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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『KANO~1931海の向こうの甲子園~』
ウェイ・ダーション【プロデューサー・脚本】
& マー・ジーシアン【監督】
来日会見報告

2014年12月1日 ソニー乃木坂ビルにて


台湾が日本に統治されていた1931年。日本人、台湾人、原住民で構成された嘉義農林学校野球部(KANO)が、日本人監督の指導のもと、台湾代表として夏の甲子園に出場し、決勝まで勝ち進んだ。
『KANO~1931海の向こうの甲子園』は、その実話を基に、『海角七号/君想う、国境の南』や『セデック・バレ』のウェイ・ダーション(魏德聖)監督が企画を練り製作総指揮を取って作り上げた感動の物語。監督を託したマー・ジーシアン(馬志翔)と共に12月初旬に来日し、記者会見が行われました。
1月24日(土)から新宿バルト9ほか全国で公開されるのを目前に、記者会見の模様をお届けします。


>>作品紹介

『KANO~1931海の向こうの甲子園』(C)果子電影


◎フォトセッション

待ち構える取材陣の前に颯爽と登場したマー・ジーシアン(馬志翔)監督とウェイ・ダーション(魏德聖)。まずはフォトセッション。


製作総指揮のウェイ・ダーション(左)とマー・ジーシアン監督(右)

ウェイ・ダーションには、記者たちも『海角七号/君想う、国境の南』や『セデック・バレ』でお馴染み。 本作が初監督映画となるマー・ジーシアンは、俳優としても活躍している背が高く精悍な方。父親はセデック族で、映画『セデック・バレ』ではセデック族の頭目役を演じていました。


◎挨拶

マー監督(マー・ジーシアン):皆さん、こんにちは。今日はご来場ありがとうございます。今日の記者会見が順調にいきますようよろしくお願いします。

ウェイ(ウェイ・ダーション):初めて日本で盛大な記者会見を開かせていただきました。皆様の力をお借りしまして、この素晴らしい映画をぜひ紹介していただければ嬉しいです。


◎司会者より代表質問

◆始まりは、本屋で目に留まった「1931年」

― プロデューサーのウェイ・ダーションさんより、この映画の企画のきっかけをお聞かせください。

ウェイ:2006年にこの実話を知って、とりあえず脚本を完成させていこうと思いました。『セデック・バレ』の製作に入り、その後にもう一度脚本を推敲して行く中で完成させるというシンプルなプロセスでした。

― この歴史的な物語をどこで知ったのですか?

ウェイ:『セデック・バレ』の製作途中、カット割りを描いていた段階で資金難に見舞われ困っていました。でも、諦めずに描き続けていました。すごく疲れて、ちょっとぶらぶらしようと町に出て本屋にふらっと入った時に、1931年の歴史の本が目に止まりました。『セデック・バレ』が1930年の出来事でしたので、その翌年の1931年に惹かれました。年号にピンときたのです。読み進むうち面白くて興奮して、台湾から甲子園に出場したチームのことを初めて知って、映画にしたいと思いました。

― 監督にお伺いします。ウェイ・ダーションさんから映画化の話を聞いた時に、どのように思いましたか?

マー監督:ものづくりをする者にとって、いつ閃きがあるかというのは、ごくシンプルなきっかけだと思います。プロデューサーを感動させた物語に私もすっかり魅入られてしまいました。そのような感動的な話ならぜひ映画にしなくてはと思いました。そうして製作が始まりました。ウェイさんを感動させた物語の中で、ある信念を伝えたいというのが製作の始まりでした。信念をどう伝えるか? いつも何かしら我々は未来にばかりに目を向けているけれど、過去を振り返って、歴史の中にこそ何かしら人を感動させるものがあるのではないかと思いました。台湾の野球チームが甲子園に行ったという話は、台湾の人々にとって誇りであり、前に進む力と勇気を与えてくれると思いました。日本の50年にわたる統治時代にも、双方で築いた共通の記憶があるということを再認識すべきだと思いました。


