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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『バビロンの陽光』
モハメド・アルダラジー監督インタビュー

2011年4月17日 東京都内にて


*ストーリー*
2003年、サッダーム・フセイン政権が崩壊して3週間後。イラク北部に住むクルド人の少年アーメッドは、祖母に連れられて旅に出る。生後間もない頃に戦地に赴いたまま戻らない父が、南部ナシリアの刑務所にいるとの戦友からの手紙を頼りに探しに行くのだ。人々に助けられながらナシリアの刑務所にたどり着くが、建物は崩壊し、身内を探す大勢の人たちで騒然としていた・・・

◎インタビュー

3月11日の大震災の後、海外からの来日中止が相次ぐ4月半ば、『バビロンの陽光』が6月4日に公開されるのを前に、モハメド・アルダラジー監督が来日されました。監督にお会いするのは、2006年3月に開催された第2回アラブ映画祭で『夢』が上映されて以来のこと。アラブ映画祭報告記事を掲載したシネマジャーナル67号をお渡ししたら、写真を見ながら「この頃は若かった!」とはしゃぐ監督。いえいえ、1978年生まれですから、まだまだお若い。


沈痛な面持ちの監督

◆ 宗派・民族の違いを乗り越えイラク国民という共通の意識に

― イラン・イラク戦争の終わった後と、湾岸戦争の終わった後に、観光ツアーでイラクに行くチャンスがあったのですが、2度とも休暇が取れなくて行きそびれました。
何人もの友人がイラクの素晴らしい歴史遺産を見てきたのですが、皆、イラクの人たちの優しさが心に残ったと言っています。この映画でも、悲惨な目にあいながら、他人をいたわるイラクの人たちの姿が描かれていて嬉しく思いました。イラクのことを「戦争の国」という目でしか見ていない人たちに是非観て欲しい映画だと思いました。おばあさんが孫に「誰かに傷つけられても、相手を許すのよ」と語っていました。イラクでは、長い間、イスラーム、キリスト教、ユダヤ教などの宗教や、様々な民族が共存して暮らしてきましたが、近代になって、そのバランスが崩れたのが残念です。ことにサッダーム・フセイン政権崩壊後、同じイスラームの中でも、スンニー派とシーア派の間でも争いが起こりましたが、今でもわだかまりがあるのでしょうか? 関係を修復しようという動きもあるのでしょうか?

監督:複雑な質問です。イラクには宗教や民族の違う色々な人たちがいて、なかなか難しい問題です。でも新しい政府が平和な中で、きっとやり遂げてくれると信じています。サッダーム・フセインの失墜後、イラクの人たちはアイデンティティを失いました。自分を見失ったのです。フセイン政権崩壊直後には、宗派や民族に自らのアイデンティティを求める傾向もあったけれど、今はイラク人という共通の意識で、国を良くしようという雰囲気が大衆の間にはあります。問題はただ一つ、政治的なものです。政治が腐敗していて、権力の為に動く人がいる。人間の持つ善が悪に勝つと信じています。『夢』を撮った2006年ごろは、ほんとにクレージーな時代でした。神のお陰で当時より良くなりました。2006年、東京に来て、ホテルの部屋でBBCを観ていたら、イラクで200人亡くなったと伝えるニュースがあって、ほんとに悲しい時代でした。

◆心の痛みを抱えた人たちとの映画作り

― アンファル(クルド人虐殺)に関わらざるをえなかったムーサという人物を登場させて、権力者の下で加害者となった人たちもまた、被害者であることを描いていました。そういう人たちにも、この映画を観ていただくことはできたのでしょうか? また、どのような感想を持たれたのでしょうか?

