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女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
71号   pp. 47--48

『花の夢 ―ある中国残留婦人―』
東志津監督インタビュー


 今年(2007年)の七月、中国残留孤児訴訟の原告側が国の提案する新たな支援策を受け入れることを決め、訴訟終結の見通しが立ったというニュースが流れました。奇しくもその日、このドキュメンタリー映画『花の夢 ある中国残留婦人』の上映会が下北沢で開かれました。(世田谷「優れたドキュメンタリーを観る会」といせフィルム合同企画)そして満場の観客は、その朝のニュースとほんの少し言葉が異なるだけなのに、あまり聞き慣れない、中国残留婦人という境遇にある一人の女性の壮絶な人生に触れて胸を打たれたのでした。

 中国残留婦人というのは国が終戦当時十三才以上であれば、自らの意志で中国に残ったと見なしている女性たちを表します。そのため、帰国政策によって帰国した中国残留孤児と違って、帰国のための支援もなく、生活補助もありません。映画は、その一人である栗原貞子さんの口から語られる、苦難に満ちた過去と、慎ましく穏やかな現在とを対比させ、もう二度と戦争だけはやってはいけないという彼女の思いを強く静かに伝えます。

 さらに栗原さんの言葉からは、中国で出会った夫の長さんとの深い愛と絆が浮かび上がってきます。臨月の栗原さんを不憫と思って妻にめとり、過酷な生活のためか乳のでない彼女と子どものために近所にもらい乳をして育ててくれた長さん。お二人の出会いは、人の縁の不思議さをあらためて感じさせます。

 若い東志津監督は、栗原さんと出逢って初めて中国残留婦人という存在とその歴史を知り、大変衝撃を受けたそうです。何しろ学校教育では近代史を教えることはほとんどなく、よほど個人で興味を持たない限り、第二次世界大戦前後の史実は知り得ないのが現状です。監督の初めて知った事実に対する素直な驚きが映画を通して伝わり、観る側の驚きと共鳴します。タイトルが示すように、深刻な内容の割には、どこか優しさと救いがある作品です。

 その東監督に制作の経緯などのお話を聞くことができました。


― この作品を作るきっかけはテレビの撮影の仕事だったそうですね。

監督 東京都江東区のケーブルテレビの番組を作る仕事で栗原さんを知りました。江東区は帰国者の方が多いんです。地元の取材をする中で、名字は日本名なのに日本語が話せない方が結構いるといのは、どういう事なんだろうと調べていたら、中国残留婦人という言葉に出会いました。そして残留孤児とはまた違った境遇で、国にも認められず、悲しい人生を送られた方がいたと知ったんです。そこで区の残留婦人を支援している方に相談したら、栗原さんを紹介してくれました。テレビ用には一ヶ月余りで仕上げましたが、それだけで収まるような内容ではないなと思ったんです。自分の中で消化不良のような感じがして、その後も個人的に取材を三年間続けていきました。

― 栗原さんの帰国は、帰国者の中でも早いほうだったのですか?

監督 日中国交回復した七五年に一度里帰りを果たしていて、その時の費用は国が支援してくれています。でも里帰りと永住帰国では全く扱いが別なんです。国の残留孤児に対する帰国事業が盛んになるのは八〇年代ですが、栗原さんは割と早く八〇年に永住帰国します。しかし支援を受けられず全て自費でした。九三年に残留婦人の方たちがグループで帰国されて、結構話題になったようですが、その時ではないんです。

― 中国残留孤児だけでなく、栗原さんのような残留婦人や、去年公開された『蟻の兵隊』に描かれていた兵隊や、日本に中国映画を紹介した森川和代さんのように満映にいた父親について渡って、終戦後も長きにわたって帰れなかったという事実があったりと、あまり知られていないけれど本当に多くの人たちが紙一重のところで中国大陸に残されてしまっているのですよね。栗原さんの周囲でもたくさんの人たちが亡くなって、修羅場をくぐり抜けて生き延びたわけですよね。

監督 栗原さんの場合はお腹に子どもがいて、その命をいかにして守るかを考えて行動したことが大きかったようです。まだ四ヶ月で動けたことも幸いしたと思います。臨月で逃げるさなかに産み落とすしかなかった人たちも多かったんですから。

― そんな中で中国人の夫となる長さんとの出会いは大きいですね。

監督 そうですね。後半は二人のラブストーリーのような感じもあります。

― 中国でのお二人の生活についてもお話は随分聞かれたんですか?


監督 大戦後も中国国内は混乱が続きました。貧しい農民で、豊かな土地を求めながら転々としたり、やっと得た土地も次の年には人民公社ができて全部、国に没収されてと、とにかく貧しい中をずっと生きてきたという話をされていました。

― しかし、文革の話も含めて、あまりその辺には焦点を当てていませんね。<\p>

監督 文革のことは決して映画で述べている程度ではないし、説明しようと思えばいくらでもあるのですが、そういった歴史的情報ではなく、栗原さんと夫や子どもの関係や、その内面的なものを出したいと思って、あえてそういうものはさらっと見せるようにしました。

― その栗原さんの現在の生活と内面を表すものと思えたのが猫の大吉でした。節目ごとにあの猫が現れて、監督はかなりシンパシーを感じているように思ったのですが。

監督 あの猫に関していろんな見方をする方がいて面白いと思ってます。自分ではあまり意識をしていなかったのですが、気がつくとカメラを回してました。なんだかホッとするし。それに栗原さんのことを一番よく知っているのは、本当はあの猫なのかなとも思ったのです。栗原さんが猫をかわいがって、話しかけたりする姿が、子どもをかわいがるようでもあり、亡くなった夫やたくさんの友人たちの魂を慰めるようでもあったんです。

