―始まりは?
2013年3月、日比谷での反原発集会で、南相馬から来てマイクを持っていたおばちゃんに話しかけました。「2年も経って今更行けない。こちらで未来エネルギーについて映画を作る」という僕に「そんな意地張らず遊びに来なさいよ」と肩をたたいてくれました。翌月さっそく行って「エコエネ南相馬の発足式」にちょうど当たりました。街はかなり復興していましたが、共同通信の支局長さんに聞いて訪れた場所が最初のシーンの南相馬の小高地区です。無人の街に電灯が煌々と灯っている。衝撃でした。そのとき初めてカメラを回そうと思いました。
予算もなくてカメラマンも雇えない。ベテランカメラマンの松崎高久さんに「誰か安くやってくれる人いない?」と聞いたら、まず本人が来てくれました。富岡町のガレキが積まれたままの状態を前に呆然として「見ちゃったな」とポツリ、「自分がやる」と言ってくれたんです。
―良い方に出会えましたねぇ。
松崎さんは「こっちも命懸けだから、言いたいこと言わせてもらう」と、初めのうち喧嘩ばかりして、蹴っ飛ばされていました(笑)。
『選択の時0f JAPAN』というのが最初考えていたタイトルだったんですよ。マイケル・ムーアみたいに「糾弾するつもりだと言ったのに全然できてないじゃないか!」という松崎さんと大喧嘩したあげく、固まってきた自分のやりたいことをやっと説明できました。松崎さんにわかってもらえて、どうしたらいいか一緒に考えるようになりました。
わからないことがありすぎる中で、とにかく知ったかぶりはしない。関係者には正直にわからないことを聞いていこう。被災者を泣かせるインタビューはしたくない。優しい気持ちで会いたい。僕が訪ね歩いて行く映画表現にしようと。僕の一本目の映画を観ていた方が途中から福島に来るようになり、3人体制になれたのでインタビューしている自分も映るようにしました。
この帽子は、なんの被害も受けなかった自分が後ろめたい気がしていたもので、威儀を正したいという形なんです。
―どんな準備をなさるんですか?
本当に何も知らなくて、最初は線量計も持たずに行ったんです。でも線量計が高くなるようなところは身体がわかるんですよ、ここはヤバイんじゃないかと。数字について、何かで調べていうのではなく、自分の持っている線量計を示すだけにしました。
いつも何も決めずに行きます。仮設住宅もお役所で聞いてからでなく、いちばん近いところへ。ただ、どこへでも入れるわけでなく、どうしても入っていけなかったところもあります。うまく説明できないんですが。
震災直後にたくさんのマスコミが来て、取材に応じて話したのに少しも伝わっていない、と責められました。後から来た僕もどうせ同じだろうと思われるんですね。
―監督の人柄というかキャラが、安心できるからではありませんか? ぶつけても受け止めてもらえる感じがします。
僕は昔っから「怒られキャラ」でした。今回もずいぶん叱られたり怒られたりしました(笑)。
―政治家というと全く別のフィールドにいる戦闘能力の高い人って気がするんですが、緊張しませんか? そうそうたるメンバーですね!
最初に会えた方から次々と繋がっていった感じです。僕はなんにもしてないんですけど。
突撃とは言ってもまず手紙を書きました。返事が来て「一度お会いしましょう」となって撮影はその次ということが多いです。最初に訪ねたときに「(カメラを)すぐ回していいよ」という方もいましたし、いまだになんのお返事ももらえない方もいます。
政治家へのインタビューに行くときは、何にもないところから始めたいので挨拶の言葉も考えないようにしていました。福山さんの著書は読んでいきましたが、準備といえば、ウィキペディアの頁を印刷して持っていったくらい。もっと勉強して来なさいと秘書の方に怒られたこともあります。細川元総理に会ったのは、今思うとすごく忙しいときだったらしいんです。一月後都知事選に出られて驚きました。
僕は政治家や専門家よりも、被災者の方々と会うほうがずっと緊張しましたね。
―被災者の傷に触れることになるからじゃないでしょうか。これからどんな予定がありますか?
自分に何ができるか考えていますが、会えた方々が元気になるまで、とにかく会い続けるつもりです。長い時間お話しできても、作品にするとそのうちの一部分しか使えません。切るのが惜しい場面もいっぱいありました。
結論も出していないし、まだまだわからないことばかりです。これからも撮影は続けていきます。少しでも何かのきっかけになってくれたらと思いますので、たくさんの方に観ていただきたいです。
(取材・監督写真 白石映子)