このページはJavaScriptが使われています。
女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』
長谷川三郎監督インタビュー


作品紹介


★場面写真 左:福島菊次郎さん、右:被災地を取材する福島菊次郎さん
(C) 2012『ニッポンの嘘 報道写真家福島菊次郎90歳』製作委員会

 福島菊次郎さんは敗戦直後、広島で撮影を始めた。報道写真家の原点になった「ピカドン ある原爆被災者の記録」は、国家から見捨てられた被爆者とその家族の苦悩を10年以上に渡って撮影したものでした。学生運動、三里塚闘争、自衛隊、兵器産業、公害、祝島、リブ、原発など、激動の戦後日本を撮り続けてきた。66年に渡る報道写真家人生の中で、撮影した写真は25万枚以上。  この作品は、そんな福島菊次郎さんに密着したドキュメンタリー。真実を伝えるための誇り高い生き方と質素な生活。90歳という年齢の今も、福島県への取材を行う姿を捉える。
 福島さんの生き方を通して、激動の日本が見えてきます。

 福島菊次郎さんのことを知ったのは、写真集だったか、写真展だったか忘れてしまったけど、1970年頃だったと思います。べ平連のデモに1969年ころ参加するようになり、ベトナム戦争の報道写真を見て、報道写真に興味を持ちました。そして報道写真家を目指そうと思ったのが1975年頃。それで、デモや集会などで、福島さんの姿を2,3回見かけたことがあります。そういう経緯があり、この作品を撮った長谷川三郎監督にインタビューしてみたいと思いました。

 (シネマジャーナル編集部 宮崎 暁美)


撮影 宮崎暁美
長谷川三郎監督

激動の戦後を写し続ける反骨の報道写真家福島菊次郎とは

編集部:福島菊次郎さんの名前を最近見ないなと思っていましたが、このドキュメンタリーを観て、90歳で健在ということを知りました。福島さんのドキュメンタリーを撮ろうと思ったきっかけは? 福島さんのことは以前からご存知だったんですか?

長谷川三郎監督:僕は1970年生まれなので、福島さんが最前線で活躍していたのをリアルタイムでは知らなくて、この作品で取り上げるまでは、福島さんのことは詳しくは存じ上げていませんでした。でもある方から福島さんのことを聞き、撮られた写真を拝見したんです。敗戦直後の広島から始まって、学生運動や三里塚闘争など、日本の戦後が大きく動いた現場に行って写真を撮られていた。しかもそこには、僕らの世代が知らない日本が写っているのに衝撃を受け、これだけの写真を残された福島さんて、どういう方なのかなと思いました。
なおかつ、ご高齢であるということで、お話しを聞いておきたいと思い、会いに行ったのが3年前の2009年の夏でした。国とか社会とか大きなものに物怖じしないで写真を撮ってこられた反骨の報道写真家と聞いていたので、どれだけ怖い人かな?と思っていたんですが、会うなり快く受け入れてくださって、とてもチャーミングで魅力的な人柄だったので、まず、その人柄に魅了されました。
福島さんが撮られた写真は何なんでしょうか?と聞いたら、「ニッポンの嘘」だとおっしゃった。福島さんが生涯をかけて暴こうとした日本の嘘というのは何なのかな?と思って、それを伝えたいという思いで取材を始めました。正直言うと、完成したものをどういう形で出すかという見通しがあったわけではありません。福島さんが撮ってきた写真と、福島さんが見つめてきた戦後という証言を残さなければいけないという使命感みたいなものから取材を始めました。

編集部:もともと映画にというより、とりあえず記録しておかなくてはというところから始めたのですか?

