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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『セデック・バレ(賽德克・巴萊)』
第一部:太陽旗 第二部:虹の橋
ウェイ・ダーション監督・ダーチンさん来日記者会見&インタビュー

魏徳聖監督と大慶さん

2013年4月20日(土)より、渋谷ユーロスペース、吉祥寺バウスシアターほか、全国順次ロードショー公開される台湾映画『セデック・バレ』第一部:太陽旗 第二部:虹の橋。
1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)まで、50年に及んだ台湾の日本統治下、1930年に霧社という場所で起こった原住民による武装蜂起を描いた作品。日清戦争後、日本の植民地になった台湾では、植民地政策による近代化が推し進められ、インフラ整備や新しい文化がもたらされる一方、軍や警察組織を使って、独特な文化や習慣を禁じ、過酷な労働と服従を強いた。
誇り高い狩猟民族であるセデック族は、そんな屈辱にずっと耐えていたが、日本人警察官との間で起こったいざこざが原因で、とうとう武装蜂起をする。
『セデック・バレ』は、その「霧社事件」を描いた、4時間36分に及ぶ台湾の歴史大作。魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督は、霧社事件を「反乱」や「暴動」ではなく、セデック族の誇りを取り戻すための戦い、先祖への敬意を示すための戦いとして描き、気迫ある作品に仕上げた。

作品の詳細は、シネマジャーナル作品紹介コーナーを参照ください。
http://www.cinemajournal.net/review/2013/index.html#seediq_bale

魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督と主人公モーナ・ルダオの青年時代を演じた大慶(ダーチン)さんが来日し、シネマジャーナルも記者会見とインタビューに参加させていただきました。

●プロフィール 『セデック・バレ』公式HP参照


魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督

魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
1969年、台南市生まれ。林海象監督作『海ほおずき』(96)、楊徳昌(エドワード・ヤン)監督作『カップルズ』(96)、陳國富(チェン・グオフー)監督作『ダブル・ビジョン』(02)をはじめ、93年から02年までの間、多数の映画やテレビ番組に携わる。同時に自らも多数の映像を製作し、99年『七月天(原題)』でバンクーバー国際映画祭ドラゴン・タイガー賞特別賞を受賞。08年の監督作『海角七号 君想う、国境の南』では台湾史上最大のヒットを記録。台湾金馬奨で最優秀台湾映画賞、観客賞、最優秀助演男優賞など6部門を制し、ハワイ国際映画祭作品賞、アジア海洋映画祭イン幕張グランプリなど国際映画祭でも多数の賞を受賞した。『海角七号 君想う、国境の南』の成功によって長年企画を温めていた本作が完成し、第68回ヴェネチア国際映画祭への出品を果たす。
『セデック・バレ』は2011年金馬奬で作品賞、助演男優賞(警官花岡一郎役の徐詣帆/シュー・イーファン)、音響効果賞、オリジナル音楽賞、観客賞を受賞している。



大慶(ダーチン)さん

主人公モーナ・ルダオ(青年時代) 役 大慶(ダーチン)さん
宜蘭県南澳郷澳花部落出身のタイヤル族。幼い頃から父親の厳格な訓練を受け、狩りや山での生活は朝飯前。狩人のような鋭い目つきに監督が魅了され、多数の候補者から主役に抜擢された。本作への出演で俳優としてのスタートを切り、テレビドラマへの出演など新たな世界で飛躍している。












目次
記者会見 2013・3・5
魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督合同インタビュー 2013・3・5
大慶(ダーチン)さんインタビュー 2013・3・6



★記者会見 (通訳 サミュエル周さん)

東京、渋谷の映画美学校試写室で3月5日、『セデック・バレ』1部、2部のマスコミ試写後、記者会見が開催され、魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督と青年期のモーナ・ルダオ役を演じた大慶(ダーチン)さんが登壇し、作品の魅力について語った。

司会:この作品が日本で劇場公開される、今の気持を一言づつお願いします。

魏徳聖監督:映画をご覧いただき、ありがとうございます。我々が語りたいこと、訴えたいこと、その視点を受け入れてもらえると、とても嬉しく思います。

大慶(ダーチン):とにかく、監督と一緒にこの作品を作ることができてとても嬉しい。アクションに関して初めてのチャレンジですので、いろいろやりました。日本で公開され、皆さんが観に来てくれると嬉しいです。応援してください。

*この作品を製作しようと思ったきっかけ

司会:霧社事件を描いた漫画を読んで映画化を決意したとのことですが、霧社事件を知った時にどのように感じましたか?

