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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『スケッチ・オブ・ミャーク』インタビュー

(C)Koichi Onishi 2011
ストーリー
老婆達(おばあ)が神歌を唄う時、不思議な懐かしさがすべての人々の心を打つ
ミャーク(宮古島)には、今まさに失われようとしている「記憶」がある。人々によってずっと大切に歌い継がれてきた「唄」がそれだ。老人達は語る。かつて島での厳しい生活と信仰と唄が切っても切り離せないひとつの時代があったことを。そして、今でも神の存在がかけがえのないものであることを。老人達の心を映すかのように、この島の御嶽では神事の火が数百年に渡り人から人へと受け継がれてきた。神女達(ツカサンマ)は、生きる願いとともに「神歌」を神に捧げる。宮古島の唄の源流とされる古い唄だ。しかし、「神歌」の響きが、今この島から途絶えようとしている。2009年、九十歳を超えた老婆達が東京へと渡る。コンサートホールの舞台に立ち、「神歌」を歌うために。満場の観客を前に彼女らは力を振り絞り、歌う…。ミャークの「神歌」が一般聴衆に届いた最初の瞬間だ…。沖縄県 宮古島、ミャーク。これほどまでに豊かな世界があったことへの衝撃、そして不思議な懐かしさがわたしたちの胸を打つ。

製作・監督・撮影・録音・編集:大西功一
1965年、大阪生まれ。1984年大阪芸術大学入学。在学中よりテレビ報道カメラマンのアシスタントにつく。1988年、消え行く大阪の古い町を背景にギター流しを追ったドキュメンタリー作品「河内遊侠伝」が卒業制作学科賞。同年上京、映像プロダクションへ。1991年、退社後、フォークシンガー高田渡を象徴的役柄に配し、映画「吉祥寺夢影(きちじょうじむえい)」を制作。その後いくつかのプロダクションに所属し、1995年、映画「とどかずの町で」制作。以来フリーランス。テレビ番組、ミュージックビデオ、DVD、PRビデオ、映画予告編等、多ジャンルの映像作品を手掛けて現在に至る。「スケッチ・オブ・ミャーク」は16年ぶりの映画監督作品となる。

原案・監修・出演:久保田麻琴
伝説のロックバンド「裸のラリーズ」メンバーとして音楽家としてのキャリアをスタート。73年・東芝よりソロアルバムを発表。「夕焼け楽団」とともに数々のアルバムを発表。アレンジャー、プロデューサーとしても喜納昌吉の本土紹介に関わり、アルバム「ブラッドライン」では「花」のオリジナル・ヴァージョンでライ・クーダーとも共演。80年代はサンセッツとともに海外でも広く活動。ジャパン、インエクセス、ト−キング・ヘッズ、ユーリズミックス、プリテンダーズなどと共演。90年より専業プロデューサーとしてザ・ブーム、ディック・リー、MONDY・満ちる、島田歌穂など多くのトップ・アーティストのプロデュースをてがける。95年・宮本亜門演出によるミュージカル「マウイ」の音楽監督。99年・細野晴臣とのユニット、「ハリーとマック」でロック・シンガー・ソングライターとしてカムバック。2000年・照屋林賢(りんけんバンド)と細野晴臣とのユニット「KARABISA(カラビサ)を発表。同年、ザ・バンドのレボン・ヘルムやガース・ハドソンなどと共演したソロ作品「ON THE BORDER」発表。2001年・マレーシアのMac & Jennyらと組み、ワ−ルド音楽とヒ−リングを融合させたBLUE ASIAプロジェクトを開始。HOTEL IBAH(CD&DVD)、HOTEL ISTANBULの2枚のアルバムを発表。以後、2009年のSKETCHES OF MYAHK まで多数のアルバムをリリース。他に著書「世界の音を訪ねる」(岩波新書 2006年4月出版)等。

*主な受賞歴*
第64回 ロカルノ国際映画祭(スイス)、批評家週間部門
「批評家週間賞・審査員スペシャル・メンション2011」受賞作品
第17回函館港イルミナシオン映画祭2011 正式招待


インタビュー

編集部 まず、この映画が製作された経緯についてお伺いしたいんですけれども、映画の冒頭、久保田さんがギターを持って、熊野を歩きながら、いろいろとおっしゃってましたね。なんか、鳥の羽音に驚かれて、それが「お知らせ」「メッセージ」に感じられたとか…。

