昨年10月東京国際女性映画祭に上映されたベアテさんの24条に関わった人生と、日本の女性の権利獲得を描いた『ベアテの贈りもの』に合わせて来日していたベアテ・シロタ・ゴードンさんにお話を伺う機会を得ました。憲法24条草案作成に携わったベアテ・シロタ・ゴードンさん。本紙ではページの都合の上編集しておりますが、インターネット上ではインタビューをなるべく原文に近い状態で掲載します。
『ベアテの贈りもの』は岩波ホールにて6月末まで公開中
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1923年ウィーンの生まれ。父レオ・シロタは著名なピアニスト、母オーギュスティーヌ・ホレンシュタインはキエフ出身の貿易商の娘であった。一家は山田耕筰の招きで来日し、ベアテは日本で5歳から15歳までの日々を過ごした。その後アメリカのミルズ・カレッジへ留学するが、在学中の日米開戦によって両親と切り離された生活を送る。日本に残った両親に会いたいベアテはその一念でGHQに職を得て、敗戦直後の日本に1945年12月24日帰国する。自伝「1945年のクリスマス」は、彼女が日本の土を再び踏んだこの日付からとられている。 翌年の2月、民政局のホイットニー准将の命令で、彼女は憲法草案を作成する作業に加わることになる。このとき、ベアテは22歳。彼女が配属されたのは計3人からなる人権小委員会だった。そこで、憲法24条の草案作成に携わった。 帰国後、日本語通訳班長のゴードン中尉と結婚し、ジャパンソサエティーに勤務して日本文化をアメリカへ紹介し、退職後は日本各地で精力的に講演を行っている。
Q ベアテさんさんは、オーストリアのウィーン生まれで、お父様は高名なピアニストですね。
ベ パパは、ピアニストで日本へツアーにいったのです。私達も一緒にいきました。半年間のツアーだったのですが、私達の洋服と簡単な身の回りのものだけもっていきました。半年間だったのですが、来日してみると楽しくて、上野音楽学校(現在の東京芸術大学)からパパに教授の仕事を頼んできました。日本のお嬢ちゃん達と遊んで、日本の家庭にも行きました。パパによると3ヶ月で日本語覚えたということだったのですよ。小さい子供だから会話はそんなに難しくなかったでしょうけどね。
Q 戦前だと家制度で、男性の権力が絶対だったじゃないですか。
ベ それよくわかります。夫婦で散歩に行くと、夫が前を歩いて妻は一歩下がって後ろにつくのですよね。私よく自分の目で見ました。そして日本の家庭の中に入って、奥さんが全部お食事を作って、夫が会社から帰るときに会社の友人(全部男性ですけどね)を連れて帰って、奥さんが全部サーブして会話にも入らず、台所で子供と一緒に食事を取ってね。全部私には不思議だったのですよ。ヨーロッパ人だったから、違う習慣だと思いました。そして、ママも随分フェミニストだったのです。当時ウィーンは、世界の文化の中心で、著名な人がウィ?ンで暮らしていたんです。フロイトなど皆ウィーンに住んでいました。そういう世界から来ましたから、日本のように女性を圧迫する状況は不思議だと思いました。ママは、日本の女性に随分会いました。パパの生徒の親だったりしたのですが、貴族(華族)だったり、ヨーロッパの音楽に興味がある方が多かったのですが、ヨーロッパへ行く金持ちの女性もいましたでしょ。そういう方から、ママはいろいろ知りました。ヨーロッパでは女性が自由に歩いているから、日本はまだ抑圧されていると言っていました。その時私も同じ部屋にいたので、9、10歳の時にその話を聞きました。そして、家庭教師はエストニア人だったのですが、その人にも日本の女性について詳しくいろいろ教えてもらいました。私のコックさんのみよさんという人もいました。日本料理しか知らなかったので、ママがいろいろな西洋料理を教えました。その人は18歳で、とても面白い人だったので、度々台所に遊びに行っていろいろな話を聞きました。だから小さい時から、約10年いろいろな事を知っています。軍国主義も知っています。私たちは西洋人なので、憲兵隊が毎日家に来ました。2.26事件もよく知っています。その日私の家に兵隊きましたから。家では何を話してもいいけど、外では軍国主義や兵隊について余計なことは話してはいけないとママはよく言いました。
Q ちなみに学校はどちらにいっていたのですか。
ベ 大森のドイツ学校に行っていました。ウィーンはオーストリアですからドイツ語を話すのでね。1935年位からナチスになってしまったので、転校するのに6ヶ月ぐらいかかりました。ナチスの学校には、特別に厳しい教師を送ってきたんですよ。(編集部注:ベアテさんはユダヤ系)その後一家で6ヶ月ウィーンに遊びに行ってから、目黒のアメリカンスクールに転校しました。今考えるとドイツとアメリカの教育両方を受けられてよかったです。そして15歳半の時に、アメリカのミルズカレッジに留学しました。
Q アメリカンスクールに通っていたので、自然にアメリカの大学になったのですか。
ベ 両親は、ヨーロッパの大学を望んでました。私のパパの伯父さんがパリに住んでいたので、本当はパリのソルボンヌ大学に行く予定でした。でも、その時に戦争がはじまったのですよ。1939年のことでした。ヨーロッパは危ないということで、アメリカの大学へ行かなければならなかったのです。
アメリカンスクールに2年間行って英語も話していましたが、アメリカの事は余り知りませんでした。ヨーロッパとは全然違っていましたね。日本にいたときには家には、女中さんがいましたね。西洋人の家でも、日本人の家でもある程度の家には女中さんがいました。私はアイロンもできないし、何にも身の回りのことは知らなかったのです。全然違って全部自分でやらなければならなかったので、大変でした。ミルズカレッジのドミトリー(学生寮)で生活しました。金曜日にはディナーがあったのですが、長いイブニングドレスで行かなければならなかったのです。女子大だったので、お洒落だったんですね。私もイブニングは持っていきましたが、スーツケースから出したら、しわだらけだったのです。プリーツがめちゃめちゃになっていたのですね。泣いてしまいました。自分のお人形の洋服に小さいアイロンでしかかけたことがなかったのです。ランドリールームに持ってきて、アイロンがかけられないで困っていると同級生が来て、アイロンをかけてあげるから6ヶ月間アイロンを貸してほしいと言いました。そのぐらい本当に何もしたことがなかったのです。
