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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。


張加貝(チャン・ジャーベイ)監督インタビュー

雲南の美しい棚田の広がる村を舞台に、知的障がいを持つ桜桃(インタウ)の娘に対する無償の愛を描いた本作は、昨年(2007年)の東京国際映画祭「アジアの風」部門で『さくらんぼ 母の愛』のタイトルで上映され、多くの観客の涙を誘いました。

いよいよ11月1日(土)から一般公開されるのを前に、張加貝監督にお話を伺う機会をいただきました。1957年上海生まれの監督は、15歳の時北京に移り10年程を過ごし、その後日本に来て17年。 「日本が一番長くなりました」と語る監督とは、通訳を介さず日本語でたっぷりとお話することができました。温和で、優しい面持ちの監督だからこそ描けた母の愛の物語だと感じました。

◆文革後の時代を背景にした母の愛の物語

-- 背景にある一人っ子政策を強く感じました。紅紅(ホンホン)が捨てられていたのも女の子だから、父親が引き取りたくなかったのも女の子だから・・・ですね。 文革が終わって、改革開放に向う狭間の時期ですが、最近日本で公開された文革後の時代を描いた映画に、李継賢(リー・チーシアン監督の『1978年、冬。』や、顧長衛(クー・チャンウェイ)監督の『孔雀 ―我が家の風景―』などがありましたが、いずれも兄弟のいる家族なのが印象的でした。文革後1980年代は監督にとってどんな時代だったのでしょうか? 

監督:私にとって印象深い時代、懐かしい時代ですね。 閉鎖された文革の時代から、突然解放されて、人間は何を考えるか・・・ 色々膨らんでいった時代でした。1970年代後半に大学受験制度が復活して、私は受験して北京第二外国語大学に入り、日本語を専攻しました。1980年代は、大学を出たばかりの時代。 保守と改革のぶつかっていた時代で、政治的にも経済的にも、どういう方向に行くか論争し、お互いよく話し合った時代でした。学生でしたから夢を持っていて、これから何をやろうと思い巡らしていました。一人っ子政策が出された時には、意味がよくわからなかったのですが、人口が多いのでそれも仕方ないのかなぁという程度でした。皆が貧しかったし、計画出産も必要かなと思いました。その制度がいいのかどうか別にして、人口は多いし、食べ物は少ないし。その時代、田舎の人達は、どう生きてきたかというと、男は働き手として必要だけど、女の子は生まれたら捨てられたケースがたくさんありました。そんな時代を背景に、子供と母の愛をどう描こうかと思い巡らし、母をテーマにしたいと思いました。 『初恋のきた道』などの脚本家である鮑十(パオ・シー)さんと相談して、母と子の葛藤を描こうと決めました。最初は血縁の男の子を設定に考えていました。 次第に、血縁がなければ母親はどう愛情を表わすだろうかと考えるようになりました。 その方が、もっと感動させられるのではと思ったのですね。男の子から女の子に設定を変えたのは、一人っ子政策の中で女の子はないがしろにされがちだから。母親像については、鮑十さんが知的障がいのある母親を見た経験があって、それをテーマにするといいのではと提案されて、その方をモデルに母親を描いてくれました。

-- 私はもちろん、自分の母親の私に対する無償の愛をすごく強く感じていますが、私自身のことについていえば、結婚をしたこともなく、子供を持ちたいと思ったこともないので、桜桃(インタウ)があれほど強い母性を持ちえたことが、すんなりと理解できませんでした。もっとも、こんな私でも、自分で子供を産めば、母性を持てるのではと思うのですが。女性は母性を持つもの・・・という、男性から押し付けられた見方だという思いもあります。この点、演じた苗圃(ミャオ・プゥ) さんはどう感じられていたのでしょうか?

