1970年、日本で初めてウーマンリブ大会が開催され、日本のリブの運動が始まってから約45年。運動に参加した女性たちも年を重ね老境に入った。
一昨年、創刊50年を迎えた主婦の投稿誌「ワイフ」の元編集長田中喜美子さんの「私の仲間が、次々死んでしまうのよ。日本のフェミニストたちを映像に残せるのは今しかない」という思いがきっかけでこの作品は作られた。
男社会から疎まれ、同性たちに誤解され偏見の目で見られても、自分の信じる道を切り開いてきたリブの女たち。彼女たちの活動の軌跡や歴史、生き方を、10数人の女性たちにインタビューし紹介している。
監督 松井久子 企画 田中喜美子
1946年生まれ、東京出身。早稲田大学第一文学部演劇科卒業。
雑誌ライターを経て、俳優プロダクションを設立し、数多くの俳優のマネージメントを手がける。1985年(株)エッセン・コミュニケーションズを設立し、テレビドラマやドキュメンタリーのプロデューサーとして活躍。
1998年「ユキエ」で映画監督デビュー、内外の映画祭で高い評価を得る。第2作「折り梅」(2002年公開)では脚本も手がけ、公開から2年間で100万人の観客を動員。第3作映画『レオニー』は、2010年11月より全国ロードショー。2013年春からは、アメリカをはじめ世界各国の劇場ロードショーを果たす。
M:あいち国際女性映画祭での作品上映後のトークで、この映画を作ったきっかけは、「ワイフ」元編集長田中貴美子さんの「まわりにいる女性たちが、亡くなっていくのを見て、彼女たちのことを記録しておかなくては」という思いとおっしゃっていましたが、具体的には、どのような経緯があったのですか?
松井久子監督:依頼があったのは1年前の1月。一昨年(2013年)の11月に、「ワイフ」50周年のイベントがあり、ワイフ4代目編集長が知り合いで、依頼されて「ワイフの50年」という映像を作りシンポジウムで上映したんですが、二代目編集長の田中さんがそれを見て、「こんなに映像というものがわかりやすいのか、映像の力ってすごいのね」とびっくりされて、「私たちはたくさんの文字を残してきたけれど、読む人も限られている。だから私たちがやってきたことを次世代に伝えるために映像にして観てもらいたい。吉武輝子さんや俵萌子さんなど、自分の仲間たちが亡くなってきているし、私たちが元気なうちに映像を残したい」という田中さんの思いからスタートしました。
M:この作品を作ったいきさつについて、松井さんは、当時(1970年代)、リブに対して距離をおいていたけど、「資料を読み進めるうち、このテーマこそ今の私が真正面から向き合うべきものだと気づかされることになった」と、HPに掲載されていましたがどのようなことだったんですか。
監督:私はフェミニストの人たちと同世代ですが、若い頃、彼女たちと何か行動をしたりとかはなかったんです。気にはなっていたけど距離を持っていました。それで、まずは彼女たちが残した、書かれたものを読んでみたいと、60冊くらい本を読みました。そうしたら、この方たちが私と同じ思いだったと気づいたんですね。
ただ、私が彼女たちと少し違うのは、男社会の中でこの人たちが言っていることを、身を持って体験してきたことだと思いました。それが大きくて、この年齢になってこれまでの人生でやり残した宿題をするということは運命的だなと思いこんでしまいました。
田中さんや、上野千鶴子さんにアドバイスをいただきながらジャンルごとに人選をしました。ほとんどの方が初対面でした。田中喜美子さんとは、ワイフ50年の時に知り合ったので、数回しか会っていないし、私の今までの作品もご存知なかったのですが、「せっかく出会ったんだから作ってみない?」と気軽におっしゃってくれたんです。上野千鶴子さんは、過去に『レオニー』など、劇映画を作った私が作るというのが面白いと思ってくれた。
しかし、『ユキエ』とか『折り梅』とかも、根っこは同じだと思いました。普通の女の人の中の心の叫びとか、夫婦関係でお互いに尊重して向き合うというような作品を作ってきました。今まで、私が撮ってきたのは「女の心の叫び」というものだったと思うので、私としては皆さんがびっくりするほど、遠いものではなかったのです。
