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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
(1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。

『樺太1945年夏 氷雪の門』
主演二木てるみさんインタビュー

~ 北の樺太にも、沖縄のひめゆり部隊と同様の悲劇があったことを知ってください! ~

◎ 2010年7月17日
     完成から36年の時を経て公開される『樺太1945年夏 氷雪の門』

かつて日本領有時代に樺太と呼ばれていた現ロシア領サハリン。
太平洋戦争末期、長崎に原爆が投下された8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を破って満州と樺太に侵攻した。『樺太1945年夏 氷雪の門』は、8月20日、樺太・真岡郵便局電話交換手9人の女性たちが、ソ連が侵攻してくる中、最後まで通信連絡の職務を全うして集団自決した悲劇に迫った真実の物語。8月15日に戦争は終結したはずなのに、なぜ彼女たちは自ら命を絶たなければならなかったのだろうか・・・

企画・製作に9年もの歳月をかけ、1974年完成当事、製作実行予算5億数千万をかけた超大作として話題を呼んだ。しかし、1974年3月29日の公開日を目前に、急遽、公開中止となってしまう。ソ連大使館からの史実と違うとの抗議により、配給会社が自粛したと当事の新聞は報道している。
一部地方のみで短期間上映。その後、お蔵入りになっていた貴重なフィルムが2004年に発掘され、製作当時助監督として参加していた新城卓氏が中心となって【映画「氷雪の門」上映委員会】を結成。保存状態の良い部分が、119分に再編集してデジタル化され、この夏、36年ぶりに日の目をみることになった。

★7/17(土)渋谷シアターNほか全国順次、真夏のロードショー!
公式 HP >> http://www.hyosetsu.com/


●主演二木てるみさん 撮り終えたばかりの気持ちで大いに語る


「封印されていた映画が一般公開されることを知った主演の二木てるみさんが自ら宣伝活動を買って出られました」と配給会社太秦の担当者の方からお電話をいただきました。 小さい頃からNHKの連続テレビ小説「おはなはん」「マー姉ちゃん」などでお馴染みだった二木てるみさんにお会いできる!!と、いそいそと出かけてきました。
初めてお会いする二木さんは、画面で見るふっくらとしたイメージと違って、小顔で華奢。お昼から数社の取材を受けておられていましたが、お疲れの様子も見せず、はつらつと私たちを迎えてくださいました。『樺太1945年夏 氷雪の門』製作当時のこと、そして、二木さんが出演された数々の映画のことなど、尽きることなく話がはずみました。 担当者の方がストップをかけてくださらず、気がついたら1時間20分も経過していました。『樺太1945年夏 氷雪の門』に関連してお伺いした部分を中心に、インタビューの模様をお届けします。


◆戦後生まれだけど、多くの役を通じて戦争を疑似体験してきた

― 学生時代に稚内に行って、氷雪の門の碑から樺太を眺めたことがあります。それがちょうどこの映画が出来た1974年のことで、ご縁を感じています。試写に伺えなかったので、DVDを送っていただいて家で母と一緒に拝見しました。母は昭和3年生まれで、終戦後、台湾から引き揚げてきました。父は学徒出陣で海軍に所属していました。私自身は戦後生まれですが、小さい時から戦争の時代のことを両親から耳にたこができるくらい聞かされて育ちました。二木さんも私より少し上の世代ですので、ご両親の戦争体験を聞かされてきたことと思います。

二木:そうですね。父は大正12年生まれで陸軍に所属していて戦地には行ってないのですが、父の弟、私の叔父が海軍で亡くなっています。母は昭和4年生まれなのですが、落ちてくる焼夷弾が花火のようで綺麗だったとよく話していましたね。私は子供心に「尋ね人の時間です」が気になっていました。寝転がって夏休みの宿題をしているときなどに、「硫黄島で何年に・・・」というようなメッセージが流れてきていたのを覚えています。ある時、尋ね人の時間のことが話題になって、「懐かしい!」と思わず言ったら、年がばれたりしたこともありましたね。それにプラスして、戦争中の役をいただいて疑似体験的に戦争を体験しています。残留孤児のドラマにも出たことがありますし、戦争を体験しているのかなぁ~と。


◆パンドラの箱を開けたように判明する映画が蘇った経緯

― 36年ぶりにご自身が出演されていた映画をご覧になっていかがでしたか?

