監督 玄 真行 2005年
韓国のシンガーソングライター、カン・サネ(川と山へという意味)が、アジア各国のミュージシャンを訪ね歩き、交流、セッションし、新しい歌を作る試みを記録したのがこの作品である。その国を象徴するような人生とドラマを持っていて、メッセージを発信している人たちが登場する。
カン・サネが訪ねるミュージシャンは、日本では忌野清志郎と、自身の体験が『Aサインデイズ』(崔洋一監督)になったマリー(喜屋武マリー)。まず、清志郎の武道館ライブで「あこがれの北朝鮮」という歌が流れる。拉致問題で何かと話題になっている北朝鮮をテーマに、風刺の中にもユーモアのある詩で、それでも友好が大事と語り、北朝鮮に行ってみたいと歌う。カン・サネは清志郎を訪ね、一緒にギターを爪弾き、酒を飲み交わす。
このライブに同行するのは、春日博文さん。韓国で伝統打楽器を習っていた縁で、カン・サネと知り合い、長年カン・サネのアルバムをプロデュースしてきた。
そして、マリーを訪ねる。マリーは86年、ハードロックバンド「Marie with MEDUSA」というグループを結成し、沖縄のロック界で活躍していたが、今は沖縄を離れ、東京の音楽学校で教えている。ライブでは歌わなくなっていたマリーに、また歌おうとカン・サネは呼びかける。そして、「アジアン・ローズ」という曲を作って一緒に歌う。圧巻は、マリーにとって愛憎半ばする沖縄に帰り、母の墓前で歌う「アメイジング・グレース」だった。この映画がきっかけで、マリーはまた、沖縄での音楽活動を再開した。
カン・サネ |
MARIE |
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ライブ風景 |
忌野清志郎 |
カン・サネの奥さんは日本人だし、日本に2年ほどいたので日本語が出来る。だから二人との会話は日本語だった。清志郎さんの事務所に訪ねた時、難しいところになると奥さんがフォローはしていたけど、けっこう難しい言葉もこなす。
フィリピンでは元ジャーナリストで、音楽以外にもコメディアン、詩人、哲学者など多彩な顔を持つ、ジョーイ・アヤラと、フィリピンの民族音楽、文化の研究者でもあるグレース・ノノを訪ねる。アヤラは新聞記者だったが、ミンダナオ島での虐殺事件をきっかけに、そのことを訴えるため音楽活動に入ったという。また、ノノは欧米の音楽が主流をしめるフィリピンの音楽界にあって、フィリピンの民族音楽、文化の研究者として、自身で作詞作曲もするシンガー・ソングライターとして活躍している人だ。
インドネシアの現実を熱いメッセージをこめて歌うカリスマバンド、スランクは、民族紛争が続くインドネシアで非暴力による愛と平和の活動を訴えている。地震ですっかり有名になったバンダアチェでのライブも出てくる。彼らを訪ねるのは、カン・サネのことを慕う、ユン・ドヒョンと彼のバンドメンバー。音楽性と社会性の強い歌詞を一致させ、歌っている。でも、2002年のサッカーワールドカップのテーマソングも歌っていたグループだそうだ。ユン・ドヒョンはラジオのDJもしている。
中国からは「アリラン」をラップ&ヒップホップ風のダンス曲にしてヒットさせ、新人賞を獲った、朝鮮族出身のグループ、アリランが登場する。
最後にこれらのアーティストたちがソウルで一同に会し、「シャウト・オブ・アジア」合同ライブをするシーンが出てきて締めくくる。このライブのために作った「HANA/ひとつ」が印象に残る。この歌を作るまでのシーンも挿入され、歌を作るのは楽しいことだけではなく、産みの苦心も伝わってきた。
