*2月15日(土)~2月28日(金) オーディトリウム渋谷にて公開
http://a-shibuya.jp/archives/8921
青森県六ヶ所村に1990年から2002年まで住み込み、原発の使用済み核燃料を再処理する施設等の立地に揺れる村の写真を撮ってきた島田恵監督。六ヶ所のことを風化させてはならないと記録映画を撮り始めた一ヶ月後、福島の原発事故が起こった。それを受けて、福島と六ヶ所村、原発の入口と出口を繋ぐ映画を作ろうと福島も取材し、そこに生きる人たちの姿を映し出した。このドキュメンタリーでは福島と六ケ所、原子力施設を抱える地域で暮らす5組の家族に取材し、それぞれの事情を描くことで、放射能という負の遺産を増やし続けることに対する疑問を提示している。
原発を続けるということは、核の廃棄物が出るということ。リサイクルされても最終的に出てくる核廃棄物は残るし、原発を廃止しても出てしまった核廃棄物をどうするかということが大きくのしかかってきます。
主旨に賛同した加藤登紀子さんが、「今どこにいますか」「命結」の2曲を提供している。
『福島 六ヶ所 未来への伝言』HP
http://www.rokkashomirai.com/
島田 恵 (しまだ けい)
1959年東京生まれ。写真雑誌社、スタジオ写真などを経てフリーの写真家に。1986年のチェルノブイリ原発事故後初めて六ヶ所村を訪れ、核燃問題で揺れる村に衝撃を受け取材を始める。1990年から2002年までは六ヶ所村に在住。あらたに映像分野で核燃問題を伝えようと、2011年から映画制作に乗り出す。
第7回平和・共同ジャーナリスト基金賞受賞
著書:「いのちと核燃と六ヶ所村」(八月書館)
写真集「六ヶ所村 核燃基地のある村と人々」(高文研)
取材 2014年1月30日 景山咲子(K) 宮崎暁美(M)
K:1973年と1975年に下北半島に旅したことがあります。野辺地の駅前に喫茶店もパチンコ屋もなくて、ほんとに過疎の地だと感じました。尻屋岬のユースホステルに泊まった時に、すぐ近くに自衛隊の演習場があって、海岸を散歩していると鉄砲玉が飛んでくることがあると聞き、過疎地にこういう施設を作っているのだと思ったのですが、その後、原発関連施設が次々できて、ここなら住んでいる人が少ないからいいだろうというエゴを感じました。
M:作品の資料を見て、こんなにもたくさんの原発、原子力関連施設、自衛隊の基地などもあり、そういう施設が青森に集中していると驚きました。電気など、過疎の地域の人に負担をしてもらって、都市の人たちは生活しているということをもっと知らなくてはいけないとつくづく思いました。
監督:たぶん、知らない方、知らされなかった方々が圧倒的だと思うのですよね。
M:地元の人たちは、このことについてどのように思っているのでしょう。今後、福島関連、原発のことを扱った映画がいくつか公開されますが、それらは福島に特定したものがほとんどです。島田監督の作品は六ヶ所で長年取材してきたものと福島取材分を合わせ、最近話題になることが少なくなってしまっていた六ヶ所に目を向けさせてくれる作品に仕上がっていますね。
六ヶ所に12年も住み、写真を撮ってこられたわけですが、今回、映像にしたのはどのようなきっかけがあったのですか?