Q お嬢様育ちだったのですね。
ベ 日本では、女中さんがすべてしてくれたのですよ。初めは見るもの聞くものすべてしたことがなかったのです(笑)。でも、いろいろ習って慣れました。
Q アメリカで大学も卒業されたのですか。
ベ 卒業する前に戦争が始まりました。だから私は19歳で卒業しました。割合に早く卒業したのは、ドイツ学校は嫌な所でしたが、教育という点ではいろいろなことを多く学びましたので、私は2年飛び級しました。大学に来ても、1学年はフレッシュマンというのですが、私はフランス語のクラスに入りました。私は、フランス語、英語、ロシア語、ドイツ語、日本語をその時に知っていました。スペイン語はアメリカで学びました。私はフランスの19世紀の文学を学びたかったのです。1年生には私の程度ぐらいフランス語を話す人がいなかったのです。ですから、私をずっと上の専門課程に入れてくれたのです。だから、3、4年の人たちと3人でフランス文学の授業を受けました。戦争中で、パパとママからの送金が途絶えてしまったので、仕事をしてお金を稼がなければならなかったのです。夏にアルバイトしましたが、仕事は日本語の通訳の仕事が見つかったので探す必要ありませんでした。日本語のできる白人が、当時全米で60人しかいなかったのです。カリフォルニアでは、日系人を追い出したので、話せる人はほとんどいませんでした。メインの仕事はサンフランシスコでだったのですが、日本からいろいろなラジオニュースなどの音声がきましたから、そういうのを聞くのはサンフランシスコの仕事でした。そこの代表者がいろいろな学校へ、日本語のわかる人を探す通達を出しました。ミルズカレッジにも募集がきましたので、引っ張りだこでした。私は、仕事をしてまたミルズカレッジに戻りたかったのです。日本でもそうだと思いますが、あの当時の教育の考え方で、大学の卒業免状を貰えるまで、学業を修めたいと思ったのです。
ミルズカレッジの学長は女性で当時まだ珍しいフェミニストでした。国のために尽くすのでしたら、毎日学校へ通わなくてもレポートと試験さえ受ければ卒業できるように取り計らってくれました。その時が人生で一番辛い時でした。朝早く起きて9時から午後2時まで学校の勉強をしました。3時から仕事で、夜の11時までラジオのニュースを聞く仕事をしました。日本と時差がありましたから、その時間になりました。大変な仕事でした。電波が遠いので、ヘッドホンをつけて日本語をタイプライターで英語に翻訳しました。そんなに早くはタイプできないので、要約したものをタイプしました。編集者がその文章を見て、面白いことを選んでそのことについては詳細を翻訳しました。その時は私ストレスが溜まってタバコを吸ったりしました。あの時は本当に大変でした。8時間ずっとやっていましたので。その後すぐ寝て、翌日の朝に学校の勉強して仕事の繰り返しでした。卒業するまでの半年間は、ずっとそのようにハードでした。卒業した後は、私の日記を見ると、お食事、ナイトクラブ、映画や、お芝居、コンサートに行ったり、毎晩どこかしら出かけていました。2年間その調子で過ごしていました。仕事はやっていましたけど、夜は出かけたかったみたいですね。今だって、夜出かけるのは楽しいですけどね。(笑)
そのあと、ニューヨークに行きたかったので、サンフランシスコからニューヨークに引越しをして、タイム誌に勤めました。そこで、リサーチの仕事と、アメリカ人がまだ女性に差別しているということを学びました。タイム誌では、私たち女性は皆リサーチだけやったのです。記事を書くことは許されませんでした。私がリサーチした記事が出て、記事が間違っているとクレームが来た場合にはそれが私達の責任になったのです。私たちリサーチの仕事には、力がなかったのですよ。編集者と意見の食い違いが合っても食い下がるしかありませんでした。私は大学を卒業して日本語の翻訳の仕事をしたぐらいで、まだ世間での経験は余りありませんでした。他の女性たちは凄くインテリの方が多かったですね。ヨーロッパから戦火を逃れてきた人が多くいて、そういう人達が職を得るためにリサーチの仕事をしていました。博士号を持っている人とか、フランスやいろいろな国から来ていました。大体20代後半から30歳位の私より年齢の上の人が多かったです。当時はヨーロッパの方がフェミニズムが進んでいたので、いろいろなことを教えてくれました。1週間でリサーチの仕事のノウハウを学びましたね。半年だけタイム誌にいました。1945年の8月に戦争が終わりましたね。私は両親にどうしても会いたくて、方法を模索するためにワシントンに行きました。そこで日本は占領下なので市民は行くことができず、行くためには軍属にならなくてはいけないと言われました。私は日本語とリサーチができましたので、すぐ軍属で日本へ行けるように許可されました。そこで面白かったのは、パスポートを取りにいった時、そこで渡航目的の記載があり、私はリサーチの専門家ということで行くということだったのですが、実際にパスポートを開いて見るとリサーチとう言葉が消えていて、ただ専門家という肩書きになっていました。ですから、私は専門家として日本にいったのです(笑)。
Q 終戦直後の日本に来てどうでしたか。