監督:彼女は、台本を読んで演技する意欲が沸いて、「是非やらせてください」と言っていたのですが、実際役に入った時、「自分は迷っている、出来るかどうか自信がない。やったことのない役で、自分自身、母になったことがないので、母になるということは、どういうことなのかわからない」と言っていました。 また、知的障がいのある母親はどういったものか、資料を調べたり、学校の知的障がい児のいるクラスや、福祉施設にも行って観察していました。 撮影前には、私たちの方でもバックアップして、知的障がい者の方を連れてきて、彼女と1週間程生活を共にしてもらいました。初日はまだ気持ちが入ってなくて、芝居がオーバーぎみでした。「今まで演じたものを全部捨てないと踏み出せない、苦しかった」と言っていました。 どこにも行かず、部屋に篭ってずっと考えていました。 私からは、「桜桃に成りきって欲しい」「役者に命がかかっている」とプレッシャーをかけました。彼女は一時やめようかなと考えたこともあるようです。プロだからやめることはないと思いましたが・・。 努力して演じてくださって、ここまで出来たことに感謝の気持ちでいっぱいです。

 
© 2008「さくらんぼ 母ときた道」製作委員会

◆あえて強調しなかったハニ族の文化

-- 紅紅役の少女の龍麗(ロン・リー)はハニ族ですね。

監督:今、中学2年生。当時は小学校6年生.。 歌が好きで、歌手になりたいと言っています。助監督にお願いして数千人の中から選んだ子ですが、すごくいい子に巡り合えました。

-- この映画を見て、棚田の風景が章家瑞(チアン・チアルイ)監督の『雲南の少女 ルオマの初恋』(2002年)に出てくる風景とそっくりでしたが、舞台は同じ元陽ですね。『雲南の少女 ルオマの初恋』では、ハニ族の文化を強調していました。『さくらんぼ 母ときた道』でも、ハニ族の人たちが撮影に協力したと資料に書いてありましたが、民族のことは強調していないですね。

監督: ハニ族の人たちに協力してもらいましたが、衣裳は一般的な漢民族と同じものにしました。

-- この映画で民族を強調しなかったのは、普遍的な物語として描こうとしたからでしょうか? 少数民族は、一人っ子政策の対象外とも聞きます。 だとすると、この映画では少数民族ということではなく、中国一般 つまり 漢民族の話として描いたということですね。

監督: その通りです。 もっとも実際、今はハニ族の人たちも、ほかの少数民族の人たちも、お祭りの時には民俗衣裳を着るようですが、普段はもう漢民族と変わらない格好をしていますね。

-- 1983年に昆明を訪れたのですが、その時は町の中でも、さまざまな民族服の方を見かけました。もうそれもあまり見られない光景なのですね。昆明の町も、今は大都会になっていますが、赤ちゃんを探して彷徨った町は、古い町並が残っていますね。

監督:あれは元陽と、もう一箇所昆明に近い町で撮ったのですが、あのように古いところもまだ残っていますね。

◆文革後の人情のあった時代を伝えたい

-- 夫役の妥国権(トゥオ・グゥオチュアン)さんは、どのような経歴の方ですか?

監督:彼は映画の出演本数は少ないのですが、ドラマの経験が多くて、中国で人気もある人。私の前作『陶器人形』にも出ていて、苗圃さんとも息があっていました。 プロデューサーがいろいろ紹介してくれたけれど、性格や人柄のよくわかっている人の方がやりやすいので、是非にとお願いしました。 彼は二胡が弾けるというのも、条件に合致しました。

-- 広場で夕暮れ、村の人たちが集うところで、お父さんが二胡を弾いているのも、人情味溢れる場面ですね。

監督:当事は唯一の娯楽で、今は見られない光景ですね。かつて、村は一つの大きな家族。今は隣に誰が住んでいるかもわからないですが・・・

-- ところで、紅紅の誕生日を祝う場面がありましたが、誕生日はいつにしたのでしょう?

監督:拾ったその日が誕生日ですね。いつ生まれたかわからないから。 

-- 紅紅は学校に行っていますが、ちゃんと戸籍に入れたということですね?

監督:農村では戸籍はあまりこだわってないのですよ。村長が認めれば、それは大丈夫。お父さんは戸籍に入れたら、次にもし自分たちに男の子が生まれたときに戸籍に入れられないからためらっていたのです。

-- 二人目、三人目が出来た時に、中国では戸籍に入れないことが多いと聞いていますが・・・

監督:多いですよ。一人っ子政策で二人目が生まれると罰金がかかるので、地方に出稼ぎに行くなど、あちこち逃げて、そこで子どもを産んだりもするのですよ。戸籍のない子は、「黒い子」と言われます。