監督:ずっと写真を撮ってきたのですが、東京に帰ってからはあまり写真関係の仕事はしていませんでした。でもいつも六ヶ所のことは気にかけていましたし、東京で何かできることがあればと常々思っていました。自分が映画を作るというのは考えたことはなかったので、こうなったのは不思議な感じはするのですが、鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』が広まり、映画の力は大きいなと感じていました。今まで、全国各地でずいぶん写真展も開いてきたのですが、六ヶ所の写真展となると、なかなか足を運んでくれる方も少なくて厳しい状況でしたが、映画は皆で観られ、とっつきやすく楽しい手段でもありすよね。
それで、映画を作ろうと思った時、私はプロデューサー的な役割になり、青森出身の方で監督をやってくれる人を探しました。でも、なかなかそううまくいかなくて、そうこうしているうちに、言いだしっぺがやった方がいいよと、けしかけられたりもして、意を決して自分でやろうと思いました。いろいろ協力してくれるという人もいたので、自分でやろうという気持になれたのですが。
M:私も写真をずっとやってきて、やっぱり写真は止まった画像だし、動いて言葉もあるというのは、また違う伝え方ができるなとは思ってきたのですが、そういう部分を感じたのかなと思いました。
監督:そうですね。でも、自分が映画監督になるとは思ってなかったんですけどね。
M:島田監督が六ヶ所村で撮りためた写真も映画の中に入っていて、映画の中に六ヶ所を撮ってきた歴史というのが出ているなと感じ、やはり長年六ヶ所と関わってきた人でないと撮れない映画だと思いました。
K:冒頭、加藤登紀子さんの歌に合わせて、ずっと撮られてきた写真が出てきた場面が、とても印象深かったです。
監督:そうですか。ありがとうございます。私ができるとしたらそういうことかなと思ったんです。六ヶ所をずっと写真で記録してきたというのが強みというか、そういうのを観てもらいたいなと思っていました。それぞれ色々な視点があっていいと思うんですが、やっぱり福島と六ヶ所をつなげたいというのが一番のポイントだったんですよね。原発は原発だけじゃなくて、原発が動くことで、核のごみが出ているんだということを強調したいと思ったんです。
M:事故が大きくて話題になってしまっていて、その部分が忘れられている感じがありますよね。プレス資料に、原発1年分の放射能を1日で出すといわれる再処理工場の危険性というのが載っていますが、そっちの方がもっと怖いなと思いました。
監督:そうですよね。
M:六ヶ所村の人たちは核燃施設の反対運動をしてきましたが、賛成派の知事が生まれ、建設が始まって、工場もできてしまった中で、反対運動が静まってしまったということがあると思います。放射能に対する意識はどうなっていったのでしょう。また、福島の原発事故の後、放射能の怖さへの反応はどうだったのでしょうか?
監督:福島の事故があって、六ヶ所にあらためて撮影に入った時、ある意味、反対や不安が高まっているのではないかと想像していました。あれだけの施設を抱えているので、誰しもそう思いますよね。確かに不安はあるし他人事ではないと思ったとおっしゃる方はいました。けれど、放射能への不安よりも、原発や核燃が止まってしまうことで、自分たちの仕事がなくなることへの不安の声のほうが高かったのです。なので、ジレンマがより強くなったと思うのですね。核燃施設への不安はもちろん高まったけど、自分たちの生活がどうなるのだろうという不安も高まって、より葛藤が強くなったのではないかと思います。それは、六ヶ所だけでなく、原発を抱える地域の人たちは皆同じで、葛藤の中にいるのだと思います。
もちろん原発が事故を起こして危険、怖いというのはよくよくわかってはいるのだけど、自分の仕事はどうなるんだ、生活はどうなるんだと思っているんですよ。なので、再稼動を早くしてほしいと、ほとんどの原発を抱える地元の人は言っているわけです。
原発のない地域の人からすると、これほどの事故があったにも関わらず、なぜ再稼動を求めるのだろう?と思ってしまいますが、何十年とどっぷり漬かってきた人にとって、麻薬が切れたような状態で、七転八倒の苦しみの中にいるような状態なのだと思います。より苦しみの中に落ち込まされてしまったというのが、今の現実だと思います。
M:自分のところで事故があった場合は自分の身に降りかかってくるので、葛藤が深くなってきているのだと思いますが、反対運動が盛り上がったあとに、結局、核燃施設ができてしまって、人間関係はどうなったのでしょう?
監督:六ヶ所では、一時期は反対派と賛成派が対立していて、冠婚葬祭以外は、親戚と道で会っても挨拶をしないような状態でした。悲劇ですよね。お祭りだって危うかったんです。集まると反対派と賛成派が分かれてしまうというようなことがあって、地域の分裂というか、分断を生んできた。そのこと自体も、とんでもないひどいことでした。
M:時の流れが解決してくれた?