『レオニー』は、『ユキエ』とか『折り梅』よりも、ちょっと女の主体性みたいなものを前に出した。それで今度はもっとまわりを気にすることなく本音を前に出したいということで、私の中では繋がっているんです。
M:以前の作品を観ている人は、それを感じ取れると思います。前3作があったから、この作品を、このような形で撮れたと思います。
監督:そうなんです。私の応援者の中で、「松井さんは、何か違うほうに行っちゃった」という人もいらっしゃるけど、観ていただければわかってくれると思います。
M:リブ運動をやっていた彼女たちの思いは自分たちと同じだったんだということが、この映画を観るとわかってもらえると思います。私も松井さんと同じように、リブの人たちのことをマスコミの報道からしか知らず、「突飛な行動をしている女たち」と見ていました。リブの運動は1970年ころから始まっていますが、私が彼女たちへの誤解を解いたのが1975年でしたから、5年もの間、彼女たちを奇異な目で見ていました。
監督:取材してみると、中でも小西綾さんと駒尺喜美さんがなさっていたこと、あの方たちがいたから、わりと誰でも入りやすかったというのがあったと思います。田中美津さんたちは若かったから過激だったしとんがっていた。リブセンターには行けないけど、スリーポイント(女性たちのスペース)や五十六番館(小西さんや駒尺さんが住んでいた場所)には行けたという人も大勢いました。そういうことももっと出せればよかったのですが、小西さん、駒尺さんがご存命でなかったし、しっかり出せませんでした。出演者のどなたに聞いてもお二人はすばらしかったと言っていましたね。
M:今から思うと、小西さんは市川房枝さんたちに近い世代だったので、かつての婦人運動世代とウーマンリブ世代を結ぶ橋渡しをしていたと思います。
監督:それとイデオロギーだけでなく、文化みたいなものをミックスしながら、楽しむということがあって、そこが素敵だったなと思います。
M:私も五十六番館で、小西さんや駒尺さん、そこに集う女性たちと出会って、自分が救われたと思いました。リブ運動の中で、攻撃的な人もいたわけですが、そういう人とは一緒にやりたくはないなという思いがありました。そういう人も、今ではかなりまるくなりましたよね。
監督:それは、どこの社会でもありますよ。たぶん今でもそうですよね。
この作品が広がればいいなと思うのは、当時とんがっていた人も、肩の力が抜けて、その人の魅力を出してくれる年齢になってきたということはあると思います。力が入らないで、自分の人生を語ってくれている。
それでも「フェミニズムはちょっと」という考え方は根強いと思います。でも、この映画を観ることで、自分たちと同じと思ってくれればと思います。小西さんたちにはおよびもしないけど、私もそういう人たちとの橋渡しができたらいいなというのが、この映画を作った一番の理由です。
今のこの政治状況だから、ますます女性たちが、ちゃんと声をあげなければいけない時期に来ている。
70年代に政治に関心を持って、社会を変えたいと思ったのと同じ危機感が、震災後のこの安倍政権のやっていることにあるのに、あの当時のような勢いはないじゃないですか。運動というのが起きにくい時代になっている。でも、我々の世代がちゃんと声を上げようよと言っていかなければならない。私たちにはそういう責任があります。
M:あの時代は全共闘運動があって、リブの運動、そして、環境問題や原発反対運動などに繋がっている。様々な問題があって、いろいろな運動が始まったんだけど、共通しているのは「この状況をなんとかしたい」ということだと思います。そんな中で、「女の生きがたさの中で、自分の生きたいように生きていいんだ」ということをしめしてくれたのがリブの人たちだったと思います。当時、両親や社会から求められる女像、女性の生き方への押し付けに抵抗していたけど、「そうよ、自分の道は自分で作ってゆく」というのを応援してくれたのが彼女たちでした。