-- 高熱を出して病院に連れていきますが、入院費用は出せたのでしょうか? その前のシーンで、男の子を怪我をさせて父親が乗り込んできた時に、賠償金を求められて、払えないからと奥さんを殴っていましたが・・・

監督:入院費用をどうしたかは描いてないのですが、子どもの為に何とか借金して出したのですね。 私がなぜこの映画を描いたかというと、当時は貧乏だったけど、心が乏しくなかった。人情が残っていた。 今は田舎の人が都会の病院に行ってお金がなかったら断られるかもしれません。昔の人情のあった時代を現代の人に伝えたいと思ったのです。

 
© 2008「さくらんぼ 母ときた道」製作委員会

◆ばっさり切った母親との再会シーン

-- ラストは、お母さんが紅紅のお誕生日の日にさくらんぼを取りに行って、川に落ちて亡くなったことを暗示していますが、はっきりとは描いていません。あのようなラストにしたのは?

監督:ラスト、お母さんが死んでいるのかどうかは、観る人の想像に任せています。 最後にフラッシュでモノクロの写真を見せていますが、台本では、実はそうは書かれてなかったのですよ。お母さんが川に流されていくのをお父さんと紅紅が「お母さん、お母さん!」と叫ぶけど助けられない。 次に、20歳の紅紅が大学で医学を勉強していて、お母さんを探し続けているのですが、別の村で生きているらしいと聞いて探しにいくと、お母さんにそっくりな人がいる。でも、衣装も違うし、ブタじゃなくてアヒルを追いかけている。自分のお母さんと思って走り寄っていって、紅紅紅紅・・・とお母さんが書き綴っていたノートを見せて、「私は紅紅だよ」と言うのですが、お母さんは顔をあげない… 観客に最後までお母さんの顔を見せないようにして、紅紅と抱き合っているシーンで終わるのですね。 そのように一応台本通りに撮ったのですが、自分で観てみて、これはちょっとやりすぎだ、お母さんの思い出だけにした方がすっきりすると思って、20分位を全部カットしました。プロデューサーにずいぶん叱られましたね。

-- 確かに、押し付けがましい感じが、すっきりしたかもしれないですね。他にもカットしたところはあるのですか?

監督:何箇所もありましたね・・・。 例えば、お母さんが赤ちゃんのポスターを切りとってお腹に貼った場面がありますが、もうひとつ、赤ちゃんが欲しいというのを表わすのに、鶏の卵をベッドに持ってきて一日中暖めているというシーンがありました。お父さんが帰ってきたら、お母さんがベッドで寝ていて、ふとんをあげてみたら、卵が全部割れている・・・ これも面白いという人もいたのですが、カットしましたね。

◆高くついたさくらんぼ

-- 撮影は、さくらんぼの時期に合わせて行ったのですか?

監督:いえ、違うんですよ。さくらんぼは、元陽では5月。 撮影は8月だったので、さくらんぼがなくて、どこかにあるかなと全国探したら、山東省にならあるというので、注文して一箱運んでもらいました。 使ったらすぐ冷蔵庫に入れて。でも10日間もすると全部腐ってしまって、また取り寄せたりして、さくらんぼの値段よりも取り寄せ費用がかかりました。口に入れるのは本物を使いましたが、あとは小道具で作ったものを使いました。

-- ほかに撮影中に大変だったエピソードはありますか?

監督:蚊が多くて大変でした。ライティングすると集まってきて…。あと、ダニもすごくて、現地の人たちの家のベッドに役者も寝たのですが、ダニに噛まれて、苗圃さんもお腹一列噛まれた跡ができてました。雨が多くて、しかも天気がよく変わるのですね。ピーカンでスタートしても突然降り始めて、どうしよう…と迷って今日はもうやめようと決めて撤収したら、また晴れたりして、天気に翻弄されましたね。

◆中国では、食事のメニューまで監督が決めなくてはいけない!

-- カメラワークがとても綺麗でした。撮影は日本の丸池納さんでしたが、以前から長く一緒に仕事をしていた方ですか?

監督:いえ、彼とは初めて仕事しました。すごくこの作品を理解してくれて、うまく撮れたと思います。 1日も休みなしの中国での撮影で、一度風邪を引いて点滴を受けていました。あと、助手たち3人が皆日射病で倒れて、その時にやっと休みが取れたというような状況でしたね。

-- 監督は、日本の滞在も長くて、日本と中国の両方で映画製作されていますが、両国の違いは?

