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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『ふたつの祖国、ひとつの愛 ~イ・ジュンソプの妻~』
酒井充子監督インタビュー

酒井充子監督 撮影:景山咲子

2014年 12月13日(土)、ポレポレ東中野ほか全国順次ロードショー


作品紹介
日本の朝鮮半島統治、太平洋戦争、朝鮮戦争、南北分断、激動の歴史に翻弄された朝鮮半島出身の男性と日本人女性の70年に渡る愛と信頼の物語。太平洋戦争のさなか、日本の美術学校で出会った朝鮮からの留学生イ・ジュンソプと三井財閥企業の役員を父に持つ山本方子(まさこ)は恋に落ちる。空襲が激化し戦況が最終局面を迎えた1945年、方子は命がけで海を渡り、朝鮮北部・元山(ウォンサン)のジュンソプの元に嫁ぎ、幸せな時を過ごしたのもつかの間すぐに終戦を迎えた。1950年には朝鮮戦争が起こり、戦火に追われて元山から南の釜山へ避難。さらに家族4人で済州島に渡ったが、1952年、方子が体調を崩した子供を連れて日本人送還船で日本に逃れ、ジュンソプと離れ離れになってしまった。
唯一の通信手段だった手紙は200通以上に及んだ。再会を望んでいた二人だったが、その後、家族が一緒に暮らすことはなかった。正式な国交が1965年の日韓基本条約までなく、ジュンソプはそれを待たず1956年に39歳の若さで亡くなってしまったのだ。
アジアの芸術家として初めてニューヨーク近代美術館〈MoMA〉に作品が収蔵され、遺された絵画は今や億の値がつく画家、イ・ジュンソプだが、生前はキャンバスも買えないほど貧しい中で絵を描いていた。
国境や民族を乗り越えて愛情を育んだふたりの人生が私たちに問いかけることは…。

公式サイト http://u-picc.com/Joongseopswife/


    山本方子さん             若い頃の方子さん


      ジュンソプさん           結婚式   

場面写真クレジット (c)2013天空/アジア映画社/太秦

酒井充子監督
撮影:宮崎暁美

酒井充子監督プロフィール 公式HPより

1969年、山口県出身。
慶応義塾大学法学部政治学科卒業後、北海道新聞記者を経て2000年からドキュメンタリー映画、劇映画の制作、宣伝に関わる一方で台湾取材を開始する。小林茂監督のドキュメンタリー映画『わたしの季節』(04)に取材スタッフとして参加。
台湾の日本語世代に取材した初監督作品『台湾人生』(09)に続き、2013年春に『空を拓く-建築家・郭茂林という男』、『台湾アイデンティティー』を完成させた。著書に「台湾人生」(2010年、文藝春秋)がある。





◎インタビュー 

取材 景山咲子(K)、宮崎暁美(M)


*時代に翻弄された家族

:国交がなかった為に引き裂かれたご家族、そして、看取る人もなく39歳(1956年)で栄養失調で亡くなられたイ・ジュンソプ氏の無念の思いに涙が出ました。
正式な国交が1965年の日韓基本条約までなかったことをこの映画であらためて認識しました。日中国交のことはよく報道もされますが、戦後20年も韓国との正式な国交がなかったことにあらためて驚きました。そんなに長く国交がなかったことを忘れていました。

監督:国交が長い間なかったことを、私も忘れていました。

:国交がなかったことや、戦争でジュンソプさんご夫妻だけでなく、ほかにも引き裂かれたご家族がいると思い至りました。

監督:この映画は一組の夫婦の話しですが、彼らの姿を通して、当時同じような境遇にあった人たち、歴史に翻弄された方たちがたくさんいたのだろうなと、時代背景なども想像して観ていただければ嬉しいです。

:今まで台湾と日本をつなぐ作品を撮ってきた監督が、日本と韓国をつなぐ人のドキュメンタリーを撮ったのはなぜですか? 同じように日本の植民地だった国、日本と関係が深かった国のことを知らせたいという思いでしょうか? また山本さんとはどのように知り合ったのですか。


酒井充子監督
撮影:宮崎暁美

監督:元々は、『台湾アイデンティティー』を撮ったチームの方から紹介されて山本方子さんにお会いして始まりました。私は台湾と日本ということで映画を作ってきましたが、日本という国を見る時に戦前の植民地政策を見ると、台湾だけでなく朝鮮半島も植民地としてあったわけでしたから、そこを抜きに語れないと思っていました。それで方子さんを紹介されたとき、92歳の方子さんがとてもかわいらし方だったですね。そして、彼女の人生を通して戦前の日本と朝鮮半島のことを見つめなおすことができるのではないかと思いがあって撮らせてもらうことにしました。

