女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
35号   pp.77--85

女たちの映画評


  『かぼちゃ大王』ローマの公立小児病棟の実態
  『ワンス・ウォリアーズ』
  『スモーク』ふたりの男が煙草ばっかり吸っている…
  香港芸能事情を知れば『君さえいれば』(金枝玉葉)は二倍面白く観られる
  『旅するパオジャンフー』
  『蔵』ー賢い女の魅力ー
  東京国際映画祭で観た『蔵』
  『エイジアン・ブルー 浮島丸事件(サコン)』


かぼちゃ大王

ローマの公立小児病棟の実態

佐藤

 イタリアの女性監督フランチェスカ・アルキブジの作品。フランチェスカって名前は、 『マディソン郡の橋』の主人公の名と同じ。イタリア女を強調するためにイタリアに 多い名前を使ったのだとこれで納得。(この映画に全然関係ないこと言って御免)

 小児精神病棟の男性医師が主人公。なかなか魅力的な俳優、セルジョ・カステリート、 他にどのような作品に出ているのか調べてなくてスミマセン。マストロヤンニを 若くした雰囲気です。彼は給料も安く過密な労働時間の公立病院で、誠実に仕事を している。彼には、仕事に没頭しすぎたため家庭をかえりみる余裕がなく、離婚を してしまったという過去がある。日本の金八先生は、妻に死なれたという設定だが、 陰りのないほんわかムードの先生が頑張っても、感情移入ができないという観客の 心をきちんとつかんでいる設定になっている。なぜ金八先生がここででてくるのと 言われそうだけどこの映画は、単なるイタリア版金八先生。

 公立病院の看護婦や介護士、家政婦(資格のないような中年の女性が出てくる) の実態が子供との意志交流より、切実でインパクトがあり、この中年の女性の 労働条件を改善しないと子供たちも大変だという気持ちになる。彼女が仕事帰りに 安くて大きい洗剤を買って雨の中、バスを待っていると、雨に濡れその箱の底が破れ 洗剤がざーっと道にこぼれてしまう。「せっかく大枚をはたいて買ったのに」 とつぶやく彼女をやるせない気持ちで物陰でみている主人公。こんなところは 女の監督だなーと思わせる。リアルさもここまでしてくれるとなんとなくううという感じ。 まあ、いいんですけど。

 てんかんの女の子が、先天性なのでなく、家庭内離婚の親たちに微妙に反応する 感受性の強い子だったのだということを学術的に追求していく医者は、他の病棟の 子供たちに対しても金八先生のごとく、愛をもって接していく。細かいエピソードは、 彼の誠実で人間的な魅力を存分に提示してくれる。こういう先生がいたらいい、 と子供も思い、親も思うような…。

 最後に病棟の子供を大勢連れて彼の実家(海のみえる素敵な家だった)に行ったけれど、 このような遠足も上司に言ったらダメと言われそう。なにしろ精神病棟の子供たちなのですもの。 金八先生はこの間のドラマで受け持ちの生徒たちを上司に言わずに、文部省に行かせていた。

 …と思っていたら、この映画は中学の現場教師に割引チケットが回っているとのこと。 友人の中学教師にどうだったときかれてまあまあと答えてしまった。でも、 サラリーマン教師には必見かな。

 ところで、これは現代イタリアのネオリアリズム? そうだとすると『鉄道員』 などに比べられるのだろうけど…うーん…昔のような素晴らしいイタリア映画は、 もう観れないのかしら。




ワンス・ウォリアーズ

藤原

 「ファーストカットに注意しろ」これは、映画好きの友人の言葉である。 「ファーストカットには監督の思い入れがある」この映画はまさにそうだった。 広々とした大自然、これぞ私達のイメージするニュージーランド。美しい!スゴイ! と見惚れているとカメラは左へパーン。なんとその大自然はただの看板の絵だった。 アレレレ…。〔おまえ達の思っているニュージーランドを壊してやる〕監督の メッセージであった。ニュージーランドに先住民族マオリ族[全人口の13%を 占める]との共生めぐって深刻な人権問題があることをどれだけの人が知っているだろう。 ニュージーランドと言えば、世界で初めて女性が選挙権を獲得した国、女性の地位向上を 目指し、女性省までもっている人権意識の高い、世界が認める福祉国家である。 そのニュージーランドにして…なのだ。そしてこの映画が第一作目となる タマホリ監督の父は、まさにそのマオリなのであった。