ベ 私は軍属で来た一番初めの最初の女性でした。1945年の12月に来日して、すぐ乃木神社の近くの家に両親を探しに行きました。行ってみるとすべて破壊され、柱がただひとつ残っているだけでした。いろんな人に聞いても、両親がどこにいるか分かりませんでした。暗い気持ちでホテルへ戻り、フロントである軍人にパパはレオ・シロタという名前のピアニストで、私は父を探してると話しました。そうしたら、近くにいた娘さんが昨日ラジオで演奏を聞きましたと教えてくれました。私は早速ラジオ局に問い合わせました。ラジオ局は、演奏したのは確かにあなたのお父さまですが、今朝軽井沢に帰りましたと言われました。軽井沢へ電報を打って、パパは軽井沢駅で電報を受け取り、そのまま私に会いに東京へ戻ってきてくれました。
Q ご両親は、戦時中は軽井沢にいらしていたのですか。
ベ 軽井沢の別荘に外国人は軟禁状態にされたそうです。軽井沢では、日本の配給を受けたそうです。ただ、ヨーロッパ人は日本人よりよく食べましたので、日本人の配給では足りなかったのです。日本人でさえ食料不足で苦労していましたので、外国人は更に大変でした。パパが一番悲しかったのは、パパは日本人と全然会ってはいけないということだったそうです。2年、3年ぐらいは接触を断たれました。それで、ママは栄養不足で太ってしまい病気になってしまいました。両親はしばらくして東京へ来て、お弟子さんの家の部屋を借りて生活しました。
Q 私もそういう話は聞いたことがあります。今の若い人は知らない人が多いので、こういうことは書き残しておきたいですね。
ベ パパは、森に行って木を切ったのですが、ママはパパがピアニストなので、指を痛めないか心配していました。近くに日本の農家があり、何か食べ物を分けてもらえないか頼みました。しかし、外国人との接触は禁止されていたので、できないと言われました。しかし、家の中を見ると家の中にパパのポスターが張ってありました。その人達は日比谷公会堂での演奏会を聞いていて、パパの大ファンだったのです。それで、食べ物を分けてくれました。またパパの教え子達が東京から夜行で来て、食べ物を置いていってくれたりしました。パパ達は終戦後、東京へ戻って演奏生活を再開しました。でも、パパは心が痛かったのです。1つは、日本に来て16年間上野で教えたのにそういう待遇を受けたことです。あと、憲兵隊が毎日家に来て、何をやっているか聞かれて、娘がアメリカに留学しているのでスパイと疑われました。
Q 戦時中はご両親とは全然連絡は取れなかったのですよね。
ベ もちろん戦争してますからね。一度赤十字に行って、42年に25ドル払って日本に電報を送ってもらおうとしたのですが、届きませんでした。ワシントンに、ドイツの放送を翻訳する部署があったのです。私たちはオーストリア人でしたので、ドイツの放送でした。そこで、シロタの名前が2回でたのです。パパのお弟子さんのインタビューが放送されて、その中でパパの名前が出てきました。あとは、パパが上野音楽学校を罷免されたニュースが流れました。その時は、胸が痛かったです。ただ、名前が出たので生きているということはわかりました。アメリカでは、シロタの名字は珍しいので、ワシントンの知り合いが、親戚のことではないかということで、知らせてくれました。
Q 日本に来て、憲法制定にはどのようにかかわったのでしょうか。
ベ 翌年の2月にマッカーサー元帥から、日本国憲法の草案を作るように指示され、私を含めた3人は人権条項を担当するように指令を受けました。私が、女性だったこともあり、ベアテさんは 「女性の権利を担当したらどうですか 」と言われました。それで、私は女性の条項を担当することになりました。私は、ジープに乗って数ヶ所の図書館に行って、世界各国の憲法を調べ比較しました。その方法は他の民生局員達にも好評で、皆に本を貸してほしいと引っ張りだこにになりました。戦前日本で10年過ごしていますので、女性達がいかに虐げられていたか知っていました。ですから、日本の女性が幸せになれるような権利条項を作りたいと思いました。若かったこともあって教育にも関心が深く、教育の権利も担当することになりました。社会福祉でしたら、ワイマール憲法などのヨーロッパの憲法とアメリカ合衆国の憲法を参考にしていきました。
Q 9日で草案を仕上げたのですよね。
ベ そうです。草案を仕上げたあとに、全体の会議がありました。私は、男女平等のほかに、母性の保護の条項も盛り込みましたが、残念ながら認められませんでした。会議の時に主張して通るように頑張ったのですが、権力の前に打ち勝つことはできませんでした。22歳の年少者でしかありませんでした。自分の考えた条項が一つづつ消えていくのが、まるで日本女性の権利が消えていくようで、悔しくてただ泣いて抵抗するしかありませんでした。その時は今考えると人生のほんの一部ですし、あっという間に過ぎてしまいました。
Q 民生局と日本政府の会議はどうだったのですか。
ベ 昼間から始まり、3,4時間で終わると思ったのですが、とんでもないことで、翌日の朝まで24時間以上続きました。憲法第一章の天皇の存在や、家父長制度の廃止など大激論でした。
Q では、平等条項も大激論になったのですか。
ベ その時は私は、憲法の起草者としてでなく、通訳として参加しました。私自身が、日本に住んでいたこともあり翻訳も早く、日本政府側に好印象も受けていたこともあったので、アメリカ側の委員長のケーディス大佐はその場の空気をうまく読み取りました。彼はそれを使って、私が平等条項を書いたとは言わず、日本側にベアテ・シロタさんは女性の権利が通ることを心から望んでいますといって、すんなり通してしまいました。そうして今日に至っています。アメリカ憲法などは、女性の権利について明記されていません。それを考えると、女性の権利が明記された素晴らしい憲法ができたと思いましたね。
Q それはすごいですね。そのおかげで、日本女性の今日はあるのですね!ベアテさんは、憲法施行後も日本に滞在されたのですか。
ベ 両親は、すぐアメリカへ渡りましたが、私はその後、1年半日本に滞在しました。日本国憲法の施行と、初の総選挙を見届けることができました。また、その時日本語通訳の班長だったゴードン中尉とも結婚することになりましたし、実りの多い時を過ごすことができました。
Q アメリカに帰国後の生活は?