◎会場よりの質疑応答

◆野球に熱狂的に取り組める人に監督を委ねた

― ウェイさんにお伺いしたいのですが、今回、監督でなくプロデューサーに徹したのはどうしてですか? マー・ジーシアンさんに監督を任せようと思った理由は? また、マーさんには監督を託された時のお気持ちをお聞かせください。

ウェイ:なぜ自身で監督しなかったか・・・ この物語をきちんと映画に仕立て上げたいと思ったので、自分が監督でなくてもよかったのです。仕上げることが第一でした。特にKANOについては、私自身、野球をあまり知らない。試合運びについて知識もないので、野球に熱狂的に取り組める人が監督をするべきだと思いました。マーさんが少年野球チームに入っていたと知って、これまでのTV作品を観てみました。演出力を確信しました。演出の基礎があれば、映画も大丈夫。私は人間ドラマの部分は撮れるけれど、野球の部分を私が撮ったら皆が寝てしまうと思いました。それで、野球を熟知した人にお願いしたのです。

マー監督:任せていただいて嬉しかった。すごいプレゼントでした。小さい時にすごく欲しかったものを貰ったのと同じ、やった~!という気持ちでした。脚本を初めてパソコンで読んだ時、キーボードが涙と汗で濡れてしまいました。感動しました。このチャンスをちゃんとやり遂げようと思いました。感激して興奮したけど、一方でちゃんと撮れるかという心配もありました。頑張るしかないと勉強しました。チームのスタッフも支えてくれました。私のやりたいという信念を信じてくれて、心から感謝しています。


◆ダムを作った功労者・八田與一を映画に織り交ぜた思い

― 甲子園というと球児の憧れの地で、日本の若者が観て、台湾と日本の歴史を知って貰うこともできると嬉しい映画でした。八田與一のことも時代は少し違うけれども織り交ぜたところに感心しました。八田與一のことを取り上げた思いをお聞かせください。

ウェイ:八田與一のことをいつか映画で撮りたいと思っていました。脚本を考えた時、最初はもっと嘉義農林の野球チームに焦点が当っていました。でも、それだけでは土地と歴史の結びつきに何かが足りないという思いがあって、以前から関心のあった八田與一を入れようと思いました。映画にするには、撮影面で難度が高かった八田與一の物語を嘉義農林と結びつけて脚本にしました。八田與一が設計して作った華南大洲の工事が完成した時と、嘉義農林が甲子園に行った時期は、半年くらいしか変わりません。華南大洲という大きなダムが完成して収穫高が10倍にあがるという歴史的なことでした。嘉義にランドマークとして噴水が出来たのも同じ年です。嘉義農林も農業高校ですので水と繋がりがあります。農業学校だったことがポイントです。1931年という年に、工業、農業、野球の3つが水をキーワードに結び付き、人と土地を結びつけるドラマが出来上がりました。


『KANO~1931海の向こうの甲子園』(C)果子電影

◆甲子園で観客の熱気に感動

― 甲子園に実際に立たれた時のお気持ちはいかがでしたか?

マー監督:甲子園のことは小さい時からよく聞いていました。映画を製作するにあたって、春の選抜を観にいって観客の熱気や球児たちの熱い闘いぶりに感動しました。2回目に訪れたのは、今年の夏。決勝戦を観にいきました。映画に出演した少年たちと台湾の優勝チームの選手たちを連れて行きました。その時、ウェイ・ダーションさんが台湾の優勝チームに「ここで勝てると思う?」と聞いたら、彼らは「負けないと思う。こんなに熱く声援をおくってくれる野球ファンの人たちがいたら闘い抜けると思う」と感動して答えていました。我々も80数年前に、この場所で台湾のチームが素晴らしい闘いをしたことをひしひしと感じて、素晴らしい甲子園訪問となりました。