 しかし、この映画で描かれているのはマオリの社会の事だけでない。それを 縦軸とすれば横軸として描かれている家族の問題、これこそが重要なのである。

 「ワンス・ウォリアーズ」この映画のストーリーは単純。夫に依存して生きてきた 一人の女が精神的に自立していくという物語である。野性的な夫は(そこに 魅かれて結婚したのだが)野蛮でもあった。暴力をふるうことに何の抵抗もない夫に、 口答えをしたといって顔が変わるほど殴られる。しかし彼女も彼女。繰り返し暴力を 受けても決して夫から離れようとしない。夫が大金を持って帰り、優しい声でも かけようものなら「悔しいけれど、愛してるわ」などとバカな事を言ってキスまで してしまう(腹立たしい)。「お前のせいで子供が不良になった」と言われても 何も言い返せない(情けない)。夫が大切な約束を破っても「待つ事が女の運命よ」 などと言って自分を納得させている(いいかげんにしろ!)。その彼女を 待っていたのは、愛する娘の自殺。かけがえのないものを失って彼女は初めて 立ち上がったのだ。それからは夫の暴力にもひるまず向っていく。最後は 「家族の決断は私が下す」と言って夫を捨てて立ち去っていくのだ。その姿は 凛々しく、堂々として、威厳すらある。まさにウォリアーズ《戦士》であった。 こんな結末ともなれば拍手ものなのだが、どうもスッキリしない。子供の死によって 初めて母親が自立していくという描き方がどうしても納得できないのだ。 取り返しのつかない大きな犠牲を払わなければ、女は変わることができないというのか? 否、決してそれは女だけでなく、男ももちろん、人間というものは自分の人生が ひっくり返るようなショックを体験しない限り、辛い決断をすることができない 事実がある。

 この映画は、マオリの現実や家族のあり方を描いていると同時に、大きな犠牲を 払わなければ真実にめざめ越えられない人間の愚かさを描いているのだと思う。

 とにかく、やりきれない作品である。娘のレイプシーンでは、生まれて初めて、映画を 観ながら吐き気がおそってきた。しかし、これ程後味が悪いにもかかわらず、私は この映画をもう一度観てみたい。それは多分感動ではなく、むしろ、主人公の弱さ、 愚かさを自分と重ね合わせて見るからだと思う。それに対する怒りとともに。




スモーク

ふたりの男が煙草ばっかり吸っている…

佐藤

 去年、『ピアノレッスン』でハーベイ・カイテルにしびれ、この春『セカンド・ ベスト』でウィリアム・ハートの渋い演技に胸をしめつけられたワタクシが、 このふたりの共演と聞いて、映画館に飛んで行かないはずがない。駅から遠い、 お洒落すぎ等々でずーっと敬遠していた恵比寿ガーデンシネマ、いやだったけど ここでしかやってないのだから行くしかない。動く歩道を走って(だから随分 速かったはずよね)映画館に飛び込んだ。やっぱり思ったとおり駅から遠いし、 映画館のまわりはなんだかディズニーランドのよう。お城みたいな建物、 やめてほしい。映画館自体は結構大きくシートもゆったり、画面が大きい。 ミニシアターを予想していたので満足してしまう。

 ニューヨークの下町、ブルックリンにある角の煙草屋。ここの主人が H・カイテルで、近くに住むこの店の常連客の作家がW・ハート。 店がしまりそうなのにちょっとと無理を言って煙草を買う。ふたりの男がぷかぷか、 ぷかぷか煙草を吸いながら、カイテルの撮っている店の写真を見る。カイテルは、 何十年も旅行に行かずに毎日同じ時刻に道の反対側から自分の店の写真を 撮っているのだ。なんの変哲もない風景なのだけど、一日一日の空気が違うと 彼は主張する。ハートはその写真の中に、自分の妻の出勤姿を見つけて、 ハラハラと涙を流す。つい最近彼の妻は街の強盗事件に巻き込まれて流れ弾に あたって死んでしまったのだ。カイテルは店に買物にきた彼女をほんの少し 引き止めていたらなどと、つぶやく。

