N. 藤岡
李少紅監督の最新作『べにおしろい/紅粉』プラス、一挙になんと60作品連続上映という、 中国映画ファンにとっては夢のようなイベントがやって来た。日程は別記の通り 八つの期に分かれており、「戦後50年?移り行く中国の貌」というサブタイトルにふさわしく、 第五世代監督の代表作から記録映画まで網羅した、かなり多彩なプログラムだ。 思えば三年前、“中国映画の全貌2”の『五人少女天国行』を観に行ったのが、 中国映画に傾倒するきっかけであった。それ以来、中国語圏映画を求めて あっちこっちへ飛び回るのが趣味となってしまった私である。今回も観たい作品は 数々あれど、これだけは!という3本に絞り、つごう2回上京した。 |
〜中国映画の全貌95 上映プログラム〜第1部 解放中国と輝ける中国映画
第2部 新中国への道
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★『べにおしろい/紅粉』実はこの映画は、今年の二月に北京ですでに観ている。四月に“全貌”で 上映されることは知っていたので別に観るつもりではなかったのだが、 映画館前に掲示された「今月の上映スケジュール」によれば、寧静(『哀懸花火』) の新作『奥菲斯(オフィス)小姐』をやっているはずの日時に、出掛けてみたら これをやっていたのだ。モギリのおばさんに文句を言ってみても、「ああ、 それは明日からなの。ごめんね〜」といい加減。まあ、実に中国的ではあるが…。 まあいいかと観たのはいいが、ナレーションによって物語が展開していくので 聞き取り切れず、悲しいかな肝心なところが把握出来なかった。 そこで再度東京で観直すことに、 物語の舞台は1950年、新中国成立後の蘇州。人民解放軍により、ある朝突然娼館が 閉鎖された。姉妹のように過ごしてきた二人の娼妓、秋儀(チウイ)と小咢(シャオウ)も 労働改造所に送られる、姉さん格の秋儀は窓から逃げ出してなじみ客の金持ちの若旦那、 老浦(ラオブー)の元へ身を寄せる、一緒に逃げ出す度胸の無かった妹分の小咢は、 泣く泣く改造所に残りその後工場労働者となる。秋儀と老浦の蜜月も老浦の母親の反対で 破局を迎え、秋儀は尼寺に身を寄せるが、老浦の子供を身ごもっていたことが分かり 拒絶される。貧しい実家に戻ってみても彼女の居場所はない。 やむなく茶館の老店主の妻となる秋儀、一方、工場の仕事になじみきれない小咢は 老浦に再会し、すがりつくように彼に頼り始める。老浦は去っていった秋儀に 心を残しながらも、やがて小咢の妊娠を機に彼女と結婚する。しかし時代が変わり、 浦家は没落して生活は苦しくなるばかり。いさかいの絶えない二入。とうとう思い余った 老浦は勤め先の公金を横領してしまう。その金で小咢にはつかの間のぜいたくを 味あわせてやり、秋儀にも大金を送るが、間もなく逮捕され死刑となる(!)。 残された小咢は赤ん坊を秋儀に託して別の男と共に町を出て行く、老浦の子を 流産したために子供の生めなくなっていた秋儀は、引き取った赤ん坊を自分と 夫の子として育てていく。 パンフレットの解説によれば「嵐のような変革の波に抗い漂う二人の女と 一人の男の姿を華麗な絵巻物のように映し出した」作品というが、「華麗な絵巻物」 には疑問、冒頭の水路をはさんだ娼館のある街並みや、小咢と老浦の婚礼の日、 訪ねてきた秋儀と小咢が再会する下町の細い通路など、いい場面はあるものの、 どこかぼやけたような平板な感じのする映像で、今一つ印象に残らない。それは この作品全体に言えることなのだが、とにかく画面が常にうす暗く曇っているのだ。 どう見ても芸術的効果をねらっているとは考えにくい程に。最初北京で観た時は、 スクリーンか映写設備上の問題かとも思った。しかし今回、仕上げ(現像)が 原因ではないかと気が付いた。