ウェイ:私自身も今年初めて訪れて、甲子園という素晴らしい場で闘うために、球児たちがどれほど鍛えて努力してきたかを見ることができました。それ以上に観客が作り出す奇跡をあの場にいって実感しました。心からの声援をおくってくれることによって、球児たちがグラウンドを走り回り球を追う素晴らしいプレイの奇跡が生み出されます。台湾でもこんな状況があれば、力以上の闘いが出来ると思います。足が折れ、手に怪我をしようとも、あれだけの声援があったら頑張れると思いました。この映画の中でも投手が手に傷を負っても投げ続けました。それが応援の凄さです。甲子園のパワーの半分以上は観客が作り出すものだと思います。


『KANO~1931海の向こうの甲子園』(C)果子電影

◆苦労して甲子園の土を作りだした

― 甲子園から台湾に帰る船の中で、ビンに入った甲子園の土を掲げて皆で眺める場面がありましたが、実際に甲子園の土だったのでしょうか?

マー監督:土は残念ながら甲子園のものではないです。そこまで資金がありませんでした。甲子園の黒い土を表現するのに美術さんは苦労しました。黒い土と白い砂を混ぜて再現しようとしました。試合の場面では、タイヤをつぶして土に混ぜて黒くして当時の雰囲気を出すようにしました。画面にどれだけ雰囲気を出せるか・・・ 台湾の黒土を使いましたが、太陽に焼かれると白っぽくなるのでタイヤを混ぜて使ったのです。白い砂がちょっと混じっているといい雰囲気になりました。選手が走った時に舞い上がる土ぼこりが映画的にかっこよく撮れたのではと思います。
甲子園の土は貴重な記念すべきものなので、気をつけて再現しました。甲子園を撮ることは非常に難度が高いものでした。当時と今では違います。私たちの撮った年代の初代甲子園を再現するのに、関係者や朝日新聞の方などにいろんな方に話を伺って、なるべく近づけるよう工夫しました。


◆台湾代表選手ツァオ・ヨウニンが映画でも活躍

― ベースの4番・呉明捷役のツァオ・ヨウニン(曹佑寧)さんは、21歳以下のワールドカップの台湾代表の中心選手として活躍され、決勝では日本代表を見事撃破しました。大会のベスト9にも選ばれて驚きました。彼の勇ましい姿をどのように思っておられますか?(質問されたのは、文化放送のアナウンサーの方)

マー監督:すみませんね。日本の皆さん。今年の優勝をいただきました。(会場 笑)
キャスティングに関しては、高いハードルがありました。現在、野球をやっている人、経験のある人の二つの条件がまずありました。甲子園に出場するほどのチームなので、説得力のある技術力を持った人でないといけない。ツァオ・ヨウニンは、小中高大を通じてナショナルチームに所属。映画の為に、1年休学することになりました。お父さんが映画に出ると野球がおろそかになると心配して反対しました。でも、彼自身で「これは勉強しにいくことになるのだから」とお父さんを説得しました。彼の様な若者が様々な経験を積むことはいいことだと思います。『KANO』の撮影後もナショナルチームに選ばれて活躍して優勝に導いています。彼の奮闘の中にKANOのスピリットが生きているのではと活躍を喜んでいます。

ウェイ:もちろん彼の活躍ぶりを喜んでいます。今回、プロモーションに彼も来日するはずでしたが、野球の練習があるから来られないという彼の選択を尊重しました。映画の撮影も終わって野球の世界に戻っていて、そちらで活躍してほしいと思いますので。
『海角7号』『セデック・バレ』『KANO』と撮ってきて、感銘を受けたのがチームの力です。彼のような若者も団結の力や他人とどう渡り合っていくかを映画の撮影を通じて学んでいったと思います。

マー監督:永瀬正敏さんが、「もしツァオ・ヨウニンが日本の野球界に入って活躍したら、毎回毎回全部観に行きます」とおっしゃってました。その時には、皆さん、ツァオ・ヨウニンの活躍を宜しくお願いします。盗撮しても大丈夫です! (会場 笑)

― 彼は野球選手になるべきか、俳優になるべきか、どちらだと思いますか?