 やはり事故で、妻を亡くした苦しさから子供を置いて、家を出てしまった黒人の 男とその息子の出会い、カイテルの昔の女があまたの子供を助けてと訪ねてきたり、 この煙草屋を舞台にいくつかのエピソードが交錯する。そして、カイテルがなぜに カメラなのかというクリスマスエピソードの披露。なんでもないことなのに 心が惹かれる。

 監督は『ジョイ・ラック・クラブ』のウェイン・ワン。彼は香港出身。 原作・脚本はニューヨーク在住の作家ポール・オースター。そして制作は ユーロスペース等の日本企業。国際的です。企画をすすめる段階で原作者自身が 脚本を書くなら、通常のギャラでなくてもいいとカイテルとハートが言ったとか。 いい男たちね。こういうことがあるので映画を作る人たちはワクワクするのでしょうね。

 何日か前の筑紫哲也ニュース23で、お薦めの映画としておすぎさんが熱を入れて、 薦めていたけど(三月くらい迄ロングランするとか)この映画はしみじみがお好きな方に 私も超お薦めです。

 それにしても、煙草を吸わないニューヨーカーがお洒落になっているのに この映画はそれを皮肉ってか、全編煙草だらけ。うーん、そういうところもなかなかです。




香港芸能事情を知れば

君さえいれば/金枝玉葉

は二倍面白く観られる

宮崎 暁美

 とうとうというか、やっと『金枝玉葉』が日本で公開された! 嬉しい! 私にとっては 香港で初めて観た記念すべき映画。香港の映画館では、画面を追いながら忙しく字幕を 追うといった感じでセリフなど細かい所はその時点ではよくわからなかったし、 その頃はまだ香港芸能事情もそんなには知らなかったけど、それでもとても 楽しめた。日本で一般公開され日本語字幕付きで観て、改めてそういうことだったのか と発見があり、そして、香港芸能事情を知ってくるともっと面白くこの映画を 観られることに気がついた。いくつかの場面から香港芸能事情を覗いて観ましょう。

 香港の音楽賞の場面は93年度の叱咤楽壇流行榜領奨禮。ラジオの人気DJで 『オレたちゃ香港人』というアルバムも出している軟硬天師が司会をしていた部分を 使っている。「最優秀歌唱賞は…」と言って映し出されるのは四天王たち。 そこで場面は代わり、賞はローズ=劉嘉玲が受賞する場面へ。授賞式会場への路上で スターグッズを売る人たち、香港では本当にこのように香港コロシアムへ行く途中の 路上でスターグッズを売っていた。あっと驚くものやエーッと思えるものも ありで香港ではナンデモありだなと思った。

 男性新人歌手募集の記事を観て、オーディションを受けるため同居人のユーロウ= 陳小春に男の動作の特訓を受けるウィン=袁詠儀。そこに出てくるのは香港の 演唱会で必携品の《蛍光棒》。エレベーターが故障した時、取り出されて大笑いだった。 話は違うけど張學友の日本公演でも香港流を修得した人たちによる蛍光棒が大活躍。

 そのオーディションでウィンが歌った歌は「紅日」。李克勤のヒット曲で 日本の「それが大事」のカバー曲だ。

 サム=張國榮の事務所でアーンティエ=曾志偉がウィンに名前を聞き、 林子穎(ラム・ジーウィン)と答えるシーン、香港ではこのシーンで大爆笑!  日本語字幕ではカタカナ表記だけでわかりにくいけど、これは林志穎(ジミー・ラム) のもじり。この映画が香港で公開されていた頃、香港でも人気絶頂だった台湾の アイドル。彼は今、兵役に行っていて芸能界には出てこれない。

 この事務所の壁に架かっていたポスター二枚のうち一枚は袁鳳瑛(シャーリー・ユン) のCD『袁鳳瑛』のジャケット写真(あとの一枚は知らない)。実は私が秘かに 注目している人なのだ。羅大佑(ろー・ターヨウ)作曲の『天若有情』の 主題曲を歌っている人である。このアルバム中にも「天若有情」は入っている。 『阮玲玉』の主題曲「葬心」を「劇迷情人」という題名に変えて歌ったものも入っている! (映画『阮玲玉』では黄鶯鶯が歌っていた)。