監督:霧社事件のことは、台湾の小中学校の教科書では2、3行の記述があるだけです。ある日、TVでこの事件に関して、東部の原住民が台北に来てデモをしたニュースが報じられ、興味を持ちました。このことを調べてみようと本屋さんに行ったところ、膨大な資料がありました。その中にこの事件のことを描いた漫画もあり、これを読んで衝撃を受けました。それで、霧社事件の背景や、当時の制度にはどんなことがあるのか、さらに様々なことについて調べました。

司会:大慶さんにお聞きしますが、このような自分の国の歴史にかかわる映画に出演することになり、どのように感じましたか?


大慶さん

大慶:私は原住民のタイヤル族ですが、小さい時は霧社事件については知りませんでした。この映画に出ることになって、脚本を読んで初めて事件の詳細を知りました。
小さい頃から、一族のお年寄りに我々には独自の文化、信仰、伝統があると聞いていたけど、この映画で我々の祖先はものすごい知恵があると思いました。山岳地帯に住んでいて侵入者が来た時にどうやって立ち上がって、家族、一族、そして自分たちの山や土地を守るのか。そういうことを考えて、撮影の時には使命感に燃えました。映画はかなり時間をかけて作ったので、出来上がった時には、ほんとに嬉しかったです。さらに作品が日本公開されるということで、みなさんとここで会えて嬉しく思います。

司会:日本の俳優として、安藤政信さんや木村祐一さんなどが重要な役どころで出演し、またプロダクションデザインは日本映画美術界を代表する種田陽平さんが務められました。日本人キャスト、スタッフとの仕事はいかがでしたでしょうか?

監督:キャスティングをした時、原住民については素人を起用しようと考えスターは使わず、外見で原住民とわかる人にしました。日本人の部分については、むしろ知名度のある俳優を使おうと考えました。理由は、日本人は今まで悪役として描かれることが多いけど、今回はそういうことではないということで、わりとカッコいい人を選びました。また、内容が複雑で、事件の前後で立場が変わってくるので、それを演じ分けられるプロの俳優に演じてもらおうと思いました。
また、種田陽平さんに関してですが、台湾では過去20年間、映画産業があまり盛んではなかったため、美術に関しても差がありました。それで種田さんにアプローチしました。霧社は原住民、日本人、漢民族の3者が作った街で、そういう要素を取り入れた街を作りたいと思っていましたが、種田さんは台湾にあった日本人街を作ろうとおっしゃってくれました。

記者質問

*作品に込められた思い

――この映画はいろいろなテーマがあると思いますが、文明と野蛮の対立ということを問うていると思います。その点についてお聞きします。

監督:文明と野蛮の境界線というのがどこにあるかというと、文明の強弱というか、どれが優れているか劣っているのかという判断の基準があると思うのですが、一般的には文化力が高いところは文明、文化力が低い、弱いとことは野蛮だと言われるのですが、そういう話をすると、文明がいいか悪いかという話になってしまうが、そういう話ではないと思います。文明や文化の力には強弱があり、別の文化がやってきたときには衝突が起こることもあるが、力をもって強制して文化を捨てろというのは良くない。お互いの価値を理解し合うことで衝突を乗り越えられると思う。絶対的にいい文化というのはないと思う。異文化との交流が理解を深める。異なる価値観を認めること。この作品でも最後に鎌田将軍のセリフの中で、そのことを語っています。

――安藤政信さん、ビビアン・スーさんについて。二人の印象とかやり取りとか教えてください。

監督:ビビアン・スーさんは、元々タイヤル族の出身で、アプローチしましたら、即答で、協力しますと言ってくれました。ギャラも一銭も取らず、逆に資金を貸してくれました。ほんとに感謝しています。どうしてですか?と聞いたら、彼女は自分の出身の部族のためになる仕事をしたいと語っていました。現場でもスターぶらず、周りの皆さんと一緒に雑談をしたり、ご飯を食べたり、お茶を飲んだりしていました。
安藤さんに関しては、役柄に関して相当の時間をかけて、しっかりとコミュニケーションを取りました。なかなか出演に応じてくれませんでしたが、一生懸命コミュニケーションを取った結果、引き受けてくれました。一旦、引き受けたら、全力投球でした。「セデック族の方で日本に留学している人はいませんか?もしいたら紹介してください。その方についてセデック語を勉強したい」と言い、3ヶ月かけてセデック語を勉強してくれました。台湾の人にとって、安藤さんは知名度も高く特別な存在だと思います。大スターなのに、マネージャーもつけずに一人でやってきました。通訳さんはつけましたが、一生懸命仕事をして、オフのときには一人であちこち写真を撮りに出かけたり、お茶を買ってきたりしていました。

*「虹」に込めた思い

――これは80年前の話ですが、現在、台湾では高地に住んでいる原住民、平地に住む台湾人、国民党と共に来た外省人などがいます。価値観の違いとか思想的な違いなどがあると思いますが、そういうことに対するメッセージも、この映画には含まれていますか?