監督:そうです。ただ福島さんが撮ってきた写真というのはインパクトがあるので、観客の方にはできれば劇場のスクリーンで出合ってほしいなと思ったのと、TVだからタブーが撮れないというわけではないですが、福島さんが撮ってきたものは日本のタブーに触れるものが多いので、自分自身の責任でそういったものをそのまま出せるメディアはないかなと考えた時に、映画がいいのではないかと初期の段階で思いました。
撮影も24Pと言って、通常のTVドキュメンタリーで撮る形でなくて、カメラマンと相談して、映画の上映にも耐えうるような形式で撮影しました。TVってたまたまチャンネルをあわせて出会ってしまう、今の時代に流れるから面白いんですが、福島さんの撮ってこられた戦後というのは、ずっと長く残しておきたいというところもあったので映画の形がいいと思いました。

編集部:大阪のTV局で放映されたことがあると聞いたことがありますが…

監督:TVでは結構取り上げられているんですよ。ただ、福島さんが撮ってきた作品に向き合っているドキュメンタリーは少ないんです。「カメラを捨てて、無人島に暮らす孤高の写真家」みたいな感じで撮られていて、そこでの生活は撮っているけど、福島さんの作品そのものに向き合ってというのはなかったので、それはちゃんとやりたいなと思いました。
福島さんが撮ってきた戦後は、自衛隊のことや、広島のこともタブーに触れるものでした。広島も、単に平和都市広島を描いたものではなく、ABCC(原爆傷害調査委員会)や原爆スラムなど、そういった僕らが見ようとしなかった戦後というのが撮られているので、そういったものを正面から向き合って出しているものもなかった。
プラスαで、福島さんは90歳という高齢で、自分は最後にどういう仕事をするのかということをかなり気にされていたので、福島さんをずっとみつめていく上でも、報道写真家が最後に何を撮るかということも大きなテーマとしてありました。そういうのを見つめながら、福島さんがたどってきた戦後をじっくりお話しを伺っていくスタイルで撮影しました。

編集部:じゃ、東京から何回も通ったのですか?

監督:そうなんです。福島さんは柳井(山口県)にいらっしゃるので、東京からだと電車で5、6時間かかりますが、通いました。今回は「広島」のことを聞こうとか、毎回テーマを決めて、「ピカドン」とか、「原爆」の写真集を持って行って、写真を見ながら、そこでどんなことがあったのかを伺うという形で4,5日くらい柳井に滞在し話を聞き、東京に戻って、また少し時間を置いて、今度は「学生運動」、今度は「三里塚闘争」という風に取材しました。また、福島さんの暮らしぶりが魅力的で、その合間、合間に日々の生活とか、ライフワークで撮られている祝島への撮影に同行したりしました。


場面写真 (C) 2012『ニッポンの嘘 報道写真家福島菊次郎90歳』製作委員会

●今こそ福島菊次郎を知らしめてほしい

編集部:写真でしか福島さんのことを知らなかったので、質素に暮らしている日常生活の部分は、とても貴重なものでした。か細い身体で、こういう大きなテーマを撮ってこられましたが、どこにパワーの源があるんだろうと思っていたので、普段の生活にも興味を持ちました。あそこまで信念を通したものというのは何だったんだろうと思いますか。

監督:「そのパワーの源って、何なんですか?」って、よくドキュメンタリーで聞きますが、僕も実はずっと思っていたんです。福島さんも映画の中で語っていますが、一番最初に出会った広島の被爆者、中村杉松さんの「かたきを取ってくれ」という言葉、「写真に写すことで、自分の苦しみとか、被爆の悲惨さを告発してほしい」とおっしゃったことをずっと心の中に持っていらした。それが形を変えて、学生運動や三里塚闘争、祝島の現場に行っても虐げられた人たちに寄り添うという形でやってきた。福島さんは取材するごとに、そういった人々の思いみたいなものを背負って撮り続けているんだなと、それが福島さんの力なのではないかなと思いました。
よく私怨(しえん)だとおっしゃっていました。福島さん自身も戦争体験があり、二等兵として敗戦を迎えていますので、身近にもたくさん亡くなった方がいました。なおかつ写真という現場の中で、時代に踏みつぶされていった人たちの思いを全部背負いこんでいるので、それが福島さんの怒りというか、カメラを持って時代に立ち向かうというエネルギーになっているのかなと思います。福島さんを撮っているうちに、実感としてわかるようになりました。レンズを通して出会った人たちとの思いみたいなものをずっと受け止めていらっしゃるんだなと思って、それが福島さんのパワーかなと私は思います。
私はTVのドキュメンタリーをやっているので、それぞれにいい出会いをさせてもらっていますが、番組が終わったら、次に新しいテーマにむかって行くんだけど、福島さんは続いているんですよね。