私は7〜8年前にカン・サネのライブに行ったことがある。そして、そのときに歌われていた「ラグヨ」(だってさ)という歌に、言葉もわからないのに涙した。「イムジン河」は、南出身で北に避難し、南に帰れなくなった人の歌だが、「ラグヨ」は、逆に北から南に避難したカン・サネの両親が北に帰れなくて、一度でいいから北の故郷へ帰りたいと願う思いが込められた歌である。北にいても南にいても、どこにいても、人はやはり故郷を思う。
戦争による離散家族は、何も朝鮮半島に住む人たちだけのことだけではない。『海女のリャンさん』などでも、在日の離散家族のことが語られていたが、この作品ではさらに中国と韓国に分かれる離散家族のことが語られる。豆満江は中国と北朝鮮国境にある川で、カン・サネの父親は、この対岸の地域の出身である。その父親の故郷を一目見たいと、アリランのメンバーと共に、アリランたちの故郷でもある延辺を訪ねる。豆満江の対岸にカン・サネの父親の故郷が目の前に見えるのに行くことが出来ない。じっと、父の故郷をみつめるカン・サネの姿に、ジーンとなった。
アリランのメンバーの家に行ったら、祖父と祖母がソウルの出身で、延辺に来たきり、帰れなくなってしまったと語っていたし、一緒にいったカン・サネのバンドメンバーのお祖母さんは延辺の出身で、ソウルに行ったきり帰れなくなってしまったという。中国と韓国に分かれた離散家族のことは、あまり伝えられてこなかったと思う。これは第二次世界大戦の結果ではあるけど、戦争の影響はこんなところにもあるのだと知った。日本人としては、知っておく必要があると思う。
監督は在日二世の玄真行さん。今までは主にテレビで活躍し、ギャラクシー賞を何度も受賞している。和歌を詠む台湾の老人たちをレポートした「台湾万葉集〜命のかぎり詠みゆかむ〜」という番組が印象に残っている。台湾に和歌を詠む人たちがいるというをこの番組で知った。
『シャウト オブ アジア』は、「アジアのロックシンガーたちの歌を通じて、世界にアジア発のメッセージを届けたい」という想いが込められた作品である。
2005年4月21日(木)
インタビューは、ほとんど日本語で答えられていますよ〜 と伺ったので、まずは、日本人の奥様とは何語で会話しているのかお聞きしようと「奥様とは・・・」と切り出したら、すかさず「仲いいです!」と明るく答えるカン・サネさん。出鼻をくじか れた感じだったが、奥様とは、日本語とハングルを混ぜこぜで話しているそうで、ほかの人が聞いたら、何を言っているかわからないかもとのこと。私たちのインタビューも通訳の方がそばにいたけど、大方、日本語で行われました。
Q 私は、7〜8年前にシネマジャーナルの読者でカン・サネさんのファンの方と一緒に、カン・サネさんのライブに行ったことがあります。
カン クラブQ?
Q 赤坂だったと思いますが、忘れてしまいました。
カン 単独のコンサート?
Q そうだったと思うのですが…
(後で調べたら、艾敬/アイ・チンと一緒のライブで、NHKでした)。
ところで、日本にいたことがあるそうですが、そのときに日本や海外の音楽でどのような音楽に影響を受けましたか?
カン 聴き始めたのは、韓国ではフォークシンガーや歌謡曲。日本に来てから海外のミュージシャンの曲を聴き始めました。そのころはブルースが多かった。ある日、西洋のロックンロールなどが耳に入ってきました。個人的にいろいろ聴いたり、CDを買ったり、研究するタイプでなくて、自分でも、ほんとに音楽が好きなの?と思うときがあります(笑)。
Q 日本には勉強のためにいらしたのですか?
カン 奥さんと韓国で知り合って、彼女のおかげで日本に来ることになりました。そこから多様な文化の影響を受けて、自分の人生を考えるようになりました。初めて行ったコンサートがU2で、90年頃でした。
Q 同じ頃に行ってます。東京ドーム? U2から大きな影響を受けましたか?