魏徳聖監督

監督:もちろんそうです。台湾にはいろいろな民族が暮らしていて、価値観は多種多様です。そういう意味で、混乱している価値観があります。また、過去100年の間、台湾は支配者が何度も変わって、そのたびに価値観が変わってきました。そういうことを経験した台湾の人たちは、段々と新たな秩序をみつけて形成してきました。台湾の人にとっては自信を持つことが大事だと思います。今日、台湾で暮らしている色々な民族、色々なグループがいて、それぞれの個性、カラーを出しています。私自身は、非常に前向きで、いい方向へいい方向へと、ある種のロマンを持って考えたいと思っています。
前作、『海角七号 君想う、国境の南』の中でも「虹」が出てきましたが(この作品でも虹が需要な役割をしています)、なぜ「虹」なのかというと、虹は独自のカラーが集まったものです。虹色の価値観と呼んでいますが、台湾がいろいろな経験をして、台湾独自の文化、価値観が形成されているので、これが破壊されることがありませんようにという願いが込められています。

――監督の次回作ですが、やはり、台湾の日本統治時代を舞台にした作品で、台湾の野球チームが甲子園に出場するという作品をプロデュースすると聞いていますが、そちらの作品にはどういう願いを込めて作るのですか?

監督:1931年の台湾を舞台にした映画なのですが、当時日本人しか野球をしていなくて、台湾の人は野球をしていませんでした。それで、純粋に健康を理由にスポーツをやろうということで、台湾原住民、漢民族、日本人が結成した野球チームができました。その後、日本からトレーナーがやってきて、スパルタ式で2年間、チームを鍛えた結果、強いチームになり、台湾のトップチームになりました。さらに台湾を代表して、甲子園にも出場しました。それまでは、台湾からチームが来ても1回戦で敗退していたのですが、そのチームは勝ち残って優勝戦まで行ったのです。最後、優勝はできなかったのですが、結果的には台湾の野球の質を高めることになったという話です。

*映画を観る日本の観客に向けてのメッセージ

司会:最後に、これから映画を観られる日本の観客の皆さんに向けてのメッセージをお願いします。


大慶さん

監督:この作品が日本で公開されるまで、かなりの努力をしました。この映画は歴史ドラマでテーマは重たいという感じはすると思います。だけど、決して退屈することはないと思います。テンポもいいですし、ストーリー展開も納得のいくものだと思います。この映画を通して、今日、私たちが直面している様々な文化、価値観の相違という問題は、過去も同じような経験をしたということを知ってもらい、今と過去の台湾を理解していただけたらと思います。

大慶:この映画はたくさんの素人の役者を使っています。特に原住民は、私も含めてほとんどが素人で、一生懸命演技をした作品です。撮影中、たくさんの役者がケガをしたにもかかわらず努力して、監督と一緒にこの映画を完成しました。途中で資金難にも陥り、映画を完成することができないかもしれないということもありました。でも、全員が信念を持って完成させました。こういう話も含めてメイキング映像も見る機会があると舞台裏のことも知ってもらうことができると思います。
とにかく日本で公開することができ、日本にプロモーションに来ることができて嬉しい。ぜひ、皆さんこの映画を応援してください。お願いします。ありがとうございました。


取材 浦川とめ、宮崎暁美



魏徳聖監督(右)と大慶さん

☆日本公開に寄せて

「セデック・バレ」とは「真の人」を意味するセデック語だそうです。1部、2部合わせて4時間半にも及ぶ長時間の作品ですが、セデック族の思想や行動をじっくり描き、彼らが霧社事件を起こすに至った道筋を描いています。去年、大阪アジアン映画祭に、この作品を観に行った時、監督の話を聞いて、日本では国際版の2時間半バージョンではなく、4時間半のバージョンで公開してほしいと思っていましたが、フルバージョンが公開されることになって、関係者の思い入れを感じます。
台湾が日本の植民地であったことすら知らない人が多い日本では、やはり事件の背景がしっかり描かれていて、彼らがなぜこういう行動に至ったかがちゃんと伝わる必要があります。セデック族の世界観や死生観は、日本の武士道にも通じるものがあり、日本人は理解しやすいのではないかとも思います。
この作品では首狩りのシーンや戦闘シーンがけっこう出てきますが、戦うシーンや、残酷なシーンが嫌いな私でも、受け入れられました。やはり、なぜ戦うのかの意味がちゃんと語られているからだと思います。
登場人物たちは多いけど、人物形成がしっかりしているので、どの人も存在感がありました。中でも主人公モーナ・ルダオ役を演じた2人(青年、壮年)は大きな存在感がありました。歴史大作だけど、エンターテイメント性もある作品になっています。日本でもたくさんの人に観てもらいたい(宮崎)。

『セデック・バレ』は前編「太陽旗」、および後編「虹の橋」がそれぞれ4月20日より、日本各地の映画館で順次公開される。

『セデック・バレ』公式サイト
http://www.u-picc.com/seediqbale/




魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督合同インタビュー 2013.3.5
 通訳 サミュエル周さん

記者会見の後、数社合同で魏徳聖監督を囲んでインタビューが行われました。

*メジャー映画のようなやり方で宣伝しました

――本作は台湾で大ヒットしましたが、台湾と、中国や欧米で公開されたときの観客の反応や理解度に何か違いはありましたか?