監督:そうなんですよね。でも、今、難しいのは、「私たち、別に抑圧なんか受けてない。好きなように生きているわ」という女性たちが増えていることですよね。だけど、それは「ほんとかな?」と思う時がある。ますます弱者は生きがたくなっている。あの時よりも活躍している人は活躍しているけど、それはほんの一握りなのに目立っているから、「ほら、女も活躍しているじゃないか」と言われてしまうんだけど、それは違う。この作品を作った意味があるんです。
また、50年後、100年後に、こういう女たちがいたという歴史的な資料として残しておくことも大事だと思いました。平塚雷鳥さんたちの時代にはまだ映像がなかった。だからこの人たちの姿を、言葉を、映像として残しておく価値はあると思います。
M:これまでも運動をやってきた人の中で映像を撮っていた人もいたと思うけど、こういう形でまとめたものはなかったと思う。
*これまでにもリブを扱った作品はあり、シネマジャーナルでも紹介してきました。
・『30年のシスターフッド~70年代ウーマンリブの女たち~』山上千恵子&瀬山紀子監督。
シネマジャーナル64号(2005年)、68号(2006年)で紹介
・『LOOKING FOR FUMIKO:女たちの自分探し』栗原奈々子監督 シネマジャーナル31号で紹介
HPに31号の記事掲載
トーク http://www.cinemajournal.net/bn/31/talk.html
映画感想 http://www.cinemajournal.net/bn/31/talk.html#takano
監督:それは私が運動に入っていなかったからできたもので、客観的に見ていると思う。どなたに対しても距離感がある。ある種、客観性を保って作った作品だと思う。でも思いは寄せています。
M:フェミニズムという名前を聞いただけで、顔をしかめる人も観てくれたら、リブを生きてきた彼女たちの思いも伝わると思うのですが…。
監督:これだけフェミニズムというものに、はっきりとした理由もなく「ちょっとね」という思いが根強いというのをあらためて知りました。
M:リブの運動は、基本的には女性の生き難さを生きやすいものにしていくという運動だったんだけど、その根本が伝えられていないということですよね。
監督:それもそうだし、日本では「我慢する」ということが、女の美徳ということが根強いですよ。長い間DNAとして受け継いでいる。それで、あの人たちはわがまま、自分本位、自分のことしか考えないという批判はいまだに聞きます。女は我慢する方が美しい。それで男とうまくやっていける。なんで、そこを否定するの?という感じですよね。
M;それはけっこうバリバリやっている人の中にもありますよね。
監督:あるある。また、必ずしもフェミニストの人たちが完全で、それがきっぱりできているわけでもない場合もあります。
M:どうしたって、自分のやりたいように生きられる人なんて限られていますからね。リブの活動をしている人の中にも、仕事場や家庭で我慢して生きてきた人は多いですからね。リブの運動や活動の場にいる時だけが、解放されていたという人も多いと思います。
監督:親の教育とか、まわりの目とか、社会構造で、自分が耐えなくてはと思い込まされているということ。実は社会構造によって思い込まされているだけであるということ。それと、彼女たちの姿を見て、年をとっても前向き。現役意識でいるから、こういう風に年を取りたいと思ってもらえればいいなと思います。
M:私は、彼女たちはこのように生きてきたんだなと感じました。若い人がどのようにとらえるかはわからないけど、松井さんの主旨は伝わると思います。あいち国際女性映画祭での上映の時も、「松井さんの映画だな」って、言ってくれた方いましたよね。
監督:あの時の雰囲気、皆さんがこの作品を受け入れてくれたと感じ、すごく勇気を得ました。運動には関わっていないような人が多かったから。「あいち」では、前3作も上映されて、特に私のことを応援してくれる人たちがたくさんいるから、女性問題に関心がある人たちばかりでなく、そういう方たちが来てくれました。
M:私自身がインターネット世代ではないので、この作品のこともあいち国際映画祭のパンフレットで知ったので、情報が遅いのですが…。
監督:そうなんですよ。この映画に来てくれる世代は、インターネットではなく、チラシや口コミ、新聞などの記事を見てですよね。