ベ 帰国後、ゴードン中尉とニューヨークですぐ結婚式を挙げました。父は、音楽学校の教師になりました。私たち夫婦はニューヨークから2時間ほどの郊外の町へ引っ越しました。そこで、二年ほど過ごした後ニューヨークに戻りました。夫が、コロンビア大学大学院の日本語学科に入学したこともあり、私は仕事を探し通訳の仕事をしていました。
1952年に、市川房枝さんが来米した時には、通訳を務めました。ルーズベルト元大統領夫人や、アイゼンハワー大統領と会見したり、ミルズカレッジをはじめとした各地で講演したり、通訳する私にとっても非常に刺激的な2ヶ月間でした。その後、長女が生まれました。ニューヨークのジャパンソサエティーにパートタイムで勤務しました。その当時のアメリカでさえ、夫は外で働き、妻は家で家庭を守るというのは当然の風潮でしたね。夫はとても進歩的な人でしたので、私が才能を活かした仕事につく事を喜んでくれましたし、理解してよく協力してくれました。ですから、私は専業主婦になったことはありませんし、子供を2人産みながらも自分の生活スタイルに合わせて仕事を続けることができました。もちろん、ベビーシッターやへルパーを雇ったり、母乳で育てましたので子供が離乳するまでは、なるべく在宅での仕事を増やしたり、人に会うときでも自宅の近くにしたり大変でしたね。
Q ジャパンソサエティーではどのような仕事をされていたのですか。
ベ 能や、舞踊、歌舞伎などの日本の伝統芸能を演じる方をアメリカに招き、ニューヨークを初めとした全米各地で、日本文化を紹介する講演の企画を立てたりしました。また、版画や水彩画、いけばな、茶道などの展示会やイベントの企画のプロデュースもしました。父がピアニストだったこともあり、小さい頃から和洋を問わずクラシック、オペラ、お芝居、能、舞踊などいろいろなものを見てきました。ですから、いろいろなものを見分ける美意識は培われていました。とてもやりがいがある仕事でした。そのおかげで、日本の文化人と真近で触れ合うことができました。家には、日本の版画やいろいろな骨董品が飾ってあります。
Q ベアテさんのご一家は皆さん親日家なのですね。素晴らしいですね。日本映画なども紹介されたのですか。
ベ ちょうど私が勤め始めたころは、黒澤明監督の『羅生門』がアメリカでも公開されて、大反響だったのですよ。映画部門ができたのが、私がアジアソサエティーに移る少し前でしたので、私自身はそんなに関わらなかったのですが、黒澤監督を初めとした多数の監督が紹介されました。面白いエピソードがあります。私の息子が中学生の時に美術館で、日本映画の上映会があって私に行っていいか訪ねてきました。その時私は熱があって横になっていました。息子の言葉がよく聞こえなかったので、菊地監督と聞こえたので行っていいと言ったのですが、息子は顔を真っ赤にして帰ってきました。次の日の朝もカルチャーショックだったらしく、部屋から出てきませんでした。不信に思って後で尋ねたらなんと、実は大島渚監督の『愛のコリーダ』だったのです(笑)。子供にとっては刺激的なようでしたよ。
Q それはすごいですね。ベアテさんは 、日本文化にずっと携わっていたのですね。
ベ その後、ジャパンソサエティーから更に規模の大きいアジアソサエティーに移籍しました。そこでは、舞踊の紹介を担当し、日本だけでなくアジア各国の踊りを紹介しました。1年の内4から6週間は、アジア各国へ出張していろいろな踊りを見て回りました。69歳で退職ししました。仕事をしている間も日本国憲法が日本女性に根付いているかずっと気にかかっていました。しかし、トップシークレットで他言無用になっていましたので、そのことを話すことは親しい友人ですらありませんでした。退職後自分のライフワークとして、日本国憲法の平等条項ができてどう根付いて広がっていくか見守りたくて、 「1945年のクリスマス 」を書いたり、日本で講演会を開いたりするようになりました。この活動は、できるかぎり今後とも続けていきたいと思います。
2004年10月28日女性映画祭においてトーク ベアテさんと藤原監督 |
同日、女性映画祭において舞台挨拶 藤原智子監督 |
Q 『ベアテの贈りもの』の藤原監督はどんな方ですか。
ベ 父のレコードが東北地方で見つかり、映画のロケでもご一緒したのですが、文化にも詳しく豊かな感性を持った方です。映画上でもそれが、にじみ出ています。
Q ベアテさんは、5歳で日本に来日されてから憲法の平等条項だけでなく、アメリカに帰国後も日本文化を紹介されてたり、退職後も講演されてずっと日本の掛け橋になっていますね。なかなか、できることではない尊いことです。それで、たくさんの人が勇気を貰ったと思います。最後に、日本女性へメッセージをお願いします。
ベ 日本国憲法ができて50年以上経ちます。確かに,この半世紀の間に日本女性の地位は目覚しく向上しました。戦前は、権利もなくただ泣き寝入りするしかありませんでした。戦後になり、泣きながらも闘うことができるようになりました。まだまだ、日本女性の地位は不十分なところもあります。これからも、皆さん頑張って更なる権利の確立を目指してほしいです。また、私もできる限り、講演をし続けて、見守っていきたいです。
平成16年10月24日新宿小田急サザンタワーホテルにて
(取材・まとめ:宮崎暁美・池畑美穂 撮影:宮崎暁美)公開にあわせて『ベアテの贈りもの』の藤原監督にインタビューさせていただきました。本紙ではページの都合上短く編集しましたが、ホームページではなるべく原文に近い形で掲載します。
1932年東京生まれ。東京大学で美術史を専攻。表現の可能性に惹かれて記録映画の世界に入る。1960年『オランウータンの知恵』でデビュー。その後、子育てで現場を離れ、『鳥獣戯画』を代表に美術映画など多数の脚本を執筆。47歳で監督業に復帰。80年代は能、歌舞伎などの短編記録映画を多数監督し、文部大臣賞、芸術作品賞などを受賞。1995年に初の長編ドキュメンタリー作品『杉の子たちの50年』で日本映画ペンクラブ・ノンシアトリカル部門第一位を獲得し、つづく『ルイズ その旅立ち』(97年)ではを製作。2000年には『伝説の舞姫 崔承喜 金 梅子が追う民族の心』。
2005年2月23日(水)17:30〜18:30
Q ベアテさんに昨年11月インタビューさせていただきましたが、お話好きで、よく笑い、気さくだけど、とても知的な方だと思ったのですが、彼女のそういうところがよく出ている作品でした。監督は今までも『ルイズその旅立ち』『伝説の舞姫 崔承姫』等、歴史に埋もれて一般的には知られていないことや、日本人が忘れてはいけないことを映画にされています。日本国憲法草案作成の時、アメリカの若い女性が男女平等など女性の権利条項に関わったということは知っていましたが、この映画が上映された時に、初めてそれがベアテさんだと知りました。お父様と日本との繋がりや、憲法が作られた時のバトルについては、彼女からも聞きましたが、製作に至るまでのご苦労をお聞かせいただけますか?