:「いろいろなことがあったけど、別に苦労だと思わなかった。あの頃はね」という方子さんの言葉が心に残りました。あの頃は、それぞれみんな大変な思いをしていたということが胸に響きました。

監督:実は、「苦労だと思ってないんです」と何度もおっしゃって、その中の一つを映画に入れました。あの時代を生きた人だからこそ言えた言葉だと思います。そういう時代背景があったということですよね。

:1943年にジュンソプさんが朝鮮に帰って、日本に戻れなくなったとプレスシートに書いてありますが、さらに戦況が悪化した1945年に方子さんは朝鮮に渡っています。
向うからは戻れなくなっているのに、日本から行ったという彼女の心境はどういうものだったのでしょう。

監督:彼女は自分の身の危険を感じていなかったようです。それが凄いなと思いました。当時、向うから入ってくるのが大変だったので、方子さんが朝鮮に行ったようです。

:まだあの頃は創氏改名を日本政府から強いられていた時代ですが、結婚して、方子さんはイ・ナムドクさんという名前をもらったと語られていますが…。

監督:ジュンソプさんから貰った名前だから、大事にしようという思いだったようです。彼女は、日本名だとか朝鮮名とかいうことにはこだわっていないんですよ。でも、おそらく当時の日本では朝鮮人の名前なんてということはあったと思います。彼女の家はクリスチャンの家庭だったので、「人は皆平等」という中で育てられたと思いますから、そういうこだわりは一切なかったかと思います。むしろ喜んで受け入れたのかもしれません。

:戦前は、朝鮮人蔑視が激しかったと聞いています。そんな中で方子さんご自身もですが、朝鮮人との交際を温かく見守ったご両親は素晴らしいと思いました。
そのことについて方子さんはどのように語っていましたか?

監督:ジュンソブさん自身が卑屈になっていない。プライドを持って生きていた方なのかなと想像します。

:戦争末期に朝鮮に渡ることに家族は反対しなかったのですか。

監督:両親は反対してはいなかったようです。方子さんの朝鮮での結婚式に一緒に行きたかったけれど、切符が取れなくて行けませんでした。それで東京駅に見送りに行っています。当時としてはかなりグローバルな考え方を持った方たちだったと思うんです。

:方子さんが出てきた時、92歳にしてはおしゃれな人だなと思ったのですが、やはり洋裁をされていたりとか、保険外交員をしていたことが身についているのでしょうか?

監督:昭和一桁時代は実は豊かだった時代。しかも方子さんは三井財閥の役員という豊かな家庭でしたから、生い立ちそのものがおしゃれな人だったのだと思います。親戚の結婚式の写真でも、ほかの人は着物なのに彼女一人だけドレス姿です。文化学院にいらしていたし、その後も一人で洋裁をしたりしていたのでおしゃれを忘れない気持ちがあったと思います。


美容院で

:向うでは大変だったことと思いますが、実家の建物が焼けなかったからこそ、日本でなんとかやってこられたと思います。それにしても苦労があったことと思いますが…。
今の時代でも一人で生きていくのは大変ですよね。

監督:方子さんはそういうことは言わないんです。ほんとに大変だったはずですが、そういうことは言わないのが彼女の美学、家庭環境や彼女の個性だと思います。
強い人で、人前では涙を見せなかったけれど、一人で陰で泣いていたと思います。

:済州島には戻ってないんですか?

監督:1951年1月に済州島西帰浦(ソギポ)に家族で行き11か月間過ごして、釜山に戻っています。

:一家が朝鮮戦争の時代に済州島に逃れた頃には、4・3事件の影響はもうなかったのでしょうか?