監督:そうですね。今は核燃が立地されて20年近くたっているので、昔のような対立は目に見えてはないですね。その頃、子どもだった人たちが、核燃施設で働いていたりして、そういう人たちにとっては最初からそこにあるものとなってしまっているので、表立っての対立はないですね。心の中ではあるかもしれませんが、口に出すことはほとんどないです。
『六ヶ所村ラプソディー』に出てきた菊川慶子さんは、独自に発言されていますが、その他の村人たちは、表立って核燃のことに賛成、反対を口にすることは少ないです。
M:12年間六ヶ所村に住んでいて、写真だけを撮っていたわけではないと思いますが、どのように暮らしていたのですか。
監督:そこに暮らすことで地元の人と同じ生活者目線で見ることができるようになりました。それが目的ではなかったのですが、12年もそこで一緒に暮らすことで、結果的にそういう風になっていったと思います。センセーショナルではなく、六ヶ所に住んでいる人たちが、どんな日常を送っているかを伝えたかったのです。日常の中に、核燃が入り込んできていることを、静かに伝えたかった。村に長くいたのはよかったなと思います。私は東京郊外で育ったのですが、そこでは味わえないような環境や、体験もいっぱいさせてもらって。人生の中でも貴重な体験ができた時期かなと思っています。
一番の収穫は、東京にいては見えてこないことが見えたこと。六ヶ所だけでなく、沖縄などもそうですが、踏まれている側じゃないですか。都会は、好むと好まざるとにかかわらず、踏む側の立場。好き好んでやってるわけじゃないけど、そういう構図の中に入ってしまっているので、それが踏んでいる側にいるとわからないですよね。
六ヶ所に暮らしていて、勝手に中央で決めて押し付けてくることがとても悔しかったです。ここに、生きて生活して喜怒哀楽、人間のドラマがあるのに、かってに知らないところで決められて、開発をもってくる、原発をもってくる、基地をもってくることに、憤りをずっと感じていました。日本社会はこういう構造で成り立っているんだなというのが、六ヶ所に暮らして、よく見えてきました。
M:こういう映画はほんとに必要ですよね。都会にいて、過疎の場所を踏んでいるということを知らないたくさんの人に知ってほしい。
監督:また、それをわからないようにカモフラージュされています。交付金もそうですが、沖縄の辺野古のことも、県知事が容認してしまいましたが同じですよね。あからさまに、交付金という大量の飴を与えて、飼い慣らすではないですが、押し通していくというやり方、まったく同じですよね。それはほんとに腹が立ちました。
青森もそうだったんです。交付金もそうですし、原発は安全ですとか、核燃はこんなに必要ですとか、まったく問題ありませんといった広告や宣伝がもの凄かったんです。
K:そうだったんですか。東京にいるとそういうのは目にしないですからね。
監督:ようするに洗脳ですよね。それは青森だけでなく、日本の大部分の人がマインドコントロールされていると思います。日本の電力会社の総広告費のかなりの量が、青森に投入されていた時期がありました。大量の広告費が青森に投じられていたんです。
テレビのゴールデンタイムには、必ず原燃や東北電力等のコマーシャルが流れていましたし、子ども向けの楽しそうなものもたくさんありました。
K:住んでいたからこそ見えてきたものですね。
M:今回の5組の家族が出てくるのですが、取材した5組の家族はどのようにみつけたのでしょう?