魏徳聖監督

 観客の受け止め方という点では、どの地域も大同小異といっていいと思います。それよりもっと大きな問題は、この映画をどうやって売っていくかでした。台湾では2時間半の国際版でなく完全版で公開されたわけですが、通常は前編を観れば後編も観ますよね。そうすると、合わせて4時間半という長さです。
 まずは観客を映画館に惹きつけるため、宣伝に1~2年かけました。映画が完成してからではなく、撮影に入るときから。みなさん、心の準備をしてくださいと。予防注射のように、少しずつ刷りこんでいったわけです。「この映画のコンセプトやストーリーはすばらしいですよ、これは特別な映画ですよ、もしかすると完成できないかもしれない、でもきっと完成させます、長い映画だけど退屈はさせません、保証します…」というふうに。ずっと発信し続けました。本作は、メジャー系の映画ではありません。でも強気で、メジャー映画のようなやり方で宣伝したのです。
 そうすると、いよいよ公開されたとき、もう観客はそのつもりで観てくれました。そして3日間で1億台湾元突破という興収記録をうちたてました。予防注射と強力な宣伝の効果です。反応としても、観客の価値観に挑戦するようなこの映画に、全員ではないにせよ8割の人は満足してくれました。
 不思議なくらいです。半分以上の、特に原住民の人たちはすっかり入りこんでしまって、自分たちのルーツをこの映画に求め出しました。自分の父や祖父はヒーローだったのかもしれない、と。そういうのはわりと記録に残っているのですが、彼らは映画の物語がどうこうではなく、自身のルーツをこの映画に見出すようになったのです。
 中国や香港、欧米では、国際版で上映されました。反応は良く、8~9割がたは好評を得ています。ただ、ひとつとても残念なのは、最初は失敗から始まりました。というのも、ベネチア映画祭のコンペ部門に入選したとき、まだ4時間半の完全版の編集も全部終わっていないのに、1週間以内に2時間半の短縮バージョンにするように言われたんです。弱いところをつかれた感じで、どうしようかと思いました。
 一応、編集しましたが、ちゃんと考えるひまもなく、ひたすら切りました。ここはカット、ここはカットというふうに。それがベネチア映画祭で上映されたわけですが、初めて国際映画祭で披露したのが完全に失敗作だったので、評判はさんざんでした。後日、世界で売っていく際に、それが足を引っ張りました。なにしろひどい映画でしたから。何度も何度も試写をやり、これはいい映画なんですと説明をし、ようやく理解してもらって。国際配給するときは苦労しました。
 今となっては、ベネチアに送るとき、自分がどうカットしたのかよく思い出せないんです(笑)。アクションの見栄えがいいということでアクションシーンを多く残したのですが、ドラマ部分をたくさん削ったせいで、なんのために彼らが戦っているのか分からなくなってしまいました。なぜこういうアクションシーンになるか、そこに至る経緯が観客に伝わらない。ひたすら戦っている映画、みたいな印象になって、セデック特有の文化も信仰も美学もあったもんじゃない。みんな途中で飽きてしまい、退出する人が出てきました。僕自身、あの現場から逃げ出したかったですよ。国際版は観る人に申し訳なくて、火をつけて燃やしてしまいたいくらいです(笑)。

――本作の、武士道的というか、“死の美学”的な部分を日本の観客はそれなりに理解できると思いますが、監督自身はそうした概念にどうアプローチしたのでしょうか。

 死に対する考え方も含めて、劇中の概念は僕にとって全部が全部、受け入れられるわけではないのですが、だからといって僕がそれを理解していないとか拒否するということでもありません。
 僕はキリスト教徒です。なので、宗教の違いも一因ですが、そうした観念を映画の中でとりあげる過程で、脚本を書きながら、僕はどんどん寛容に、開放的に、自然になっていきました。この映画を撮るまで、僕はもっと他の宗教に対して寛容でなかったと思います。でも『セデック・バレ』のためにいろんなフールドワークをやり、さまざまな価値観と触れるにつれて、僕は心が広くなり、いろんな価値観を受け入れられるようになりました。それによって従来の信仰を捨てたわけではないですよ。信仰心そのものは変わっていません。でも、ちょっと寛容に、より自然になったと思います。


*日本人キャスト・スタッフとのコラボはいかがでしたか?

――記者会見のとき、監督は安藤政信さんと長い時間をかけて話し合ったとおっしゃってましたが、安藤さんは最初は気のりがしなかったのでしょうか?

