イスラエル領内のパレスチナ人、そしてガザ地区およびヨルダン川西岸地区のパレスチナ人のヒップホップアーティストたちの活動を5年にわたって追いかけ、分断されたパレスチナの人たちの思いを綴った『自由と壁とヒップホップ』。
作品紹介→ http://www.cinemajournal.net/review/2013/index.html#hiphop
公式HP→ http://www.cine.co.jp/slingshots_hiphop/
2008年に完成した作品が、ようやく日本で公開されるのを機に、ジャッキー・リーム・サッローム監督が来日しました。ニューヨークを拠点に活動するアラブ系アメリカ人アーティストであり映画監督の快活な女性。特別試写会後のティーチインと個別インタビューでお話を伺うことができました。
この日、朝から取材を受けていた監督。私たちの取材が最後と聞き、「同じような質問をしてしまうかもしれません。お疲れのところ申し訳ありません」と、インタビュ―を開始しました。「取材を受けるのも仕事だから、どうぞ気にしないで」とにっこり。 どの質問にも早口の英語でたっぷり答えてくださいました。
K: 大学生だった40年程前から、イランやアラブの文化に興味を持って追いかけてきましたので、この映画も観る前からとても楽しみでした。ヒップホップは実は苦手なのですが、抑圧された状況の中で、ヒップホップで政治的メッセージを発信している人たちがいることを知ることができて、興味深かったです。
監督:気に入っていただけましたか? 若くもないからヒップホップはわからないという方にも、これはただただ音楽を通じて描いた映画、若い人だけじゃなくて、様々な年齢の人にも楽しめるものですとお伝えしています。
M: イスラーム教とヒップホップというのが結びつかなくて、それがパレスチナで受け入れられていることにびっくりしました。しかも、若い世代だけでなく、父親世代、おじいさんの世代の人も観客の中にいましたよね? それが不思議でした。
監督:皆さんが知らないことを映画でお伝えすることができて嬉しいです。
M: 日本やアメリカではロックやフォークのプロテストソングの歴史がありますが、パレスチナではプロテストの詞を入れたロックやフォークがなくて、いきなりヒップホップで表現したので、年配の人たちも興味を持ったのでしょうか?
監督:パレスチナにも元々プロテストソングはありました。例えばガザのPRのメンバーのムハンマド・アル・ファッラの父親は結婚式で歌ったりする音楽家だったのですが、民謡の中で国に対する批判を表現したために、刑務所に入れられた経験もあります。ヒップホップがなぜこれほどまでに年齢に関係なく人気になったのかというと、恐らくお年寄りにとっては昔から口にしていたメッセージを新しい表現方法でヒップホップに入れ込んだことで自分たちの思いを伝えたということがあると思います。音楽的な魅力の一つとしては、伝統的アラブ音楽の要素を織り交ぜたことが、お年寄りにも受け入れられた秘訣なのだと思います。
K: 昨日のティーチインで、古くからある詩をメタファーとして用いたりしているので、お年寄りにも共感を持ってもらえるという話が出ました。伝統的にアラブの人たちにとって、詩はとても身近にあるものだと思います。今の若い人たちも詩を大切にしているのでしょうか?
監督:古い伝統的な詩が若い世代に大衆文化として人気があるかどうかはわかりませんが、DAMの詞のようにメタファーに満ちた歌や映画や演劇を作ることは盛んです。
K: 映画の最後に「祖父に捧ぐ」とありました。昨日のティーチインで、パレスチナ人のおじいさまが政治的な活動に身を投じていたのが、政治的なものに興味を持つきっかけだったとおっしゃっていました。おじいさまは具体的にどのような活動をされていた方なのですか?
監督:祖父はアラファトが議長になる前にPLOのメンバーとして、南米各国の政治家たちに、アメリカが西岸とガザを分離させようとしている動きに反対するよう説得する役割を担ってロビー活動を行っていました。
K: 1967年に終結した中東戦争でイスラエルがガザやシナイ半島、ヨルダン川西岸などを占領する以前のことでしょうか?
監督:1960年代から政治活動をしていたのですが、1970年代初頭にアメリカに家族を連れて逃れました。両親はアメリカで知り合って結婚しました。
K: シリア人のお父様、パレスチナ人のお母様からは、小さい頃からどのようにご自身のルーツについて話を聞かれていたのでしょうか?
監督:私自身、小さい頃から母に自分のルーツを聞いてはっきり出自を認識していました。子供のころ、ボストンに父の親戚が住んでいたり、近くに母方のパレスチナの親戚も住んでいて、行き来もしていました。学校に通うようになると、人と違うのはいやだなと。メディアの影響もあってアラブ系であることを隠したいと思うようになりました。
K: それがその後、アラブの悪いイメージを払拭していくことを目標に活動を始めたのは、何が大きな原動力だったのでしょうか?