監督 厳密には、私はこの映画の企画に最初から参加はしていないのです。赤松良子さんたち(元労働省局長)がベアテさんについての映画を作ろうと立ち上げた時には、どういう映画にするかは決まっていなかったのです。2003年の暮れに話が持ち上がって、翌年の1月に呼ばれてお話を聞いたのですが、私も実はベアテさんが憲法に関わったことまでは知っていましたので、面白いから作ろうと。皆で色々相談して、ベアテさんが憲法に関わった経緯や24条の条項をどのようにして苦労して入れたかの部分をクローズアップしようということになりました。私は何も知らなくて『憲法24条』という題にしようとまで言ったのですが、12〜3年前にすでに「憲法24条」というテレビドキュメンタリーがあって、それがきっかけでベアテさんが憲法に関わったことが広く知れ渡ったのですね。それまではベアテさんは、22歳の女の子が関わって憲法が変わったということで、それを種に憲法改正しようということになってもいけないと、ものすごく親しい方にも話していなかったのです。そのことをとても自覚していて、市川房枝さん(来米した時、ベアテさんが通訳を担当した)にも話していませんでした。あとで後ろめたかったとおっしゃっていました。参考資料用の憲法の本を集めるのにも、図書館の場所を変えたという位、気配りの利く頭のいい方です。
テレビドキュメンタリーが放映された後、各地の婦人団体で講演される機会がありましたが、私はむしろお父様のレオ・シロタさんのことは知っていました。ベアテさんの映画のお金が集まらなくてうまくいかなくても、レオ・シロタさんの映画は作りたいなぁと思っていました。でも、レオ・シロタさんが長く日本にいたからこそ、ベアテさんは憲法草案に携わることになったのです。運命のいたずらというか、因果関係があるのですね。
ただ、GHQの女性職員が草案を書いたとしても、映画にまでもしようと思わなかったと思います。彼女自身も憲法作成に関わるように言われた時、運命的なことを感じたそうです。ご両親が日本好きで、本人も日本に長く住んでいて、戦前の日本女性の地位の低さ、人権のなさを身を持って知っていたからこそ、女性の権利を織り込んだ憲法が必要と考えたのだそうです。日本側と調整する時に通訳として関わったけれど、日本のこともよく知っていて、日本への愛情もあるので、日本側の心証がよかったのですね。最高責任者はベアテさんが日本側に気に入られていることを見抜いて、この条文はベアテさんが草案を作ったことを伝えて、通ったのだそうです。そこには目に見えないけれど、お父さんのシロタさんの存在があるので、それを映画で解き起こさないといけないと思いました。映画の魅力としても、ただ理屈だけの話ではないものにしたかったですしね。
Q シロタさんは名前しか知りませんが、日本人には情があるので、そういう部分から入っていったのがよかったと思いました。
監督 音楽が全編レオ・シロタさんのもので、とてもロマンチックな弾き方です。今はテクニックが優先されますが、今のピアニストの方に聴いてもらったら、“音楽を聴いた”“魂を聴いた”と言われました。人柄、夫婦仲もよく、一人娘のベアテさんへの愛情も深くて、ソフトな心情を持った方です。芸術家にありがちな女を作るということもせず、奥様を尊敬しているという暖かい家庭だったそうです。音楽家にはエキセントリックな方が多い中で珍しい方。ベアテさんは家庭の中で男女格差なく育ったのが大きく影響していると思いますね。
恵まれた環境に育ったベアテさんから見た戦前の日本の女性は、ほんとうに身分が低かったのです。皆さんご存知ないでしょうけれど、家父長制度の中で権利も全然なかったのが、24条のおかげで民法の中でも家父長制度がなくなりました。完全に平等な権利を獲得したのは24条のお陰なのですよ。
話をいただいた翌年、テレビドキュメンタリー「憲法24条」をビデオで見たら、とてもそれを越える映画は作れないと思いました。10年以上経っていて、関係者もかなり亡くなっていますしね。そこで、焦点をベアテさんだけでなく、24条を受けた日本の女性が戦後どのような歩みをしてきたかを撮るという風に方向転換することにしました。活字ではたくさん出ているけれど、映像ではありませんでしたので。そこで、誰を選ぶか、どういう職業の人を選ぶかが問題になりました。男女平等は、職場だけでなく家庭をはじめ、あちこちにある問題です。切り口は色々あるけれど、やらせならともかく、家の中にカメラを持ち込むわけにもいきませんし、一番目に見える形で職場での男女平等に焦点をあてようということになりました。企画者に労働省の方がいたので、官に偏らないよう、石原一子さん(高島屋元重役)や住友電工の方など民間の方も取り上げました。民間の苦労はお役所とまた違いますしね。石原さんを取り上げたので、民間の方にも受けがよかったですね。それなりに蒼々たる人が各分野にいらっしゃるので、誰を取り上げるかが難しかったですね。法曹界にももちろん早くから活躍している女性がいますけれど、24条のお陰で、徐々にですが女性も進出してきました。男女雇用機会均等法の影響もありますが、「国連婦人の十年」以降、目に見えてステップアップしてきたと労働省出身の製作委員会の方たちは言いますね。70年代のウーマンリブもその前兆ですが、「国連婦人の十年」以降、色々な運動が起きて、今は女性学も盛んですし。
戦後の女性史の部分は、誰にどういう話をしてもらうかが難しかったですね。女性史を知っていれば知っているほど難しい。あの人が出ていないなどの不満も出てきます。そういう方はそういう人を取り上げて、別の作品を作っていけばいいと腹をくくりました。
今年は憲法問題で盛り上がる時だというので、去年の女性映画祭で話題を作っておかないと間に合わないということがあって急ぎました。去年の5月に撮影を始めて7月中には撮り終えていました。その後、9月まで資料を撮り足したりしながら編集をしました。
Q こういう映画を作るときには、撮影前の準備に時間がかかると思うのですが・・・
監督 1年、お金が集まらないだろうと思いましたが、準備は始めました。ストラヴィンスキーの曲があるのは前の年にわかっていました。
Q シロタさんの音楽はレコードから?
