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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『李藝 最初の朝鮮通信使』完成報告試写会

ユン・テヨンさんと小宮悦子さん

15世紀、朝鮮王朝前期に王命を受けて40数回にわたり訪日した李藝の足跡をたどった日韓共同製作ドキュメンタリー映画『李藝 最初の朝鮮通信使』の完成報告試写会が、2013年4月10日、駐日韓国大使館 韓国文化院 ハンマダンホールで開かれました。

★『李藝 最初の朝鮮通信使』6月1日より全国順次公開 作品紹介 → http://www.cinemajournal.net/review/2013/index.html#rigei

■李藝とは

韓国語読み「イ・イエ」、日本語読み「りげい」
1373年生‐1445年没(73歳)
韓国蔚山(ウルサン)出身、朝鮮王朝前期に活躍した実在の外交官。
朝鮮王朝前期、日本では室町時代。8歳で母親を倭寇に拉致された後、困難の末に官人となり、対日外交に尽力する。朝鮮王朝世宗大王の信頼を得て、 71歳までの間に日本に渡航すること40数回。日朝の外交、経済、文化交流に尽力し、母を探しながら、日本に連れ去られた朝鮮人667名を送還。江戸時代に盛んになった朝鮮通信使(朝鮮王朝から日本への外交使節団)の始祖となる。
李藝の功績は近年改めて注目され、韓国政府より2005 年「文化人物」、2010 年「外交人物」に選定された。日本でも李藝を顕彰する「通信使李芸功績碑」が長崎県対馬市峯町の円通寺に2005年に完成。日本と朝鮮半島の間の船旅が危険を極めた時代、驚くべき胆力・体力・行動力で、国と国をつなぐという偉業を成し遂げた。

●完成報告試写会  2013年4月10日

韓国文化院 ハンマダンホールの入口では、続々到着する招待客や関係者を総合プロデューサーの益田祐美子さんが笑顔で出迎えていました。花束贈呈予定の中村玉緒さんも、早々に到着して、皆さんと談笑されていました。
満席の会場には鳩山由紀夫元内閣総理大臣、鳩山幸夫人、額賀福志郎衆議院議員、ファッションデザイナーの山本寛斎さんなど、多彩なゲストの姿が見られました。

◆主催者挨拶


緊張した面持ちで舞台に立った総合プロデューサーの益田祐美子さん

「こんばんは。本日はお忙しい中、御来場いただきありがとうございます。一昨年の暮れ、日韓合同で小説〔李藝〕(金住 則行著)の出版記念会を行いました。その席で映画製作を宣言しました。その後、何度も日韓を往復しながら撮影をしてまいりました。編集をする直前で、複雑な状況の中で一旦中断しました。この映画どうなるんだろうかと心配しました。資金的にも苦しく、悩んだこともありました。しかし、日韓両国の皆様の声援とお心遣いで完成披露試写会にこぎつけることができ、ほんとうに嬉しく思います。ご協力ほんとうにありがとうございました。映画は製作の段階では、製作スタッフのものですが、完成しましたら皆様のものです。映画をご覧になって、込められたメッセージを次の世代に伝えていただければと思います」と完成試写にこぎつけた喜びを語り、最後にはいつもの笑顔をふりまいていました。


◆来賓挨拶


文化庁長官 近藤誠一氏

「ヨロブン(皆様)」と呼びかけて、まずはハングルで自己紹介。個人的にも韓流ファンだと明かし、「文化交流こそ政治や経済を乗り越えてお互いを理解できるもの。江戸時代よりも前に、素晴らしい交流があったことはあまり知られていません。こういう交流があったことを認識する機会。色々な問題をみごとに乗り越えて完成させられたことをお祝いしたいと思います」と、日韓共同製作映画にエールをおくりました。