二木:実は、4年ほど前にあちこちで上映会があるといってDVDが送られてきて観ていました。今回、一般公開されると聞いて、あのDVDがどういう経緯で出来たのかがようやくわかりました。当時助監督だった新城卓さんが中心になってデジタル化して上映委員会が出来たのですね。1974年に、どうして公開が中止になったかについては、ソ連の横槍が入った・・・という程度で、よく知らなかったのですが、今、パンドラの箱を開けたように、じわじわといろいろなことがわかってきたような状況です。当時完成品を観た記憶はあります。もちろん試写がありましたから。もともと156分のものだったのですが、色が抜けたりしてどうにもならないところがあって、結局、今回、119分に編集されています。どこをどう切ったのか・・・ 辻褄が合うようにしていますね。

― それで、色がちょっとモノクロのようなところもあるのですね。逆に雰囲気が出ていますね。

二木:いっそのことモノクロだとよかったかもしれないですね。

― チラシは一部カラーですが、全体のトーンがモノクロで、これもいいですね。

二木:今日初めて拝見したのですが、ほんと、素敵なチラシですよね。駅前で配ろうかしら。

― シアターN渋谷で当初モーニングショーの予定でしたが、『THE COVE』が上映中止になって、一日フルの上映になりましたね。

二木:かつて、この映画が上映中止になったことを思うと、世の中の流れをあらためて感じますね。真実は一つしかない。伝えたいものは伝えなくては。原爆で被爆した国。核に反対する姿勢も伝えていかないといけない。タイムスリップして、完成直後のような気持ちが沸々と湧き上がってきています。


熱弁をふるう二木てるみさん

◆稚内ロケで思い出すのは、連日出てきた蟹

― ご覧になったご自身の若い時の姿はいかがでしたか?

二木:下手くそ、ここ、声のトーンが高い、とか、リテイクしたいと思うところもたくさんありました。でも、映画の完成度としては高くて、泣いた場面もあります。

― 撮影時の印象に残っている思い出をお聞かせいただけますか。

二木:稚内でロケをしたのですが、食事に蟹が出てきて、最初は、「わ~」と喜んでいたけど、毎日毎日蟹で、皆うんざりしてしまいました。(語る二木さんの顔、とても楽しそうでした。)

― 実は、氷雪の門と聞いて、真っ先に思い浮かんだのが、36年前の北海道への旅で、札幌の「氷雪の門」で蟹をこれでもかというくらい食べたことでした! 食べ物の思い出は忘れないですね。

二木:あと、稚内が寂しい町だなぁ~と。高い建物がなくて、いつもどんよりとしていて・・・ オフのときに、七尾伶子さんと原生花園に行って、黄色いキスゲの花が綺麗だったのを覚えています。夏だったのに、稚内はほんとに寂しかったですね。ロケ部分を順撮りして、最後に札幌で若林豪さん演じる北大の彼とデートするシーンを撮って東京に帰りました。


◆なぜ集団自決・・・ 監督は細かくレクチャーしてくれた

― 生き残りの方にお話を伺う機会はあったのでしょうか?

二木:藤田弓子さんは確か生き残りの方に会ったと思うのですが、私は記憶がないですね。機会があったと思うのですけど、伺えなかったような気がします。でも、樺太での当時の状況については、撮影のたびに監督が細かくレクチャーしてくれましたね。

― 村山監督はどんな方ですか? また、どんな風に演出されたのでしょうか?

二木:村山監督は、ふっくらして温和な方。大きな器の方で、乙女たちの状況をよく説明していました。私より若い役者も多かったので、どうして自決しなくてはいけなかったかも、ちゃんとわかって貰わないといけませんから。それと、細かい演技指導をしてましたね。ソ連が侵攻してくる様子を窓から眺める場面で、目線をもうちょっと下とか、もうちょっと左とか、言われた記憶があります。黒澤監督も目線をよく指示してましたね。私はやっぱり黒澤明という人の影響が大きいですね。黒澤監督は、「中途半端はいけない」ということを教えてくれた人。どうせ伝えるなら、ちゃんと伝えなくちゃいけない。すべてを注げるだけのものを注がないといけない。引き出しを開けたときに、あるべきものが入ってないといけない。例え映らなくても、ハンドバッグの中には、ちゃんと物を入れておけ。小道具の方が用意してくださったハンドバッグの中に何も入ってなくて軽かったので、何か入れてくださいとお願いしたことがあります。あと、ハンカチも買って来たばかりのものでなくて、ちょっと使ったものの方がいい。蜷川さんの舞台でも、走ること一つ取っても、何の為に走っているのか意識しろ。走り方がそれによって違うだろうと。他の人へのダメ出しでしたけど、黒澤監督と一緒だと思いました。やれる範囲の中でやるのが役者の仕事ですね。