― 当時の栗原さんの写真がたくさん映画にもパンフレットにもありますが、満州での写真など混乱の中よく残ったなと感心したのですが。

監督 ひとつには、撮った写真を日本のお母様に送っていて、それを大事にお母様が保管されていたということがあります。シワのついた写真は栗原さん自身が持って逃げたものなんです。現在のわたしたちが、もし取るものもとりあえず逃げる状況になったとして、写真を持って逃げるかというと、あまりピンと来ないのですが、当時の人にとっては、写真は生き魂というか、分身のような思い入れがあったようで、とにかく写真を持って出たようですね。

― 一枚の写真を何度も、しかも結構長い時間映画の中で映し出していますね。その意図は?

監督 その写真の眼が強くて、寂しく見えたり、笑って見えたりして、栗原さんの青春を象徴しているように感じて使いました。肝が据わって、生きるんだっていう意志も感じたし。あと、わたしたちが写真を見ているのだけれど、逆に写真の彼女が現在のわたしたちを見ているような強さもあって、何かを突きつけられているようにも感じます。そうして過去と現在を対峙させてみようという考えもありました。

― 栗原さんが満州で結婚した日本人の夫は生きていらしたんですよね?

監督 はい。終戦後すぐに帰国されたのですが、栗原さんを探すすべもなく、仕方なく別の方と再婚されていました。七五年の一時帰国のときに再会を果たしています。お二人の間には子どもがいたので、栗原さんにはきちんと日本人の子として認めてもらいたいという思いがあったのです。その願いは叶い、認知されたのですが、そんなに幸せな再会ではなかったようですね。何十年と経っていて、互いに別の家庭があったわけですから。それもひとつ戦争が引き起こした悲しい出来事だと思います。

― 栗原さんには現在、曾孫が十八人いると言っていましたが、孫ではなくて?

監督 そうなんです。曾孫が十八人、孫は三十人いらっしゃいます。子どもは六人ですね。

― 子だくさんですね! では、大変な苦労をされたけれど、今はたくさんの孫、曾孫にも恵まれて、一番良い時を過ごされているのですね。

監督 貧乏して苦労しているけれど、家族がいるのが何よりも幸せという感覚なので、残留者の方たちは大体家族が多いですね。

― でも、栗原さんは一人暮らしをされていますよね。

監督 そうです。子どもたちも、生活が楽なわけではないですし、栗原さん自身がとても独立した方なので、一人で暮らせる間は一人でと考えているようです。生活費は子どもたちが出しあっているようで、年金も数年前から少し出るようになったようです。

― 映画を観ていて、監督と栗原さんの関係性がうまく築けたというのが感じられたのですが、栗原さんにとって監督は一番年下の娘くらいの感覚になっていたのでは?

監督 実は栗原さんのお孫さんと同い年なんです。だから特に警戒心もなく接してもらえたのかなと思います。いてもいなくても、カメラを回していてもどうでもいいみたいな感じでしたから。それに、最近まで映画が本当にできると思っていなかったと言ってました。「この子は大丈夫なのかしら」って心配されていたようで、わたしとしても、こうやって映画になってようやく栗原さんに顔向けができるというか、ホッとしてます。

― 映画として形になるに到ったのはいせフィルムとの関わりが大きいのですか?

監督 縁があっていせフィルムの事務局で働くようになり、撮ってはいたもののまとめられずにいたものが、伊勢さんや音楽の方とのやりとりで段々と方向が見えてきました。誰でも撮るには撮れると思うのですが、それを形にしてお客に見せてお金をいただくというところにまでなるかならないかには凄い差があります。わたし一人ではノウハウもなく、絶対できなかったですね。今回は周りにいた方々がこの映画のテーマにとても共感してくれたので、凄く力をもらえた気がします。伊勢さんはよく「キャッチボールの相手」と言うのですが、ボールを投げているばかりではうまくならないし答えも出ないけど、投げたボールを返してもらって、そのボールをまた投げ返してというやりとりを的確に、愛情と情熱を持ってやってくれる人がいるかどうかは、ものを作るときにはとても大きいです。そういう人に出逢えたというのは、わたしにとって非常に大きな事でしたね。

― ナレーションの余貴美子さんもいせフィルムからつてを得たのですか?

監督 いえ、余貴美子さんとは誰も接点がなかったのですが、わたしは余さんがいいなと勝手に思っていて、ダメもとで掛け合ってみたらOKがとれたんです。これまでもテレビのドキュメンタリーなどでナレーションのお仕事をされていて、ナレーションというものに興味があったようです。それに余さんのお父さんは台湾人で、全く関係ない話でもないので興味を持ってくださったようです。

― このテーマは撮っておかないと、生き証人の方々がいなくなってしまいますよね。

監督 ですから、今、このタイミングで残せただけでも本当に良かったなと思っています。

― 今後の展望は?

監督 特に決めていないのですが、今回の作業を通して感じたのは、女性を撮るのが面白いということです。ですから、また女性を撮りたいなと思っています。


(取材:宮崎、梅木、まとめ・写真:梅木)
取材協力: 347 café

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