女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
40号   pp. 56 -- 57

夜半歌聲/逢いたくて、逢えなくて


レスリー・チャン、やっぱり人間離れした美しさにうっとり!・・・か?

斎藤 愛

 どうにも張國榮は「怖い」人というイメージがある。自己陶酔し切っているさ中、 「あ、この人目がすわってる。」というのに気づいてしまったせいだろうか? 「自分は美しい」というとぎすまされた己の感性は、鋭利な刃物のように周囲の 人間をそれと気づかぬうちに深く傷つけるような気がしてならない。「怖い」のは、 周囲の人間が傷つけられたことに気づかず、なおも彼を追い続けることだ。 妖艶な美しさを持つ密林の花が、実はその場所に迷い込んで行き倒れた人間の 死体を養分にして、あでやかに咲き誇っている、と言ったら言いすぎだろうか。



 『夜半歌聲』。「ウツクシイレスリーサマ」の香港版ファントム・オブ・ジ・オペラ なんですが、どうにも歌曲が「香港イマドキポップス」。元々は歌手として活躍していた 人だということを認識させられ、映画出演を通して彼のファンになった人々にとっては 嬉しい驚きなのかもしれません。それにしてもこの映画、レスリー・チャン・ ミュージックプロモーションビデオか?!と思ってしまいます。

 ウー・チエンリエンの描き方も哀れすぎます。恋人・レスリーと無理やり引き裂かれ、 おつむの軽いボンボンに嫁がされ、初夜に血を見なかったというただそれだけで、 殴る蹴るの暴行を受け、挙げ句に家を追い出される。実家の親もまた当たり前のように 勘当する。こうなったのも皆、愛するたった一人の男のためなのに、かの人物は 廃人と成り果てた彼女を助けようとはしない。その理由が「事故で醜くなってしまった 顔を見られたくない」から、ときたもんだ。自己愛ここに極まれり、と思わざるを 得ません。そんな彼を廃人になってまで恋慕うなんて、あんまりにも女性を 馬鹿にしているような気すらしてしまいます。ちょっと話が飛ぶけど、正月に観た 司馬遼太郎原作のテレビドラマ『竜馬がゆく』を思いだしてしまいました。 主演が『大地の子』の上川隆也(自分こそが竜馬の大ファンだとも言っていたし) だというので期待していたのに、何だか感情移入できない。おかしいなおかしいなと 首をひねってやっと分かったことには「何で竜馬の周りの女性が皆、訳もなく彼に 魅かれるのか?」が全く分からないから、でした。この映画、そこのところが何となく 似ています。カリスマ的な人物でありさえすれば何の動機づけも必要なく誰もが 彼に魅力を感じる、という設定は、今の時代どうもついていけません。一九三七年 発表のオリジナル『夜半歌聲』(馬徐維監督、胡萍・金山主演)では、主役の 宋丹萍は辛亥革命の烈士で、追手から逃れるために役者になりすまして劇団に もぐりこんだという設定で、映画の内容も時勢を反映していると言えます。彼が 革命という手段にしろ、演劇という手段にしろ、暗黒の世の中に光をもたらそうと 努力していたからこそ、当時の中国社会は彼をヒーローとして捉えることができ、 土地の名士の娘が彼と恋に落ちることだって熱烈に受け入れられたのでしょう。



 この映画で光を感じるのは、黄磊。長服がお似合いです。セピア色の画面の中で 長服を着た彼は、どことなくいにしえの領袖のような風格が。現在アン・ホイ監督の 『半生縁』で、黎明の友人役・叔恵を演じているとのこと。大陸の映画雑誌 『電影故事』昨年一二月号では「人称“小張國榮”(ミニ・レスリー・チャンと呼ばれて)」 という題がついており、黒の革ジャンを着て視線斜め上方四五度あたりに向けている 黄磊の写真が載っています。「全然違う人だと思うけどなあ」と、私は少し不満。 同じく『電影故事』によれば、記事もあり、本来は舞台劇の好きだった彼が現在 撮影中の『半生縁』の役を引き受けた動機を語っています。「(引き受けた) 理由には二つあります。二人、と言ってもいい。一人はアン・ホイ監督。彼女の 映画を観たことがあります。もう一人は張愛玲(チャン・アイリン、作家)。 彼女の文集も前に読んだことがありました。ここのところ自分の役の叔恵のことについて 考えてばかりいる。彼はとても不思議な人物で、何でもやってやろうと思っていながら そのくせ何一つできなかった人。彼を解釈するための情報はたっぷりあります。 彼の性格はいくつかの異なる次元が重なってできていて、そこには多くの暗示が 潜んでいる。」また、「これからどんな作品を撮っていきたいですか」という 質問に対してはこんな風に答えています。「それは恋愛と一緒だね。ある子は とっても綺麗だけど、自分はどうしても彼女を愛せない。でもまた別のある子は ちっとも綺麗じゃないのに、自分にはとっても可愛く思えてつい追いかけていってしまう。 そこには何か法則や理由がある訳じゃないんだ。ある脚本は他人が皆とてもすばらしいと言い、 あなたにぴったりと言う。でも自分じゃ全然気に入らない。でも別のある脚本は、 一目見ただけで気に入ってしまい、演じたいと思う。その役を自分のものにし、 自分はその役になりたいと願う。僕はただ真面目にやっていきたいと思っているだけだ。 誰かの手による脚本、そこから生み出される映像が、自分の魂の一部分である役だ ということに、真剣に向かい合いたいだけなんだ。」

 まだまだ子供のように無邪気で、スタッフや俳優仲間から可愛がられているだけかと 思ったらこんな風に大人のような発言もする、そこで「おっきな子供」となったようです。 「ミニ・レスリー・チャン」ではない別な呼び名に変わる日はそう遠くないと思います。

 何だかんだ言っても、泣かせるラブ・ストーリーではあります。臆することなく 社会の枠組みを越えて愛し合うタンピンとユンエンの甘い甘いシーンは、 「中国人でなきゃ、出せない味だよなあ」とその濃厚さに心をぎゅっと掴まれて しまいました。一言で言えば、「こっぱずしい」んだけれど、あたりはばかることのない 恋する二人というのを見事に体現していて、中華的刹那的レンアイの型を踏襲していると 言ったらいいのでしょうか。いつも思うんだけど、普段は誇り高くてわがままな 女の子が、恋人の前だと拗ねたり必死になったりし、恋人は恋人で女の子を 神さまかなにかのように大事にして全く彼女のいいなり、というパターンは、 どうして中国人が演じるとこんなにぴったりはまってジンとくるんでしょう。 この映画の場合、それを演じる恋人たちはかなり一般庶民から遠く隔たった夢のような 存在なんですが、それでもリアルに彼らの切なさとか相手を恋する潤んだような気持ちが 伝わってきます。

 自分では「レスリー・チャンって怖い」などと思いながらも、画面では彼を恋慕って 気が狂うウー・チエンリエンの演技を観ながら、滂沱の涙を流してしまうのは、 いったい何故?

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