 張之亮(ジェイコブ・チョン)監督がチョイ役で出ていた。香港の監督は他の監督の 作品にチョイ役でけっこう出てるけど、彼が一番多く出ているような気がする。どこに 出ているかは探してみて。

 自分はゲイなのか? と悩むサムだけど、これは九四年香港芸能界を吹き荒れた ゲイ騒動をパロっているのかな。当の張國榮も被害?にあっている。 それを逆手にとっての映画出演かも?(笑)

 最後のセリフ「男でも女でも、君を愛してる」が清々しい。

 




旅するパオジャンフー

羽原 美紀

 パオジャンフーとは中国語で〈足+包〉江湖と書き、流しの芸人や占いをやって各地を 渡り歩くことをいうそうだ。(光生館・現代中国語辞典より)現在でもパオジャンフーは 台湾全土に約50グループ、台湾中部・南部におよそ15〜20グループあり、 薬を売って生計を立てている。(薬を売るだけのグループも20〜30存在している)私は、 こういう人々を実際には見たことがないのであるが、「『寅さん』のような人々」 といったところだろうか。

 この映画は、このパオジャンフーを日本人が撮影したドキュメンタリーフィルムである。 この映画に登場する3つのパオジャンフーは、台湾で最も古い歴史を持つ嘉義市を 本拠地としている。見たところ薬はあんまり(全然?)売れていないようだが、 人々の集まる夜市でのパフォーマンスはすごい!おねえちゃんの歌とセクシーダンス、 大将の火を吹く芸、特にすんごいのが毒蛇に腕を噛ませる芸で、大将の腕は毒で真っ黒に 変色している。やかましい口上にまくしたてられて、映像を見ているだけで 熱くなってしまった。

 今年の夏、私は高雄からまず最南端の墾丁を訪れ、北上して嘉義を通り、 台北に行く旅行をしてきた。あいにくの雨続きで、台湾南部のいわゆる南国の雰囲気は 味わえなかったものの、墾丁からの田舎道は、両サイドに高い檳榔の木が続き、 時間がゆっくりと流れているかのような穏かな旅だった。嘉義は阿里山のふもとにあり、 登山鉄道で阿里山観光をする人々の玄関口になっている。市街地を離れて車を走らせれば、 緑の鬱蒼と生い茂る山々が私を待っていた。急に大雨に降られたのも、 さすが山ならではの良い思い出だ。

 こんな異国の山の中で細々と生きる人々にスポットを当てた映画があるとは! 観る前はいささか地味に思えた。しかし、彼等は小さな存在では在るが、実に大きな パワーを持っていたのだった。監督が彼らに魅せられたのも納得できた。 パオジャンフーの大将は台湾語を話し、若者は北京語を話していたのも、 今の台湾の様子を端的に表しているといえる。香港、東京に追いつこうと近代化に努める 台湾の、TVや新聞報道では知ることの出来ない昔ながらの部分を私たちに伝えている。

 ただこの映画は、1時間35分の劇場版のために30時間分ものフィルムを 編集したそうであるが、お陰でか、なんだかまとまりのない作品になっていたのが残念だ。 3つのパオジャンフーの物語が交差する形で構成されているが、それぞれが突然現れ、 ちょっと紹介される程度で終わってしまう。1つ1つのパオジャンフーをもっと深く 追跡した方がよかったと思う。彼らの将来がとても気になるが、続編は無理だろうか。


?? 賢い女の魅力 ??