カン はいそうです。東京ドームでした。U2のボノ(ボーカル)の姿が、男から見ても格好いいなと思って、自分も髪の毛を伸ばしてボノみたいにして、格好つけたかったんですね。だから、韓国に帰ってデビューしたころは長い髪だったんです。
Q 「南北を越えて」というNHKBSのドキュメンタリー番組に出た時には、ドレッドヘアーでしたね。
カン その時は流行のヘアースタイルでいいなと。そういうパーマが日本にあるって聞いて、やってみたんです。
Q 長髪のイメージが強かったので、この映画では髪が短くてイメージが違ってました。
カン ドレッドだとしたら、98年秋〜99年頃ですね。97年からアメリカに行ったり来たりして、99年にはしばらくいて、自分の髪の毛を切って坊主にして、伸びてきた頃、2000年に韓国に帰ってきて、音楽が自分にとって現実的なものと思ってまた始めました。マリファナで拘置所に入っていたことがあって、うちの会社の社長が毎日面接にきて面倒みてくれて、サネさんと一緒にやりたいと言ってくれて、2001年のライブアルバムの為にライブを開きました。2002年には一番新しいアルバム、第7集を出しました。
スタッフが、そのアルバムをもってきてくれる)
「7回目の旅」というタイトルの、韓国のパスポートをイメージした装丁。開けるとカン・サネさんのドレッドヘアーに黒ぶち眼鏡をかけた顔写真が飛び込んできた。アメリカの自動車免許証に使った写真だそう。この写真を貼るときに、この髪型でOK?って聞かれたし、この髪型のおかげで、税関を通るとき、別室に連れていかれて、荷物チェックが入りました。と言っていました。このアイディアをくれた女の子は、今、日本に留学中で、デザインの勉強しているとのこと。
前夜祭でのライブ | ||
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カン・サネ | MARIE | 出演者全員 |
Q いろんな出会いがあって、今の形になっているのですね。
カン 今、あそこに座っているのは、デビューのころからの知り合いで、スタジオエンジニアなんです。(彼から、「日本でデビューさせます」との言葉が飛び出す。ほんとかな?ほんとだったら、うれしいけど)
Q この作品の中で、2回流れる「ラグヨ」のことを伺いたいのですが…。日本にいた時にお母さんのために作ろうと思ったとのことですが、経緯は?
カン ある日ふっとお母さんのことを思い出したんです。お母さんは今まで自分の為にということがなくて、僕たちに食べさせていく為の人生を送っていたと思うんですよ。 お母さんはいつも僕のことを探していたんですね。韓国にいたときも、バイトしていたところに手紙がきて、その手紙を持って日本に来ました。それで、お母さんに何かをお土産にしたいなと思ったときに、曲を作りたいという気持ちになって、テープに残してお母さんにあげようと思ったんです。それが「ラグヨ」でした。でも、それがデビュー曲になるとは思わなかったですね。
Q それがきっかけで歌手デビューをして、途中、中断はあったにせよ、歌手活動を続けて来たんですよね。それでこの作品に繋がったというわけですね。
この作品のことを聞きたいのですが、『シャウト オブ アジア』の中で、アジアのいろいろな国のミュージシャンを訪ねているわけですが、日本以外のほかの国のミュージッシャンは、どのように選んだのですか? 監督との相談で決めたんですか?
カン 他の国の情報は全然なかったので、「こういう人はどうでしょう」と、言われて、会ってみたんです。
Q 会ってみて、一緒にセッションして、音楽を作ってという流れだったんですね。セッションした後、一緒に歌を作っていますが、会ったときのイメージというか、そういうときにけっこう閃くんですか? いろいろなアーティストに会って、一緒に音楽を作ろうというコンセプトだったと思うのですが・・・。
カン もちろんそういう計画でいたのですが、無理がありましたね。映画の中で流されたのは過程のものであり、完成品じゃないんです。「HANA」は、3番目の「ワン」というアルバムからワンフレーズ取りました。撮影のデッドラインがあるから、徹夜して無理矢理作ったんです。曲自体は作れるんです。自分の気持ちに関係なく作れるのですけど、何か方法を探さなくてはと悩み、自分の好きなフレーズを使いました。 自分のアルバムの中でも、レコード会社からせっつかれて作って、なんかちょっと納得いかないままのものもあります。「HANA」は音的には完成されていないけど、荒削りの曲のなか、僕の好きな「ワン」のフレーズを生かして、各国のミュージシャンに詩を付けてもらったんです。
Q 映画の中で一番感動的だったのは延辺でのシーンでした。カン・サネさんがお父さんの故郷を見たいと行ったわけですが、カン・サネさんが川の向こうのお父さんの故郷をじーっと見ていたシーンが印象的でした。あのシーンはほろっと涙も出るシーンです。延辺には初めて行ったのですか?