編集部注:済州島4・3事件
太平洋戦争後、アメリカ軍とソビエト連邦軍が朝鮮半島を北緯38度線で南北に分割占領。アメリカ主導で進めた南だけの単独選挙が国の南北分断を決定的にしてしまうと、選挙に反対の済州島民が1948年4月3日に武装蜂起。それが発端で、米軍、韓国軍、警察、右翼青年団は、鎮圧の名で島民を無差別に虐殺する。7年の間に約3万人が犠牲となったと言われているが、その大半は思想や信条とは無縁な人々だったという。

監督:実はまだ続いていたんです。でも、ちらっと話は聞いたけれど、巻き込まれたことはなかったようです。西帰浦(ソギポ)の住んでいた近くにも4・3事件に関わった人もいたようです。この間、プロデューサーを連れて済州島に行って住んでいた部屋も見せたのですが、こんな狭いところなのかとびっくりしていました。
家族4人が揃って穏やかに暮らせたのが、済州島の時代だと思います。結婚してすぐに終戦。北朝鮮では落ち着かない生活でしたから。


*悲劇の画家イ・ジュンソプ


ジュンソプさんの絵                   済州島にて    

:ジュンソプさんの絵はニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される程だったのに(1955年アジアの芸術家として初めてMoMAに作品が所蔵される)生活は苦しく、韓国では、亡くなってから(1956年没)認められたとのことですが、そのきっかけというのは何だったのでしょうか?

監督:ニューヨーク近代美術館に収蔵されたのも、無名の美術家のものでもいいものは収蔵するという方針からだと思います。その時点では韓国ではほとんど知られていなかったのですが、70年代に新聞に連載されて映画化もされました。

監督:亡くなり方がかわいそうなのですよね。

:お酒に溺れたことも?

監督:だと思います。そうとう飲めた方ですので。方子さんが友達に宛てた手紙で、あのように神経のもろい人なのでお酒に逃げたのではと書いています。相当繊細な方だったと思います。ジュンソプさんてどんな人?と方子さんに聞いたら、「芸術家だわね」とおっしゃってました。まさに凝縮された言葉。絵を画くことしかできない人。

:ジュンソプさんは悲惨な生活で終わってしまい残念だったけど、方子さんの息子さんが世話をしているシーンとか何回か出てきましたよね。「ご飯できたよ」なんていうシーンもあり、いいなと思いました。

監督:そうなんです。息子さんマメなんです。


息子さんと

:後にジュンソプ氏の絵が認められて高値がついたそうですが、それは方子さんの手に入ったのでしょうか? それが入れば方子さんの生活も楽になったのにと思うのですが…。

監督:方子さんには全く入らなかったのですよ。このことを語り始めると、映画が別のことになってしまうので踏み込んでないですが。

:2012年にソウルに行ったのは?

監督:招待されたわけではなく、ジュンソプさんの絵を見に個人で行ったんです。
2011年、済州島にイ・ジュンソプ美術館がオープンした時に招待されて行って、ジュンソプさんのパレットを美術館に寄贈しています。ほんとは、そのパレットのことをもっと聞きたかったのですが、その時には伺ってもちんぷんかんぷんでわからなかったです。でも、最近お会いしたら、とてもお元気になられて、撮影したことでスイッチが入ったようです。
撮影されていた当時は、週1回デイサービスに行っていましたが、今は週2回いらしてます。10月12日で93歳になられました。

:あの世代がどんどん亡くなられているので、今、取材しなくてはという思いでしょうか? でも、その歳でもしっかりしてらっしゃいますね。

監督:でも方子さんは80代に入院されたりして、ずっと元気だったわけではないんです。彼女は社交的ではなく相当シャイな方。デイサービスに行っても、皆とおしゃべりするわけじゃない。秘めたものがある方。顔に出すタイプじゃない。


*国家や国境を越えて

:今、日韓の状態は良くないですが、当時は支配関係。もっと違っていたと思うのですが、この作品では相手のことを思いやるということがよく出ていたと思います。
若い方へのメッセージは?


酒井充子監督
撮影:宮崎暁美

監督:国とか国境とか民族とかを超えた二人だと思います。原点は男女の愛ですが、国と国がうまくいってない状況の中で、私たち一人一人に何ができるか? そんなことは関係ない、人間どうしだからつきあえる。あまり内向きにならず、国と国とか大仰に考えない。
撮影で韓国に行った時も、ほんとに韓国の方にお世話になり信頼関係も生まれました。
メッセージというより自然に感じてほしいですね。国とか時代とか関係なく生きてきた二人。彼らのようになろうというのでなく、生きている姿勢として、国や時代に左右されない生き方ってあるよねっていうことですね。

:これまでの酒井監督の作品に流れているものは国と国の関係でなく、人と人との関係。まさにそれですね。

監督:そうです。

:1955年の個展を準備していた時に、銀紙画が春画とみなされて中止になってしまったそうですが、描かれているもの自体を当局は見なかったのでしょうか?

監督:見ているのではないでしょうか。裸で子供が戯れていたりとか、男女が抱き合っていたりとかありますが、いちゃもんです。当時の韓国の状況を表わしていると思います。北から来た人は「赤」とレッテルが貼られていて、そういう空気感が影響していたのじゃないかと思います。

:後にジュンソプさんが認められたのは?