監督 CDをベアテさんに提供していただいて使わせていただいたのですが、私の好きな曲を場面に合うように選んで、音楽デザイナーの方にお願いしました。
Q ウィーンにもロケにいらしていますよね。
監督 やっぱりシロタさんの生い立ちや、ベアテさんのウィーンの頃の写真のこともありますのでね。
Q ベアテさんの子供時代の日本での8mmがよかったですね。
監督 あれは、ものすごくあるのですよ。2時間位。素人撮影ですけど面白いでしょ。お金の工面がついたら、レオ・シロタさんの映画を作りたいですね。東京だけでなく、ほんとに日本のあちこちを8mmに撮っていらっしゃいますね。
Q 戦前の日本を知る貴重なものですね。
監督 あの古い8mmは、ほんとに戦前の日本の姿が色々映されていて、銀座もあるし上野もあるし・・・。観たいでしょう? 戦前の日本で撮った写真もものすごくあるのですよ。
今回、フィルムではとてもお金がかかってできないというので、まずビデオに撮ってからハイビジョンに落として、さらに35mmのネガを作って、今は16mmのフィルムにしていますが、岩波ホール上映時には35mmのフィルムで公開する予定です。この部分でお金がかかりました。取材はそういう意味では楽なんです。ビデオで撮っていますから。
それにしても戦前のところは、皆さん面白がりますね。ベアテさんの8mmは、すでにベアテさんが海外のテレビ局でビデオにしてもらっていますので、それをいただきました。フィルムですと必要なところを切って使う形になりますが、ビデオにしてありますので編集して好きなように使うことができます。
Q 女性の戦後史だけをみると硬くなってしまうのですが、ベアテさんとお父様の部分があるので、バランスがとれてよかったと思いました。
監督 ただGHQの女性職員の考えた条文だと、映画としてはエンターテイメントの部分が削がれて面白くなかったと思うのです。いきなり日本に来たアメリカ人じゃ説得力もなかったと思います。レオ・シロタさんは戦前ピアニストとしても教育者としても、ほんとうによく知られた方で、戦後日本の音楽界、特にピアノ界を引っ張ってきたのは、やはり亡命してきたユダヤ人のクロイッツァーとシロタさんの教え子たちなのですよ。
Q 『戦場のピアニスト』など、ユダヤ人のことが映画でも描かれていますが、そういう形で日本に来ていたユダヤ人がいたということは、よほど興味がないと今の人たちはあまり知りませんよね。
監督 極端なことを言うと、シロタさんはナチが台頭して帰ろうにも帰れなかったという事情もありますが、ほんとに日本が好きだったようですね。
Q 「1945年のクリスマス」を読んでいたら、子供に継がせたかったけど、音楽の素養はない、でも、語学の素養があるのをお母さんが見抜いて色々な語学を学ばせたとありました。お母さんが見抜いて教育を与えていたのがこのことに繋がったのですね。ベアテさんは幸せな人だなぁと思いました。
監督 ベアテさん自身はほんとに幸せな方ですね。面白いのは、お父さんのところにくるお弟子さんたちを見て、とてもかなわないと思ってピアノは諦めたそうですね。ダンスをやりたかったけれど、お母さんがあなたの足は向いていないと言って、外国語をやりなさいと言ったそうです。そう言われても頭が良くなくちゃできませんけど、彼女は日本語入れて7ヶ国語できます。でも、GHQの軍属で日本に来たのは、本来はパパとママに会いたかったからで、仕事をしに来たわけじゃないと。しかし、与えられた仕事をこなし、軍に協力した人たちのリストを作っていたりした時に、戦前の日本のことも知っているし、日本語も達者だからと、憲法草案作成に起用されたようです。憲法草案を作る為に集められたスタッフの人たちは、アメリカの中ではリベラルな人たちで、軍服を着ているけれど、元々は学者や弁護士やジャーナリストたちで、どちらかというと文化人が軍人になって来ていたという意味で、日本は幸せだったと思います。色々な国の憲法のいいとこ取りをしたようなものです。
Q ベアテさんも、「日本の憲法は色々な国の憲法の英知を集めたものだから素晴らしい、例えば、アメリカの憲法にも男女平等の言葉はないのですよ」とおっしゃってましたね。
監督 ベアテさんは自分の草案がずいぶん削られてしまって泣いたと言いますけれど、あまりに細かいところまでは憲法に載せられなかったのでしょうね。でも、残ったのは大事なところですよ。この映画を見て若い人の反応がどうなのかと。日本の若い人にとって、男女平等は当たり前、空気の様で何を今さらと思う人が多いのではと思います。だからこそこの映画が必要だと思っているのですが。石原一子さんを見ていると、身につまされるという人はいるみたいですね。いくら均等法があっても実際差別はありますから、見ていて涙が出たと言いますね
Q 男女雇用均等法が出来るころに、労働組合にいて、会社側が均等法に合わせて会社の仕組みを変え、女性がのし上がれないようにして、なおかつ政府から文句を言われないようにしようとして、逆に女性の権利を押さえつけようとしたのをみました。今、実力のある人は上に上がれるけれど、今や男性も女性も色々な意味で押さえつけられているような気がします。
監督 今、男性も女性も企業では管理体制が非常に強くなっている気がしますね。相当優秀な方でも大学を出て働く気がしないと言いますね。
Q 民間で働いている一般の女性の立場から見ると、この映画は蒼々たるメンバーが出ているのですが、雲の上の人のような気がして、かけ離れている部分も感じました。先駆者が必要だと思いつつ、自分の現状とだいぶ違うなぁと思いました。
監督 この映画では唯一住友電工の方たちが一般と近いかなと思います。一方、もっともっと偉くなっている女性もいるわよと言う方も製作委員会にもいたのですけど、この映画は戦後の女性の歩みを描いているのですから…