在日大韓民国大使 申珏秀 (シンカクスウ)氏

「ヨロブン アンニョンハシムニカ。完成報告試写会の開催を心よりお祝い申し上げます」と挨拶し、来賓の皆さんの名前をあげて来場に感謝されたあと、「主人公である李藝は、600年前、対日関係の安定化に大きく貢献した歴史的人物です。私たちの大先輩の外交官であります。私が外交部の本部で次官を務めていた時に、毎年外交史で輝いた人物を選んで催しを行うのですが、李藝先生を選んで、1年間 先生を称える事業をいろいろと行いました。当時、韓日間の航海は難しいものがあったのですが、43回にわたり往復して、日韓の基本関係を設定した重要な役割を果たした方です。李藝先生のおくるメッセージは総合理解と信頼であると思います。世界どこでも隣国どうしでは複雑な問題が付き物であると思います。韓日関係も例外ではないと思います。1965年、国交正常化以来、着実に発展を成し遂げてきたものの、その間にも浮き沈みがあったと思います。2年後には50周年を迎える韓日関係ですが、21世紀にふさわしい新しい関係を模索して、それを強固にすべきだと思っております。映画の中で、日本の学生さんたちと韓国の若者たちが意見交換をする場面があります。青少年の交流を通じて韓日の未来は明るくなるという重要な役割を示しています。先ほど総合プロデューサーの益田さんが紆余曲折があったとおっしゃいましたが、こうして完成報告試写会開催にご尽力くださいました関係者の皆様に感謝申し上げます。韓日間の文化交流、さらには肯定的な歴史を積み重ねる礎となりますことを願って祝辞に変えさせていただきます」と述べられました。


◆『李藝 最初の朝鮮通信使』本編の上映。

韓国人俳優 ユン・テヨンがナビゲーターとなって、李藝の足跡を辿る旅に出る。
韓国・蔚山(ウルサン)を出発し釜山から船で対馬へ。2005年、峯町の円通寺境内に完成した「通信使李芸功績碑」を訪ねる。厳原港まつり対馬アリラン祭での朝鮮通信使行列の再現パレードでは当時の様子に思いを馳せる。
さらに海を渡り博多へ。川端通りで常設の「飾り山笠」を見上げる。祭りの掛け声「おっしょい」が、韓国の「ワッソヨ」に似ていると驚くテヨン。
瀬戸内海を航行して鞆の浦へ。高台にある福禅寺本堂に隣接する対潮楼は、江戸時代に朝鮮通信使のための迎賓館として使用されたところ。眺めが素晴らしく、1711年、朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」と賞賛。1748年、洪景海は「対潮楼」の書を残している。
備前牛窓の本連寺には、醤油を入れて持ってきた高麗焼きの壺が残る。室津(兵庫県)で李藝は船を降り、そこからは陸路京都へ。途中、神戸市長田区で折しも開かれていた「在日 100年+2 家族・生活写真展」で、在日の人たちの複雑な思いを知る。知らないから差別や偏見が起こる。知ることの大切さ。旅を通して見えてきたのは、いつの時代も変わらない、目の前の相手と心を通わせたいと願う人々の姿…。

★『李藝 最初の朝鮮通信使』6月1日より全国順次公開


◆舞台挨拶



上映が終わり、ナビゲーターを務めた韓国人俳優 ユン・テヨンさん、ナレーションを務めたキャスター 小宮悦子さん、そして乾監督が登壇。

テヨン:ドキュメンタリー映画を撮るのは、自分にとってとてもいい旅でした。

小宮:こういう機会でもなければ朝鮮通信使のことも李藝のことも知らないまま人生を過ごしたことと思います。ユン・テヨンさんが李藝の辿った道を旅されたように、私もナレーションを吹き込みながら足跡を辿りました。皆様も追体験をしていただければ幸せだなと思っております。

乾監督:素晴らしいユン・テヨンさんと説得力のあるナレーションの小宮悦子さん、撮影の長塚くんがすごく頑張ってくれて、映像が非常に綺麗だと思います。また、音楽を全体的にまとめてくれた菊池くんと作曲をしてくれた井内竜次さん。映像と音楽とカッコいい男と説得力のあるナレーションを楽しんでいただければと思います。



乾弘明監督

― ドキュメンタリー映画に初めて出演してみていかがでしたか?

テヨン:ドキュメンタリーということで緊張もしていたのですが、監督をはじめ、皆さんが親しみをもって接してくださったので、楽しく旅をする気持ちで撮影することができました。自分にとっても大きな経験になりましたし、いろんなことを考える機会になりました。

― 撮影中は髪の毛が長かったですが、今日はスタイルが違いますね。

テヨン: 撮影の時は日本に長くいたので美容室にいくこともできなくて、伸びるのも早かったのです。短いのも似合うでしょうか? 今日は監督も隣にいらっしゃいますので、長いのも失礼になるかと思って、あわせて短くしました。(会場 笑。監督照れ笑い。)


ユン・テヨンさん

― ロケ地の中でどこが印象に残っていますか?

テヨン:俳優になってから一人で旅をすることがあまりなかったので、今回、あちこち回り、どこもよかったと思っています。朝鮮通信使が泊まっていた眺めのとても素敵な部屋(鞆の浦の対潮楼)では、自分もいろいろなことを考えさせられました。京都に初めて行ったのですが、昔のものがそのまま綺麗に残されているのが韓国人としては羨ましいと思いました。

― 映画の中でお父様のことを尊敬しているとおっしゃっていましたが、どんなところがお好きですか?