監督:そうですね。青森には長く住んでいたので滝口さん一家には登場していただこうと、前から決めていました。実は映画に出ていただいた滝口栄作さんがつい最近亡くなられて、一昨日お通夜に行ってきました。すごく悲しいです。
滝口さん一家に登場していただきたいと思ったのは、今は核燃の中にどっぷりつかってしまっている六ヶ所ですが、滝口さんは専業の漁師さんとして独立していらして、原燃関係の仕事にはほとんど関係していない。だから信念を持ち続けられた数少ない方なんです。息子3人を誰一人、原燃関係には就職させなかったことが自慢です。それでもやっていけるという自信がある方なので出ていただきたかった。
河原愛美さんは、六ヶ所村出身で東京に住んでいる方。映画を撮り始めてから知り合いました。今は都会にいる人がどのように故郷を見ているか、都会と六ヶ所村を繋ぐ役目として登場していただきたいと思いました。最初は辞退されていましたけど、自分の故郷がこうなってしまったことについて伝えたい思いをたくさん持っている方なので、こういう機会があってよかったと言ってくださっています。
福島の方は、最初は何を撮っていいか手探り状態でした。福島には報道や映画関係者がたくさん入っていましたから、一体、自分は何を撮れるだろうと思っていました。とにかく行ってみないとわからない状態で始まりました。
福島には友人も多いので、そのつてで取材先を紹介してもらって、映画に出てくる5倍くらいの方に取材させていただきました。皆さんに出ていただきたかったのですが、時間の関係もあるし、最終的に映画に出てきた方たちに割愛せざるを得ませんでしたが、福島だけで3本か4本映画ができるくらい取材しています。
M:福島関係の映画はほんとに多いですね。いろんな人がいろんな視点で描くのはいいことだと思いますが、島田さんの映画は島田さんならではのものだと思います。福島の場面では赤ちゃんや子供が出てきましたが、新しく生まれてくる子供たちにとっての「未来への伝言」として捉えているところがいいと思いました。
監督:福島は、全員、事故後に出会った方たちです。飯館村にも何度も行き、いい方にも出会わせてもらいましたが、ほんとに泣く泣くカットしました。
M:大変だとは思いますが、この映画が一段落したら、ぜひ、それはそれでまとめてほしいです。マスコミも映画界もそうですが、事故後の数年はそういうテーマの作品が多く出ていますが、数年したら収まってしまうかもしれないので、ぜひまた出してほしいです。
K:東日本大震災の1ヶ月前に六ヶ所で撮り始めた時の構想はどんなものだったのですか?
監督:最初は六ヶ所村の映画を作るつもりでした。古い映像で土本典昭監督が撮ったものとか、『六ヶ所人間記』とか、たくさんありますが、体系的にわかるような形でまとまったものはないんですね。それで、あれだけの過酷な体験をしてきたわけですから、それをまとまった形で記録を残したいという気持がありました。あの時期、青森の人たちと一緒に体験してきたので、どうしてもこのまま忘れられていくというか、歴史の中に埋もれさせるのが悔しいというか、なかったことのようにはしたくなかったんです。あれだけの人が反対し、抵抗し、壮絶な体験をしたあげくに、核燃施設ができたことを記録に残し、世間の人たちにわかってほしという気持があって六ヶ所の映画を作ろうと思いました。
K:福島と組み合わせたことで、核燃施設ができたことの是非を、より深く受け止めることができました。
M:そうですね、福島のことを描いた映画は多くても、後処理工程のことを描いた映画はないから、後処理のことが、事故の影に隠れてしまっている感じがします。この作品はそういう意味でも大事だと思います。確かに数年前に『六ヶ所村ラプソディー』があったけど、記憶が薄れてきてしまっているので、やはり繰り返し繰り返し六ヶ所も描いていかないと、忘れられてしまいますよね。三里塚の映画を観ていても、いまだに上映されているわけだから、そういう記録としての意味は、とても大きいと思います。
監督:今回は、福島と六ヶ所村ですが、いずれ六ヶ所村の記録映画を作りたいと思っています。
K:撮り貯めたものがありますよね。
監督:それこそ、写真をふんだんに入れて、記録的なものを作りたいと思います。
M:この、『福島 六ヶ所 未来への伝言』は、昨年、自主上映で広がって、その盛り上がりがあったから、公開に繋がったのかなと思うのですが、東京で公開後も広がっていくといいですね。
監督:2月上旬に九州で上映会を開催していただきます。関東ではかなり上映していただいたのですが、西ではまだあまり上映されていませんので広まっていったらいいなと思っています。