昨年から海外との合作映画に対する中国当局の締めつけが 厳しさを増しており、脚本のチェックの他、仕上げの編集を中国国内で行うことが 義務づけられていたのだ(今までは、例えば『紅粉』と同じく中国・香港合作の 『紅夢』なども、現像は東京で行われていた)。解説には「柔らかく精緻な映像」 ともあるが、『紅夢』の優美な映像と比べてみると、本作品の画質はどうにも 見劣りするように感じられる。規制強化のことは新聞記事などで知ってはいたが、 このような形でその悪影響をまざまざと見せつけられるとは…。創る側、 観る側双方にとっては迷惑なことこの上ない。とは言え、私は映画の技術面に関しては 非常に暗いので、この差がカメラマンの技量によるものなのか、ポストプロダクションが 原因なのか、または単に自分の気のせいなのか正確には判断がつかない。 この映画をご覧になった方、どう思われますか? 映画の内容そのものは、“ヒロインが運命の波に翻弄される”いわゆる大河ドラマ的な 作品が好きな私にとってはなかなか楽しめた。あくまで自らの意志と選択によって 人生を切り拓いていこうとする秋儀と主体性がなく常に誰かに頼らずにはいられない 小咢(彼女の老浦に対する身勝手振りは、あきれ果てて却って笑える)。人が 良くて誠実だが、激動する社会の変化に対応しきれず、ついには破滅する老浦。 三者三様の生き方が、時にはメロドラマテイックに、時には喜劇的に描かれていく (老浦と小咢の夫婦喧嘩の場面は北京の映画館で大受けであった)。波欄万丈な展開に ナレーションの効果も手伝ってか、“朝の連続テレビ小説”を観ているような気がしてくる。 この物語(原作は『紅夢』と同じ蘚童)、テレビドラマになってもかなり面白いのでは ないだろうか。と言うのも、この『紅粉』には黄蜀芹監督(『舞台女優』『画魂』) の手になるテレビドラマ版もあるのだ。版権がらみでいろいろもめたらしいが観てみたい! 主演の三人について。秋儀役は大入気テレビドラマ『ニューヨークの北京人』で、 姜文と共演して一躍スターとなった王姫。小咢『紅夢』で第三夫人を演じた何賽飛、 元々は越劇団の名女優とのこと。老浦は王志文、テレビドラマを対象とする、 “飛天奨”“金鷹奬”で、『ニューヨークの北京人』の姜文を破って最優秀主演男優賞を 受賞するは、歌を歌えば北京青年報のヒットチャートで四週連続トップとなるは、 の人気スターらしい。 ★『家々の灯』(原題《万家灯火》)1948年製作。1948年と言えば、日中戦争の傷も癒えないままに始まった内戦の時代、 新中国成立直前の混乱期である。日に日にインフレが高まり社会は不安定。 そんな時代を背景に国民党支配下の上海に暮らすある一家の物語。 貿易会社に勤める主人公胡智清は、妻子と共に一家三人つつましく暮らしていた。 そこへ田舎で生活出来なくなった母親と弟夫婦がやって来て同居することになり、 巻き起こる様々な悲喜劇を通して、家族の絆や厳しい社会の現実をリアルに描いてみせる。 奮闘する智清をこれでもかこれでもかと不幸が襲う様がスゴイ。会社のために 身を粉にして働いたのに、同郷の社長には裏切られクビになる。狭いアパートの部屋に 総勢8人、気の遣い合いも限界を越え、嫁・姑が大喧嘩、双方家を飛び出し、 妻は流産してしまう。生活費、医者の支払い、田舎に帰る母親の旅費の工面…。 バスの中で大金を拾い、それまで真面目・正直で通してきた智清の顔に浮かぶ、 一瞬の迷いが切実である。結局落とし主に返すのだが、泥棒呼ばわりされた上に 袋叩きに遭い命からがら逃げ出したかと思えば、自動車にはねられる、 その自動車に乗っているのは、彼のクビを切った同郷の社長…。最後には妻も母も 智清のもとに戻り、智清は家族を支えに生きて行くことを誓うのである。 あらすじだけ追って行くと、目まいがするような話だ。しかし、家族がお互いに気がねし、 お互いを思いやる様が、ごく自然に押し付けがましくなく描かれているのがいい。 とりわけ弟の妻、せりふもない脇役だが、ちょっとした身体の動きや目線などに 「いたわり」や「心配り」が滲み出ている。