監督:9.11事件ですね。 2001年は、ちょうどニューヨーク大学に入った年だったのですが、9.11事件のあと、アラブのネガティブなイメージが広まったことがきっかけになりました。
K: アラブ系アメリカ人であることで、イスラエル入国、さらにはガザや西岸に入ることは困難を伴うことだったと思います。
監督:テルアビブの空港に着いて、パスポートを見てアラブ系だとわかると別室に連れて行かれ、父と祖父が何人か聞かれ、アラブ人専用の待合室で待たされました。6~7時間たらい回しにされながら質問を受けて、やっと入国するという状態でした。最終的に入国拒否される可能性もありました。出国する時も、空港で二重三重のチェックが行われました。チェックイン前とチェックイン後に何度もチェックがあるのです。ユダヤ人は1番、アラブ系は、4番から5番という危険度別に分けられました。私は一番危険度の高い番号を付けられることが多かったです。嫌がらせに近いチェックを受けました。スーツケースや手荷物にも色別にマークを付けられました。
K: 1991年にイスラエルに旅行会社のツアーで行ったことがあるのですが、それでも2重のチェックを受けて大変でした。
監督:1991年は、まだいい時代でしたよね。
K: 壁もまだなくて、いい時代でした。監督が入国する時にはカメラなどの機材、出国する時には撮影したフッテージを没収される危険性を抱えていたことと思います。
監督:知人の映像作家がテープを没収されたことがあって用心していました。私はテープを自分で持ち出さないようにしていました。ユダヤ人の友人に任せました。ユダヤ人ならボディチェックを受けることはありませんので。友人がいなくて、自分自身で持ち出さないといけない時には、バックアップでコピーを作ってイスラエルに残して出国しました。このテープは何だ?とチェックされたこともあります。パレスチナのミュージシャンのドキュメンタリーだと言って見せたのですが、たまたまDAMを撮ったもので、いろいろな質問をされて、なんとかやり過ごしてもらったことがあります。一度、カメラを見せろと言われて渡したら、別の場所で確認すると持っていかれて、「壊しちゃった」と返されたこともありました。訴えたかったら、この用紙に記入してと用紙を渡されたのですが、訴訟は起こしませんでした。
K: アビールや、ほかの女性のラッパーに目を向けたところが、女性監督ならではだと思いました。 彼女たちの両親は彼女たちが歌うことに対して誇りに思っていると語っているのに、男性の従兄弟たちが反対していることに憤りを感じました。監督ご自身、パレスチナでの映画撮影中に、女性であるために不利益を被ったことはありますか?
監督:女性であることの不利益よりも、女性だからこそ女性アーティストの部屋にも入って密着して取材できたというメリットがありました。男性なら不可能でした。男性ミュージシャンにとっては、女性の映像作家が撮ることについて、何も問題ありませんでした。
K: アラブの女性たちのおかれている立場も踏まえて描きたかったのでしょうか?
監督:現地に行ってみて、女性のラッパーが活躍しているのを知って嬉しく思いました。通常、ヒップホップの世界は男性が支配しているのですが、パレスチナのヒップホップシーンでは、女性の尊厳がきちんと守られていて、レスペクトされていることがはっきりわかりました。女性たちの活動を男性のアーティストもサポートしています。従兄弟たちに反対されているアビールの葛藤を描いて、反対を押して活動を続けている姿を見せることによって、同じような悩みを抱えた女性に勇気を与えることができました。彼女のファンの女の子たちが、夢を諦めないでアビールのようになりたいと言ってくれました。
あっという間に予定の時間が過ぎて、今、取り組んでいることや、今後の活動についてお伺いすることができませんでした。
写真を撮りながら、ご自身のアラビア語歴について伺ってみました。
「家で両親はアラビア語で話していて、小さい頃は私もアラビア語をしゃべっていました。学校に行くようになって、英語での生活になりました。両親は私にアラビア語で話しかけますが、私は英語で答えています。アラビア語を聴くのは得意です。アラビア文字は小さい頃には書いていたのですが、今は書けません」と、英語が母語であることを明かしてくれました。
アラブのイメージアップや、アラブの女性たちのために、今後、どんな活動をされるのか見守りたいと思います。(咲)
取材の部屋に入って自己紹介をした時、挨拶のハグから始まりました。
そんな挨拶の経験はなかったので一瞬びっくりしましたが、パレスチナでの挨拶の仕方だったのでしょうか。そして、最後の取材で疲れているにも関わらず、とてもフレンドリーな方でした。
製作してから5年もたってからの日本公開なのに、まるで昨日のことのような製作の日々のエピソードを話してくれました。
