女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
40号   p. 81

あるシナリオライターを偲んで



 去年、十二月も押詰まった二十九日、あるシナリオライターの告別式があった。 いかにも彼らしい告別式であった。それは線香臭い仏式でも妙な神式でもなく、 ましてナンチャラ教なんてものでもなく、お花を供えるだけのまったくの無宗教式で あった。普段は不信心のくせに単なる習慣で数珠を手にしていた私は、式場の雰囲気の 中で人に知られぬように、そっと数珠をポケットに仕舞い込んだ。

 彼の名は『廣澤榮』。彼などとだいそれた不遜な呼び方を この際許していただきたい。なぜか先生と素直に呼べない。確かに彼は私のシナリオの 先生だった。しかもたった一人私に「書け」「書け」と奨めてくれていた、私にとっての 重要な一人だった。それでも頑として私は「時間がない」ことを理由に一文字すら 書かなかった。駄文は書けてもシナリオは書けないと。それが素直に先生と 呼びかけられない事情である。

 告別式は彼の友人たちの暖かい送別の言葉であふれていた。特に最後の鎌倉アカデミア 時代の同窓生たちは彼の青春時代を語り、みんなで校歌を歌って送った。私は彼の 書いたものは全部読んでいるので彼の青春時代のことを良く知っているような気分で、 友人たちの送別の言葉がことさら胸に沁みた。

 彼の文章はうまかった。読んでるにもかかわらず、まるで映画を観てるようなシーンの 転換。もし彼に喘息という持病がなかったら、映画を愛して止まない彼は良い映画を 作った筈だ。彼にはそれだけの実力も気力もあったが、体力がなかった。よく好きな お酒をチビチビやりながら、助監督時代の『七人の侍』の撮影状況や、黒澤明の 映画の作り方を、楽しそうに、懐かしさを込めて私たちに話してくれた。他の映画監督の 撮影裏話もいろいろ聞いた。酒好き、話し好き、人好きだった。

 最後に話したのは電話で、『わが青春の鎌倉アカデミア』が出版された時だった。 「不祥の弟子」とすら言えない、何も書かない、いや書けないだけの私にいつも律儀に 出版された本を送って下さるので、お礼の電話をした。今にして思えば「骨折をした」 とかでどことなく声に元気がなかったような気がした。にもかかわらず、日常生活に 埋没してちょっとひっかかった気になったことも忘れて日が経った。「そのうちに また電話をしましょう」と思いつつ。

 何年も前のニューヨークで学生映画を作った時の経験を書いた私の文章を、 その時にも憶えていて「あれはよかったなあ」と何度も言った。そしていつも電話の最後に 「ベンさんによろしく」と付け加える。先生にベンを紹介する機会のないままに、 私が話す夫ベンのことを聞いて「良い人でよかったな」とも言ってくださっていた。 あったかい人だった。

 懐の大きな人でもあった。日本人的な「ダメ」出しをせず、「誉め育て」を する人だった。私のような中途半端なものの書いた物にも、必ず一言誉めてから 「こうしたらもっと良くなる」と的確なアドバイスをくれた。アドバイスをしながらも、 彼の頭の中でどんどんイメージが膨らんだのかもしれない。次ぎから次ぎに 考えてもいなかったストーリーの展開を私にぶつけてくる。どれをとってもスケールが 大きく奇想天外なのだ。ほんとに映画が好きだったのだろう。

 彼が亡くなって、私は誰にもシナリオを読んでもらえなくなった。また一つ書けない 言い訳がふえてしまったわけだ。こちらにいる私たちに彼を失った様々な無念の 思いはあるが、『映画シナリオ集』『シナリオ作法』を私たちに遺し 『黒髪と化粧の昭和史』と『わが青春の鎌倉アカデミア』で彼が生きた時代と彼自身の ことを書ききった彼に悔いはないのかも。眼鏡を取って花に埋もれた眠り顔の彼の 足元に、家族が入れたのだろう、彼の著書などと一緒に甘いものが入っていた。 安らかにお休み下さい。

廣澤榮 享年七十二歳

Y.外山

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