編集部:私は1970年ころから写真を始めて、報道写真に興味を持っていたんですが、福島さんが祝島の原発建設反対運動をずっと昔から撮っていたことは知りませんでした(祝島のことは、最近公開された『祝の島』『ミツバチの羽音と地球の回転』で知りました)。しかもライフワーク的に撮っていたんですね。そして、こんなにもたくさんの日本の激動を撮っていたんだと、このドキュメンタリーを観てびっくりしました。
私は今年60歳ですが、知らなかったことがいくつも出てきました。この年代でさえ知らないんだから、若い世代はもっと知りませんよね。福島さんが撮ってきた写真から、知らされてこなかった埋もれた日本の歴史、表に出てこなかった真実を、このドキュメンタリー作品が甦らせるきっかけになったと思います。

監督:そうですね。

●福島菊次郎の生き様

編集部:日本が保守化する中で、1982年にはこの国とマスメディアと決別して無人島に行ったり、年金を拒否、子供からの仕送りも受けずに暮らしているとプレスシートに書いてあったけど、どのように生活してきたのかなと思いました。

監督:全盛期に較べたら決して多くはないようですが、あの年齢になっても自分が書いた原稿とか写真とか、そういったもので生活していらっしゃる。逆に言えば、福島さんが残されてきた写真というものは、時代が移り変わっても色あせない力を持っているということだと思います。あと、生活が慎ましいですよね。僕らが「福島さん、のど渇いていませんか」って、コンビニのペットボトルのお茶とか持って行くと怒るんです。なんで自分で作って入れないんだって言われます。福島さんは極力お金を使わず、自分で作れるものは自分で作り、工夫して楽しみながらやっているんです。

編集部:福島さんだけでなく、そのような生活をしている人というのは他にもいますが、そういう 生活がいいと思っても、都会にいて自給自足的な生活はできないのがジレンマのように感じます。

監督:その話を聞いて思いましたけど、そのこともあって無人島生活を選んだんでしょうね。

編集部:福島さんが無人島で暮らしているということを聞いたことがあったような気もするのですが、すっかり忘れていました。今、福島さんの消息、生き様を見せてくれたことに感謝です。忘れてはならない人だと思うので。

監督:今、なぜ福島菊次郎なのかということですが、福島さんの昔を知っている人たちは懐かしさとともに、今回の映画が生まれたことを喜んでくれるのですが、でも今だからこそ作れたのだと思うんです。というのは、日本人って自分たちがやってきたことをちゃんと見ようとしないで、オトシマエをつけないまま、いつのまにか忘れ去って、次々と新しいことに飛びついていくじゃないですか。
福島さんは、敗戦直後から始まって、日本の歩みをずっとカメラを通して見つめてこられて、間違っている事に体を張って立ち向かって、そのことの嘘を暴いてきた人だと思うんですよね。そういう福島さんの写真というものは、今の時代だからこそ、力を得るんじゃないかと思います。あの年齢になっても、「嘘だ、間違っている」と言い続けている。正直言って「福島さん、そうは言いますけど、でも現実問題としては…」というように言ってしまうんです。時代に対して、私自身がものわかりのいい世代なんですが、取材中に原発事故が起こって、そのことへの福島さんの怒り、声の上げ方っていうものは、日本人が忘れていたことだし、福島さんの生き様を見ることで、自分たちも力をもらえるんじゃないかという気がしました。
あと、高齢化社会の中で、どうやって一人老いと向き合っていくのか、どうやって仕事を最後まで成し遂げていくのかというところでも、福島さんの魅力、生き方ってものは力があるのかなって思います。

