女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
14号 (1990.04)  pp. 34 -- 39
『セックスと嘘とビデオテープ』記事一覧

『セックスと嘘とビデオテープ』を離れて
女と男
「不倫」について


映画に女と男がいるかぎり二人のせめぎあいは変わらぬ主題であり、 それが複雑にからみ合えばなおのこと関係は浮き彫りにされる。

以下に挙げるのは、昨年公開された映画の中の様々な「不倫」の物語。
なに分見た映画に限ったため漏れたものも多数あるということをご了承願いたい。

最近、洋画の邦題の秀作になかなかお目にかからない。 『勝手にしやがれ』にしろ『大人は判ってくれない』 にしろ時代の気持ちというものをよーく表していたと思う。
昨年公開された洋画の邦題でこれはと思ったのが、『サミー&ロージィ それぞれの不倫』。 「それぞれの不倫」ていうのが、小さめの字なのがまた味わい深い、 などと思っているのはわたしだけだろうか。

いつから「不倫」なる言葉がひとり歩きをし始めたのだろう。
それは浮気でもなく、姦通でもなく「不倫」なのである。 その言葉に嫌悪感を抱く人もいれば、時代の明るさのようなものを見る人もいる。
とにかく日本語においては、「不倫」+「スル」は、不倫スル(終止形)、 不倫シテイル(現在形、進行形)、不倫シチャッタ(過去形、完了形)、不倫シナイ。 (誘いの表現)とりっぱに活用する動詞になったのだ。
かつて「不倫」の二文字には、なにやら後ろめたいインパクトがあったのだが、 今やすっかり巷の言葉なのだ。

いっぽう日本以外に目を転じてみると、かのコマネチ女史は、 どうどうと恋人に妻がいることを云ってのける。 そこには結婚=体制に対するプロテストというような鼻息の荒さはない。

さらに、映画に目を転じてみる。
『革命前夜』('64/伊)において結婚は制度であり体制であリ、 確固とした地位にあった。そこに欺瞞や息苦しさを感じたとき 「不倫」は抜け道として用意されていた。 そこに一つの図式をみることは可能だろう。

制度としての結婚(=一夫一婦制の婚姻)と国家意識とは形だけを残し、 徐々に解体に向かっているように思える。対時すべき相手が幻想である時代に、 なにを手掛かりに明日を迎えればいいのだろうか。

映画は、現在形であるかぎり図式の逸脱を繰返し、新たな抜け道を見せてくれる。




『紅いコーリャン』 ('87/中国) 張芸謀
嫁いで三日目に実家へ帰る慣わしだった?… ハンセン病の造り酒屋の主人に嫁入りした九児はその三日目の帰り道 コーリャン畑で余占鰲と情を結ぶ。 再び実家から戻ると夫は何者かに殺され余占鰲は九児の元にやってくる。 女と男が野蛮に大らかに求めあう姿は鮮烈だった。


『生きるべきか死ぬべきか』 ('42/米) エルンスト・ルビッチ
俳優の夫が舞台で『ハムレット』の「生きるべきか〜」 の長いセリフをいっている間に女優の妻は楽屋で愛人と会っている。 夫はそれが分かっていても舞台を途中でおりる訳にはいかず… 劇団員たちがナチスにまんまと一杯くわせるコメディーの中の一場面。


『美しすぎて』 ('89/仏) ベルトラン・ブリエ
愛人となるべき女(キャロル・ブーケ)を妻に、 妻となるべき女(ジョジアーヌ・バラスコ)を愛人に持つベルベルナール (ジェラール・ドパルデュー)。 三人の心理はガラスに映る見えない姿のように複雑に交差する。 二兎を追うもの一兎もえず、 二人の女の間で呆然と立ちつくすだけの男はいかにも間が抜けてみえる。