ウェイ:そのことについて彼とも話したことがあります。両方手に入れるよう努力すべきと言いました。自分の専門の仕事のために頑張るだけでなく、好きなことの為に頑張るのもいいことだと言いました。好きなことに頑張るのは、仕事の為にもいいことだと思います。

マー監督:両方ともやるからには、両方きっちりやるべきと言いました。彼はよく私に連絡してくるのですが、礼儀正しくていい子です。有名になってもおごり高ぶることもなく素直ないい若者です。


『KANO~1931海の向こうの甲子園』(C)果子電影

◆大事なのは映画で伝えたい信念、そして観客に喜んでもらうこと

― 感動的な映画の大ヒットおめでとうございます。有力視されていた金馬奨が無冠に終ったのは中国の横槍という話もありますが、率直なところ、どのように感じていらっしゃるでしょうか?

(答えるのを譲り合うマー監督とウェイ・ダーション)

ウェイ:ちょっと言いづらいですね・・・ 毎回、いろんな賞にノミネートされるたびに、会社からすべてのキャスト・スタッフにメールで「ノミネートされましたが、その度に、皆がほんとに力を尽くして映画を作り上げたことを思い出してほしい。それが一番大事。誠心誠意尽してやり遂げたことを世の中の皆に知ってもらえればいいという気概を持っていればいい」と伝えます。ノミネートされた人、されなかった人についても、同じように伝えています。賞を得るかどうか、また、一位が最強なのかどうかは疑わしい。受賞作は毎年テイストが違います。雰囲気で異なってくるのではないかと思います。今回は、観客賞と国際批評家連盟賞をすでに貰っていたので、金馬奨が貰えなくてもいいんじゃないかと思っていました。でも当日、受賞しなかった時にはがっくりして、やっぱり気にしていたのだなと思いました。でも、プロセスこそが大事だと再確認しました。嘉義農林が甲子園の決勝戦で準優勝になってしまいましたが、優勝チームが一番素晴らしいかどうかは別の問題だと思います。嘉義農林はその闘いぶりが5万5千人の観客を大感激させました。我々も受賞結果については気にしない。観客にどのようなスピリットを伝えることができるかが大事だと思いました。

マー監督:私も同様、映画を撮る最終目的は金馬奨じゃなく、なんといっても観客に受け入れていただき喜んでもらうことが一番大事なことだと。伝えたかった信念は、試合に負けても自分に勝つということ。決して諦めないというメッセ―ジを込めています。ノミネート自体嬉しかった。努力の結果がそこに現われていますので。私自身は賞がどうこうより、映画でいろんな人と交流できるのが嬉しいです。努力が足りなかったとしたら問題ですが。私の姓は馬ですので、金馬奨は、まぁいいんじゃないかと思います。(会場 笑)

― 大阪アジアン映画祭、台北映画祭、金馬奨、3つの「観客賞」を受賞され、観客にこれだけ支持されたということが嬉しいです。プロモーションであちこち回られ、特にマー監督はアメリカからお帰りになったばかりですが、各地での反応をお聞かせください。

マー監督:自分でいうのは照れくさいのですが、いろんなところで上映するたびにいろんな反応をいただいて嬉しかったです。素晴らしいという一方、けなす人も勿論いました。相対的に素晴らしい反響ばかりでした。特に大阪アジアン映画祭での熱狂的な反響は感動的でした。台湾で上映した時よりも凄かったです。アメリカでの巡回上映では、アメリカ人だけでなく台湾人や日本人も観にきてくださって驚きました。その時に確信したのは、映画には国境がない。映画は皆に通じる共通の言語で、どこの国にいっても心を通い合わせることができるものだなと思いました。皆さんに心からありがとうと言いたいです。


◆映画を通じて今の台湾の成り立ちを知ってほしい

―日本と台湾の関係をあまり知らなかったことに愕然として映画を作り始めて、3本の映画として帰結し、ヒットしたことへの思いは?