編集部:私もリタイアしたら、やりたいことがいろいろあったんですが、母の介護をかかえていて、その中で思い通りには行かずあきらめていたのですが、福島さんの姿を見ることで、忘れかけていた夢を思い起こさせてくれました。

監督:それ、ぜひ書いてください(笑)

編集部:私もいくつかテーマを決めて撮影していたんですが、その中で女たちの運動も撮っていましたので、福島さんがリブ合宿の写真(1971年)を撮っていたのにびっくりしました。私はまだリブに目覚めていなくて、その後から撮っているのですが(私が女たちの運動を撮り始めたのは1975年の国際婦人年あたりから)、福島さんの写真集「リブとふうてん」という写真集を見て、この伝説の合宿にも行っていたんだとびっくりしました。スキャンダラスな報道を避けるため(これらの報道のおかげで、私もリブに対して良い印象を持っていなかった)男子禁制だったと思うのですが、よく撮れたなと思いました(福島さんの写真は、合宿所の中ではなく外の彼女たちでしたが)。あの写真集に写っている人で、私の知っている米津知子さんが、このドキュメンタリーに出てきて驚きました。実は、1985年ころ写真製版の仕事をしていたのですが、その頃、リブ新宿センターで働いていた米津さんが、よく製版の仕事を依頼しに来ていたんです(リブセンターは写植の仕事をしていて、打ち出したものをフィルム化するため私が働いていた製版所に来ていた)。
米津さんとは数年前に、日本のウーマン・リブたちの足跡を追った映画『30年のシスターフッド』(監督 山上千恵子/瀬山紀子 2004年)の上映会でお会いして、「元気? 今、どうしてる?」なんて会話をしましたが、そういう人が福島さんと繋がりがあったことにびっくりしました。
彼女を撮ったいきさつは? 他にも写真集に載っている方に取材したのですか?

監督:福島さんから「リブの写真を撮った時の元気のいい女性が来るから、来る?」と、電話が来たので、福島さんのところに撮りに行ったんです。福島さんが撮っている人に会っていなかったので、カメラマン福島菊次郎って、どういう人だったのかというのを聞いてみたいと思ったのもあります。
取材スタイルは、こちらから何かを仕掛けるというよりは、福島さんの周りで起こる出来事を撮るという形でした。祝島の撮影を福島さんから引き継いだ那須圭子さんがいらっしゃったりとか、祝島から呼ばれて、久しぶりに祝島にカメラを持って行く時だったり、そういう時に連絡を取り合って撮影しに行きました。
あの6畳半の部屋で生活している福島さんというのを大事にしたいと思って、カメラを据え、福島さんの日常、そこから見える時代とか、やってくる人や出来事を捉えてみるというスタンスで撮影していました。

編集部:福島さんの日常ということだけでなく、やっぱりポイントポイントを押さえて撮っていたんですね。福島さんの生き様を通して、日本のたどってきた道が映し出されていましたね。

監督:試写を観てくれた人の感想を伺うと、若い人たちは、こういう日本があったことを知らなかったと言って、そのこと自体に衝撃を受け、知らなかった戦後と出会うというドキドキする体験だったと言いますし、団塊の世代など上の世代の人は、もう一回、あの時代と向き合い直し、なおかつ元気をもらったという人が多かった。「福島菊次郎から元気をもらった。自分もまだ時代に対して何かできるんではないかと」と、言ってくれました。福島さんは、そういうパワーを持っているんだなと思いました。

編集部:南京事件や慰安婦問題など、日本が関わってきたことに対して、そんなことはなかった。捏造だというようなことを言い出す人たちがいて、ネット上で広がっていると聞きますが、若い人がそんな風に思っているのを聞いて、そういうことに対して何かできないかと思っていたんですが、この福島さんのドキュメンタリーが、そういうことに対して考えることに繋がるといいなと思います。
祝島にしても30年くらい反原発運動が続いていますが、福島さんの写真は原発建設反対の運動を長く続けてきた人たちがいるということを知らせてくれたと思います。福島県の事故を受けての反原発デモの盛り上がりから、反原発というのは、そこの地域の人たちだけの問題ではないと思わせてくれます。