 安藤さんとのコミュニケーションは、脚本の段階から始まりました。彼は、小島という役柄について、自分でもいろいろ歴史的資料を調べたのです。すると、あまり評価されていない人物で、どちらかというと、あまりいい人じゃないということが分かりました。それで、彼は小島役を演じることに不安を感じていました。海外の映画に出て悪い日本人役を演じると、日本で公開されたときに、裏切り者みたいに思われてたたかれてしまうのではないかと、それを心配していました。演じないというのではなく、もっと自分の役どころを理解し、日本で悪く言われないようにしたかったということです。その点について、僕たちはいろいろと話し合いました。

――この映画には日本人のキャストやスタッフが大勢参加していますが、現場はどんな感じでしたか(編集部注:アクションは韓国人)。


魏徳聖監督

 いろんな国の人が一緒にいる現場で、ものすごく疲れました(笑)。なにしろ通訳だけで十数人、いつもどこかしらのクルーに1~2人はいて、そしてよく誤訳をする。みんながみんな、優秀な通訳というわけではないですから、大を小と言い小を大と言うようなことがよくあって、大混乱でした。最初のうちは、現場でコミュニケーションがうまくとれませんでした。いくらやりとりをしても互いにきちんと通じないのです。主に、通訳・翻訳の問題でした。
 それでも、先ほど言ったように、僕は脚本を書いている過程で心が広くなっていました(笑)。セデック語も日本語も台湾語も使う映画じゃなく、全員が同じ言葉をしゃべるような映画にしたら?と言われたりもしましたが、そのつもりはありませんでした。
 今回、通訳の問題を経験して、僕は言葉の大切さを痛感しました。なにかトラブルがあったとき、一番の原因は、意思の疎通ができていないことです。それがよく分かりました。で、そう考えると、まあいいか、こんなもんだろうと思えるようになりました。
 では、そういう現場でどうやってスタッフたちをたばねていくか。まず大事なのは、簡単にいうと個々の専門性を尊重することです。相手のプロの部分を尊重し、同時に自分のプロの部分も尊重してもらう、互いにそうするのが一番ですね。

――次回作(※魏徳聖はプロデューサー。監督は馬志翔/マー・ジーシアン=『セデック・バレ』で、主人公モーナ・ルダオのライバル、タイモ・ワリス役を演じた)の『KANO』にも大沢たかおさんや日本人キャスト、スタッフが参加していますね。

 はい、日本人が何人も参加しています。八田與一を演じる大沢たかおさんは、特別出演なのでそんなに出番は多くありません。主演は永瀬正敏さんで、野球部のコーチ役です。でも、大沢さんは4日間の仕事でしたが、ここをもっとこうやれるといいんじゃないかとか、いろんなことを提案してくれました。
 一般に、日本人の仕事の仕方はけっこう差がありますね。チームの場合はきっちりと、1は1、2は2というふうに、計画どおり仕事をする。一方、俳優はとてもアドリブを好みます。単に演じるだけでなく、俳優というよりクリエイター的に能力を発揮し、コミュニケーションをとることにこだわります。
 時にはすばらしいアイデアが出てこちらの視野を広げてくれますが、監督としては心臓に悪いですよ(笑)。だって、アイデアを聞いたらすぐに現場で、それを実行するかどうか判断しなくてはならない。よし、そういうふうに変えようとか、いや、変えなくていいとか、どんどん決めていかなくてはならないので監督は大変です。まあ、それは、日本の俳優だからというのではなく、国にかかわらず役者1人1人の好みや個性によるところが大きいですが。

