『セックスと嘘とビデオテープ』 生気の失せた現在人
地畑 寧子
ジェイ・マキナリーをはじめとしてニューロストジェネレーションと名打った 現在の若手アメリカ作家たちがいる。 ここ何年かのうちに日本でもその翻訳本が次々と出版されている。 もちろん題材はまちまちだが、この映画は彼らが描く作品の感覚に似ている。 映像や音響の効果に比重がかけられていない分、 ごく少数(四人)の人物の会話にこの映画のすべてがかかっているからか、 小説を読んでいるようなおもいにかられるのかも知れない。
脆刃のような神経のアンとグレアム。 彼女はそんな自分をいとおしみ自分だけをだきしめている。 他人の肌が自分に触れることを異常なまでに嫌う。 だからセックスを嫌う。そして彼は嘘をつく自分を嫌い、 他人との関わりを最小限にとどめようと心がけている。 ‘脆刃のような自分’を強く肯定することが、彼らの自己主張になっている。 前触れなしに妻に去られ、 自身が音をたてて崩れていく自分の繊細さをやたらと肯定している 『ブライト・ライツ・ビッグ・シティー』(ジェイ・マキナリー著) 主人公の"君"にとても似ている。でも、そこに生は感じられない。
一方、ジョンはたくさんの嘘を平気でつくが、その嘘を意地でも隠し切リ、 露見することを恐れる。 狡猾だが嘘なしでは生きられない現在人そのものを体現しているのが彼ではないだろうか。 そしてシスターコンプレックスのシンシアは、肉体だけの不倫を楽しんでいる。 姉の持ち物を横取りするような感覚で心では軽蔑している男と関係することは、 彼女のコンプレックスに導かれた情念以外のなにものでもない。 不倫という‘嘘’の露見もいとわない、むしろ露見することを待っている。 アンは節操がないというが、むしろ感情のおもむくままに生き、 コンプレックスが傷つくことへの免疫になっている彼女に生が感じられてならない。
精神が次第に脆く、いまにもその刃がポロポロとこぼれていく時点まで 現代人はきてしまっているのだろうか。 崩れやすい自分をだきしめるあまりに会話はできるが、傷つくことをおそれ、 アンのように肉体のコミュニケートを避け、 グレアムのように精神のコミュニケートを避ける方法は妥当なのだろうか。
人と人の間は直線で結ばれる距離ではなく、 迂回を繰り返していくみちのりで結ばれるものではないだろうか。
ビデオ・テープを外したとき、グレアムは自分以外の体温を感じたのではないだろうか。 戸外の一点をみつめるふたり。グレアムに手をのばすアン。 会話のないこの場面は小説では現しきれない映像だけの魅力だ。
閉ざされた現在人のコミュニケーションの糸口を現在のキーワードで表現したこの映画は、 饒舌だが現在の空気をそのまま映像に移行できた不思議な作品である。
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