ごく控えめな演技なのになぜか印象に残った。 ★『街角の天使』(原題《馬路天使》)これだけは何があっても絶対に観ようと決めていた。初めて題名を耳にし、 主演俳優の名前を知った時から不思議と心ひかれた1930年代の名作。革命前の上海の 下町を舞台にした貧しい若者達の物語、中国映画史上に残る名優・趙丹の代表作であり、 一世を風扉した人気女優・周旋のデビュー作。“黄金ののど”を持つと言われた彼女が 劇中で歌った「四季の歌」は、未だに中国人に愛唱されている。断片的に集めたそれらの 情報はまだ一度も観ていないうちから、この映画を私の中で特別な存在にした。 いつかは観たい、けれどもなかなか上映の機会に巡り会えない、“幻の映画”だった。 昨年の秋、『春の河、東へ流る』(1947)を観た、1930年代から40年代にかけて 上海は東洋のハリウッドと呼ばれ、中国映画史上の黄金期を築いた数々の名作を 生んだと話にはよく聞くが、実際に作品を目にしたのはこれが初めてだった。 「日本軍の東北侵略から日本の敗戦までの15年の歴史を背景に、ある男女の出会いと結婚、 そして家族の離散、再会の悲劇」を描いたドラマで、こういう作品は実に私好みだ。 前編・後編に分かれて195分という長尺であるが、その完成度の高さ、物語と俳優の演技の 豊かさに感動してしまった。こうなると、ますます『街角の天使』への期待が高まってくる。 それだけに今回の上映を知り、小躍りするほどうれしかった(家の中でではあるが、 私は特別うれしいことがあると実際に躍ってしまうのである)。ありがとう、 大映(株)東光徳間事業部!ああやっと観られるよ〜♪♪♪♪♪ 『街角の天使』は、私を裏切らなかった。超丹は貧しい楽隊のラッパ吹きに扮しているが、 モダンでスマートで私が今までに見た中国人俳優の中でもっともハンサムだった。 冒頭、大通りを楽隊が行進する場面はセリフがほとんど無くて無声映画風であるが、 彼のチャップリンばりの軽妙なしぐさが楽しい。可憐という言葉がぴったりな当時17才の 周旋もなんと愛らしい表情を見せることか。二人の窓越しの恋の駆け引きやしゃれた キスシーン、彼らを取り巻く愉快な仲間達も本当に生き生きとしていて、前半はほとんど 明るい青春映画だ。物語はやがて周旋の身に振りかかった災難がもとで、つらく やりきれない結末へと展開していくのだが、全体の印象は決して暗く悲惨なだけではない。 この頃の上海映画は1920年代のアメリカ映画の影響を色濃く受けているそうで、 本作も明らかに『第七天国』(フランク・ボーザージ監督/1927)に影響されているらしい。 超丹自身、ルビッチなどのハリウッドの巨匠達をよく研究したと言っている。私は 元々映画好きという訳ではなく、中国好きが高じて中国映画を観るようになった クチであるから、実は古今東西の古典的名作の類いはあまり観ていないし ルビッチも名前しか知らない。けれども、彼らに学んだ超丹の演技とその主演作が かくも魅力的であるのを知ったからには、観たくなってくるではないか、 古いアメリカ映画の名作を。こうして中国映画を案内人として、改めて映画の世界の 奥深さ、面白さに誘われる私であった。 とりあえず、『街角の天使』を観たいというかねてからの念願は叶えられた。けれども、 今回『街角の天使』に続いて上映された『十字路』や『からすとすずめ』は 観逃してしまった、それに、阮玲玉。今年の香港国際映画祭の特集の一つ 「早期香港中国影象」で一番話題を呼んだのは、阮玲玉主演のサイレント映画、 『恋愛と義務』だったと聞く。上海映画のサイレント時代を代表すると言われる彼女の 出演作もぜひ一度観てみたい、それもスクリーンで。中国語でファンのことを“迷” という。中国映画に完全に“迷って”しまった身としては、次なる“幻の映画”を求めて、 まだまだ夢見続ける日々を送りそうだ。 |