テヨン:父はほんとうに大きな存在なのですが、ここでは「愛しています」とだけ申し上げておきます。映画を撮りながら、600年前に旅したところを辿ったのですが、これから600年後に、何か形として残すことがないのかなと考えながら撮影に臨んでいました。

益田: お父様は俳優になるときにはものすごく反対されたのですが、このドキュメンタリーを撮る時には喜んでおられたそうです。

― 小宮さんはナレーションのお仕事は初めてだったと伺っているのですが、最初に台本と映像をご覧になった時の感想は?

小宮: ナレーションはニュースの頃からやっていたのですが、ニュースが短距離走なら、今回は長距離走。持っているリズムが違いますので気をつけて読ませていただいたつもりです。歴史上の難しい言葉が多くて、日本語は音で聴いただけでは意味が汲めないことも多いので、一度聴いて理解できる言葉に置き換えて語るようにしました。


小宮悦子さん

― テヨンさんと初めてお会いになっていかがでしょう?

小宮:テヨンさんは予想以上の格好いい方。映画を観て、もうちょっと少年っぽい方かと思っていたのですが、お会いしたら大人の男性でほんとに素敵ですね。髪の毛を切られてよくお似合いになりますよね。凛とした感じで。

― 短い髪は監督さんに似ているのですね。少しわけてあげたいくらい?

小宮:監督、昔はこうじゃなかったですね。(「個人情報!」と、監督から声が飛びます。) もう20年来のお付き合いなのですが。

― 韓流スターでは、どなたがお好きですか?

小宮:韓国の俳優の方は、ヨン様とチャン・ドンゴンさんにお会いしたことがあります。チャン・ドンゴンさんには、2006年に『タイフーン』の映画のPRをさせていただいた時にお会いしたのですが、韓国の俳優さんに共通して言えるのは、誠実でいらっしゃるということ。正義漢が強くて曲がったことが嫌いという信念をお持ちなのだなと思います。

― 映画の最後のナレーション「触れあいを重ねることで信頼は生まれます。小さな触れあい、今を生きる私たちにできることなのです」という部分は、スタジオで吹き込みながら監督と相談されて原稿を書き換えたとのことですね。

小宮:映画の中で繰り返し出てくることなのですが。国と国はさまざまな複雑なものを抱えていますが、国は国として、李藝が生涯をかけて成し遂げたように人間対人間で触れあい、語り合い、理解しようとすることから始まるものが必ずあると思います。長い歴史を共に生きてきた日韓両国です。未来に向けて積極的に良い関係を推し進めようという思いを込めて、言葉を考えました。

― 6月1日の劇場公開に向けてのメッセージをお願いします。

テヨン:韓国と日本の関係は今も難しいと思っているのですが、600年前の李藝のことを辿りながら、600年後には、どんな関係であるかということを考えるようになりました。600年後の関係の為に何ができるのかを考えてほしいなと思います。

小宮:映画の冒頭に古くなった石畳が出てきます。これが映画を象徴するようなシーンになっています。どれだけの人がここを歩いたのだろうかと。テヨンさんがおっしゃったように、600年後にはその石畳をどう歩いているのだろうかと。この映画はロードムービーでもあります。釜山から海を渡って京都まで辿ってくる道を純粋に楽しむのも映画の大きな楽しみ方だと思います。

監督:もう僕に出来ることはないので、あとは皆さんよろしくお願いします。


◆花束贈呈

女優 中村玉緒さんが登壇。ユン・テヨンさん、小宮悦子さん乾監督に花束を贈呈。


益田:瀬戸内海は汐の流れが早くて危険が伴うのですが、朝鮮通信使の船を今でいう海賊である村上水軍が護衛しながら水先案内をしました。来年公開する映画『瀬戸内海賊物語』(大森研一監督)で村上水軍の子孫のおばあちゃん役を務めたのが中村玉緒さんです。

中村:日本の歴史もほとんど半分知らなかったのですが、李藝さんを通じて別の日韓関係を知りました。一番嬉しかったのは、私の生まれ故郷京都が旅の最後だったということでした。李藝さんが今の私と同じ73歳で亡くなられたことにも何か縁があるなと。私は韓国映画のファンで韓国チャンネルをお金を出して観させていただいているのですが、益田さんのお蔭でいい機会を与えられて嬉しゅうございます。これからも頑張ってください。


中村玉緒さん

中村玉緒さんも交えてフォトセッション

最後に、来賓や映画に協賛や製作で関わった方々が次々に紹介されました。なんといっても圧巻は、最初に紹介された李藝の18代・19代子孫の方々。族譜を大切にするお国柄を思い、感無量でした。