監督:加害者だった人が観て、その会場に私がいたとしても、恐らく彼らは自分が加害者だったとは言い出せないと思います。 集団墓地からモスクに案内する運転手役のラザクさんは防衛隊に所属していたことのある人で、クルドの人と共演するのを最初拒んでいました。彼の家の近くで撮影していたので、彼の家で祖母役のクルド人のシャーザードさんにも家族が食事を用意したりしました。今、気づいたのですが、私はそういう人たちと一緒に仕事をしたかったのだと思います。ラザクさんは、ユーモアのある人でとてもナイーブな方でした。

◆文化と政治は別  アメリカ文化が大好きなイラクの人たち

― 笛を吹く少年に、年配の運転手が「吹くならマイケル・ジャクソンの曲にしてよ」という場面がありました。監督やイラクの人たちにとってのアメリカの存在は?
(私がマイケル・ジャクソンと言ったとたん、監督が反応しました。イランでもイスラーム革命直後の米国との緊張感が高かった頃に、マイケル・ジャクソンやアメリカ文化は人気が高かったことを思って質問してみたのでした。)

監督:マイケル・ジャクソンの場面のことを聞いて欲しいのに誰も質問してくれなかったのですが、さすがにあなたは中東の人たちのことをよく知っている! 私たちはアメリカに住む人たちが普通の人たちだとわかっているし、アメリカの文化も好きだけど、軍人となると別。私は特に、『夢』を撮影中、グリーンゾーンで5日間拘留されたことがありますし。軍人の中にはいい人もいたけど、占領軍は最悪。イラクに兵士がいるのは好ましくないと皆が思っています。町にいるだけで辱められていると感じています。撤去する様を早く見たいものです。

◆歴史と石油、どちらも善悪両面がある

― バビロンの空中庭園のことを知らないという人物に、アーメッド少年が、「歴史を習わなかったの?」という場面がありました。イラクの教育の中で、アーメッドの世代は、クルド人でもアラビア語やイラクの歴史を習っていることを表していましたが、世代によって、受けた教育がどのように違うのでしょうか?

監督:世代による教育の違いは当然あります。12歳の甥っ子たちはバビロンのこともよく知っています。でも、歴史に詳しいことが問題を生むこともあります。実は、この場面は歴史擁護派をちょっと馬鹿にしたジョークなのです。イラクでは、歴史と石油のどちらにも良い面と悪い面があります。

◆中東の映画監督たちの真摯な姿に敬意

― イラン映画にも影響を受けていらっしゃるとのことですが、とくに影響を受けた監督や作品は?

監督:特にどの作品というのではないのですが、キアロスタミ、マジディ、パナヒ、ゴバディなどの監督の、スタイルというより、ストーリーテリングのやり方や、彼らの映画に向かう姿勢に惹かれます。トルコ、エジプト、モロッコなど周辺諸国にも敬う監督がいます。

撮影:景山咲子
第2回アラブ映画祭の折の
モハメド・アルダラジー監督(左端)
ラシード・マシャラーウィ監督(中央)

― パレスチナのラシード・マシャラーウィ監督も本作に関わっていると資料にあったのですが、2006年のアラブ映画祭が縁ですか?

監督:そうです。あの時に知り合って以来の仲です。

― 日本での出会いが実を結んだのは嬉しいです。あと、イラクのクルド地区でも、若い監督たちが映画を作る動きがありますが、『砂塵を越えて』や『僕たちのキックオフ』のシャウキャット・アミン・コルキ監督とは日本で2度お会いしています(>> インタビュー記事)。交流がありますか?

監督:去年、全国で映画を上映して回る「イラク・モバイル・シネマ」を立ち上げたのですが、彼も一緒に活動しています。

◆いつか賑やかで楽しい映画を作りたい

― 映画の最後に、「答えを探す人々とイラクの人々に捧ぐ」という言葉がありました。
特にどのような人々にこの映画を観てもらいたいと思っていらっしゃいますか?

監督:ほんとは、ロマンスやインド映画のような賑やかで楽しいものも作りたいのですが、今のイラクでは、このような映画を観て自分達の進むべき道について答えを必要とする人たちがいるのです。


根は陽気な方?

