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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

2009年10月18日 東京国際女性映画祭シンポジウム

登壇者の皆さん、撮影:滝沢祥

「赤い点」の宮山麻里枝監督 / 東京国際女性映画実行委員の内田ひろ子さん / 「アンを探して」の宮平貴子監督
「ビューティフル・アイランズ」の海南友子監督 / 映画祭ディレクターの大竹洋子さん / 「母の道、娘の選択」の我謝京子監督

撮影:滝沢祥

今回の東京国際女性映画祭は、羽田澄子監督のようなベテラン常連や海外のゲスト作品に加え、4人の新人監督の作品が上映された。 海外在住か海外を中心に活躍されている若手日本人女性の自信に満ちた生き生きとした姿は、見ているこちらにまで勇気を与えてくれた。
シンポジウムは 独自の経歴を携えて日本映画界に新しく登場した4人の監督が、それぞれの経験を踏まえた女性の生き方の広がりと可能性が話し合われた。 東京国際女性映画祭ディレクターの大竹洋子さんによる 歯切れのよいコメントと、新人監督さん達への愛情溢れるリードで進行された。

<各国の公的支援について>

海外での映画制作への公的支援が日本とは比べ物にならないほど恵まれているようだ。宮平監督のカナダでは脚本段階から助成金が交付され、資金が不足しがちな新人監督にも質の高い作品を制作する機会が与えられる。助成金関係の役所の管理職に女性がいることも力になる。同様に宮山監督のドイツでも大学&大学院の卒業制作に対して援助され、若手映画人の養成を促進している。また我謝さんのニューヨークでは Women Makes Moviesという団体が直接的に女性の作る映画の製作だけでなく配給も援助をする。日本は文部科学省の制度が無くはないが狭き門である。お隣の韓国では映画が国家事業のひとつであるということもあり、国も市も女性映画祭や若手育成への援助を惜しまない。

<監督業について>

皆口をそろえて、〈諦めないこと〉、〈しつこいこと〉、〈粘り強いこと〉と語り、強い精神力の持ち主揃いである。そして共同作業である映画製作の現場でしなやかなリーダーシップを発揮して映画の完成にこぎつけられた様子が目に浮かぶ。

<女流監督、女性監督>

日本で劇場公開される約400本のうち女性監督による作品は7%しかない。 製作されても公開されてないものも含まれれば600本くらいなので更に割合は少なくなる。大竹ディレクターは女流&女性という区別する言葉がなくなる世の中を望んでいらっしゃる。私達もまったく同感だ。

<時代は繋がる>

最後のメッセージでは、それぞれの世代で女性が働くということが語られた。その昔、女性が大学へ受け入れてもらえなかった時代もあった、それから何の公的な支援もないが堂々と道を切り開いていかれた大先輩達の世代があった。その方達の長いご苦労の末、男女機会均等関連の制度が整えられ時代に背中を押されながらも、肩に力が入ってしまった40代後半世代がいる。そして今の30代は特別に気負うことなく自然体で仕事に臨んでいるように見える。これから私達の子供世代はどうなっていくのだろう? 各時代は別々にあった出来事ではなく、ひとつの大きな流れとして続いていて、それぞれの世代が生きて成し遂げることはすべて次の世代に繋がっていくと締めくくられた大竹ディレクターの言葉が印象的だった。


<追記>

実は 記事を書いているが、どの作品も超満員の盛況で、残念ながらどの作品も観られていない。毎回入場できずロビーに溢れてしまった観客のひとりでした。「母の道、娘の選択」だけは、冒頭数分の監督さんとお母様とのシーンと、ラスト数分の娘さんとのシーンだけ覗くことが出来たのだが、我謝京子監督と同じ男女雇用均等法元年世代で、やはり10代の娘がいて(普通に母もいますし)、今日まで企業で働き続けてきた私は、もうその数分だけで号泣しそうになったほどツボに嵌ってしまった
。 どの作品も公開されるのが待ちきれない。

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(取材・写真:滝沢祥)
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