久保田 ええ。なんかね、場の雰囲気というか、なんか感じるんですよ。ぼくの場合、ギターがアンテナになっていて(笑)。ギターから曲が自然に流れてくるんです。あ、きてるきてる、って思っていたら、足元から大きな鳥が飛び立って…。これは何かある、と思いました。そしたら、オオカミの声が聞こえてきました。それは僕には、なぜかオオカミの声にしか聞こえなくて、「あ、オオカミだ」って…。行ってみたら、それは禰宜(ねぎ)と言うんですが、修行されている方が叫んで祝詞をあげられていたんです…。

編集部 それは…その方も何か見えないものと交信されていたという事でしょうか…?

久保田 それはわかりません。その方にとっては特別のことではなくて、いつもされている修行のひとつだったようです。その方と自然にお話して、僕が「オオカミの声に聞こえた」と言ったら、その方は「龍の声じゃなかったか」と…。

編集部 龍…ですか?

久保田 ここのご眷属(けんぞく)さまは、凄いんです、っておっしゃってましたね。なんか自然な感じで…。僕はあまり宗教系じゃなかったんですが、何かに導かれているという感覚がありました。

編集部 その時は、映画ということは…?

久保田 いえいえ、このときはまだ、映画のことは全然意識してなくて。ただ、なんかあるなと…。それでこの後、僕の中で、何年も行ってなかった沖縄に行かなければ、という気持ちになりました。沖縄か東北…。東北は行きたいと思っても、なんか今まで全然縁がないんですね。それで、復帰の年から沖縄に移住してて、チャンプルーズの国内デビューにも絡んだ高橋進に言われたんです。「宮古に行ってみれば」って。ここで初めて宮古島、ということになったんです。

編集部 それは、なぜ、宮古島だったんでしょうか。

久保田 僕も最初はわからなかったんですが…。ただ、こういうことがなかったら宮古へは行かなかったし、この映画も絶対に出来ていません。

編集部 大西さんは、こういうお話を聞かれて、いかがでしたか。大西さんがこの映画に、監督として関わることになったのは、どういった経緯でしょうか。大西さんと久保田さんとは…?

大西 もう長いんですよね。久保田さんのミュージッククリップなんかのお仕事でずっと関わらせていただいていて…。宮古島のことも、聞いていました。

編集部 じゃあ、仲良しというか、おともだちのような…。

大西 そうですね。でも、映画ということは最初はまったく考えていなくて、ただ、家族で宮古島へ行ってみました。その時は、なんかおいしいもの食べて、ゆっくりしただけで(笑)。

編集部 ご旅行ということですか。

大西 そうです。でも、素晴らしいところだと思いました。神歌のこととかいろいろと知っていくうちに、これは、映画にしなきゃいけないという気持ちになって来て…。

編集部 お知らせ、のような…?

大西 はい。具体的には、映画の最後にあった東京でのコンサートの映像を久保田さんに頼まれたことが、この映画に関わるきっかけですね。コンサートを記録するなら、おばあたちのことをもっと取材して、映画にしてしまったらどうかと…。

久保田 神歌の収録は、タブーだということがあって…。これは、ほんとうにこわいことなんですね。神の怒りに触れるのではないかという。だから、記録に残すのは無理かもしれないと思っていたんです。でも、おばあたちの中にも、神歌が途絶えてしまうのを心配されている方がいらして…。高良マツさんに収録に応じていただけたことが、僕にとってはすべての始まりでしたね。

編集部 映画の中で、「神様は怒るとこわいさー」と言った後に、「でも、神様が怒るということは、ないけどね」と言ったおばあの言葉が、すごく印象に残りました。

大西 あれは、村山キヨさんですね。

編集部 映画を拝見して、すごく感動したシーンが2箇所ありました。ひとつは、譜久島雄太くんが、歌えなくなってしまって泣き出すところ。もうひとつは、病院で寝たきりの嵩原清さんに、久保田さんが昔の音源を聞かせたら…。

大西 ああ…。病院では僕も泣きながら撮影していました。

編集部 抱きしめるようなしぐさをされて…。久保田さんは、抱きしめられて、あの時、どんな気持ちでしたか。

久保田 泣いてますね。

編集部 こういう瞬間に出会える、映像に残るということは、すごいことだと思いますが…。映画は時間的な制約もあって、いろんな事情で編集でカットせざるを得ないということもあると思いますが、そういうことはなかったですか?