◆戦争という非日常の中にある日常の姿

― 本作を観た若い人に、何か質問したいことは?と聞いたら、真っ先に言われたのが、郵便局の仕事に電話交換手もあったのですか?と。

二木:地域を担っている仕事をよろず的にやってましたね。仕事に対する責任感も強かったのでしょうね。自決を馬鹿みたいと思う人もいるかもしれませんが・・・  戦争で悲惨な思いをしているけれど、皆の日常生活がある。普通の生活があって、自決の場面がある。オンとオフの両方が描かれているので、悲しさが出ているのかなぁと思いますね。お汁粉を作って皆で食べる場面は、撮影現場も楽しい雰囲気でしたね。

― お汁粉は美味しかったですか?

二木:味は忘れてしまいましたけど、緊張感のある場面と違って、皆ほっとして和気藹々だったのは覚えています。監督はうまく役者の気持ちをコントロールしていましたね。

◆あの戦争を経て、今の日本の平和があることを噛締めてほしい

二木: 部屋の中のシーンは、大映のセットで撮影したのですが、最後のソ連が襲ってくるところは、ほんとに緊迫感がありましたね。私ごとなのですが、ちょうど撮影のすぐ前に21日間 芝居を観る旅でモスクワとレニングラードに行ってきたばかりでした。現地で刑務所や軍艦なども見学して、威圧感が強烈な印象でしたので、実感がありましたね。監督からの状況説明で、皆も緊張していました。自決する直前の場面では、爆発音もすごくて、若い人たちは特に緊迫感を感じてました。

― 母は映画を観ながら、飛行機の音や軍隊の足音に、いやな時代だったと反応してました。

二木:五感で体験した人は、音だけでも思い出しますよね。

― 今や、日本人が戦争を経験したことを実感できない世代の方が多いのではないかと思います。そんな中、この映画が36年の時を経て、日の目をあびることになったことについて、どんな風に思っておられますか?

二木:「どことの戦争?」という人たちが増えている時代ですよね。事実そういうことがあって、今の日本がある。だから平和だということを認識してほしいですね。スーチーさんが「難しいことはいいです。こういう現実があることを知ってください!」と、おっしゃっています。私自身、映画の撮影を通じて、北の樺太にも、沖縄のひめゆり部隊と同じような人たちがいたことを知りました。完成度の高い映画だと、あらためて思いましたので、是非大勢の皆さんにご覧いただきたいです。私は班長の役なのですが、私って主役だった?という思いがあります。でも、観てもらうために頑張ろうと。スタッフ・キャスト一同、心をひとつにして作った映画が、せっかく日の目を見ることになりましたから、大勢の方に観てもらいたいなと。安易なものが多い中で、知らせるべきことだと思います。こんなに素敵な人たちがいたことを是非知ってもらいたいです。

― 今の日本人は、若い人に限らず、年齢のいった人でも、お国のために身を投げ出すことはできないのではないかと。

二木:「戦争行きますよ」という青年もいますね。でも、精神面でひ弱ですよね。

― 二木さんが演じた律子さんも、「一億玉砕、国のため。でも、あなただけ無事でいてほしいと思う私はいけない女でしょうか?」と語っています。あの時代、日本国民は洗脳されて、お国のため・・・と思いこんでいたように言われますが、実際には、「生きたい」「国のために死にたくない」というのが本心だったのではと。

二木:今も世界の各地で戦争が起こっていますが、いつも犠牲になるのは、弱い人たちや子供たちですね。


◆ファンの皆さんは長い間真摯に役に向き合ってきた領収書

― 二木さんは三歳で映画界入りして、黒澤明監督の『七人の侍』にご出演されましたが、本作ではやはり『七人の侍』に出演されていた千秋実さんが局長の役ですね。

二木: 大好きな田村高廣さんも出ていたのに、撮影当時は一緒になることがなかったので知りませんでした。もちろんその後、田村さんの奥様の役もさせていただきましたけど。

