終戦直後の1946年から17年に渡り、太平洋上で行われた米国による核実験。100回を超える実験期間中も、多くの漁船が近海で操業を続けていた。ビキニ水爆実験の真相に迫る前作『放射線を浴びたX年後』は、忘られかけていたビキニの放射線被害が再認識されることになった。それから3年。取材陣は「事件を解明したい」と室戸市などで調査を続けていた。
広島・長崎から70年、福島から4年、放射性物質の安全性があらためて問われている。放射能を浴び、若くして亡くなっていた海の男たちの真実にTV局南海放送のディレクターが迫ったシリーズ第2弾。 新作では、前作を観て自ら聞き取り調査を始めた漁船員の遺族や、日本全土へと広がった放射性物質による土壌汚染の今が描かれる。
東京で広告代理店を経営する川口美砂さん(59歳)は、故郷高知県室戸市に帰郷した折『放射線を浴びたX年後』を観て、36歳で死んだ元漁師だった父の死に疑問を抱き始める。当時、「酒の飲みすぎで早死にした」と言われた父だったが、本当にそうなのだろうか?と思い、東京から何度も室戸に通い、元漁師や遺族に聞き取り調査を始めた。その数70名以上。
同じ室戸市出身の漫画家、和気一作(本名 大黒正仁)さんもまた、映画との出会いがきっかけで父の死に疑問を抱く。
太平洋でおこなわれた水爆実験の影響は、今も日本列島に影響を及ぼしているのか? 当時の被曝した地面を残す建物の床板をはずして検査するシーンなどもある。
元漁師たちの証言、破られた船員手帳、厚労省への情報開示請求など。日本列島を揺るがした広範囲の被曝事件から半世紀を経た今、終わることのない「被曝」の実態が明らかになる。
監督・撮影 : 伊東英朗
ナレーション:鈴木省吾
録音 : 山内登美子
企画 : 大西康司
チーフプロデューサー : 兵頭英夫
プロデューサー : 小倉健嗣
製作著作 : 南海放送
宣伝配給協力 : ウッキー・プロダクション
映像協力 : 日本ドキュメントフィルム
写真協力 :焼津市教育委員会(焼津歴史民族資料館)
共同通信社/琉球新報/沖縄タイムス
公式HP http://x311.info/part2/
伊東監督:この作品の一番大好きなシーンは、川口さんが「おんちゃん申年?」と聞いているシーンです。編集している時には、川口さんがニコニコしていてよくないんじゃないかっていう意見もあったのですが、このシーンが大好きな理由は、川口さんがお父さんに会っているんですよ。感情が高ぶってしまうんですけど。川口さんのお父さんは36歳で亡くなっているんだけど、お父さんが生きているとちょうどあのおんちゃんと同い年なんですよ。そこでお父さんをみつけているわけです。お父さんと同じ年のおんちゃんをみつけたなと、嬉しかったんですよ。取材していた時も、お父さんに会えてよかったなと思いました。
川口さんは、お父さんが亡くなったことに憤りを感じてということより、おんちゃんたちの話をいっぱい聞きたいという思いがあったんだけど、『放射線を浴びたX年後』を観て、そこでお父さんのことに思い当たって、お父さんみたいな漁師さんたちの話を聞きたいと思ったんです。
70人近くの人に話しを聞いているんですが、始まったのは今年(2015年)の元旦からです。なんでかというと川口さんが東京から帰省していたからです。川口さんは、高知を出られてもう長いのですが、室戸を出るときに必ず年末年始とお盆に里帰りすると約束したそうです。そして、ずっと年末年始とお盆には東京から室戸に帰っていたそうです。必ずもどっているというのを聞いて、やはり室戸の女性はすごいなと、彼女の強さというのを感じました。そこから始まっています。
最後の撮影をしたのが10月1日です。映画ができあがったのが10月12日なので、ぎりぎりまで撮影していたんです。実は10月1日と9月29,30日に撮影した映像というのは、この映画でたくさん使われているんです。最後の海の映像がありますよね。真っ青な海。あれは10月1日の取材が終わって、川口さんや山田さんなどに挨拶をして、帰るときに海が綺麗で、「これは撮っておかないと」と思って、車を止めて撮った海なんです。ほんとにあの一瞬でした。その映像を最後に持ってきました。
一昨年の『X年後』を観た方もいると思いますが、この映画では事件の概要というか、こういう大変なことがあったんだよという、どっちかというと科学的な検証とか歴史的な検証というような意味合いが強かったけど、今回は福島のこととか、経済、命のこととか考えてきました。
そんな中で、突き詰めていくと、やはりそこに人の生活があるんですよね。一人ひとりの人生があるんです。一人の人の中に何が起こっているのかというのが見えてくる。その一人一人の積み重ねが、たくさんの人たちの社会だったり、歴史だったりというのに気づかされました。一人の人生がどう変わってゆくのかというのを見てほしいなと思い、この作品を作りました。
川口さんのお父さんは36歳で亡くなりました。当時、酒を飲みすぎて死んだって言われてたんです。当時は、そうしか考えようがなかった。マグロ漁船の乗組員って、筋骨隆々のすごい体つきの人ばっかりなんです。そういう人たちが突然死ぬんです。
川口さんも映画の中で言っていましたが、朝起きたら死んでいた。なんで死んだのかわからない。お父さんが突然死んでしまって原因がわからない。酒を飲みすぎて死んだといわれて悔しかったと語っています。
マグロ漁船の船員たちは、1年のうち1週間くらいしか帰ってこないんです。彼らは過酷な状況の中で命がけで漁をしているんです。操業中は危ないから飲んでいないそうです。だから、陸にもどってきた時は、昼間から酒を飲んでいるそうです。そこだけ見て、あの人たちは酒飲みと思われていた部分があったようです。でも大人はある程度わかっていたと思うけど。