Q せっかくの歩み逆行させないようにということを思い起こさせてくれる映画でした。
監督 そういう風に受け取っていただければと。確かに男どもはガードがすごいですからね。一方、今、少子化であわてているという面もありますね。女性は力を発揮させれば優秀な人が大勢いるのに発揮させてこなかったということを政府もわかってきて、これからは子供も作りながら仕事ができるという体制を作って女性の力を活用させないといけないと考えていると思います。私たちの頃とは大分違ってきて、実力のある女性が登用されたり発掘されたり、それなりのポストについている時代だと思います。
Q それ以前に、経済的不況の影響の方が大きいですね。
監督 あいかわらず企業が朝礼をしたりするのは、軍隊のような感じでおかしいですよ。企業がああいう形で管理体制を強めていますけど、私から言わせれば携帯電話も、どこにいても追いかけられるし、E−mailでも色々な情報が入ってきて、取捨選択をしなくてはいけなくて、時間に追われている感じがします。確かに便利だけどたまらない。ものすごく人間の自由を奪っていると思います。私は映画会社に勤めて、経営方針が気に食わないからストやったりしていましたけど、そんな時代とは訳が違って、携帯電話やインターネットで管理されている感じがしますね。私はファックスは使っているのですけど、あれなら大事なものしかまずは入ってこないでしょう。インターネットでは全部見なくてはいけないでしょ。今は結局機械に使われている感じがします。男女平等にもその側面があって、そこまで掘り下げていないということは甘んじて受けます。先駆者たちの努力を知ってほしいですね。
Q 他にメッセージは?
監督 空気のようになってしまっているかもしれないけれど、男女平等を忘れないでほしい。生かすように自覚しないといけない。男たちは虎視眈々と隙を狙っています。この映画を企画した時には、まさか24条には手をつけないだろうと言っていたのですけど、自民党の憲法調査会の案の中に入っていてびっくりしました。9条改正と連動しているという、うがった見方をするジャーナリストもいます。男性は戦場に出かけ、女性は銃後の守りという昔のパターンを復活させようというわけですね。戦後60年たって、最近『杉の子たちの 50年』を上映してくれという話があちこちからあります。そういうものを忘れてはいけない。
Q 本とは違う力が映画にはありますね。
監督 映画を観て、感性を通じて感じてもらいたい。製作委員会はもともと映画人ではないので、もっとスーパーを入れて欲しいと言う方もいたのですが、映画はテレビとは違います。テレビでは、ここはどこだとか、ちょっと聞き撮りにくいとすぐにスーパーが入ります。「それは映画館で観る映画では駄目だ」って私はがんばりました。テレビは“情報”だけど、映画は“表現”。暗いところに入れられて無理矢理観るのだから、画面を凝視して観てもらいたいですね。今のテレビはやたらスーパーを入れるけれど、映画ではあまり入れてはいけません。手話など必要なら、別にそれに対応したものを作ればいいのですよ。
24条は、心して用心しないと、どういう風に逆戻りするかがわからないということを若い人に言いたい。9条と結びついて考えられる可能性がありますから。少子化も女が働いているからと結びつける人もいますしね。
私は子供が出来た時に、「だから女は」と言われたけれど、両立できないとしたら、社会の方が悪いと言ったのですよ。今、政府があわてて対策をたてているでしょ。
Q 英語版は?
監督 もう出来ています。しゃべりはスーパーで、ナレーションは英語で入れています。編集も日本版と同じです。海外でも上映されるといいのですけどね。もうひとつ言いたいのは、憲法9条のことなのですが、政治家が日本も普通の国になって、世界に貢献しなくちゃいけないと言うでしょ。日本が世界に何ができるだろうと言うと、9条を世界に広めることです。それに原爆を受けたのは日本だけ。それを声を大にして言うべきです。ベアテさんに言ってくれと頼んだのではないのですが、最後に彼女が、女性の力で9条を海外に広めてくださいと言ってくれました。今、9条改正について、相当危ない状況です。戦争では子供や女性の被害も大きいですから守らなくては。私は体験者ですのでね。10年前に学童疎開の映画を作った時、よもやこんな時代になるとは思いませんでしたが、自分の子供時代の体験として作っておこうと思ったのですよ。この映画を歯止めにしようとは思ってもいませんでしたが、この調子だと実際にどうなるかわからないですよ。戦争体験者が減ってきて、政治家の中でも少なくなって、いい悪いは別にして、宮沢さんや野中さんあたりは経験者だから、憲法守ろうと言ってますでしょ。少なくとも9条は。これは是非声を大にして言いたいところですね。この映画のテーマは男女平等だけれど、ベアテさんのメッセージとしては平和憲法の意味合いも一緒に考えないと。もう当たり前のことじゃないかも知れないのですよ。男女平等も。日本は完全に平和ボケしています。徴兵制ができたりして戦死者が出てからでは、もう遅い、手遅れですよ。
Q 二党制になってきたこと自体、準備だと思っているのですが…
監督 自民党が小選挙区制にしたのは、自民党独裁になると思ったからです。意外とそれはならなかったけれど、小選挙区制には絶対反対です。半分が死に票になります。その不満がこの社会の不満に繋がっていると思います。今、血なまぐさい事件が連日起こっているのも、もしかしたらそういう鬱屈したものが現れているのではと思います。小選挙区制は人心を荒廃させ、良くない。価値観が多様化している時代、二党制では駄目。民主党も元の社会党の人たちが歯止めになっているのは確かでしょうけれど、組織が割れても頑張ってもらいたい。
Q 次に作りたいものは?
