20年前に、ドキュメンタリー映画としては異例のロードショー公開された名作『阿賀に生きる』が、ニュープリントで再公開されることになりました。新潟水俣病という重いテーマを扱いながらも、圧倒的なおもしろさで観客を魅了し、佐藤真監督亡きあとも語り継がれてきた映画です。当時、佐藤監督らスタッフとともに、現場に3年間泊まり込んで、撮影を担当した小林茂さんに伺いました。
1954年新潟県生まれ。「阿賀に生きる」の撮影により日本映画撮影監督協会第1回JSC賞受賞。監督作品に札幌の学童保育所を舞台にした「こどものそら」、重度障がい者の自立生活を描いた「ちょっと青空」、びわこ学園を舞台に重症心身障がい者の心象を描いた「わたしの季節」(毎日映画コンクール記録文化映画賞、文化庁映画大賞、山路ふみ子福祉映画賞)、アフリカのストリートチルドレンの思春期を描いた「チョコラ!」など。著書に「ぼくたちは生きているのだ」(岩波ジュニア新書)など多数。現在、人工透析をしながら新潟県の豪雪地帯を舞台に「風の波紋」を撮影中。
編集部 最初にお聞きしたいと思ったのは、今、震災後の日本で、『阿賀に生きる』は、新たな視点を持って見られるだろうと小林さんはおっしゃっていましたが、やはり水俣や新潟が福島に重なってくるところがあると思うんですが、原発事故後の今、再びこの映画がニュープリントで公開されることの意味について、小林さんはどういうふうにとらえられているかということを…。
小林さん それはいい質問でもあり、とっても難しいところでもありますね。
まず、フィルムの保管という問題があって…。ぼくは最初に焼いたフィルムを20年…抜き焼きと言ってね、キズが入った部分だけ焼き直してつないで、毎年5月に追悼上映会をやってきました。少なくとも20年、保存できるということは証明できます。それから、映画の歴史は117年あるわけです。リュミエール兄弟がパリで映画をはじめて上映した1895年が映画の始まりといわれていますから。「列車の到着」という映画が上映されたとき、向かってくる列車に観客が逃げだしたという話は有名です。ぼくも見たことがあります。1995年、「映画誕生100年」ということで、山形国際ドキュメンタリー映画祭の「ルミエール兄弟とそのカメラマンたち」という特集でした。明治時代の日本の様子も映っていました。移動撮影も何もない、フィックスの映画が100本あまり。一作品がだいたい50秒くらいでした。合計93分。きれいに残っていて、ぼくは愕然としました。それで、フィルムは100年以上生き続けるということを実感したわけです。
それでね、『阿賀に生きる』は今年完成してから20年、佐藤真さん没後5年の節目にね、ちょうどフィルムの保管をどうしようという話があった時に、デジタル化もいいけど、フィルムのニュープリントで残したいということがあって…。呼びかけをしたら、資金が集まったんです。それでぼくとしては、ニュープリントで完成報告会をするつもりだったんですが、配給会社の方から、せっかくだから再公開しませんかという話が来て…。震災後の今ね、やっぱりこの映画はすごくいい、ということで…。
編集部 なるほど…。ニュープリントという話が最初にあって、それが時代とうまくタイミングが合って、再公開ということに…。
小林さん そうだねー。それとね、この映画の完成の年に生まれた子どもたちは、今年ちょうど成人するのね。学生さんなんかで映画をやっている人の間でも、この映画は伝説みたいになっている。でも、せいぜいDVDでしか見ることはできないのね。若い人にこの映画を当時のままの16mmフィルムで観てもらいたいとも思いました。若者たちがこの映画を観たらどう感じるでしょうねー。だって、作ったときぼくらはみんな若くて、20歳から最年長のぼくが34歳だったからね。それでね、昨年の東日本大震災直後の5月に阿賀野川の地元で追悼上映会をした時に、この映画がまた違って見えたということがあるのね。ここには、人間が映っている。ぼくら、こんなふうに歳をとって行けるのだろうかと思ったんです。原発事故があってね、被曝しちゃったわけだからね。だから、考えてもらった今回のキャッチコピーはね、「20年前、カメラは未来を写していた」って。高度経済成長を目指してね、ある意味きつい労働からさ、いろんなことが楽になり便利になるってずっとやってきて、その結果が昨年、出てしまったわけだよね。でもこの映画の中の人たちは、全然ぶれてない。ほかの人が手離してきたような、つらい労働ね、腰を曲げて稲刈りをしたりとかさ、そういう中でも、人生を楽しんでるよね。この映画完成の後みなさん次々に亡くなっていってしまって、こういう生活を撮れたっていうのはほんとうにギリギリ間に合ったという感じだったんですけど、生活することが生きていくこと、というところでは何か、最前線だったんじゃないかって思うんですね。