高野

 宮尾登美子小説の愛読者なので、作品が映画化されるとたいてい観に行く。 そしていつもガッカリし、“違う、なんか違う…”と不納得だった。 『鬼龍院花子の生涯』『陽暉楼』『序の舞』などのどれをとっても、結局 “女性の解釈が原作と違う”というのが、その違和感のもとだったのだ。 私は宮尾文学に出てくる女性達に通じる最大の資質は“賢さ”だと思っている。 困難な状況の中でじっと考え抜き、その時に最もふさわしい判断、ふるまいをすることで 最終的には人生に勝利してゆく本質的な賢さ。ところがどの映画の女性も、 ステレオタイプの“耐える女”“激情の女”“薄幸の女”という描き方をされているので、 いつも腑に落ちないまま映画館を出てくる繰り返しになっていたのだ。

 今回『蔵』は、初めて原作の持つ女性の魅力=賢さを表現した映画ではないかと思う。 原作者の宮尾さんが“最高の出来ばえ”と手放しで喜び、宣伝にも肩を入れているのは、 やっとそれを理解してもらえた嬉しさからではないかと感じる。

 『蔵』の主人公佐穂。彼女は病弱な姉の手助けのため、便宜的に嫁ぎ先の旧家に 呼び寄せられ、青春の大半をそこで消費する。姉が亡くなり、憧れていた当主と やっと結ばれるかと期待をもったせつな、彼はより若い女と結婚してしまう。 親代わりに面倒を見ていた姪は失明し、辛い状況にあるにもかかわらず、家から 去ることもできないという現実。これをそのまま表面的に描けば、単に運命にもてあそばれる 耐える女だが、監督はここに佐穂の視点をキチンと入れた。

 “たしかに男の仕打ちはひどいが、既に自分はこの家になくてはならない役割を 持っている。姪(=烈)も、もし自分がいなくなれば不幸になる。だから自分は ここに残ろう”と決意する佐穂は、自分の運命を自分で選びとった女として描かれる。 視力を失いつつも、“酒づくりをやりたい!”と主張するもう一人の主人公、烈。 ひとつ間違えば、わがままな一人娘の思いつきになりそうな所を、幼い頃からの エピソードをおさえることで、やむにやまれぬ強い意志というものとして、 見ている人に納得させる。

 監督の女優の扱いも見事である。主人公佐穂を演じる浅野ゆう子。私など、 この人を鈍くさい下手な役者、とあまり高く買っていなかったが、監督はこの “鈍(ドン)くささ”を“物に動じない冷静さ”と解釈し、 まさにその通り落ち着き払った演技をさせることによって“化け”させた。 誰もが危ぶんだピンチヒッター、一色紗英。彼女の持つ情緒のない無機的な 雰囲気を、監督は“清潔感とひたむきさ”に転化させた。一本調子のセリフさえ “けなげで可愛いなァ”と好意的に感じさせてしまうのだから、まったくの凄腕である。 いや、むしろ凄腕などという表現ではなく、“女性を理解する能力の高さ”というべきだろう。 『居酒屋兆治』『あ・うん』など、小品ながら丁寧に女性を描いた佳作を積み重ねてきた 降旗監督の実績が、ここに花開いたといえるのかもしれない。加えて、出番は少ないながら、 さすが…とうならせる加藤治子や朝丘雪路らの女優陣に比べ、男優の魅力はいまひとつ。 女優の方に気がいっていて、男優の方にまで気がまわらなかったのだろうか。特に 男性側主人公を演じるエグゼクティブプロデューサ氏は(仕方ないんだろうけど)、 あまりに役柄(ニン)が違う。ここは一つ、いかにも旧家の主人らしい 風貌のある田村高廣あたりにやってもらえたら…というのは欲張りすぎか。むしろ すごく“濃い”この人をよくここまで押さえこんだとほめるべきなのか…。

 やや専門的になるが、この映画が成功したもう一つの原因は脚色にあると思う。 長い原作を要領よくまとめたことはともかく、原作にはなかった描写、烈が恋人を 訪ねて雪道を彷徨い歩き、そこに幻の母が現れて導くラストシーンは出色。原作に、 更に映画的魅力を付け加えた。さすが手練の脚本家、高田宏治の実力だと感心した。

 大作で、しかも俳優がプロデュースしたという日本映画がおもしろいはずはない… と思い込んでいたが、考えを改めたい。よろこんで。




東京映画祭で観た

宮崎 暁美

 クロージング・セレモニーを観にいったので、ついでに観とこうかと観た作品。 全然期待していなかった。宮尾登美子作品で、松方弘樹が出てというだけで、きっと つまらないだろうと決め付けてしまっていた。でも、とても良かった。