『革命前夜』 ('64/伊) ベルナルド・ベルトリッチ
主人公の青年は婚約者がいながら若く美しいおばと愛しあう。 おばの方も夜中に誰かに電話していたり行きずりの男とホテルに入ったり…… 自分を変え切れなかった青年は結婚という社会の制度に組み込まれる道を選ぶしかない。 ナイーブな映画青年のつくった映画は置いておくとすぐに腐ってしまう生物のように危うい。


『キャル』 ('84/英) パット・オコナー
紛争の絶えない北アイルランド。 たとえ警官の夫が死んでしまっても夫の両親とともに夫の家に住み 夫との子供を育てるマーセラにとって年下のキャルとの恋は道ならぬもの。 そして過激派組織に関わるキャルにとっても憧れにも似たマーセラヘの思いは 苦い切ない一時の思い出にしかならない。


『危険な関係』 ('88/米) スティーブン・フリアーズ
不倫の恋愛ゲームが市民権を得ていた一八世紀のフランス貴族界、 時に幼稚でユーモラスだがゲームが本気になったとき悲劇が起こる。
ゲームを演じたバルモン子爵は殺され画策師メルトイユ候爵夫人は 社交界から村八分にされる。


『サミー&ロージィ それぞれの不倫』 ('87/英) スティーブン・フリアーズ
かつて捨てた息子を訪ねパキスタンからやってきたラフィとイギリス女性アリス。 突然の父の訪問に複雑な思いのサミーと愛人のアナ。 サミーの妻ロージィと空き地を寝ぐらにする黒人青年ダニー。

人種の入り混じった三組のカップルは暴動と紛争のロンドンの下町のある夜、 時を同じくして愛しあう。それぞれ肌の色が違い、イギリスに対する感情も、 自分の帰すべき場所に対する想いも違う三組の男女のセックスが同一画面上に並ぶ。 セックスを(愛も不倫も)戯画化して描ききってしまいながら、 そこにあるのは絶望ではあっても悲観ではない。

次の瞬間には醒めてしまう幻想であるからこそ、その瞬間、 よりピュアな側面が浮かび上がってくる。

混沌としたロンドンの町は逃げも隠れもできない地上であり、 その末期的な現実を生き抜く人間には、 否定も肯定もあらゆる矛盾を抱えこみつつ再生を繰り返して行く野蛮さが 必要なのかもしれない。

極貧層の黒人が立ち退きを命じられる広場で、ダニーとロージィは別れの挨拶をかわす。 自分とは別の方向に歩きだすダニーを見つめるロージィの表情が印象的で、 映画に情感を与える。

サミーとロージィをロンドンという地上に残し、愛人たちは去って行く。 二人がアパートの片隅に子供のようにうずくまり映画は終わる。


『サバス』 ('88/仏) マルコ・ベロッキオ
ある若い精神科医は自分を魔女だと信じこんでいる女の精神鑑定をするうちに 妻を忘れて彼女に魅かれてしまう。 魔女役のベアトリス・ダルがあの唇をだらしなく開けて 徴笑みながら迫ってくるのがいかにも恐ろしい。


『白い炎の女』 ('87/英) マイケル・ラドフォード
互いの不倫を認めることを条件にダイアナと結婚したブラウトン卿だが 将校エロルと妻との人目をはばからない仲に嫉妬する。エロルを殺したのは卿なのか。 彼もまたダイアナの引き起こす悲劇の中で自らの命を断つ。 そしてダイアナに残されたのは富に頼る愛情のない結婚生活の選択だけだった。


『ショコラ』 ('88/仏) クレール・ドニ
夫の赴任地のアフリカで若い妻と幼い娘が留守がちの夫の代わりに頼りにするのは 誠実な召使であるハンサムな黒人青年。 一人で過ごすには濃密過ぎるアフリカの夜の空気。 女の方から迫ってすぐに突き放されるから実際には不倫にはならないのだけど。 黒人青年が来るのを待つ母の姿は少女のようでしゃがんでいるその格好は娘と相似形だ。