編集部 そうですね。つらい労働だと思っていたことが、実はほんとうに豊かで楽しいものだったんだって、この映画で気づいた人も多かったんじゃないかと思います。
小林さん そういう生活、彼らの生き方をきっちり描くことでね、この映画は新潟水俣病だけを描いたものではなくなったけど、去年の原発事故以来、新しい視点で見られる映画になったのかなあという気がするんですよね。
編集部 震災後、そういうことがわかりやすくなったのかもしれませんね。当時見てもそういうことがわからなかったとしても、原発事故後にはわかる人が多くなったんじゃないかと…。
小林さん そうですねー。当時、佐藤真監督について、土本(監督)、小川(監督)の後継者が出たとか言われましたけど、20年経って、映画として素直にいろんな見方をされるようになったのかなーと。
先週、大阪のJSC(日本映画撮影監督協会・関西映像懇話会)で上映したんですが、ある人がこんなことを言いました。依頼されて撮る職人集団の中でね、組織の中でトップダウンみたいにして撮ってるけど、この映画はぜんぜん違う背景が見えるというんですね。監督の言うことをそのままやるんじゃなくて、現場でスタッフ一人一人が自分らしさを出そうとしているのがわかるって…。その感想には感動しました。小川プロのように地域に住み込んでという制作スタイルは似ていますが、ぼくらなりの方法でやりました。
佐藤さんが何でも自分でやるっていうのにはぼくは反対したんです。製作資金もはじめは佐藤さんが借金して、一年で撮るって言ってたんだけど、それじゃあ佐藤さんのお金で飯食わせてもらってさ、そんでケンカになるに決まってるからさー、「俺の金で飯食って…」ってなるでしょう?それが人間だよー。だから製作委員会を立ち上げて、「俺たちは金が無いんだけどこういう映画をつくりたいんだよー!」って。ぼくの恩師(柳澤寿男監督)のやり方ですがね。1400人以上の方からカンパをいただきました。カメラの回る「カラカラカラ」という音が「カネカネカネ」って聞こえるんだよ(笑)。ワンロール10分回せば、単純に(フィルム代や現像代だけで)5万円すっ飛んで行くんだから…。でも最後、資金が足りなくなってねー。1千万円の借用書に5人でハンコつきましたね。そしたら、「サンダンス・フィルム・フェスティバル IN TOKYO」という東京スポーツがスポンサーの映画祭でグランプリもらって、賞金1千万。ホッとしたね。バブルだったんだねー(笑)。
編集部 製作自体が新しい形だったんですね。
小林さん そうだね。ぼくらが初めてっていうわけじゃなかったけど…。それと文化はいつも東京から来るっていうのにも反発して、最初は新潟市の公会堂で公開して、ぼくらは新潟県内を回って…そんで佐藤さんは東京でがんばる、と。佐藤さんも劇場公開を目指したらしいけど、なかなかうまくいかない。そうしたところが、六本木でロードショー公開が決まった。佐藤さんはうれしいながらも真っ青になったと思うね。観客を集めるのがたいへんですから。いろいろな人が応援してくれて、ロングラン上映になりました。ドキュメンタリー映画が劇場公開されるきっかけになった作品ではないでしょうか。
編集部 ぼくは20年前、六本木で見てるんですが、何かに反対したり糾弾したりということじゃなくて、ただ、川に、自然に寄り添った生活が描かれていて、その生活がすごく豊かで楽しいということが、それを奪ってしまった新潟水俣病っていうものを逆に浮かび上がらせていて…。すごく新しい映画だと思いました。単純におもしろくて楽しかったということもあって…。
小林さん そうね。ぼくもカメラを回してて可笑しかったよ。
編集部 あのイモを探すシーンが…。
小林さん ああ…(笑)。
編集部 自分にとっては映画史上ナンバーワンのシーンではないかと…今回また見るのがすごく楽しみだったんです。あと、伺いたかったのは…小林さんと佐藤真さんの関係というか、小林さんにとって佐藤真監督というのはどんな存在だったんでしょうか。