――『海角七号 君想う、国境の南』『セデック・バレ』『KANO』と、日本が関係する映画が3本続きますが、監督は日本に対してなにか思い入れがあるのでしょうか。

 実のところ、さまざまなコンセプトや偶然が重なった結果です。わざと日本をからめているわけではありません。僕にとって、一番最初から持っていたテーマ、撮りたかった映画は『セデック・バレ』でした。そのために調査研究をし、たくさんの資料を見るうちに、いろんな時期のいろんな別のいいテーマをたくさん発見したのです。八田與一(※日本統治下の台湾でダム建設など水利事業に大きな貢献をした)の話もそう。すごくいいと思いました。ただ、ダムの話は規模が大きすぎて映画化はむずかしい。一方、同じころ、野球チーム(台湾から日本の甲子園に出場し活躍した嘉義農林学校野球部)の話も発見しました。では、この物語に八田の話を背景として一緒に取り込もうと思った、それが次回作『KANO』です。いうなればリサーチの副産物です。
 『セデック・バレ』は、憤怒の作品です。どういうことかというと、あんなに予算のかかる映画、僕がいくら撮りたがっても、誰が興味を持つでしょうか。登場するのは原住民と日本人。国際性がないし、海外に売れない。役者はみんな素人だし、言葉は原住民の言葉だし……。周潤發みたいな大スターでも出演すれば別でしょうけど、誰も投資しない。ヒットするわけがない。あらゆる悪条件がそろっていました。僕としては、そういうのがすごく頭にくるわけですよ。
 思い出してほしいのですが、『海角七号~』は『セデック・バレ』にそっくりです。『海角七号~』は、実際、特別な映画です。僕は『セデック・バレ』の要素をことごとく『海角七号~』に取り入れました。撮り方としてはコメディスタイルですが、中味はとても似ています。文化や価値観の衝突を描いており、役者は素人ばかり、予算も5千万元を超えてしまいました。
 というわけで『海角七号~』も『セデック・バレ』も僕の憤怒の作品です。つくづく、映画がヒットするかどうかはテーマの問題ではなく、話がいいかどうかだと思います。それを実現するのが我々プロの仕事でしょう。『海角七号~』も、わざわざ日本をからめたわけではありません。物語に必要なものを選んだ結果、日本がかかわってきたのです。結ばれなかった愛の悔しさ、無念さを表現するのに、日本統治時代が終わる時期の設定にするのがちょうどよかったんです。それより前の時代だと、中断した愛の話になりませんから。


*目ヂカラが大事

――『セデック・バレ』では、素人の俳優の演技がすばらしかったですが、どう演技をつけていったのでしょうか。

 まず、キャスティングの段階で、とくに原住民の場合は目ヂカラがあるかどうかを見ました。物語の中で、彼らはハンターですから。目がどんよりしていたりするのはありえない。魂が感じられません。
 それから外見です。この2つの条件が合えば、次は本人のキャラクターを理解しようとしました。キャスティングの段階でいろいろ話をし、どんな人なのか把握し、時には自宅まで訪ねて話をしました。彼らの情熱や、個性を見極めるためです。そうするうちに、一人一人の役どころは自然に決まっていきました。
 現場で重要なのは、彼ら自身のキャラクターを引き出すことです。人間は環境によっては本性を見せようとしませんから、それをどうやって引き出し、演技をさせるかに心をくだきました。
 演技指導については、トレーニングもしましたが、意外な発見がありました。最も役に立つ方法を発見したんです。それは、自分に自信を持つことです。でも、役者に自信を持て、内面を表現しろと言ったところで、自分がその演じる人物自身だと思えなければ、表面的な演技にしかなりません。たとえば森の中を歩くシーンならばそれなりに撮れますが、真の演技をするのはむずかしいものです。
 そこでとても大きな力になったのが、環境でした。伝統的な民族衣装を身に着け、髪をたばね、素足で部落のセットに入って行ったとき、不思議なことが起こりました。こちらが別に指示を出さなくても、彼らは自然に木を探してきて火をつけ、それを囲んでしゃがんだり、といった行動をとり始めたんです。まるで、百年前の部落の写真そのものの光景がそこにありました。やっぱりそういう血が流れているんですね。彼らは自分がセデックであることを確信するようになり、そのあと僕がやった演技指導といえば、君のやる範囲はどこまでとか、しぐさをちょっとつける程度でした。

――本作はまるでメジャーな娯楽大作のように撮られていて、森の中の原住民の動きなど、実にみごとでした。監督はどんなふうにそのテクニックをものにしたのでしょうか。これまでに影響を受けた映画などはありますか?

 自分でも分かりません(笑)。ねらっているわけではなく、こう撮るとかっこいいんじゃないか、テンションが上がるんじゃないか、と思ってそう撮っているだけなんです。
 僕が映画をちゃんと見るようになったのは、兵役を終えてからです。僕のバックグラウンドは変わっていて、田舎の実家の隣に映画館がありました。小学生のときにその映画館が閉鎖したあとも、家のもう片方の隣がお寺で、そこで野外上映が行われました。また、子供のころ僕は体が弱くて、よく母に連れられて隣町の医者に行ったのですが、隣町には映画館があったので、病院のついでに映画を観ていました。生活の中で、当たり前のように映画があり、映画は生活の一部でした。
 小・中学校から兵役に行くまで、僕が見ていたのは台湾映画です。通俗的な映画で、別に深い内容ではなく、それらを見て教養や手法が身に着いたわけではありません。むしろ映画館では周りの人たちを観察していました。1つの習慣として、庶民が映画を見るときにどんな反応をするか、どんな表情をするかを見ていました。それで、自分が映画を撮るようになっても、庶民のキャラクターを描くようになっていました。ですから、どうやって映画の撮り方を学んだかとよく聞かれるのですが、アングルがどうとか、そういう教育は受けたことがないんです。


