの象徴かもしれません。ですからジンシェンがオーストラリアに移住しても銃が好きというのは、武力行使をして威勢を張って人に接してきた態度、生活に対する懐かしみみたいのもあるかもしれない。しかし、使う場所もないし、脅す相手もいないという無力感も表していると思います。
今、銃の話から思いついたのですが、文革の話をしたいと思います。人間というのは、どこか心理的、強制する力を持っているパワーに対する憧れや崇拝みたいなものを持っている人がいると思います。
Q:先ほど、前作『罪の手ざわり』とは、同じものを違う形で撮っていて共通しているとおっしゃっていましたが、父親が死んで、故郷に暮らすお母様への気持ちがフォーカスされていて、映画がその部分、感情のほうに寄って変化しているとおっしゃっていましたが、実際、映画監督になる道筋を応援していたと聞いていましたので、そのお父さんが亡くなったことや、母親への想いをどのように作品に織り込んだのでしょう。
監督:非常に大きな影響があったと思います。父は2006年に死んでいます。病院で死んでいるのですが、私にとって突然あっけなく死を迎えたという気持ちを持っています。父が死んだことによって家庭を意識しました。父親が元気だった頃は、彼がいたから自分は安心して、外で生きてきたのですが、亡くしてから自分は家族の一員であることを意識しました。
「鍵」のこともあります。自分が田舎に帰って、都会にもどる時に、母が私にフェンヤンの自宅の鍵を渡したのですが、その時に私は実家の鍵を持っていなかったということに気がつきました。このことを、この映画の中でタオがダオラーに鍵を渡すというシーンに折り込ました。
私が初めて映画を撮ったのは27歳で、この新作を撮った時は45歳でした。そして、これが生活なのかなと思いました。27歳から45歳までの生活の中で、出会った人、去った人、亡くなった人もいました。これが人生の秩序ってこういうものなのかなと思いました。
そういう物悲しい気持ちをもたらしたものは寛容だと思います。この作品に関して言えば、自分だけでなく、チャオ・タオさんにとっても、この作品を作っていくことが精神的につらかったり、大変な作業だと思いました。
監督:日本公開にあたって、日本の観客の方に支持してくださったらいいなと思います。特に若い方に観てもらいたい。人生というのは、ある年齢までこないとわからないということもあるんだけど、自分がこの作品を撮ってみて、映画というのはそこまでいかなくても体験することができるという機会になるので、若い方に観てもらいたいと思います。
チャオ・タオ:日本の観客の皆さまに映画館に足を運んでいただき、ぜひこの『山河ノスタルジア』を観てもらいたいと望んでいます。また、映画を観ていただいて、皆さまの一人一人の心の中に感動を届けられるように願っています。
去年11月(2015年)、東京フィルメックスで『山河ノスタルジア』が上映された時のトークで、ジャ・ジャンクー監督は、原題『山河故人』の意味は?の問いに「山河」は変わることのない景色、「故人」は中国語では旧知の友を意味する。「私は中国語の〝故〟という字が好きです」。「故」は、「昔」「過去」などの意味があり、時間性をはらむ言葉だからだという。「〝山河〟は空間、〝故〟は時間でストーリーを語ることができます」と語っていた。
今までジャ・ジャンクー監督の写真はずいぶん撮ってきたが、笑っている顔がほとんどなく、渋い表情の写真が多かった。今回、『山河ノスタルジア』では、東京フィルメックス、記者会見と2回ジャ・ジャンクー監督の写真を撮ったけど、何度か笑い顔が撮れた。余裕ができ、観客の前でリラックスした表情を見せるようになったのかなと思った。(暁)
『山河ノスタルジア』を観て、時が流れ、社会が大きく変化し、自分を取り巻く環境が変わっても、生まれ育った故郷への思いは遠く離れていても変わらないことをしみじみと感じた。
記者会見の案内をいただき、途中で退出しなければならない用事があったのだが、ジャ・ジャンクー監督がどんな思いでこの映画を作られたのかを直に聞いてみたくて参加した。
冒頭と最後に流れる「GO WEST」の曲についての質問に答えられた中で、監督自身、ディスコの流行った時代によく通って、「GO WEST」が流れると、知らない人とも一体となって踊っていたと聞き、監督の踊る姿を想像して微笑ましく思った。私にもそんな時代があったが、もっとさかのぼって1975年頃のことだ。人は、親や友との思い出を胸に抱えて生きているのだなぁ~とつくづく思う。(咲)