西島秀俊さんとタッグを組んだ『CUT』の撮影以来、すっかり日本に住みついているナデリ監督。 1985年に製作した自伝的映画『駆ける少年』が、この度、日本で劇場公開されるのを前に、インタビューの機会をいただきました。
Facebookで最近は鳩サブレ―より甘納豆がお気に入りと知って、甘納豆を持参。「お~オールドフレンド!」と手を差し伸べて迎えてくださる監督。11月19日に映画美学校での試写の後に開かれたトーク(内容は、公式サイトのfacebookを参照ください)や、プレス資料に掲載されているインタビューなどを踏まえて、今、日本で自身の原点ともいえる『駆ける少年』を公開する思いや、撮影当時のことなど、たっぷりとお伺いしました。 通訳は、『駆ける少年』上映委員会のメンバーでもあるショーレ・ゴルパリアンさん。
★2012年12月22日(土)より、オーディトリウム渋谷にて全国順次ロードショー
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―主役の少年は、裏通りで口笛を吹きながら歩いているのを見て、「あ、自分だ!」と追いかけていったそうですが、どんなところが自分だと思われたのですか?
監督:これはもう直感! なんとも説明できないんだけど、彼なら自分を演じられると思ったのですよ。口笛を吹きながらリラックスして楽しそうな感じで歩いていて、僕を待ってたと感じたのです。頭のいい子で、ちゃんとソフレ(食布)に座って食事していて(きちんとした家庭で育っているという意味)、行儀もよくて・・・(ここまで聞いて、え~? なんだかナデリ監督のイメージと違うと思ったところで) 自分はクーチェ(路地/ストリート)で育ったような子だけど、奥深くに持っていたものと思う。ストリートで育ったといっても、不良じゃない。よく遊んだけど、叔母さんに厳しく躾けられて育ったのですよ。
―アミールを演じたマジッド・ニルマンドくんは、今どうしているのでしょう? その後コンタクトはとっていらっしゃるのでしょうか?
監督:とても不思議なことに、いろんな人がいろんなことを言います。イランで見たよとか、アメリカで見たとか、アメリカから帰ってきたのをイランで見たとか、ノルウェーで見かけたとか。色々教えてくれましたが、ほんとのことは知りません。でも、頭のいい子だったから成功してると思う。当時4ヶ国語はしゃべれたので、世界のどこにいても、絶対うまくやってるよ!
―『駆ける少年』は、1987年に東京国際映画祭で観たのですが、記憶に残っているのは、ひたすら少年が駆けている姿で、ほとんど台詞のない映画だったと思っていました。ところが今回観てみたら、前半は結構台詞があるので驚きました。多分、その後に観た『水、風、砂』(89)『マラソン』(02)『サウンド・バリア』(05)などが台詞のほとんどない作品だったので、台詞がなかったと思ってしまったのだと思います。で、『駆ける少年』の台詞は、台本があってのものだったのでしょうか? もしくはその場で即興に指導して言わせたものなのでしょうか?
監督:素人を使って撮る時には完璧には脚本を書きません。その場で、「こういう話をするんだよ」と言って、彼らの言葉でしゃべってもらいます。「shahed」(証拠台詞)というのですが、ちょっとしたヒントを出すのです。子どもたちは素人だし、南のほうの訛りもある。台本を作ると、そのまま言えない。こういう話と説明すれば、自分の言葉にしてしゃべってくれる。子どもの演技の撮りかたのコツは、子どもに自由にさせることです。カメラのほうが緊張して構えて、子どもにあわせて動くのです。
― 『駆ける少年』は自伝的映画ですが、映画が好きだったということ自体は語られていません。でも、アメリカ映画の音楽などがバックに流れていて、監督の映画への思いを感じさせてくれました。
監督: 歌の題名はわからなくても、歌を聴けば、それが使われていた映画を思い出すという曲ばかりです。
― 私にとっても、なんとも懐かしい感じがしました。 映画に描かれていたビン拾い、追いかけっこ、線路にコインを置く、廃船での暮らし、学校の教室を覗く・・・といったことは、すべてご自身の経験とのことですね。