ウェイ:私自身、なぜ観客は映画を観るか?と考えました。素晴らしい、面白い・・・ これまでの3本、日本との複雑な関係からスタートしたのは、近代史を振り返らないといけないという思いからです。二本の映画の後、日本と中国が台湾に与えた影響は近代史で大きな意味合いがあると。そこを見るべきと思いました。台湾人自身が台湾人がどういう地で、どういう人たちかが見えてない。過去、日本の統治下にあった日本との関係から台湾がこうなっている。もう一つは中国。台湾の存在感を確認していくことが必要。今の台湾は過去に始まっている。包帯で包まれているものを、剥ぎ取れば、ほんとうの顔が見える。台湾の生存を考えるとき、なぜ生存しているかと考えるのが使命だと感じました。なぜそこにいるかを考えてほしい。自分の出身、そして今どうなっているのかを理解してほしいと思ったからです。


◎最後のメッセージ

マー監督:この映画を通じて、より多くの人に自分の過去を知ってほしいと思います。未来に目を向けがちですが、過去を知ることがいかに重要か考えていただければと思います。映画が伝えるメッセージは信念です。どこにいても、何をしても、諦めずにやり続けるというメッセージが伝わればと思います。


マー・ジーシアン監督


ウェイ:映画の原点に戻って、この映画が素晴らしいと思っていただければ嬉しいです。笑いもあり、涙もあります。呼吸のリズムも思い出してください。一人一人の観客にどれくらい届くか、また人生に影響するか・・・ 決断を迫られる時、KANOの諦めないというメッセージを思い出していただければと思います。


製作総指揮のウェイ・ダーション


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15歳まで神戸に住んでいた私にとって、甲子園は身近な存在でした。テレビで高校野球を見ていて展開が面白くなって、電車に乗って試合の行方を観に駆けつけたこともありました。中学3年生になった春の選抜に、父が教鞭を取っていた兵庫高校が出場。地元なので、応援の数は半端じゃなく多かったのですが対戦相手が強すぎました。(その年の優勝校でした!) 次々にホームランを打たれて、確か20数点差。それでも最後まで声援をおくったのを思い出します。監督もおっしゃっていたように、甲子園の雰囲気は格別のもの。あの熱気の中で、球児たちは甲子園に出場できたことを実感するのではないでしょうか。
そして、高校野球といえば、負けたチームの選手たちが悔し涙でぐちゃぐちゃになりながら、甲子園の土を記念に袋に詰める姿が私には何よりじ~んときたものです。台湾に帰る船の中で、皆で甲子園の土を眺めるシーンがあったので、土が本物の甲子園のものだったかを質問してみました。
そして、あの船のシーンでは、外国航路の船長をしていた母方の祖父のことに思いを馳せました。台湾航路も担当していたそうなので、もしかして嘉義農林のチームが乗っていたかも? 1930年代半ばに祖父は船長をやめて台湾の基隆の港で水先案内人に転職、母は小学校から女学校までを基隆で過ごしていました。母からよく聞かされた日本の統治時代の台湾に郷愁を感じます。その一方で、なぜ日本が台湾を統治していたのか?という思いもあります。
そんな中で、日本人と台湾人、そして原住民が同じ学校で学んでいた嘉義農林学校の野球部の物語は心温まるものとして素直に受け入れたい歴史の一面です。当時の球児たちが持ち帰った甲子園の土は、今も孫やひ孫たちに受け継がれて家宝になっているのではないかと密かに思う私です。(咲)

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(取材:景山 咲子)
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