2011年1月18日(火) 14:15~15:00 於 松竹12階会議室
1976年に中国河北省で実際に起こった20世紀最大の震災「唐山大地震」により悲劇的な別れをしなければならなかった、ある家族の物語。
当初、2011年3月26日(土)に日本での公開を予定していましたが、その直前、3月11日に東日本大震災が発生。公開が延期されました。
東日本大震災から、早や4年が経とうとしています。直接被害を受けていない者には過去の事となっている大震災も、被災された方たちにとっては、まだまだ現実のこと。
本作は、大地震で被災された人々のその後と家族の絆を見つめた「心の復興」を描いた映画。被災された方々がご覧になるには、まだまだつらいものがあると思います。4年経った今、この映画が公開される意味は、2011年の3月11日が過去のことになっている私たちに、被災された方々の気持ちを思い起こさせてくれることにあるのではと思います。
公開されるのを機会に、2011年1月18日に行われた4誌合同での馮小剛(フォン・シャオガン)監督インタビューを特別記事としてお届けします。
*ストーリー*
1976年7月28日、中国・唐山市を大地震が襲う。建物が倒壊し夫を失った母は、翌朝、瓦礫の下で双子の姉弟が生きているのを知る。どちらか一人しか助けられないと言われ、「息子を・・・」と苦渋の選択をする母。息絶え絶えの中でその声を聞いていた姉は奇跡的に生き延び救援隊の夫婦の養女となる。そして32年が経ち、四川大地震の現場に駆けつけた姉は弟と再会する・・・
公式サイト:http://tozan-movie.com/
★2015年3月14日(土)より東劇、立川シネマシティほかで全国ロードショー
1958年北京生まれ。脚本家を経て92年、中国の現代都市生活をテーマにした「Gone Forever with My Love」で監督デビュー。『夢の請負人』(97)、『遥かなる想い』(98)、『ミレニアム・ラブ』(99)、「ハッピー・フューネラル」(01)など、旧正月公開のコメディー映画を中心に国内で次々とヒットを飛ばし、「中国で最も興行収入を稼げる」監督の1人と呼ばれる。
下記タイトルのうち、日本語タイトルがあるものは、日本公開、または映画祭で上映されている。
2011年1月18日、前日、16年前に阪神大震災が起こった神戸を訪問された監督に4誌合同でお話を伺いました。
― 私の故郷が神戸なのですが、お嬢さんを亡くした同級生が、震災から10年経った年に、10年目の節目と大きく報道されたのを「節目なんてない」と言った言葉がぐさりと胸に突き刺さったのを思い出しました。心の傷はいつまでも癒されないことを思い知りました。唐山の方たちがエキストラで大勢参加されていますが、唐山の人々から聞いた言葉を映画に生かされた例はありますか?
監督: 送り火を炊くシーンで、唐山市のたくさんの人にエキストラで参加していただきました。そのシーンの役者のセリフは脚本家の考えたものでなく、彼らが実際に語っていた言葉をセリフとしてそのまま使いました。一人、ずっと紙を燃やしながら怒っていた人がいて、彼女は14歳のときに家族14人のうち13人が亡くなって自分一人が生き残ってしまい、どんなに辛かったかとののしっていました。そういう風にののしるとは思いもつきませんでした。それほどまでに痛みや悲しみが強かったのだと思います。多くの遺族が自分の家の跡がデパートになったなどと語り、魂に向って現住所を言っていました。映画の中で、息子が新しいところへ移ろうと誘ったとき、母親に「もう魂に向って新しい住所を言えない」というセリフを言わせました。
― 母と娘の関係という女性の視点で描いたのはなぜですか?
監督: 元々原作自体女性が書いたもの。母の選択が女性の視点で描かれていたので、そこから離れることなく映画も作ることにしました。原作は娘の内心が中心でしたが、映画は母親の内心を中心に描いているところが大きく異なる点です。娘も母もどちらも傷つくのですが、観客として母の傷ついた気持ちに、より目がいくのではないかと思いました。また、脚本も女性であるス・ウ(思蕪*注)さんが担当したのですが、母親の気持ちを中心にするほうが書きやすかったと言われました。娘を中心に描こうとすると難しかったようです。
*編集部注 思蕪さんは霍建起(フォ・ジェンチー)監督の妻で、『山の郵便配達』『ションヤンの酒家』『初恋の想い出』などの脚本を担当。シネマジャーナル51号に『山の郵便配達』でのインタビュー記事が掲載されています。
― 息子が母を思う気持ちにも感動しました。監督自身のお母さんへの気持ちを投影しているのでしょうか?
監督: 大多数の人は親への思いをもっていても、時間がなくて親孝行する余裕がなかったりすると思います。私の映画を観て親に電話して、「今度の休みには必ず帰る」などと電話したと聞いています。嬉しいことです。
― 地震が起こった時、二人の内、どちらかを助けるという究極の選択を迫られたら、監督だったらどうされますか?