監督:コインのエピソードについて、ちょっとお話しましょう。「鉄は溶かしても溶かしても鉄」という諺があります。人間、芯をしっかり持たないといけないという意味で使います。でも、線路に置いてぺちゃんこにつぶした2リヤルのコインが使えなかったという経験をして、電車が自分の上を通ってもぺちゃんこにならないようにしないといけないと気づきます。いくら苦労しても使い物にならなくてはしようがないということを学んだのです。アミールはサメが出て、もう決して海には入らなくなります。サメに食われて足がなくなれば、自分が使い物にならなくなるからです。コインのことも、ビン拾いも廃船での暮らしも、自分の経験です。27年経っても、この映画が新鮮なのは、すべて実体験だから。作り物を足していません。子どもたちの競争や自転車で走ることなど、全部自分がやっていたこと。Junub(南)の子どもたちはあんな風に暮らしていました。Shomal(北/カスピ海地方)など、ほかの地域では違うかもしれないけれど。
―戦争が激しくなって、故郷のアバダンでは撮影できなくて、11箇所で撮影したとのことですが、一つの町に見えました。まさに編集の力ですね。
監督:編集の力というより、一つの町に見えるようにするには、ロケ地をどう選ぶかがとても重要なのです。ロケ地の選び方がうまいと言ってください! アバダンは、暑いし、乾いているし、自然が厳しい地域。イランのほかの地域とは違うと思います。戦禍が激しくなって、アバダンで撮り続けることができなくて、あちこち移動しなくてはならなかったのですが、緑の木が入ってはダメだし、頭の中で、ここなら大丈夫とイメージしながら、ものすごく苦労して場所を選びました。映画の中のエピソードはすべて自分のコラージュ。戦争が続いている大変な状況の中で、5~6ヶ月かけて撮ったのですが、子どもたちがどんどん大きくなっていくので、それにあわせてロケ地も選んで、いろいろなエピソードを撮りました。最初のほうはロマンシチズム。子どもたちがまだ幼かった。だんだん社会に出て乱暴さが出てくるので厳しいロケになりました。自転車や小さな飛行機から、だんだんジャンボジェットにと、乗り物も大きくなっていきます。
― 飛行機の前を自転車で走るところは、飛行機より早くみえました。
監督: 一番自分で大切だったのは、彼の知識の速さはジャンボジェットのスピードに負けないということでした。アレフバー(アルファベット:ペルシア語32文字)を言えるように、ものすごく彼には訓練しました。撮影中、時間があれば彼は一生懸命アレフバーを言う練習をしていました。言える速さがジャンボジェットに敗けないようにと。ジャンボジェットがテイクオフした時には、アミールが32文字のアレフバーを言い終わっているという場面は、カットを入れず、ワンテイクで撮っています。だからパワフルに見えるのです。カットを入れてしまうと、ほんとに全部言っているかどうかがわかりません。嘘になってしまう。そして、飛行機が離陸するのは泥の中から這い上がってくるように見えます。まさにアミールと同じです。
― 一つ一つにいろいろと意味がありますね。
監督:今になって観てみると、一つ一つのエピソードにいろんな意味を感じます。作った時に考えたわけじゃない。作る時にシンボリックに意味を考えて作ったら、観る側に伝わらない。人それぞれ経験をしているので、作り物は伝わりません。彼はいろいろな動くものに興味を持ちますが、それがだんだん大きなものになっていきます。人生の中でいろいろと彼が経験していることと自分たちが経験していることが似ているから、観ていて彼の気持ちがわかるのです。正直になぜこの映画を作ったかお話しましょう。当時、イラクとの戦争中でした。私の生まれ育ったアバダンの町が破壊されて、皆、ほかの町に移住したりしました。親のいない子も増えて、学校に行けなくなったりして、ストリートチルドレンになった子も多い。親なしの生活を多くの子が経験していました。自分が子供のころから経験していた「倒れても立つ、倒れても立つ」という、苦労して大きくなったことの意味を、その子どもたちに教えないといけないと思いました。戦争は国と国との戦いでしたが、子どもたちも当時は一日一日闘っていました。この映画は「希望」を描いたものでした。当時、ものすごくヒットして、目的を果たしたと思ったものです。映画を観た人はエネルギーを貰ったし、生まれた子どもにアミールと名づける親もいました。
― 今回、ご自身の原点ともいえる『駆ける少年』を日本で公開したいと思ったのは? 実は、今の生ぬるい日本社会に過ごす私たちが観れば、元気を貰えそうな気がしています。