魏徳聖監督

☆取材を終えて

魏徳聖監督には『海角七号 君想う、国境の南』の宣伝で来日した時も取材をする機会があり、『セデック・バレ』をどうしても撮りたいと熱く語っていたのが印象的だった。今回もその熱さは健在。その日のスケジュールの最後のインタビューで、相当お疲れだったと思うが、予定時間をオーバーしていっぱい話していただいた。監督は、シャイな笑顔やおだやかな語り口からはちょっと想像がつかないくらい執念の人である。ネガティブな意味の執念ではもちろんなく、闘魂の人、初志貫徹の人ということだ。予算の問題などさまざまな困難を乗り越えて完成した『セデック・バレ』は、“憤怒の映画”と監督が振り返るように、まさしく汗と涙の結晶。たまたま私はまず国際版(短縮版)で見て、充分に見ごたえがあったが、フルバージョンを見たら何倍もすばらしかった。台湾と日本は複雑な歴史的関係を持つ。劇中、不愉快な日本人が何人も出てくるし、日本人として胸の痛むシーンも多い。でも反日映画ではない。この価値ある完全版が日本で公開されることの意味は大きい。(浦川)

魏徳聖監督が『セデック・バレ』を撮ったと数年前に聞き、4時間半もの長さと知り、これは日本ではとても公開されないなと思い、もし公開されても2時間半の短いバージョンだろうなと思ったので、去年大阪アジアン映画祭でロングバージョンが上映された時、大阪に観に行きました。同じような思いの人が多かったのでしょう。2回の上映会場は満員でした。監督もいらしてトークショーもあり、それにも参加しました。(シネマジャーナル85号、大阪アジアン映画祭レポートの中に、そのトークショーも含めた『セデック・バレ』関係の記事があります)。その時、熱く語っていた監督の姿を見て、ぜひ日本で公開される時は4時間半のバージョンでと思っていましたが、それが実現されることになり、ほっとしています。
私は2時間半バージョンは観ていませんが、監督自身が「ドラマ部分をたくさん削ったせいで、なんのために彼らが戦っているのか分からなくなってしまいました」と、語っているように、セデック族がなぜ日本人を襲うに至ったかというそれまでの状況が描かれなければ、やはり意味がないだろうと思いました。
とにかくフルバージョンが日本公開されることになり良かったです。(宮崎)

取材 浦川とめ(文) 宮崎暁美(写真)




大慶(ダーチン)さんインタビュー 2013・3・6 通訳 樋口裕子さん

記者会見の翌日、モーナ・ルダオの青年時代を演じた大慶(ダーチン)さんにお話を伺いました。 この映画で主人公の青年時代役に抜擢され、芸能活動を始めたそうです。


大慶(ダーチン)さん

――霧社事件については、昨日、監督もおっしゃっていたのですが、公開前、原住民の間で霧社事件についてどのように思われていたのでしょうか? また、公開後の反応はどうだったのでしょうか?

大慶:この作品を撮る前、原住民の人たちは霧社事件を題材にした映画が撮られることについて、否定的でした。憎しみや恨みのあった時代のことですから、あまりいい気持ちではありませんでした。しかし、監督は「必ず撮る!」と貫き通しました。
映画が完成して、普段映画なんて観に行かないような人まで観にいきました。
私の部族では実は映画化を希望していました。この作品が撮られたこと、そして、その作品に出演できたことは、とても嬉しいことでした。






『セデック・バレ(賽德克・巴萊)』場面写真
(c)Copyright 2011 Central Motion Picture Corporation & ARS Film Production ALL RIGHTS RESERVED.

*今も夢のような気持ちです

――この作品に出演する前はトラック運転手だったとのことですが、どのような経緯で出演することになったのですか? 以前から俳優に興味を持っていたのでしょうか。たくさんの人の中から主人公モーナ・ルダオの青年時代に大抜擢されたとのことですが、その時の気持は?


大慶(ダーチン)さん

大慶:小さい頃から映画がほんとに大好きだったのですが、まさか自分が映画に出て、このような役を演じるなんていう日が来るとは夢にも思いませんでした。監督は台湾全土でキャスティングされたのですが、壮年時代のモーナ・ルダオ役の林慶台(リン・チンタイ)さんの奥さんが私のことを紹介してくれました。そして、オーディションを受けてみないかと言われました。キャスティング担当の人が私の写真を撮ったり、ビデオ資料とかを作ってくれて、監督に会いにいきました。それから、仕事の合間にカメラテストに行き、第一次選抜に受かって、グループトレーニングのあと、この役に抜擢されました。今、思うと、とても嬉しい気持ちでいっぱいなのと共に、不可思議な気持ちもあります。今まで運がいい方じゃなかった。ロトも当たらなかった(笑)。これで運がめぐって来たのかなと、今も夢のような気持ちです。
こうして芸能界に入ったのですが、俳優の仕事がますます好きになっています。好きなものに向って、今後も努力していきたいと思っています。こういうチャンスをくださった監督に感謝しています。


――埋もれた原石を見つけたという気がしています。

大慶:この役が自分に決まったときの気持ちは言葉で言い表せません。台湾のマスコミがモーナ・ルダオが誰になるか、ずっと注目していましたので。顔は笑顔を浮かべていましたが、なんて表現していいか、複雑な気持もあり、とても興奮していました。決まった後、監督は「心の中の宝石が見つかった」と表現されました。

――ご自身はタイヤル族ですが、同じ原住民を演じたことで感じたことは? セデック語は以前から知っていたのでしょうか?それとも映画出演のために訓練の中で覚えたのですか?