山田勝利さん(元マグロ漁船の漁労長で、高知での『放射線を浴びたX年後』の上映を企画した)は、乗組員の過酷さを知ってほしいと、小学校とかいろいろなところを回って語っているんです。
マグロ漁の乗組員が苦労していること、命がけで仕事をしていることは、彼ら自身が苦労を語らないできました。寡黙なんです。危険と隣り合わせの仕事でたくさんの人が死んでいることを語ると家族に心配をかけるということもあったと思います。そういう状態だったから海でのことが知られてこなかった。
被曝者の遺族である川口さん自身が、第五福竜丸以外も被曝していたとは知らなかったそうです。厳しいかん口令が敷かれていたからというのがあります。だから家族にも伝えられていなかった。
前作の上映の時、多くの人に「知りませんでした。被曝したのは第五福竜丸だけだと思っていました」と言われたのですが、当時の新聞では他の船の被曝も報道されていたんです。それに、日本列島の被曝に関しても連日報道されていたんです。毎日毎日報道されて日本がパニックになってしまっていたにも関わらず、そのことは忘れられてしまっているんです。
何を覚えているかというと、放射能を含んだ雨に当たると髪の毛が抜けるから気をつけろとか、第五福竜丸が被曝して久保山愛吉さんが亡くなったということは覚えているのですが、それ以外のことは記憶からすっぽり抜けてしまっているのです。これはゆゆしきことだと思います。どこで記憶が消えたのか。そのことをきちっと清算しないと福島のことも同じことが起こってしまうんじゃないかと思っています。
1954年(昭和29年)3月、第五福竜丸の被曝がスクープされました。それまでもたくさんの船が被曝していますが、それまでは大きな話題になっていなかった。第五福竜丸のことがあって、厚生省が放射能検査をしなさいという指示文書を出した。人体、衣服、船体、魚などに対してです。それから検査が始まりましたが、わずか10ヶ月後に打ち切りになりました。その間に検査を受けた船は延べで2792隻です。その中でなんらかの形で被曝していたのは延べ992隻だったそうです(人体なのか、船なのか、魚なのか定かではないとのこと)。これだけの船が被曝しました。でも3月にスクープされ、12月末に安全宣言をして検査は打ち切られました。その10年後の1964年に東京オリンピックが開催されました。
福島も2011年3月に事故が起こりました。その年の12月に、当時の民主党政権が安全宣言を出しました。その9年後の2020年に、また東京オリンピックが開催されます。偶然かもしれませんが、同じ符合を感じるんです。ビキニ事件のことを思い出してみると、あれだけ大事件になって、ノイローゼになった人もいるくらいパニックにもなりました。
当時、論調がふたつありました。「放射能なんて怖くない」、「放射能は怖い、特に内部被曝は怖い」ということだったのですが、福島に関しても、それから60年もたっているのに同じ内容だったのです。
核実験は1962年まで続いていたわけですから、皆さん薄々被曝していると知っていたのかもしれませんが、いつまでも不安だ不安だと言っていても仕方ないじゃないかとか、前向きに行こうじゃないかということになっていったのかなと思うのです。
今の福島がそうだからです。大丈夫という科学者もいれば、大丈夫じゃないという科学者もいるわけです。どっちなの?どっちかわからない。いつまでたっても反原発の人と原発推進の人が話したってかみ合わない。
僕の個人的な感覚では、オリンピックというのはマイナスの経済をプラスに持ってゆく転機になったのではないかなと思ったりするんです。
東日本大震災を応援するライブを取材した時、酒を飲んで酔っ払った人が、募金してくれるのかなと思ったら、「おい、いつまでやっているんだ。東北だって、もう復興終わっているじゃないか」って言われたと言っていて、西日本の認識ってこんなものかと驚きました。被曝のことを忘れてはいけない。福島のことも50年くらいたってから、僕みたいなディレクターが「福島でこんなことがあった」なんていうことにならないように記憶しておかなくてはならないと思う。
このビキニ事件は乗組員たちの死をもって裏づけしようとしているわけです。死をもって裏づけしなくてはならないX年後があるわけです。福島で同じことが起こったらどうでしょう。今の子供たちが50年後大人になって、続々と死んでいって裏づけられるなんて、こんな悲しいことはありません。絶対にそれは防がなくてはいけません。そのためには、このビキニ事件というものをきちっと解明して、被曝をしたらどうなるんだということを知って伝え、福島のことに生かさなくてはいけない。
いつまでも古い過去の話をやっていないで、福島をやらないといけないんじゃないかと言われますが、僕は、この過去に起こったビキニ事件のX年後までの経過をきちっと検証することが福島の一番の近道なのではないかと思っています。だから、この事件を解明するまで、解決もたぶん難しいと思いますが、とにかく続けていかないといけないなと思います。ちいさな一歩ですけど、歩みを止めないでやっていきたい。映画ができたら終わりではない。取材をさせていただいた人たちに対する責任だと思っています。みんなの力でできた映画です。
映画の宣伝もしてほしいですが、ビキニ事件のことを宣伝してください。こんなことあったよ、日本列島が被曝していたよ、こんな魚を食べさせられていたんだよってことをぜひ伝えてください。