それにしても、女性が何かすることに制限の多いイスラム圏。女性が歌を歌うことまで制限されているのかとびっくり。それも親ではなく、男の従兄弟が反対している。今もアビールは歌っているのだろうか。その後の状況変化も聞きたかった。(暁)
取材: M:宮崎暁美(撮影) K:景山咲子(まとめ)
監督挨拶: 来日できて嬉しい。5年間の歳月をかけて作った作品が日本で公開されることになり光栄です。
―素晴らしい映画をありがとうございます。長い歳月をかけて作ったと聞いています。日本で公開するまでにも時間がかかっています。その間にアラブの春などもあり、状況も変わってきています。今、この時期に公開されることへの思いをお聞かせください。
監督:パレスチナの状況はそれほど変わっていません。壁も消えていないし、人々も抑圧されています。ヒップホップは今も存在しています。ラッパーたちは時代が変わっても健在です。今でも観ていただける新鮮なものだと思います。
―監督が5年間かけて様々なアーティストを取材したことが、彼らを繋ぐ役目をしたのではと思います。
監督:撮り始めたときには、どういう物語になるのか把握していなかったのです。当時、ガザにはまだヒップホップのアーティストがいませんでした。2004年、ガザで一人のラッパーが活動しているとネットで知りました。動画で「ガザで唯一のラッパーです。サポートしてね」とメールアドレスが書いてあったので、メールしたのですが、返事がありませんでした。ガザに入るにはイスラエルの許可を得ないといけないのですが、新聞記者であるとか、何かの団体に所属しているとかでないと許可が取れません。なんとかガザに入って、ラッパーを知っているという人を通じて連絡が取れて、唯一のラッパーなのか?と聞いたら、今は7人いて、来週ライブをするというので、さっそく撮影することができてラッキーでした。DAMのメンバーに映像を見せたら、皆びっくりして喜んでくれました。分断しているパレスチナのラッパーたちを私のカメラが繋ぐことになりました。いずれネットで繋がったでしょうけれど。
―映画に出た人たちは、今も無事に活動しているのでしょうか?
監督:人間は抑圧されていればいるほど、よりクリエィティブになるのではないでしょうか? とりわけ、ガザではヒップホップを通じた活動をする人が短期間で増えて、7人だったのが、7~8ヵ月後には、20人くらいになっていました。ラップを通じて表現することで、自分たちの思いを癒しています。アラブの春を見てみても、シリア、チュニジア、エジプトなど、弾圧されている中でヒップホップが盛んです。
―ライブ会場に子どもから親世代まで、幅広い年齢層です。一方、アビールという女性のラッパーは、周りに反対されています。
監督:アビールの両親は彼女をサポートして反対していないのに、何人かの従兄弟が反対しています。親を含めてアビールを責めているのです。血縁の男性が女性の歌うことを反対することはしばしば見られることです。一方、ヒップホップシーンでは、女性をサポートして前向きに捉えています。アメリカなどでは、女性はヒップホップシーンの中で商品化されています。逆にパレスチナのほうが、自分たちの思いを伝える手段になっています。
パレスチナとアメリカの違いですが、アメリカでのライブは同年代の若者たちが観客です。一方、パレスチナでは子どもからお年寄りまで、多様です。
DAMが教会でイースターのときに正装した人たちの前にメインゲストとして呼ばれたことがあったのですが、お年寄りにも受けました。古くからある詩をメタファーとして用いたりしているので、お年寄りにも共感を持ってもらえるのです。
―監督のルーツは?
監督:母は西岸のベイト・ジャーラー。父はシリア。私は米国生まれです。ティーンエイジャーの頃は、ルーツがアラブだということを隠していました。アメリカの報道でアラブ人はネガティブなもの。ハリウッドではテロリスト。アラブ系なのを恥じていた時代がありました。母がアラビア語の巻き舌を交えた話し方でアラブを誇るのがいやでした。お料理以外誇るものは何もないでしょうと反発していました。パレスチナ人の祖父が政治的な活動に身を投じていたのが、私が政治的なものに興味を持つきっかけでした。アラブ人のステレオタイプなイメージを変えていくことを目標に活動を始めました。
―出来上がった作品をガザや西岸の人たちや、イスラエルで観てもらうことはできたのですか?
監督:映画が完成して、イスラエルからパレスチナにかけてツアーを組んで、ラッパーたちも連れて上映の後にコンサートもしました。ガザには入れませんでしたが、西岸では興奮に包まれた上映とコンサートになりました。イスラエルでは、大学やカフェで上映して、ユダヤ人でパレスチナ支援している活動家の人たちに見てもらいました。
取材: 景山咲子