『人生は長<静かな河』 ('89/仏) エティエンヌ・シャティリエ
一二年前、看護婦のジョゼットはまだ若かった。 クリスマスの夜、妻のもとにそそくさと帰る愛人のマビアル医師に ささやかな復讐がしたかった。 かくしてルケノワ家とグロゼイユ家の赤ん坊はすり替えられ、 妻に先立たれ信用も失ったマビアルはうち萎れた姿でジョゼットの手中に収まる。


『セックスと嘘とビデオテープ』 ('89/米) スティーブン・ソダバーグ


『ダイヤモンド スカル』 ('89/英) ニック・ブルームフィールド
妻を愛しすぎる余りに彼女が不倫しているのではないかと疑いを持つ夫。 激しい感情の揺れから引き起こされる不慮の事故。 社会的な地位の高さによって事故をもみ消す一族。 不倫に走りそうになりながら夫のもとへもどる妻。


『トラック29』 ('87/英) ニコラス・ローグ
鉄道マニアのヘンリーはスタイン看護婦と治療屋で汽車のテープをガンガン鳴らしながら 尻を叩き叩かれる仲。そんな夫に不満しか持たないリンダは一〇代の頃妊娠して 生まれてすぐに引き裂かれた息子と想像の中で再会する。 病める現代人にとって幻想は現実を凌駕しときに浄化作用をもたらす。


『ラ・ピラート』 ('84/仏) ジャック・ドワイヨン
一人の女をめぐる一人の女と二人の男と一人の少女。
ある夜、夫と暮すアルマ(ジェーン・バーキン)のもとにかつて愛しあった女性が訪れる。
一枚のドアを挾んだ内と外で対立する感情。だが、一度ドアが開かれてしまえば、 ほとばしり出る愛はもう止めようがなくて、後は流れに身をまかせるしかない。
細くやせたジェーン・バーキンの肉体と豊満なマルーシュカ・デートメルスの肉体の 美しいからまりを、映倫と共にアルマの夫と夫の友人でやはりアルマを愛する男が 引き離そうと追いかける。
ホテルから次のホテルヘ、そして英仏海峡を渡るフェリーヘと、 場所が移り変わるごとに、感情は高まってゆく。 スクリーンには、ただ恋の情熱だけが映し出され、 彼女たちはどうゆう人間で、どうやって知り合い、愛し合うようになったのか、 何一つとして語られないから、観る者の気分も登場人物たちと一体にならざるを得ない。
恋愛至上主義のフランス人でなければ描けない世界。

不倫で同性愛という内容の上に、実生活で主演のジェーン・バーキンは、 この映画の監督ジャック・ドワイヨンの妻で、 ジェーンの夫役のアンドリュー・パーキンはジェーンの実の兄、 なんて聞くと妙にワクワクしてしまったりして、 恋はやはりスキャンダラスな方が燃え上がるのだろうか。


『ロミュアルドとジュリエット』 ('89/仏) コリーヌ・セロー
あまりに明るい不倫→離婚→再婚劇。 世の中こんな風にすすんでくれればいいのに。 ロミュアルドは腹心の男と妻の不倫に気付きカッコよく別れてあげる。 一方汚名返上に協力してくれた包容力豊かなジュリエットに愛情を感じ始める。 ロミュアルドの妻と腹心の男、ロミュアルドとジュリエットのカップルは めでたくゴールイン。


『私の中のもう一人のわたし』 ('89/米) ウッディ・アレン
人生の半ばを過ぎてふと後を振りむいたマリオン。 今までの人生とはいったい何だったのだろう、疑問はとめどなく彼女を幻惑する。 そういえば現在の夫もかつて他の女から奪ったのだった。 そして今度は夫の浮気を目にすることになる。 夫と離れ明るい部屋の中で微笑む彼女の顔には 幸福というより人生の慎み深さが満ちている。

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