監督:1970年代ですが、国策ではないかと思っているんです。悲劇の画家ということで。本人にとっては遅すぎますが、認められたのは方子さんにとってもよかったと思います。でも、方子さんは有名な画家の妻という気持ちはありません。奥ゆかしいという言葉がぴったりの方です。

:理由はともあれ、認められたのは良かったですね。

:彼女の家で撮影をしていますが、今も実家にお住まいですか?

監督:建て替わっていますが、敷地にある家に住んでいます。

:手紙の端に書かれている家族が顔を寄せ合っているような絵がほほえましかったです。
気になったのは封筒の切手部分が切られていたこと。ご家族の誰かがコレクションにされたのでしょうか?


   手紙の隅の絵                   ジュンソプさんからの手紙

監督:男の子二人だったのでコレクションしたのではないかと思います。今度聞いてみます(笑)。手紙の宛先ですが、「方子」で終わっているのがほとんど。「様」ってついてないんですよ。方子君とか方子なんですよ。1,2通は「様」がついているのもあるのですが…。

:200通にも及ぶ手紙をとってあるのがすごいですね。

監督:ジュンソプさんから方子さんへ「毎日手紙をください」「最低3日に一度はください」「君からの手紙を待っている」という手紙もあります。方子さんは働いていたので、ジュンソプさんが望むようには書けなかったようです。イ・ジュンソプ美術館には、方子さんがジュンソプさんに宛てた手紙が3通、友達に宛てた手紙が1通収められています。作品の中で読まれた手紙は、美術館に収められたものです。

:済州島での上映は実現しそうですか?

監督:ぜひにとおっしゃっていますので、来春には上映できると思います。美術館のある西帰浦で、家族が穏やかに暮らせたところで最初に上映したいと思います。その後、韓国での公開もできたらと思い模索中です。
昔、家族が身を寄せた家のすぐそばに美術館もあり、住んでいた部屋も観光地として開放されています。おばあさんの代までは住んでいいといわれて、まだ人が住んでいます。
西帰浦は済州出身でない韓国人が移住してきたりしています。芸術家もアトリエを構えたりして文化の香りもします。韓国ドラマでカップルがイ・ジュンソプ美術館を訪れる場面があって、「ジュンソプと方子はここで暮らしたのね」というセリフがあり、知名度が上がって、美術館に週末1000人、平日でも600人が訪れるそうです。

:次の作品はどんなものを考えていますか?

監督:台湾に戻ります。日本語時代の世代の人たちは、もうほんとに時間がない。やっぱり、『台湾人生』『台湾アイデンティティー』と作ってきて、普通、3部作でしょと言われるんですよね(笑)。それにふさわしいものがあれば3作目を作りたいと思います。


酒井充子監督  撮影:宮崎暁美
取材 記録 景山 まとめ・写真 宮崎



取材を終えて


・前回、『台湾アイデンティティー』のインタビューの時、次回作は「戦前に朝鮮人の画家と結婚した日本人女性を撮っています」とおっしゃっていましたが、作品を観るとやはり酒井監督印の「日本とその国の人との絆」を描いた作品に仕上がっていました。
いつもながら知らなかった日本の歴史を教えてくれますし、人と人との関係は国境や時代に関係なく脈々とつながっていることを伝えてくれます。日韓関係がギクシャクしている今、こういう人たちがいたということをぜひ知ってほしい。(暁)


・映画の中で、「苦労だと思わなかった。あの頃はね」という方子さんの言葉が心に残りました。実際に方子さんに長い時間接した酒井監督から、方子さんの奥ゆかしさをお聞きしたひと時でした。
私自身は、戦争の時代を過ごした父や母から話を聞かされて育ってきましたが、今や、戦争体験者がどんどんあの世に旅立ってしまって、直接体験談を聞く機会のない若い人も多いことと思います。次作はまた、日本統治時代を過ごした台湾の人たちを追うという酒井監督。まさに時間との勝負。人々の記憶を映像に残してくださることに感謝! (咲)



シネマジャーナルHP 酒井充子監督インタビュー記事

2008年『台湾人生』酒井充子監督インタビュー
http://www.cinemajournal.net/special/2009/taiwanjinsei/

2013年『台湾アイデンティティー』酒井充子監督インタビュー
http://www.cinemajournal.net/special/2013/taiwan_id/index.html

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