 烈と佐穂ふたりの女性の人生ドラマは、健気にひた向きに生きる女性像としても 共感できるものだった。ややもすれば、この時代の女性の描かれ方は“耐える女” だったり、“待つ女”だったり、という受け身の描かれ方がほとんどだから、盲目に なりながらも受け身にならず自分で自分の人生を切り開いていった女性を描き成功した 例だろう。

 それにしても酒作りというのは、やはり絵になる。あの大きな樽は迫力あったし、 もろみの発酵シーンも興味深かった。

 雪道を盲目の烈が歩いていくシーンは、突然ファンタジーになっていて、 それまでのシーンとかけ離れた感じがしたけど、まあ大目にみましょう。

 初めて蔵元になった女性を描いた映画だそうだけど、実際はどうなんだろう? やっぱり酒作りの現場は今も女人禁制なのかしら?  この映画を観て、『紅いコーリャン』での鞏俐を思い出してしまった。両者に 共通するのはやはり力強さのような気がする。中国の映画を観ていると、女性が 元気だけれど、日本的風土の中での力強い女性像も似合っている気がしたのは 私だけかしら。

 松方弘樹の控えた演技も、このふたりの女性の引き立て役として支える役として 成功しているような気がする。




エイジアン・ブルー 浮島丸事件(サコン)

小島

 戦後五〇年ということで、あらゆるメディアで「戦争」の重さを改めて問い直していた 今年だった。西欧では数年前にベルリンの壁がなくなり、つづいてソ連が崩壊、ゼロからの 出発を始め、歩みを進めているというのに、何やら日本人は大事なことを見落として 経済大国だけを誇っていた。その果てに今年になって沖縄の少女暴行事件に 端を発した安保問題、これまでもずっと尾を引いている従軍慰安婦問題への 政府の遅い対応、国会での繰り返しの失言…と、一つ一つ解決しなければならない 戦争に関する問題が山積みされているのに、ちょいと棚上げされてしまってなかなか ゼロにならないのがうさん臭い。そう、「臭いものには蓋をして」形式は目にあまるものがある。

 前ふりが長くなったが、今年押さえておきたい映画ということならやっぱり戦争物。 やっと「よくぞ!」と声をかけたい映画に出会うことができた。『エイジアン・ブルー 浮島丸事件』がそれ。映画を観る前、この事件を知らないのはきっと無知な私だけなんだと イジけていたら、誰も知らなかったので胸を撫で下ろした。

 物語は日本の敗戦間もない一九四五年八月二四日に始まる。京都舞鶴湾で 輸送船浮島丸が爆発、四千とも六千とも言われる乗船者は海に投げ出され、五四九名 (政府発表)が亡くなった。青森大湊港を二二日に出発した浮島丸には、強制連行の 果てに青森で強制労働させられていた朝鮮人が乗っていたというのである。解放の 喜びと祖国への思いを抱いて釜山港へ向かった浮島丸が、何故舞鶴に入港したのか?  何故軍は急いで出港命令を下したのか? 爆沈の原因はなにか? 犠牲者は本当は 何人か? さまざまな謎に包まれている浮島丸事件。この事実を基に作られたのが この映画である。

 描いたのは今年七九歳の堀川監督。堀川監督は映画の黄金時代、黒沢明監督の 全盛時代(『生きる』『七人の侍』など)の助監督だったという、とても 七九才には見えない肌の艶、パワフルな思考回路を持つ筋金入りの映画屋である。

 さて、映画のプロローグ。京都の大学の在日韓国人教師、林が学生たちに課した “建都一二〇〇年で戦後五〇年を考える”というレポートの結果について 語り始める導入部がとても印象的で、この映画の奥深さを予感できる。林は 優子の提出した“浮島丸事件”に目を止めるが、このレポートは実は姉の律子が 書いたものとわかり、“事件”に関心のあった林は姉の家を訪ね、そこで律子が以前、 韓国人の恋人に裏切られた過去を持つ三〇代の未婚女性であることを知る。 実はこのカット、一コマの別れのシーンしか出てこないのだが、律子が在日韓国人に ついてだんだんと理解を深めてゆき、あとの方で在日韓国人と林と恋に落ちてゆく伏線に なっている。またレポートに引用されていた詩人高沢伯雲は、戦後二冊の詩集を残して 消えた反戦詩人であり、律子と優子の父親であったことも知る。律子が二才の時に別れ、 音信不通になっている伯雲の詩と、一気に“今”を物語り、これから過去へと誘う。 林と姉妹はともに伯雲の足跡を追っていくうちに、彼の過去がだんだんとわかって くるという物語。脚本が非常に練れていて、観ている人の興味を引きつける力がある。