大慶:タイヤル族とセデック族の文化習慣はほとんど同じですが、言葉は若干違います。単語も多少違いますが、漢民族の人が一からやるよりは容易でした。タイヤル語はアクセントが前、セデック語はアクセントが後という違いもあります。
(ここで、実際に「霧社事件」を両方の言葉のアクセントで発音してくださった)

――「お父さんから厳格な訓練を受けて、山を駆け回ることなどは朝飯前」とプレスシートにありますが、子供から青年時代は、どのような訓練を受けたのですか? 映画の中でも身軽に動いていらっしゃいましたが・・・。狩りなども実際にされていたのでしょうか?

大慶:小さい頃は父や親戚などに連れられて狩りもしていました。父と一緒に山に入って、狩りだけでなく、ほかの山の仕事もしていました。高校を卒業して軍の学校に入らなくてはならなくて、それ以降は狩りをしなくなりました。

――狩りは何でするのでしょうか? 弓? もしかして、そういう伝統も残っているのかなと思って聞いてみました。

大慶:(笑)いえ、猟銃です。 原住民も猟銃の許可証を貰って狩りをしています。狩りの道具は文化として今も残っています。原住民の歌や踊り、独特の民族衣装も残っています。


*今後の活動について

――ダーチンさんは原住民についてのフォトエッセイ「前進原郷」を出すなど、原住民理解についても積極的に活動されていますが、その中で原住民について誤解されていると感じたようなことはありますか? また、今後、どのような活動をしていきたいですか?


大慶(ダーチン)さん

大慶:誤解されていると感じた経験は自分としてはありませんでした。自分の活動としては、原住民に関わることに限っていません。映画のほか演劇や舞台劇、トレンディな活動もして、芸能人としての領域をもっと広げていきたいと思っています。

――この作品に出演したのは、4,5年前だと思いますが、その後の具体的な活動について教えてください。どのようなものに出演していますか?

大慶:2009年にこの作品に出演し、2011年に公開されました。その後、活動の範囲は広がっています。その後、映画は台湾でゲスト出演。『あなたはまだここにいたのですね(原来你还在)』
これが終わって、テレビドラマを大陸で撮っています。

――今日はどうもありがとうございました。



★ダーチンさんにお会いして

戦前、日本が台湾を統治していた時代に、私の母は基隆、父方の祖父母は台南に住んでいました。父は祖父母が東京に帰ってから生まれたのですが、小学生の低学年の頃に霧社事件が起こり、祖父から聞かされて衝撃を受けたことを今でも覚えているそうです。「父母ともに台湾と縁があるので、台湾に対して親しみを感じる一方で、支配していたということに複雑な思いもあります」と、自己紹介の時にダーチンさんに申し上げたら、「お母様たちが台湾で過ごしてこられたので、愛着があるのでしょうね」と優しい笑顔を見せてくださいました。思いもかけない縁で、30を過ぎて俳優としての道を歩み始めたダーチンさん。幸運を噛み締めながら、地道に誠実に活動している様子に好感が持てました。(咲)

映画の中では精悍な顔つきと、大胆なアクションを見せていたので、ちょっと怖い人かもと思ったのですが(笑)、役とは違って、優しい感じの人でした。映画の中の場面写真とインタビューの時の顔を見比べてみてください。この違い!! インタビューが終わって写真を撮るとき、「笑一笑(ちょっと笑って)」と言ったら、笑い崩れるようなかっこうをしながらも笑ってくれました。


左:大慶(ダーチン)さん     
右:大慶(ダーチン)さん・場面写真
(c)Copyright 2011 Central Motion Picture Corporation & ARS Film Production ALL RIGHTS RESERVED.

監督は、原住民役の人は「目ヂカラを持っている人を選んだ」と言っていましたが、ダーチンさんに限らず、原住民を演じた人たちは精悍な顔つきのイケメンが多かったのですが、その中でもダーチンさんは際立っていました。台湾の原住民は、けっこう芸能界で活躍していますが、音楽の方で活躍している人が多く、俳優として活躍している人はまだ少ないようです。これからも、その存在感を生かした役を演じてくれることを期待しています。
日本語がわかるのか、質問に時々うなずいたり、日本語で部分的に答えてくれたりしました。(宮崎)

取材 景山咲子(記録) 宮崎暁美(記事まとめ、写真)

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