大西 まあ、多少ありましたが、嵩原さんのシーンほどのものはなかったですね。

編集部 素材としては、どのぐらい収録しているんでしょうか。

大西 そうですね…200から300時間ぐらいかな。

久保田 もう一本できますよ(笑)。

編集部 大西さんは、映画づくりの方法論というか、心がけていることはありますか。

大西 今回心がけたのは、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を超えるものをということで(笑)。僕は超えたと思ってますけど。…そうですね、撮影のときは、その場所の持つ雰囲気というか、空気感みたいなものを大切にしています。あ、これでいける、という空気にならないと…そういうところは他の人にはわからないところなんで。

編集部 自分の中で、わりと孤独な感じで…?

大西 そうですねー。言葉にしても伝わらないと思うので。

編集部 途絶えかけた神歌が、この映画をきっかけにして、歌い継がれていくことになれば素晴らしいと思うんですが…。

大西 宮古島でもすでに3度上映していますが、今後も続けていきます。

編集部 神歌は歌い継がれていくと思いますか。

久保田 それは、わかりませんが…。地元では有名なバーがあって、そこで若い人たちに神歌の音源を聞かせてみたんです。そしたら、頭に響く!って、みんなうずくまってしまって…。よその人はそうならないんです。

編集部 それは…。

久保田 何か強い響きがあるんでしょうね。僕は映画館の息子なんで、今の映画の音にはほんとうにがっかりしてるんですが、音にはいろんなものが入ってるんです。録音したものと、ほんとうの生の声では、もちろん違ったものですし、単純なものではない。この前も、阿波踊りの音源を聞いていたら、なんか、上の方でしゃべってるような、ふわふわしたものが聞こえるんです。倍音なんですね。連の人に言ったら、それは、実際に演奏しているときに、たまにそういうものが聞こえることがあるんだと…。そのときは良い演奏状態で、魂がこもった時だと言うんですね。今の映画は音をあまり大切にしていない。音をちゃんと大切にした映画というのは映像との相乗効果があります。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は音が凄く良かったですね。それはライ・クーダーがライ・クーダーが拘ったか、ヴェンダースの功績かわかりませんけど。ライ・クーダーは、この映画のコメントを頼んだら、驚く程すぐに反応してくれました。よほど感じるものがあったようです。

編集部 宮古島以外にも、古謡や神歌は伝承されているんでしょうか。

久保田 ありますね。もう、いろんな多様な歌があって、すぐ近くの地域でも、違う文化を持っているようなものです。ぼくらも、冗談のように、東京の下町(江戸っこ)と横浜(ハマっこ)のハーフだなんて言うことがありますが、宮古でもあそこの村とあそこの村のハーフだよ、なんて言い方をしますね。よその人が聞いてもわからないですけどね。宮古を中心に古謡や神歌を研究する学者さんも、けっこういます。今後、協力していきたいとも思っていますが…。

編集部 単純にとらえきれないものですね。

久保田 「島燃ゆ」という人頭税撤廃運動のことを書いた本があるんですが…宮古八重山の人たちは、たいへんな労働を強いられたわけです。歌わないと辛くて体が動かない。歌が労働と結びついていたんですね。世界中に共通することですが…。

編集部 労働歌ですね。神歌はどうなんでしょう。神事や神歌は、女性が伝承していくという決まりのようですが、なぜ、女性なんでしょうね。

久保田 わかりませんが…それも共通してると思います。ほとんど例外なく女性でしょうね。でも、神事を司る女性を選ぶのは、映画にもありましたが、旦那の名前を書いた紙を使って決めますね。

編集部 ほかに、男性だけのお祭りもありましたね。なぜかスーツを着て踊っていますが…。ちょっと異様な感じが…(笑)。

大西 あれは、正装ということです。

編集部 あー、なるほど。神様に失礼のないようにと…。

大西 そうですね。

編集部 最後に、シネマジャーナルの読者に何か言いたいことをひと言ずつ、表現者としてこれからどんな作品をつくっていきたいかということも含めてお伺いできればと思います。

久保田 暴力反対!自分と惑星の関係を大切にしながら、グローバライゼーションには対抗していく、ということです。

大西 僕は大阪のコンクリートの中で育ってきて…震災後、特に思うんですが、農業を、自給自足的なことをやりたいな、と。次回作は直接的にそういうものと関連するかはわかりませんが、大きく見ればつながってくると思っています。

編集部 貴重なお話、どうもありがとうございました!