 伯雲の若い頃、徴兵逃れの身でありながら痛めつけられていた朝鮮人たちと共に 過ごした戦中と、父、伯雲に人間像が次第にわかってくる現代とが交互に出てくる 構成をとっている。過去はモノクロで、現代はカラー。モノクロ画像により過去の 迫力が倍増する。

 戦争当時の朝鮮人強制連行の様子がとてもリアル。ここの撮影は韓国でも日本でもなく、 なんと中国の長春からさらに一時間奥の、朝鮮人の部落で撮った。また、撮影所には、 もう日本では見つけることのできない戦争当時の日本軍のトラックや銃が 残っているらしく、時代物の宝庫らしい。

 下北半島の朝鮮人労働者を収容するタコ部屋の様子、彼らの労働シーンまで見事に 細かく描かれている! 群衆の一人一人が際だっているのも感心。青森大湊港で 釜山に帰る輸送船に乗るために家族を引きつれて右往左往する人の群れ、群れ、群れ。 「あんな群衆シーンを撮れる監督は日本人ではそういないに違いない!」と、 思わせるシーンで、その処理の鮮やかさも見所の一つ。製作にあたって 「白い大文字の会」「映画をつくる会」「支援の会」、無名塾の人々の協力、 中国の長春撮影所をはじめとする中国映画人の協力があって、初めて実現した 映画である、という点も、戦後五〇年企画らしい。

 この映画のすばらしい所は被害を受けた朝鮮人の人々への謝罪の気持ちだけでなく、 日本人自身の問題として、しっかり事実を受け止めている所だ。 現代のように閉塞された時代だと、事実に真正面から立ち向かうことを避けたがり、 横を向いて自分に都合のいい事ばかり考えて、ささやかなハッピーエンドを願うことが 多いけど、この映画はそこに終わることなく、過去の歴史を知ることで 世の中っていつもそんなに甘くない、複雑で過酷な面もあるということが しみじみと伝わってくる。そして、伯雲、律子、優子とそれぞれの世代が 同じ問題に関わっているのに、受け取り方が違うのがいい。そして、今でも 残る在日韓国朝鮮人への差別を、若者から戦争体験者に至まで、 すべての年代に対して日本人はこうあるべきだ! とメッセージを突き付けてくる点を 評価したい。

 ちなみに登場人物は、林、律子、優子が無名塾出身の益岡徹、藤本喜久子 (NHK「中学生日記」の守山先生役)、山辺有紀。詩人伯雲は佐藤慶、 下北で伯雲の世話になった安田を井川比佐志。井川さんと佐藤さんの役者 スピリットが興味深いので付け加えておくと、井川さんは黒沢監督の元で成長してきた 役者らしく、目の配り方がスタッフまで細かく行き届き、撮影中は与えられた役に 成り切っている。かたや、佐藤さんはあんな恐い顔をしていかにも寡黙そうにみえるのに、 カチンコが鳴る前まで異常に盛り上がっていて、実はそこで発散し、「カチン」の音で 集中するという。演技集中にも個性的なスタイルがある。佐藤さん、井川さんの プロスピリット溢れる俳優魂もさることながら、この映画は日本映画の最良の スタッフによって作られた作品ではないかと思う。

 京都の建都一二〇〇年を記念して、戦後五〇年を考える映画が、映画誕生一〇〇年の 年に作られた。そんな映画に感動!

 戦後五〇年映画としては、ほかに『三たびの海峡』『ウィンズ・オブ・ゴッド』 も出色。観ておく価値のある映画だったことをつけ加えたい。



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