M:私がうれしかったのは、世間一般に知られた人たちだけでなく、地道に活動してきた人たちも取り上げてくれたことです。当時、一緒に活動していた友人たちも出てきたし、シネマジャーナル本誌を置いてくれていたウィメンズブックストア松香堂書店を創業した中西豊子さんも出てきてびっくり。
監督:あの四万十に行かれた方などは、誰も知らなかったんですよ。それでも、まだまだ山ほどいらっしゃるんですが、2時間の映画の中ではこれでいっぱいいっぱいでした。これを観たら、なんでこの人選なの?という方もいるかと思いますが、この長さに収めるためにはこのくらいの人数が限度ですね。スリーポイントとかホーキ星、女たちのスペースなどはほとんど出せず、このへんはちょっと薄かったかなと思います。それでも盛りだくさんになりました。
M:あれだけ多様な運動、展開があったわけですから、それに関わった人たちのことをまとめるのは大変だったと思います。うまくまとめてあると思います。
監督:インタビューよりも編集が大変でした。流れとして見ることができるようにすること、フェミニズムの運動とは何なのかという歴史も伝えたい。それでまた欲張りに、私が作るんだったら「女の人生」、その3つの絡まりを表したかった。リブやフェミニズムを知らない人も観るんだからという感覚。だって私も彼女たちのことを知らなかったから。その後の使い方としては、劇場公開だけでなく、上映会や教材などでも見て貰うことがあるから、そのように作りました。
M:映画監督になったきっかけを聞きたいのですが、『ユキエ』の時に、脚本を担当した新藤兼人監督から「あなた自身が撮ったら」と言われて監督することになったとおっしゃっていましたが、その前から監督をしてみたいとか思っていたんですか?
監督:いえいえ。今は若い女性監督がいっぱいいますけど、私の世代では、劇映画の場合、女性が監督をするとは言えない時代でした。ドキュメンタリーなら違いますが、自分の職業選択肢の中では、はなからはずしていました。
だけど言われてみたら、1回やってみたいな、失敗してもいいから、せっかく新藤監督が言ってくださるんだから監督をしてみようと思いました。でも、日本だったらできなかった。自分で飛べたのはアメリカで撮ったから。アメリカでやるんだったら、スタッフも、私を白紙で見てくれると思って。それまで、マネージャーやTV番組のプロデューサーなどをやってきた私だから、日本だったら、周囲の視線というハードルを飛び越えられなかったと思う。それでも、アメリカに行って、実際に撮影を始めてから、ほんとに苦労しました。人について来てもらう、私の思っていることをスタッフや出演者、みんながやってくれるようにするのが、どんなに大変かということ。『ユキエ』では地獄を見ましたよ(笑)。『ユキエ』で全部勉強しました。それがあったから次につながったと思っています。
あの時、どうしてあの題材を選んだのかといえば、ちょうどあの頃、『黄昏』みたいな感じの映画をプロデューサーとして作りたいというだけで始めたんです。
M:『ユキエ』は戦争花嫁、アルツハイマーという題材で、それまでにないような題材で新鮮だったと思いましたが、題材というのは大切ですよね。
監督:『レオニー』もそうですが、歴史の中に埋もれている人に光をあてたいというのがずっとありますね。
M:そういう意味では、まさにこの『何を怖れる フェミニズムを生きた女たち』もそうですね。
監督:まさに、この人たちの素晴らしさを知ってもらいたい。いわゆるメジャーな人たちが見過ごしていること。特に女の人生というのは歴史の中で埋もれてしまう。男ばかりに光があたると思っていたので。そして女でも、有名になった人には興味がないの(笑)。私は損なとこ、損なとこをやるのに目が向いちゃうんです(笑)。自分の役割、使命感みたいのがありますね。
『レオニー』なんて、この人を主人公に映画を作ろうなんて考えるのは私しかいないだろうと思っていました。『ユキエ』の時は戦争花嫁とアルツハイマーというのが面白いと思ったし。そういう思いが常にありますね。ある種、マイナーな中の真実っていうか、そこにこそ鉱脈があるというか。だんだん明確になって来た気がします。表現して人に伝えるという仕事をする中で、私のよってたつ位置は、そこにあるんだと思います。より、ビジネスとは縁遠くなっていく。どんどん、どんどん(笑)。
