2009年3月25日(水)15:00~16:50
於 日本外国特派員協会
3月25日。
そろそろ桜開花の便りが届くはずだったこの日。
朝からの強い風と、ぶり返した寒さの中、会場の有楽町電気ビル20階の日本外国特派員協会に向かった。朴壽南(パク・スナム)監督作品『ぬちかふぅ-玉砕場からの証言―』の製作報告会見が行われる。
このドキュメンタリーは、遡ること64年前の奇しくも3月25日。米軍が最初に上陸を目指した沖縄、慶良間諸島では、日本軍が島民に「玉砕」を命じていた。つまり集団自決を命令していたのだ。渡嘉敷村で330名、座間味村で289名が集団自決の犠牲になった。
だが、その事実は昭和、平成の年月のうねりの中で、疑念、隠蔽、そして貴重な証言者たちの死亡などで、真実が歪曲されていった。
2006年から約2年をかけ製作された、このパク・スナム監督作品は、その悲劇を生き延び、沈黙を強いられた住民たちの真実の証言を集めたものだ。
以下は、パク・スナム監督報告会見の抜粋。
私は日本で生まれた在日二世です。戦争敗戦の時、10歳でした。
天皇陛下とこの国の為に、死ぬことこそが最高の栄誉だと教育されました。その教育の中で、私の朝鮮の子としての名前、言葉が奪われました。この一番大事なものを奪われたことは、コリアンである自分を愛すること、私を産んでくれた母に、「なぜ、朝鮮人に産んでくれたのか」と思い、母への愛情も奪われてしまったのです。
戦後、私はある意味、奪われたコリアンの自分自身と、母への愛情を取り戻すための旅だったと思います。その旅の中で、広島の被爆同胞の実態を描いた『もうひとつのヒロシマ-アリランのうた』、沖縄へ連行された朝鮮人軍夫、慰安婦を取り上げた『アリランのうた-オキナワからの証言』を製作しました。その沖縄で、深い沈黙に閉ざされた集団自決、玉砕から生き残った人々の記憶に、非常に大きな衝撃を受けました。植民地沖縄と植民地コリアンが、この旅の中で重なり合いました。
ご存知のように、座間味(ざまみ)島民集団自決について、2005年に元部隊長が、軍命ではないと提訴しております。また文科省は、一昨年、座間味の集団自決は軍命ではない。軍命の文字を、削除せよと通達しました。この裁判の根拠になったものは、元部隊長が、元村役場助役の弟に書かせた (-座間味の集団自決は部隊長の命令ではありません。当時、助役であった、兄宮里盛秀の命令です-)の念書と、 座間味出身の宮城晴海著『母の遺したもの』(著者・晴海さんの母初枝さんは、当時、座間味の役場の職員で、戦後集団自決は軍命だった、と体験を発表していたのだか…)の二つです。
私はこの二つの証拠に強い疑念を持ちました。それまで、沈黙を貫いてきた島民から、多数の証言を集め、このドキュメンタリーを製作しました。
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監督は終始、冷静なお気持ちで切々と語ってくれた。今日に至るまで、絶え間無く沖縄の戦後史が続いていたことを、思い知らされた貴重な3月25日だった。
1935年、三重県生まれ。在日コリアンの作家として58年に起きた小松川事件の被告である在日コリアンの少年死刑囚に関する一連の著書で注目を集める。65年から広島の被爆同胞の実態調査を開始。73年に証言集を刊行、83年には映画『もうひとつのヒロシマ-アリランのうた』を完成。91年には沖縄へ連行された朝鮮人軍夫と慰安婦を取り上げた『アリランのうた-オキナワからの証言』を発表。両作品は山形国際ドキュメンタリー映画祭をはじめ、数々の上映会で話題を呼んだ。
監督・企画・構成:朴壽南
撮影:大津幸四郎、他
製作協力:安井喜雄(プラネット映画資料図書館)、福地曠昭(沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会)、佐喜眞美術館、真実を記憶するしまんちゅの会
製作:『アリランのうた』製作委員会
2009/日本/ビデオ/カラー/4:3/日本語・沖縄口・ハングル
2009年4月末完成予定