*******

賑やかで楽しい映画を作りたいという監督は、いたって陽気な方でした。その心の奥には、今なお落ち着かないイラクを心配されている様子が伺えました。監督は、1978年生まれ。サッダーム・フセインが大統領に就任したのが、監督の生まれた翌年の1979年。1980年から1988年にかけてイラン・イラク戦争。やっと戦争が終結したと思ったら、その2年後の1990年にはクウェート侵攻、1991年湾岸戦争。
思えば、監督が生まれてからイラクが戦争状態でなかった時期はほんのわずかしかないのです。2003年にサッダーム・フセイン政権が崩壊して、やっと訪れるかと思った平和も、まだ本物ではありません。2006年アラブ映画祭でのシンポジウム〔イラク映画復興のために〕で、「イラクが素晴らしい国になることが私の夢です。治安が回復し、普通の国になることが」と語っていました。夢に一歩一歩近づいていることを監督の笑顔から感じたひと時でした。夢が早く現実になることを願うばかりです。



*追記*

◆バビロンの遺跡を観たことがあった!

映画を観ていた時にも、監督にインタビューをしていた時にも、すっかり忘れていたのですが、実はバビロンの遺跡を観たことがあったのをふっと思い出しました。十数年前のゴールデンウィーク、レバノンに行く予定だったのにツアーが成立せず、もうどこでもいいから・・・と探して参加したのが東欧4カ国を巡る旅でした。決め手はベルリンのペルガモン博物館が旅程にあったこと。トルコのペルガモン遺跡に行った時に、ここにあった祭壇はベルリンにあると聞かされ、そこに立つ一本の木を眺めながら、よもやベルリンに行く機会はないと思っていたのでした。ペルガモン博物館で巨大な祭壇を目の当たりにして、よくぞ運んだと驚きましたが、ギリシャ遺跡のペルガモンよりも私の心を躍らせたのが、バビロンのイシュタール門と、門に至る「行列道路」と呼ばれる華やかなライオンの装飾煉瓦壁。19世紀終りから20世紀にかけて、ドイツの調査隊がバビロンの遺跡を発掘し、ベルリン博物館島にそっくり復元したものなのです。イシュタール門は、紀元前575年、新バビロニア王国のネブカドネザル2世により建設されたもの。ネブカドネザル2世といえば、ユダ王朝を滅ぼしユダヤ人をバビロンに強制移住させた「バビロン捕囚」でも有名な王様。ユダヤ人以外にも色々な民族が集められ、バビロンは多文化の交差する場所だったようです。(ちなみに、ヘブライ語でバビロンはバベル。)
本家イラクの古代バビロン遺跡の地には、サッダーム・フセインがイシュタール門や宮殿を復元しましたが、2003年3月にイラクに進攻した米軍が遺跡付近を駐屯地にしてしまいました。取り返しのつかない被害がもたらされたと考古学者たちが指摘しています。歴史的遺産が心無い外国軍によって壊されてしまったことは、もちろん嘆かわしいことですが、日々の生活を過ごしている場を踏みにじられているイラクの人たちのことを思うと涙が出ます。早く真の平和を!

取材:景山咲子


モハメド・アルダラジー監督

◆モハメド・アルダラジー監督プロフィール◆

1978年、バグダッド生まれ。バグダッドでファインアートを学んだ後、オランダで映画・テレビの制作を学ぶ。オランダ在住時にTVカメラマンとして、ドキュメンリーやスポーツニュースなどを手掛けた。その後、イギリスで撮影と演出の修士号を取得。
2003年のフセイン政権崩壊後、イラクに帰国して初監督をした『夢(Ahlaam)』(アラブ映画祭2006にて上映)は、125の国際映画祭で上映され、22の賞を受賞、2007年の米アカデミー賞外国語映画賞イラク代表候補にも選出された。
2008年、再び祖国に戻り『バビロンの陽光』を製作し、ベルリン国際映画祭でアムネスティ国際映画賞・平和映画賞をダブル受賞した他、サンダンスを始め各国映画祭で高く評価され、再び米アカデミー賞にノミネート。
『バビロンの陽光』のテーマにもなっている、イラクで発見された無数の遺体の身元を調べるための"イラク・ミッシング・キャンペーン(IRAQ’S MISSING CAMPAIGN)"プロジェクトを創設。(公式HPより抜粋)



上映情報 →http://www.cinemajournal.net/review/2011/index.html#babylon
★2011年6月4日より、シネスイッチ銀座ほかにて全国順次ロードショー
公式 HP >> http://www.babylon-movie.com/

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