― 二木さんはほんとに長くテレビや映画で活躍されてきましたね。

二木:どこに行っても知ってる人がいて、お風呂に入れてあげたとか言われたりします。皆さんに育てられましたね。昭和を生きてきましたが、昭和という時代が好き。大船の撮影所も大好きでした。いろんな作品に出られたことは、財産。あの時代、いい映画をちゃんと作っていた時代でした。思えば今は、職人さんがいなくなったなと。私が育った時代は、監督もスタッフもすべて職人としての責任を感じながらやっていたように思います。

― 映画とテレビの違いをどんな風に感じておられますか?

二木:役に向き合う気持ちはどちらも同じなのですが、テレビと映画では、そう、匂いが違います。テレビは機材の匂い。電気がやたら明るくて。映画は土の匂いや絵の具の匂い。ひやっとしたセットですね。芝居も大好き。テレビでも映画でも、勝手に撮ってください。どこからでも撮ってくださいと思ってやってきました。舞台は全部観られている。それをアップで撮ってくれているのが、テレビや映画。長谷川和夫さんは、モニターを見ながら、どこから撮るの?とおっしゃっていましたが、私には出来ない。でも、出来ないなりに、ちゃんと向き合ってきたことは自負しています。今回も、私でいいかなと思いつつ、宣伝に乗り出しました。

― 長い間活躍されてきて、ファンも多いですから適任だと思います。

二木:やってる本人はわからないのですが、隠れファンがいらっしゃると聞くと、真摯に役に向かい合ってきたことの結果としての領収書かなと、嬉しいですね。今のテレビ界や映画界の中では古いタイプなのですが。

― これからも、いろいろな分野でますますのご活躍を期待しています。
最後にメッセージをお願いします。

二木:
あなたは知っていますか? かつて樺太で乙女たちが悲惨な最期を遂げたことを。
知ってください。知って欲しいんです。
沖縄のことは知っていても、樺太のことは知らない人が多い。
まずは知ってください。
36年前、心を一つにして演じた作品を是非観てください。


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★取材を終えて

イメージどおりの方だった。僕ら二人相手に1時間以上も喋りまくって、疲れを知らないポップでエネルギッシュな凄い人。これは当然の誉め言葉ですよ。その場においては(声優でなく)ラジオの朗読劇をぜひやって欲しい! 本当なら、NHKラジオの日曜名作座を西田敏行の合方は竹下景子ではなく、二木さんがやってしかるべき!! などと口走ったほどだから。芸暦57年の人なのに、婆さんではない。素晴らしい方です。

 03年にフォトエッセイ≪あなたを見ていると、子供の頃を思い出します≫を出版しておられるので、書いてらっしゃるかもしれないことを聞いても仕方がないとは思いつつ、どうしても昔の映画ネタを聞いてしまう。
「デビュー作の『七人の侍』(54年)では、仲代達矢さんより出番が長いとお聞きしましたが」の問いに「そうなんです!」と答えてくれたが、それに対して「と言うことは、宇津井健さんよりも出番が長いということですよね」と聞き直すと、二木さんは「えっ!! 宇津井さんも出ていたんですか?」と唖然。黒澤フリークの人なら、町を歩く浪人役で仲代達矢と宇津井健がともに出演していたことは有名だが、れっきとした出演者である二木さんは宇津井健の出演は知らなかった。僕がベテランの役者さんにインタビューするときは、こういうことを確認したいんですよ(笑)

 TV「おはなはん」(64)、映画『神阪四郎の犯罪』(56)、『花の宴』(67)などで同様の質問やら感想やらをダラダラとさせて戴きました。それはそれは、あっという間の1時間。楽しかったです。 (加藤久徳)


日本映画に詳しい加藤さんに同席いただいたお陰で、二木てるみさんが出演された数多くの映画についても、話がはずみました。ここではすべてをご披露しませんでしたが、加藤さんの感想から様子をご想像いただければ幸いです。還暦を越えたとは思えない、若々しくて素敵な二木さんから、元気をいただいた至福のひと時でした。(咲)

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取材:加藤久徳、景山咲子(撮影・まとめ)
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