監督:僕らの世代っていうのは、日本がこういう状況にあったということを知らないで生きてきたんだけど(この作品を作ったときは40歳)、たとえば先輩から学生運動の話を聞いても実感として感じられなかったことが、福島さんの写真を見ることで実感できました。福島さんの写真ってイデオロギー的なものというより、そこで闘ってきた日本人とか、怒りをあげてきた人々の表情とか、息づかいを感じる写真が多いですよね。自分たちの前に戦後を生きてきた人って、こんな表情して、こんな風に声を上げてたんだなって、シンプルに伝わってくるんですよね。そのことは理屈抜きに、あの時代を知らない若い人でも何か感じるんじゃないかと思います。


  「広島」                  「三里塚闘争」
(C)福島菊次郎

編集部:やっぱり写真の力は大きいと改めて思いました。

監督:あと、そういう中で生きてきた福島菊次郎が凄いなと思いました。その姿勢でずっと生きているという福島さんの存在自体がすごい。自分はこういう風にできるかなとも思います。

編集部:本人は飄々とした感じの人だけど、こんな風に信念を持って生きるという生き様を見ることで、少しでも自分に反映できないかと思いました。

監督:金曜日の首相官邸前の反原発デモに行っている若い人たちが、この映画を観ることで、自分だったら騙されないでどう闘うのかというヒントみたいなものを観てくれるだろうし、あの時代を生きてきた人たちはまた受け止め方が違うだろうと思いますが、自分がこれからの人生をどう生きるかということを問い直されるような作品になったと思います。

編集部:福島さんが暮らしているのは6畳半の部屋ということですが、今も現像をやっているのですか?

監督:今はやられていないようです。今は執筆中心で、シャッターを押すはざまで、どんなことが現場であったのかを書かれていますね。福島で撮影したものに関しては、東京の現像所にお願いして、そこでプリントしてもらいました。

編集部:今もモノクロで撮影しているんですね。

監督:モノクロの方が、シンプルに物事の真実とか、光と影が写るから選ばれているのだと思います。そぎ落としていって、その中で浮かび上がってくるものを狙って撮っていますね。公害など色が必要なものはカラーで撮っていらっしゃいますけどね。

編集部:今までたくさんのTVドキュメンタリーを撮ってきたということですが、たぶん、長谷川監督の作品をTVで見てきているのではないかと思います。所属するドキュメンタリージャパンというのは、TVを主にやってきた会社なんですか?


長谷川三郎監督

監督:ドキュメンタリーを専門にやっている会社です。TVが中心ですが、最近は映画も作っています。

編集部:撮影は山崎裕さんですが、ドキュメンタリー作品を多く撮ってこられた方ですね。
プレス資料にリンダ・ホーグランド監督の作品が書いてありますが(『ひろしま 石内都・遺されたものたち』)、リンダさんには前作『ANPO』でインタビューしています。

監督:そうです。ドキュメンタリーの撮影といえば山崎裕といわれている人です。リンダさんの『ANPO』も彼が撮影を担当しています。

編集部:プロデューサーの橋本佳子さんは、ドキュメンタリージャパンの代表を20年務めた方なんですね。橋本さんにも機会があったらインタビューしてみたいですね。

監督:この作品の元々のきっかけは、橋本が「世代的には知らないと思うけど、福島菊次郎って興味ある?」と言ったことから始まっています。長年一緒に仕事をしてきたので、福島菊次郎さんが撮ってきた戦後というのに僕が興味を持っているだろうと思ったのでしょう。一緒に福島さんに会いに行って、帰りの新幹線の中で、これ絶対撮ろうって誓い合いました。橋本も、今の時代の中で福島菊次郎を出すということに大きな意味があると予感があったと思います。

●広島から福島へ

編集部:3年かけて撮ったとありますが。

監督:撮影に2年、編集に1年かかりました。2009年夏~2011年9月くらいまで撮影しました。

編集部:これだけの内容を織り込んで形にするには、それだけの期間がかかったということですね。もともとこのくらいかかるかなと思っていたのですか?