カン はい、初めてでした。
Q あの地に立って対岸をじっと見ているシーンは、万感の思いが伝わってきました。また、アリランバンドのメンバーにも離散家族がいたんですね。私は離散家族のことはある程度知っていたけれど、この作品を観て、こんなにも身近に故郷に帰れなかった人がいるのかとびっくりしました。アリランバンドのメンバーにも、カン・サネさんのバンドメンバーにも離散家族がいましたね。朝鮮戦争での離散家族のことは、よく語られますが、中国と朝鮮半島間でも、第二次大戦の結果、離散家族がたくさんいるのだと知りました。
カン 現場であの人たちに会う前にも、母がそういう人たちの一人ですから、ある程度わかっていましたが、もちろん本人ほどにはわからないですが・・・。あそこに立ったときに、なぜ、あそこから逃げた人が銃で撃たれなければいけないのだろう、なんで自由に行ったり来たりできないんだと、現実に納得がいきませんでした。あそこに行ってみて、自分なりに、まわりの家族や友達を大事にしたいと思いました。
Q あの場面をみて、そういう現実を多くの人に知ってもらいたいですね。特に日本人は、知らないといけないですね。『シャウト オブ アジア』のアジアから世界に発信したいという意味の中には、こういう現実も知ってほしいという思いが込められていると思います。他に、日本の観客にこの映画を観て感じて欲しい部分は?
カン 今を大事に生きてほしい。今、生きている場所、国、民族によっていろいろありますが、人に愛されるのを感じ、愛してほしい。最近、僕、ほんとにたくさんの人に愛されているなと感じ始めたんですね。昔は感じなかった。そして、自分は愛するのが下手だなと。周りの人を大事にして、楽しく愛して生きてください!映画でそう伝えたいという意志はなかんたんですよ。ただ、旅に出たい、人に会いたいという思いですごしたんですが、観に来てくださる方は、今を大事にお互いに愛してほしいと思います。
Q カン・サネさんはそういう思いでいたかもしれないけど、映画を観ていたら、愛こそが平和の原動力ということが伝わってくる作品だなと思いました。
カン 今のこういう仕事をしていてenough です。enough というのは、今まで何かが足りなかったから、探しに行ったのですよ。この一ヵ月半位、奥さんと一緒にアメリカに旅をしたんです。これ以上、僕は何を探しに行くんだろう、もう充分という気持ちになりました。今が大事。自分を楽しんでいるんですよ。期待すると失望する面もあるので、今を楽しんでいます。
Q ぜひぜひ日本の観客にカン・サネさんというアーティストがいるということを知ってほしいですね。この作品は、カン・サネさんを知らしめる映画ですので、たくさんの方が観に来ることを期待したいと思います。
カン うれしいですね。皆さんに、夏は冷たいおしぼりを、冬は暖かいおしぼりをあげたいという気持ちです。それを邪魔する政治的な動き、日本、韓国などなど、国の理念、観念ではなく、人と人との繋がりを大事にしたいです。僕は国と国ではなく、人と人なんです。僕は、日本と結婚してないんです。たまたま日本で育った女性と結婚したんです。僕にとっては素晴らしい人間。温かい人。昔はそれも感じなかったんだけど、今はそれをすごく感じてます。
Q お母様が、自分の故郷に帰れなくなったということから、国境や垣根をはずして、人と人との付き合いをしたいという気持ちを強くしたのでしょうか。
カン そうですね。親と子どもの関係はどこの国でも民族でも同じですよね。僕から見るお母さんは、僕のためのお母さん。そういうお母さんは、自分の意志でなく、幼年時代は植民地時代、そのあと嫁に行って、イデオロギーや観念に振り回された犠牲者。どうしてそういう人生だったのだろうと。お母さんは今でも戦争の経験を言うんですよ。攻撃にあってあちこち逃げたり、寒い思いをして避難したり、命がけで逃げたことなど、子供のときから聞いていたので、僕は直接戦争を経験していないけれど、知っています。今はお母さんだけでなく、奥さんや、周りから愛されて、ほんとに満たされています。今の僕にとって大事なことです。
前夜祭での舞台挨拶 | ||
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左:韓国側プロデューサー・鄭然秀 右:日本側プロデューサー・中村芙美子 |
カン・サネバンド キーボード コー・キョンチョン |
監督:玄 真行 |
最後も結局、おのろけで終わったカン・サネさんのインタビューでしたが、放浪の歌旅人というイメージのカン・サネさんを彷彿とさせる作品ですので、ぜひぜひ、皆さん観に行ってくださいね。5月27日までやっています。
作品紹介はこちら
HP:http://www.tvc-net.com/shas/satop.html
ちなみに、「イムジン河」という曲を知っているか聞いたら、カン・サネさんは知らないと言っていました。この歌を歌っている、日本でも活躍中のキム・ヨンジャさんも、日本に来てから知ったと言っていたし、日本ではよく知られているけど、韓国ではあまり知られていないようです。