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この後、ロビーで懇親会が開かれました。


乾杯の音頭は鳩山由紀夫元内閣総理大臣に指名されたのですが、韓流ファンの鳩山幸さんに譲られました。


会場には、小説「李藝」著者の金住則行さんも。


李藝の子孫の方々、原作者の金住則行さん、益田祐美子さん、乾弘明監督

懇親会には、韓国風海苔巻、チャプチェ、握り寿司などお料理も韓日のものが並びました。しっかりいただき、最後まで残っていたお蔭で、李藝の18代・19代子孫の方々からお話を伺うことができました。子孫の方たちのお顔を拝見しながら、さて、李藝はどんな面立ちだったのだろうと想像するのも楽しいひと時でした。


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私が李藝の名前を初めて聞いたのは、2011年、日韓合作ドキュメンタリー『海峡をつなぐ光 ~玉虫と少女と日韓歴史ロマン~』完成時に、乾弘明監督と日本側プロデューサー益田祐美子さんにインタビューした折のことでした。(シネマジャーナル82号に記事掲載) 益田さんが、目をきらきら輝かせて、「朝鮮通信使として活躍した李藝という人物がいて、それが面白いのよ」と語ってくださったのを思い出します。李藝の人生をドラマ化することも決まって、「ぜひヨン様を李藝に。彼が恋をしたという日本人女性は私をモデルにね!」と、益田さんは大きな夢を語っていたのでした。映画はドラマではなくドキュメンタリーとなりましたが、ナビゲーター役に、ドラマ「太王四神記」でペ・ヨンジュンの敵を演じたユン・テヨンを起用。李藝を彷彿させられるユン・テヨンさんを通じて、朝鮮通信使の礎となった李藝の人生に思いを馳せることができました。また、各地の風景も楽しむことができました。
中でも、鞆の浦の対潮楼はかつて2度訪れたことのある懐かしいところ。お座敷に座ると、目の前に瀬戸内海に浮かぶ仙酔島がすっぽり大きな窓に入って、まるで絵のような美しさ。ご住職が、お日様や月が島の上に現れるさまを手振りを交えて説明してくださった口調までをも思い出しました。そして、船を降りた室津。神戸に住んでいた中学生時代、父が顧問をしていた高校の演劇部の合宿についていったら、ちょうどお祭。情緒ある港町でした。かつて訪れたことのある地に、600年前、朝鮮から訪れた李藝の姿を重ねるのも楽しいものでした。 隣国であるがゆえに摩擦もあったけれど、様々な交流があって、今の韓国と日本があることを、皆さんも映画を通じて感じていただければと思います。(咲)


 朝鮮通信使のことは学生のころ歴史の授業で習ったので、言葉としては知っていたけど、600年も前に40数回も日本にやってきた「李藝」という人がいたことをこの作品で知った。40数回も日本にやってきたのは、子供のころ倭寇に拉致された母を捜すためでもあったという。母を連れ去られた恨みもあっただろうに、日朝外交、経済、文化交流に尽力した人と知り、今の時代にこそこういう人が必要だと思った。
 日本に連れ去られた朝鮮人667名を送還とあり、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に連れて来られた人たちかと思ったら、秀吉の朝鮮出兵は1592年なので、600年も前ということは、その前の時代に連れて来られた人たち。そんなにいたとは驚き。ということは、その後の豊臣秀吉の朝鮮出兵の時や、太平洋戦争中にもたくさんの人たちが強制連行されて日本に連れてこられたことを考えると、日本は朝鮮半島からたくさんの人を連れてきてしまった。北朝鮮の日本人拉致被害のことが大きな問題になっているが、日本も過去に朝鮮半島からたくさんの人を連れてきてしまったということを忘れてはならない。そのことはすっかり忘れて、日本人の拉致被害のことが語られていることに疑問を感じる。もちろん拉致されて我慢すべきと言っているのではない。ただ日本人が一方的な被害者ではなく、こういうことは続いてはならないということ。そのためにも、李藝のような人がいたらいいなと思う。日本にもそういう人、出てこないかな。

それにしてもプロデューサーの益田さんの行動力はすごい! 「映像を通じて、私は現代の語り部になりたい“夢は大きく、志は高く、仕事は楽しく”」をモットーに、『風の絨毯』以来、6本の映画を製作してきた。来年には7本目の『瀬戸内海賊物語』も公開されるという。益田さんの爪の垢を煎じて飲めば、私ももう少し行動力がつくかな?(暁)

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(取材:景山咲子、宮崎暁美)
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