監督:どっちがより生き延びて欲しいか判断せざるをえないでしょうね。
― 映画が中国国内で大ヒットしましたが、興行収入の一部を地震被害を受けた方に寄付するなどのことをされたのでしょうか?
監督: 収益の一部を遺族年金に寄付しました。また、唐山市が映画に出資していたのですが、回収できましたので、返すことができました。
― なぜ監督を志されたのですか? 好きな監督や作品は?
監督: 最初に映画を観たのは、野原で行われた露天映画でした。その時から映画に興味を持ちましたが、監督になろうとか、なれるとは思っていませんでした。家族に映画関係者もいないですし。元々、美術を学んだのですが、第五世代が出てきて、彼らの作品を観ていて、映画表現がこれまでの仕方をひっくり返そうとしているのを観て、自分も映画を製作したいと興味を持つようになりました。美術から始め、脚本作りをし、それを他の人が撮ったのを観た時に、自分の脚本でありながら満足できず、自分で作ることにしました。初めは、テレビドラマの脚本を書いて撮りました。視聴率も高かったです。その頃、映画界が低迷していたので、自分でお金を集めて映画を作ろうと思いました。テレビドラマの視聴率がよかったので、映画も当るだろうと思いました。お蔭様で自分の映画は最初からヒットしました。10数本作りましたが、ヒットしなかった作品はなく、おそらく、自分と観客の距離が近いからだと思います。
影響を受けた監督は大勢いますが、特に第4世代の監督です。好きなのは、第5世代の張芸謀、陳凱歌や田荘荘。外国では、ウディ・アレン、マーティン・スコセッシ、スピルバーグ。日本では古くは黒澤、小津。最近では『おくりびと』。アジアの映画でもハリウッドに対抗できる影響力のある作品が作れることを示したと思います。
― 監督の映画こそハリウッドに対抗できると思います。アジアの映画がどうすればハリウッドに対抗できると思いますか?
監督: 若い映画監督を目指す人に言いたいのは、ハリウッドと競うというより、自分の情感を大事にすること。自分の住む地にマッチするものを撮ることだと思います。その国に密着した話はハリウッドの人々には撮れないものです。アジアの映画はまだまだ伸びる可能性があります。ハリウッドは天井に届いています。中国は、現在6千スクリーンですが、3~4万スクリーンに増える可能性があります。アジア映画の未来はあると思います。東洋の人に共通する情感というものがあります。『唐山大地震』も日本の人に受け入れやすいと思います。シンガポール、その他アジアの国で共同製作して、より良い映画が作れればと思います。中国・日本・韓国の3国だけでも市場が大きいです。ハリウッドに負けない収益をあげられると思います。
― 冒頭のシーンは超スペクタルでしたが、家族の絆に目線をおいたのは?
監督: そこがハリウッドのディザスタームービーと違うところです。災害の様子を見せるなら、ドキュメンタリーで撮ったほうがいい。地震のあとに残された人生をどう生きてきたかに興味を持って本作を作りました。
一つ一つの質問に丁寧に答えてくださった監督。お陰で、私に2問目の順番は回ってきませんでした。フォトセッション。「笑ってください」のお願いに、「作り笑いはできないので・・・」と、数多くのコメディを作ってきた監督らしからぬ言葉でした。
作風が『女帝』あたりから、従来のコメディタッチでないものが増えたことについて、それまでと自分の中で作品作りの方法やイメージが変わったかについて伺ってほしいという宮崎さんの希望を叶えられず残念! (咲)
★これは、2011年当時に書いた取材を終えてのノー天気な感想です。 取材した時にも、原稿を書いた時にも、未曽有の大震災が起こることなど予想もしていませんでした。故郷である神戸も、表向きにはすっかり綺麗になって、地震で被害を受けた友人たちの思いも、すっかり忘れていました。 今年、阪神淡路大震災から20年を迎え、1月17日の未明には神戸の東遊園地公園をはじめ、各地で慰霊祭が行われました。20年経っても、家族を失った悲しみは癒えないことを、報道からもつくづく感じました。決して時が解決してくれるものではないことを・・・ 2015年3月 景山咲子
2011年当時はまだ会社員で、平日に休みを取って監督インタビューに行くということはできず、お会いできませんでした。あれから4年たって、東日本大震災があった後、再度、この作品を観ると、揺れのところや、救援シーンがよりリアルに感じました。地震で生き別れてしまった娘と会えるまでの32年間、まさか娘が生きているとは思ってもいなかった母親と娘の再会はやはり感動のシーンでした。それにしても、唐山大地震32年後に起こった四川大地震の救援の場で姉弟が再会するという設定はできすぎともいえるけど、ここでは二人が姉弟とわかり合うシーンはなく、一緒に母の元に帰るというかたちで表している。
この作品は、馮小剛監督には珍しい、王道の「催涙弾映画」でした。(暁)