監督 もう歳ですから、大作は作れないと思っていますが、唯一心残りはレオ・シロタさんの映画ですね。実際かなり撮ってありますから、アメリカに行って、シロタさんの晩年に関する部分を撮影すれば出来るかなと。割合現実味がありますね。
Q この映画の公開でシロタさんの名前も知られて、次回作に繋がるかもしれませんね。ところで、レオ・シロタさんは、ベアテさんが憲法に関わったことをご存知だったのでしょうか?
監督 ご存知だったと思うのですけれど、それは今度聞いてみないとわからないですね。憲法が公布になってからは、しゃべったのではと。その時お父様がどうおっしゃったか、今度の映画では聞いてみたいですね。
Q 亡くなる一年前にお父様は日本に凱旋してコンサートをなさっていらっしゃいますね。
監督 そうですね。ベアテさんはついて来なかったのですけれど。あれから1年ちょっとで亡くなられ、お弟子さんも、ずいぶん亡くなられましたけれど、是非お父様の映画を作りたいですね。
今回の映画は、男の人が意外と共感して面白がってくれました。反発するかなと思ったのですが、案外評価してくださっているのですよ。
余談として非常に興味深いお話をしてくださいました。
◆ 憲法が絡んでいますし、全然知らないことも多かった。労働省の初期の話なども面白いと言いますね。労働省の初の女性局長となった山川さんが、全国に婦人少年室を開設して室長はすべて女性にしろと命令して、いまだにほとんどが女性という状況が続いていますよ。あの人たちは転勤が日本全国にわたるので、独身の方も多いし、奥さんが単身赴任したりとか。あの方たちの話だけでも一本の映画ができるほど、それぞれの地域に密着した色々な話を知っていて面白いのですよ。尻助金といって、昭和58年頃までは少なくとも制度の残っていたところがあるのですが、ボランティアで地域の為に働きに行くとき、女性が行く場合、男性よりも力が足りないということで、お金を出すという制度なのですよ。そういう話も初めて知りました。売春禁止法でも、身体検査のことは男の室長だったら取り入れたと思うのですけど、女性の室長だから絶対反対と言ったのですよ。
藤原監督は、とても信念を持って映画を製作している素晴らしい方でした。『ベアテの贈りもの』は、ベアテさんの贈り物である憲法24条と、女性の権利獲得史を綴った素晴らしい記録映画といっても過言ではありません。私自身この映画に出会えてことをとても誇りに思えます。
映画より
講演会でのベアテさん | |
日本に再来日したころのベアテさん | 父、レオ・シロタ・ゴードン |
第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基として、相互の協力により、維持されなければならない。 2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。 |
Marriage shall be based only on the mutual consent of both sexes and it shall be maintained through mutual cooperation with the equal rights of husband and wife as a basis. With regard to choice of spouse, property rights, inheritance, choice of domicile, divorce and other matters pertaining to marriage and the family, laws shall be enacted from the standpoint of individual dignity and the essential equality of the sexes. |
24条をめぐっては、それが法律婚主義や異性婚主義を採っているという批判が市民の間にある。しかし学界では、24条は婚姻家族の存在自体を国家が保護することよりも、家族構成員の「個人の尊厳」を重視した条文であり、法律婚尊重主義ではない、という解釈が近年有力に唱えられている。
また24条を異性婚主義と決めつけることもできない。24条の婚姻に関する原則は、「当事者主義」「同権」「相互の協力」(1項)、さらには「個人の尊厳」「両性の本質的平等」(2項)にあり、同性婚の積極的な排除にはない、という主張は十分に成り立つ。むしろそれら諸原則は、論理的に突き詰めれば同性婚に親和的であるとすら言えるだろう。
また、ベアテ・シロタによる24条草案に「婚姻と家族とは ・ ・ ・男性の支配ではなく」とあったように、24条が否定しようとしたことの一つに「男性の支配」があったことはもっと重視されてよい。異性婚主義は異性愛主義(ヘテロセクシズム)を前提とするが、異性愛主義が「男性支配」の社会的産物であることを、現代のフェミニズムは教える。「男性支配」を否定する原意をもっていた24条を同性婚に親和的な条文とみなすことは決して不可能ではない。
このように24条は現代的な課題にも応えうる積極的な価値を持っており、24条を擁護することは法律婚・異性婚を保守することを意味しない。
「STOP! 憲法24条改悪キャンペーン」の公式サイトより
家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統は、善きにつけ悪しきにつけ国体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは、法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然であるとの考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意に基づき、かつ男性の支配ではなく両性の合意に基づくべきことを、ここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それに代わって、配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻および家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定さるべきである。
妊婦と乳児の保育にあたっている母親は、既婚、未婚を問わず、国から守られる。彼女達が必要とする公的援助が受けられるものとする。嫡出でない子供は法的に差別を受けず、法的に認められた子供同様に、身体的、知的、社会的に成長することに於いて機会を与えられる。
養子にする場合には、その夫と妻、両者の合意なしに家族にすることはできない。養子になった子供によって、家族の他のメンバーが、不利な立場になるような偏愛が起こってはならない。長子(男)の単独相続権は廃止する。
公立、私立を問わず、国の児童には、医療、歯科、眼科の治療を無料で受けさせなければならない。また適正な休養と娯楽を与え、成長に適合した運動の機会を与えなければならない。
学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる場合であれ、これを禁止する。
国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低貨金を満たさなければならない。
すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な量低の生活保護が与えられる。女性は専門職業および公職を含むどのような職業にもつく権利をもつ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ貨金を受ける権利がある。
『1945年のクリスマス』(柏書房)より