(C)Koichi Onishi 2011


~インタビューを終えて~

事前に30分から40分の取材時間を予定していましたが、気づけば3倍ぐらい、大幅に時間オーバー。すみませんと平謝りでしたが、みなさん笑って許してくださいました。ここにご紹介できなかったおもしろいお話がいっぱいあります。久保田さんは話に熱が入ると止まらなくなるタイプです。「これは書くなよー」と笑いながらおっしゃって、本音のお話がたくさん出てきました。そんな熱い久保田さんと、その熱意に巻き込まれながらも、その場の空気を大切にしてカメラを回し続けた大西監督は、とてもバランスの取れた組み合わせだと思いました。いちばん興味深かったのは、この映画が出来るまでの自然な流れです。すごい映画をつくろうという気負いなどまったくなく、すごい映画が出来てしまう不思議。おばあたちがずっと大切にしてきた、何か「見えない力」が、この映画の制作過程にも働いていたのでしょうか…。大西監督が今度は農業や自給自足をやりたいと聞いて、私はうれしくなってしまったのですが、映画というのは作品そのものだけではなく、制作過程や上映活動、発言や批評を含め、つくる人たちとみる人たちを巻き込んだ、何か大きな流れの中にあるのだと思います。こういう形でこの映画に関わることが出来て、私はうれしいです。久保田さんは、グローバリゼーションとローカリゼーションのお話をされましたが、映画の世界でも、大資本のものと、手づくりのようなものと、せめぎ合っていくのかもしれません。娯楽作品とか、アート作品とか、ジャンル分けは無意味だというような話もされましたが、このような、ジャンルを超えた良い作品が、今後もたくさん出てくるといいなーと思っています。とか言ってないで、私もつくっちゃおうかな…。(せ)

~宮古島から~
2012年5月27日、映画を宮古島市下地農村環境改善センターで鑑賞しました。宮古島出身の私は、正直、本土の人が島を撮影した映像や写真はいくつもあるし、島を営利目的にされたのかなと複雑な思いがありましたが、鑑賞後、その思いは払拭されました。映像には、島の出演者の普段と変わらないような自然な姿を感じられましたし、おばぁ達の可愛らしい表情や達観した眼差し、ありのままの島の風景、人々の純粋さや精神性が伝わりました。監督のエゴのようなものも全く感じることがなく、自然な流れでただ今の「ミャーク」を淡々と記録している、というものが伝わりました。私も感動したシーンはシネジャスタッフと同じでした。鑑賞後は、最近書くことをやめている脚本を無性に書きたい!と思いました(笑)島では神歌、方言、民謡、伝統芸能、自然環境など守り伝えていかなければ…と常に課題です。映画は、一つのきっかけに過ぎないのかもしれません。私のように、映画を通してあらためて島のことを見つめ直し、誇りに思う気持ちを持つ島の人たちもいると思います。小さな宮古島が注目されることは島の人々にとっても刺激になります。私としては、課題をあまり深刻に捉えず時代とともに変化していく島も面白いなぁと思っています。私も映画に登場したおばぁ達のように自然の流れに任せて、ミャークのパニパニッ(宮古方言で元気なという意)としたおばぁになりたいなぁ。そして、いつか作品を作りたいなぁ。(下)


(C)Koichi Onishi 2011 (C)Koichi Onishi 2011 (C)Koichi Onishi 2011 (C)Koichi Onishi 2011

公式サイト http://www.sketchesofmyahk.com/index.html
2012年9月15日から東京写真美術館ホール、名古屋シネマテーク他全国公開中
(C)Koichi Onishi 2011
配給:太秦

作品紹介 >> http://www.cinemajournal.net/review/2012/index.html#myahk

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(取材 せこ三平・山村千絵 まとめ 下里真樹子)
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