監督: 計算して公開しようと思ったのではなくて、この映画が、「今、僕を日本で見せて~!」と言ってくれたのです。映画に呼ばれたのです。日本で公開するのはとても大変だけど。走って走って26年。運命的に日本に来たのですよ。
― 『CUT』上映時に劇場で観客の皆さんとも握手したりして、日本のナデリ監督ファンは、皆、きっと監督の原点でもあるこの映画を観たいと思っていると思います。
監督:そう、『駆ける少年』のアミールは『CUT』の秀二の始まりなのです。アミールと秀二は一つの輪の上にいます。アミールが大きくなって映画監督の秀二になったのです。何があっても負けないというキャラクターも同じです。
― 今、日本に軟着陸中で、あと2作日本で撮る予定とおっしゃっていました。韓国の資金を断ってまで、日本で撮りたいというお気持ちを嬉しく思います。
監督:心から日本を愛していますので! 生活するのはとても難しいけれど、ほかの国にない優しさを感じます。映画のクルーが素晴らしい。俳優も誠実で友好的です。西島さんのように、誠実で、映画を愛していて、すべての力を映画に注いでいるようなアクターはなかなか見つかりません。日本は信用してくれないとなかなか扉を開けてくれない。信用してくれるまでの辛抱です。他の国からも映画作りに呼ばれるけれど、日本の文化はイランの文化にも通じるところがあって居心地がいい。僕はアメリカにいつか戻るかもしれないけれど、どの国で映画を撮ってもポスプロは日本でやりたいと思っています。日本は自分の家という気持ちがします。
―先日、映画美学校でのトークで、「イランも日本も共に古い歴史を持っています。イランでは建築や絨毯、そして詩人がいる。映画のベースも詩。日本でも、黒澤、溝口、成瀬、相米といった監督たちは日本の文化をベースに作ってきた。そういう映画は永遠に残ります」という言葉が印象に残りました。日本人が伝統を忘れかけていることを思い出させてくれました。
監督:日本人が伝統を忘れているかどうかはなんともいえません。日本映画の黄金時代の魂を磨いて、作ってくれる監督がいると思います。若い監督たちがかつての宝物に気が付けば、絶対、またいい映画を作ってくれると思っています。
―イランを離れて長いナデリ監督ですが、やはり詩がDNAに組み込まれているイラン人なのだと感じました。好きな詩人や、人生の指針としている詩人は?
監督:Nima Yushiji やAhmadreza Ahmadiが好きです。 あと、絨毯を織ってきた方たちも私たちにとっては詩人だと感じます。絨毯はまさしく詩です。
(★注: 勉強不足で二人の詩人の名前を知らなかったのですが、調べてみたところ、Nima Yushiji(1896年~1960年)は、現代詩の祖とされる詩人。Ahmadreza Ahmadi(1940年~ )は、映画の脚本も手掛けている詩人で、現代詩のニューウェーブの祖と呼ばれる詩人。 ナデリ監督の好む詩人が古典的な詩人でなく、現状を打破して新しい動きを作った人たちであるところに、ナデリ監督らしさを感じます。)
― イランの詩には、奥ゆかしさや直接的に言わないといった面があって、日本人の心にも通じるとよく言われますが・・・
監督:イランと日本、奥ゆかしさや遠慮といったこともですが、一番似ているのは、敬いあう精神です。どちらも、Respect (尊敬)ということを大切にしていると思います。
― 日本であと2本映画を作り終えるまでは、日本にいらしていただけますね。
監督: 作り終えたとしても、日本で映画作りを目指す人たちにいろいろと教えることができればと思っています。自分が日本を発見したのでなく、日本が自分を見つけてくれたと思っています。
インタビュー中、精力的に話をしながら、なにやらずっと絵を描いていらした監督。船にヘリコプターに飛行機・・・ 『駆ける少年』のエッセンスでした。一見強面のナデリ監督ですが、なんともお茶目。
いよいよ12月22日から渋谷オーディトリウムを皮切りに全国で公開される『駆ける少年』。 また劇場には、毎日のようにナデリ監督が出没されることでしょう。ぜひ皆さんも劇場で、いたずらっ子のようなナデリ監督の熱い思いを直接感じてみてください。
取材:景山咲子
『CUT』 アミール・ナデリ監督 インタビュー(2011/12/11) も、どうぞ! http://www.cinemajournal.net/special/2011/cut/index.html