だからこの先、映画を作れる未来図が、まったく描けない(笑)
M:女性が劇映画を撮るということがない時代から、それを確立していった人のひとりですから、次につながりますよ。きっと。
監督:西川美和監督や荻上直子監督たちみたいに、自分の作りたいものを作れるという状態では全然ないですね。でも、私はそれを選んでいるんだなと思います。明確なメッセージのあるものを作るのが私のやり方だと。
M:羽田澄子監督や、藤原智子監督など女性監督の先駆者たちがいたから、今の、女性監督が活躍できる時代になったわけだけど、若い女性監督の中にはそれを自覚していない人もいますね。
監督:そこを言われるのはいやだという人は多いですね。女性監督と呼ばれたくない。
M:もちろん、女性監督と言われなくなることが理想なんだけど、苦労して男社会の映画界の中で、やってきた女性たちがいたからこそ今の時代があるわけだから、そのことは忘れてほしくないし、言っていきたいと思います。
監督:映画は男の視点ばかりで作られてきたし、女性監督はまだまだ数が少ないから、女の視点からの映画は絶対必要だと思っています。女性主人公の描かれ方も、明らかに男目線です。
小説なんかは、女性小説家も増えて、完全にメジャーになったから、「女流作家」と言われなくなった。映画は、まだそこまで言ってないから、私はあえて女性監督と言いたい。女が作る映画には、男とは違う視点というのがあると思います。
今年話題になった『そこのみにて光輝く』を見て、呉美保監督は力があると思いました。びっくりしました。ちょっと今までの女性監督とは違うなと思いました。だけど昭和の時代の日活ロマンポルノのようで、男の監督が撮った映画と一緒かなとも感じてしまった。
M:『そこのみにて光輝く』を観て、悪くはないんだけど、何かひっかかると思っていたのですが、今、わかりました。この作品に違和感があったのですが、女性監督が描くのだったら男が描くのとは違う描き方をしてほしかったという思いだったんだと思いました。こういう作品を撮る女性監督が出てきたことに心強さを感じると共に、男と同じ表現をする人が増えるんじゃないかという危機感も感じました。
監督:でも、まずは数が増えないと。
M:そうですね。若い監督は恐れずに作ること。女流作家という言葉が死語になったように、映画も女性監督と言われない時代が来るといいなと思います。
子供の頃から、「女のくせに」とか、「女らしく」の言葉に反発し、「女であること」が嫌でした。なんで女はやりたいことをやっちゃいけないの?と生き難く思っていました。
そんな私がリブの女たちと出会ったのは1975年頃。リブの運動は1970年頃から始まっていたけど、マスコミが書く彼女たちの姿は「ブラジャーを燃やす」など奇天烈な行動で、あの人たちは「何をやっているの?」と思っていました。でも、彼女たちと出会い、彼女たちが目指していることを知り、自分らしく生きればいいのだと気持ちが楽になりました。ブラジャーを燃やしたりしたのは、締め付けるものから体を解放させるということを表現する方法だったのです。行動だけが報道され、その行動の意味はちゃんと伝えられなかったので、かなり誤解されていたと思いました。そして、いつしか私も彼女たちと一緒に行動をするようになりました。
そんな私なので、この作品を見ていろいろな活動をしてきたことが走馬灯のように甦りました。私の友人たちも出ていて、今も元気にやっていると知りました。30年ぶりくらいに見たかもしれません。
こういう記録が残っていくということはとてもうれしいことです。
HPに原稿は書くけど、ネットは全然使いこなせていない私。情報をネットから得るということはあまりなく、この作品を作っていることは全然知りませんでした。去年、あいち国際女性映画祭に行き、映画祭のパンフを見て知りました。友人たちも似たり寄ったりなので、口コミで声をかけ、この作品を観る企画をしたところ9人も集まりました。インターネット時代と言われても、やはり口コミは大事です。(暁)
*シネマジャーナル92号、「あいち国際女性映画祭」レポートの中で、この作品を紹介しています。