監督:いえ、どれだけかかるかは全然わかりませんでした。ただ、福島さんが撮ってきた戦後を、自分が納得する形で受け止められるまでは終われないなと思いました。ですから、先ほど話したように「広島」から始まってどんどん聞いていったんですね。柳井には10回くらい通いました。
終盤くらいに、ある程度手ごたえある素材を手に入れて、どうやってまとめるかということで編集作業をしました。もちろん、今回の福島県のことがなくても作品には充分なったと思うし、それだけの力があるものだと思っているんですが、どうやって福島さんが持っている今の時代に対する焦燥感を結びつけるか、あるいは福島さんが撮ってきた写真を、嘘に覆い隠されたのっぺらぼうの日本に届ければいいのかというのが、切り口や提示の仕方みたいなものが、ちょっとわからなかったんですよね。
それで悩んでいるときに、残念ながら福島県の事故がおきてしまったんです。被災地の状況をご覧になって、かつて福島さんが撮った敗戦直後の広島の光景と重なるとおっしゃいました。原爆と原発では違うけど、放射能の被害として、同じような悲劇がこれから起きるかもしれないと考えた時、福島さんが見てきた戦後というのは、我々にとって、大きな警鐘を鳴らしてくれる力になるのではないかと思いました。
この映画を観ることで、時代とどう向き合っていくのか、どう闘っていくのか、いろいろなヒントがあると思いました。それからは、まとめていくのは早かったですね。そういう目線で福島さんを撮っていくと、いろんなヒントが福島さんが撮ってきた写真の中にあったので、なんとしてもこの作品は作り上げなければならない、世に出さないといけないと新たな使命感を持ちました。

編集部:同じことが繰り返されていかないために、福島さんの撮ってきた写真が役立つといいですね。福島さんが原発の立ち入り禁止寸前のところまで行って撮影しているシーンは、新たな展開を思わせてくれました。90歳になっても報道写真を撮っていこうという姿勢は、今の私たちに勇気を与えてくれたと思います。こういう作品を作ってくれて感謝です。

監督:思いもよらなかったことなんですけど、福島さんが写してきた被爆者だったり、公害で苦しめられてきた人など、写真に写っている人たちに「あなたたちどうするの?」って、突きつけられているような気がします。これは、福島さんのことで終わるんじゃなくて、最後は我々に投げかけられるようなものに変わっていってしまったんだろうなって思います。こんな風になるとは、作っている時にはまったく思いませんでした。

編集部:映画を観ていて、「映画を観ている場合じゃない」と思う作品に出会うことがあるのですが、これもそういう作品でした。

監督:ありがとうございます。そうやって持ち帰ってもらいたいと思うし、僕も新しい「ニッポンの嘘」を探して、ドキュメンタリーで撮らなくてはと思います。


*インタビューを終えて   宮崎 暁美

長谷川監督はとても爽やかだけど熱血漢という感じがしました。
42歳ながら、自分の知らなかった戦後を知り、それを伝えたいという熱意がこの作品を作り上げたと思います。それにしても、福島菊次郎さんは被写体として魅力ある人物でした。愛犬ロクとの生活。悠々自適には程遠い福島さんの生活ですが、なんでも自分でこなす福島さんの姿に見習わなくてはと思いました。
生涯、いろいろなことに興味を持ち続けるということが、長生きの秘訣かなと思いました。

『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎90歳』
2012.8.4より 銀座シネパトス、新宿K’s cinema、広島八丁座ほか 全国で順次公開
公式HP http://bitters.co.jp/nipponnouso/

return to top

本誌「シネマジャーナル」及びバックナンバーの問い合わせ: order@cinemajournal.net
このHPに関するご意見など: info@cinemajournal.net
このサイトの画像・記事等の無断転載・無断使用はご遠慮下さい。
掲載画像・元写真の使用を希望される場合はご連絡下さい。