槙坪監督は、一貫して女性の視点から性や家庭、老いなど身近な問題を劇映画形式にして、わかりやすく表現し、発表されてきた監督です。シネマジャーナルにファンが多く、作品を発表されるごとに取材をさせていただいておりました。「『共に生きる』をテーマに、映画の企画・製作、自主上映、映写、講演と一貫した作品づくりを通して、全国各地の主催者の方々、見に来られた方々とふれ合い、皆さまから元気をもらうことが明日への原動力になっている」と企画制作パオ有限会社(槙坪監督の会社)のHPの中でプロデューサーの光永憲之氏がお書きになっていらっしゃいます。最新作『星の国から孫ふたり』の上映を全国展開している途中の死で、残念でなりません。11月に発刊予定のシネマジャーナルNO83では、槙坪監督の追悼特集を組んでおります。その一部、長い友人である山上千恵子監督の追悼文を掲載させていただきます。
山上千恵子
槙坪さんと私は年に一、二度会うくらいで、いわゆるしょっちゅう会っておしゃべりするような感じではなかった。それでも私にとっては同業者としてではなく、心を開いて話の出来る先輩であり、友人だった(と思いたい)。
出会いは八十年代。槙坪さんは若者たちのためにいのちと愛のメッセージ三部作をつくっていた。私は当時女性センターの企画で女性のこころとからだについての啓発ビデオを作っていた頃で、同じようなテーマを劇映画で作っている女性監督がいることに感動して映画を見に行き、いろんな話をした。槙坪さんは長くスクリプターとして映画の現場にかかわっていたが、男性たちの映画づくりになにか違うものをいつも感じていたと云う。そんな時槙坪さんは一人息子・龍太郎さんの学校のお母さんたちとの話の中から、十代の子どもたちに性教育が必要なこと、いのちの大切さを伝えなければという思いにかられて、自分で映画を作ろうと決めたそうだ。そんな話を共有しながらドキュメンタリーと劇映画と分野は違うけれど同じものを目指している女性監督に出会えてうれしかった。その後、槙坪さんは自分自身の年代の流れにそいつつ、その時々の社会の問題を取り上げ映画にして行った。若人、高齢者、介護、家族、障害者問題・・・どの作品にも槙坪さんの、いのち・愛・共生の思想がぶれることなく描かれていた。
槙坪さんが若人三部作からつぎの映画製作に入っていた頃、槙坪さんも私も製作資金だけでなく生活も苦しかった。映画って作れば作るほど苦しいよね、といいながらお互いに食べ物など送り合っていたことがある。今思えばなぜそんなことしたのか分からないのだけれど、自分が苦しい時に「彼女、どうしてるかなぁ」と思い出し、「しんどくても頑張っているだろうな〜」と思いつつなにか送っていた。私だけでなく苦しくても頑張っている人がいるということだけでも勇気だったり、継続していくパワーをもらえた(槙坪さんはどうだったのか聞いたことはないので分からないけれど)。
槙坪さんはリュウマチという持病を抱えながら映画製作を続けて来た。入退院をくり返しながらの映画製作、上映活動をする槙坪さんにある時「そんなに辛い思いをしてまでどうして映画を作り続けられるの」と聞いたことがある。その時の答え、「映画を作っている時は痛いのを忘れられるのよ。私にとって映画づくりは痛み止めなのよ」と聞いてどんなに痛くて辛い病なのか想像することしか出来ないけれど、それに耐える槙坪さんの肉体的・精神的強さに絶句した。こんなしんどい仕事もう止めたいと思う時、槙坪さんのあの時の言葉を思い出す。
息子の龍太郎さんに車椅子を押してもらって映画祭にやって来る槙坪さん、「母のリハビリなのよ」とお茶目に笑いながらお母さんに車椅子を押してもらう槙坪さん……いろんな槙坪さんが思い浮かぶ。
季節ごとに来るハガキにはいつも簡単に「お元気ですか?」と書かれていたが、今年の暑中見舞いハガキには「お元気ですか?私は時々元気」と書かれていた。この言葉の意味を理解出来なかったことが今の私に悔いを残している。でも、棺の中の穏やかな顔を見たとき、ご家族に失礼と思いつつ「痛くなくなってよかったね、これからは楽しんで仕事できるよね」と心から別れの言葉を伝えた。
槙坪夛鶴子さんのご冥福をこころよりお祈りいたします。