監督: 中国も日本も、映画の作り方の基本は変わらないのですが、生活習慣が違って、人々の考え方が違う。日本で『歌舞伎町案内人』を作ったときは楽でした。監督は映画の内容を考えるだけに専念すればいい。小道具や美術のことは、助監督や美術担当の人が細かいことをやってくれます。私はそれでいいかどうか判断するだけで済むのですが、中国で作る場合は、それも監督が一から考えなければいけない。小道具を置く場所から昼ご飯をどうするかまで監督の仕事です。食事のメニューまで監督が考えないといけないんです。これ、私の仕事かな・・・と思うのですが、そうしないと人がついてこない。雑なこともすべてやらないといけない。これが中国のスタイルかもしれないですね。

◆『楢山節考』 を観て来日を決意

-- 大学で日本語を専攻されて、その後、中国で映画の世界に入られていますが・・・

監督:小さい時から映画が好きでした。 伯父がシナリオライターで、シナリオ協会の会長をしていました。伯父が新藤兼人監督と親しくて、日中映画シンポジウムをずっとやっていました。そんな影響があってたくさん日本映画を観ていました。

-- この映画に影響を受けたという映画はありますか?

監督:大人になってからはあるのですが、小さい頃に特にこの映画にというのはないですね。日本の映画はよくみていまして、今村昌平監督の映画は大好きで、『にっぽん昆虫記』『楢山節考』『赤い殺意』などいいですね。大島渚監督も好きですね。その後、日中映画シンポジウムで観た小津安二郎監督の『東京物語』も好きですね。黒澤明監督の作品ももちろん観ています。

-- 中国映画ではいかがですか?

監督:戦前の上海撮影所で作ったものにはいいものがあるのですが・・・ 例えば『路上天使』とか。現代では、張芸謀(チャン・イーモウ)の初期の作品『あの子を探して』などはいいですね。

-- 日本で学ぼうと思われたのは?

監督:中国映画人協会に入っていて、そこでたくさんの日本映画を観たのですが、今村昌平監督がカンヌでパルム・ドールを取った『楢山節考』 を観たあと、日本に行って勉強しようと決意しました。今村監督とお会いして色々お話を伺いました。 新藤兼人監督のところで1年間助監督をしました。実は、保証人になってくださったのが、伯父の友人で脚本家の鈴木尚之さん。もう亡くなられましたが、『飢餓海峡』『あかね雲』などの脚本を書かれた方で、今年、中国映画人協会で特集上映をします。

◆中国では検閲を潜り抜けるのに頭を使う

-- 日本を活動の拠点にしている中国人の監督の方がほかにもいますが、中国では制限があるから日本で自由に撮りたいという気持ちがあるのでしょうか?

監督:中国では、まずシナリオの審査があって、撮影が終ってからも検閲を通らないと上映できません。それを乗り越えないと何もできない。だから中国の監督は頭がいいというか、それを潜り抜けることを一生懸命考えます。その点、日本では思うままに考えていることを率直に伝えることができます。 日本でも検閲はあるけれど、エロに関して位。それもモザイクをかければいいなど法律で決まっています。中国では法律がないから、検閲する官僚がダメと言ったらダメ。基準がない。中国は今、法律を作っている最中で、まだ自由に作れません。

-- この映画の場合、日中合作ですが、その場合は?

合作はさらに厳しいのですよ。 単なる中国作品だったらやりやすいのですが。ただ、今回はテーマがはっきりしていて、母の愛という普遍的なものだったので、それほど審査は厳しくないかったです。ただ、冒頭に「当事、一人っ子政策が出された」とナレーションを入れたのですが、それはカットしろと言われました。そんなに強調する必要はないと。中国の人にはわかるけれど、外国の人にはわからないから、これはどうしても最初のところで入れないと意味がないと言ったのですが、認めてくれない。他の方法を考えなくてはと智恵をしぼり、お父さんが田植えしている時に、有線放送で流れるという形にしたら、審査に通ってしまいました。

-- 検閲を潜り抜けるのも工夫次第ですね。 本日は楽しいお話をいろいろお聞かせいただきまして、ありがとうございました。

(取材: 景山咲子)
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