小林さん 佐藤さんはあれからずっと映画を撮り続けたわけだけど、代表作というとやっぱり、この映画になると思うし、ぼくも撮影ということではこの映画なんだよね。でも、撮り続けていると、次はあの映画を越えたいと思うんだよ。またダメでも、また越えたいと思うわけだ。でも、越えられない作品ってのはあるんだよね。そういう意味で言うと二人とも似ている。越えようとして生きて来て、越えられなかったけど、この映画はいい意味で原点だっていう…。佐藤さんに言わせると、あんなに贅沢な映画は無かったって。豊かな時間があって、旨い酒を飲んで、鮎とか鮭とか旨いもの食って…なんか、努力すればハイ出来ましたって映画じゃないんだよね。その時代にしかつくれない映画ってあるからね、越えられなくてもいいと思うの。佐藤さんは教えるってことでもすごく優れた人だったけど、亡くなる前は世界各国に呼ばれて審査員をしたり、日本のドキュメンタリー映画作家って言えば真っ先に名前が上がるような人だったよね。
ぼくにとってみれば、佐藤さんの持っている世界とぼくの持っている世界というのは、また違うわけだけど、いいコンビだったと思うね。佐藤さんの思い描くラッシュ(現像であがってきたばかりのフィルム)ではなくて、予想外のラッシュが上がると、佐藤さんは(編集に)燃えるんだよね(笑)。
『阿賀に生きる』も最初は佐藤さんが被写体に声をかけるやり方で撮影していたのだけれど、どうも違うように思えてきた。撮る側と撮られる側という関係を離れて、すーっと4次元空間にはいるような瞬間があるんです。そこにカメラがあるのに、マジックミラーでのぞいているような不思議な世界。いとおしいような時間と空間が写り込む。そういう経験をすると、その世界に佐藤さんが侵入してきて、質問をするというようなスタイルは違うんじゃないかと。佐藤さんのやり方がぼくにとってジャマ臭くなってきて、「答えをほしがるような質問はするな」って、佐藤さんからすればそれをとっかかりにして期待するもんがあるんだろうけど、もうそういう世界じゃないって、そういうことでよく議論したりしました。
その頃が『阿賀に生きる』の正念場だったと思う。そこで、この議論をオープンにして「『阿賀に生きる』正念場シンポジューム」というイベントを開いて、こういうケンカをしています、それで、いま少し、時間とお金をくださいと。なんでもネタにしたね。製作委員会がお金を集めたいからさー(笑)。いろんなとこに行ってラッシュ見せながらいろんなコトしてねー。
ただ、佐藤さんが亡くなった時はすごいショックだったですね。『阿賀に生きる』は、みんなで話し合って、みんなが口を出して、ワンロール見てはみんなで討論を繰り返して…編集したこともない若いもんに佐藤さんが、じゃあお前切ってみろとか、そんで、そいつが、ほんとうにいいんですか?ブチッ…あーっとかって(笑)。そんなふうにして、みんなで作り上げたんだよねー。それで最終的には佐藤さんが光るんだけど、佐藤さんも、「これはみんなの映画なんだ」って。そういうふうにつくってきた佐藤さんの偉さっていうか…。これは佐藤さんのひとつの実験だったかもしれないけど、そういうことがまたこの時代に脚光を浴びて光るんじゃないかなって…。まあ、佐藤さんが生きていればぼくの出る幕じゃないんだけど、もし生きてたらまた、「何言ってんだい」とかってね…(笑)。それがやれないのが残念だけどね…。
ぼくたちが去年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に行った時、会場でどうしても気になるDVDがあって、ふだんはめったにDVDは買わないんですが、思わず買って帰りました。それが小林茂さんの監督作品『ちょっと青空』でした。まさかちょうど一年後に監督にお会いすることになるとは…。小林さんはサインしてくださった上、岩波ジュニア新書から出ているご著書『ぼくたちは生きているのだ』と監督作品『こどものそら』のDVDもプレゼントしていただきました。たいへんなご病気を乗り越えられ、現在も映画づくりに情熱を燃やしていらっしゃる小林さんの原点は、学生時代に出会った田中正造と足尾鉱毒事件への想いでした。古河駅から歩いて渡良瀬川の堤防に立ったという小林さんですが、古河に住むぼくたちは、いっそうご縁を感じ、この出会いに感謝しております。佐藤真さんのことなど無神経に質問してしまいましたが、気さくに、熱く語っていただき、いのちの根源を見つめ続けてきた小林さんならではの深く心にしみるインタビューとなりました。このほか、都合上割愛せざるを得なかったお話もありますが、ほんとうに取材出来て光栄でした。ありがとうございました。ちょうどこの時期にニュープリントということになったのは偶然とは思えない大きな意味を感じます。時代がこの映画の再公開を望んでいたのではないでしょうか。『阿賀に生きる』が、震災後、原発事故後の日本のあたらしい希望の指標となるように、出来るだけ多くの人がこの映画に出会えることを、ぼくたちも心より願っています。(せ)