女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
31号   pp. 2 -- 15

☆特集 とーく


『青いパパイヤの香り』
とーく
『青いパパイヤの香り』〜スゴイくせにイヤな映画〜
『The Client / 依頼人』
とーく
『ルッキング・フォー・フミコ:女たちの自分探し』
とーく
補足
「ルッキング・フォー・フミコ」


青いパパイヤの香り

◆トーク参加者
関口 松永 橋本 田野倉 地畑 宮崎 外山 出海 佐藤

 佐藤

「では『青いパパイヤの香り』を…。 何人観たの? えーと7人?8人! 私は封切りの一日目か何かに行ってしまったのね。 とても前評判が良かったし、 ベトナムの映画で、あ〜観たいなって、とても観たときにショックを受けまして。 こんなはずじゃなかったって。さて、皆さんはいかがでしょうか?」

地畑

「シネマスクエアとうきゅう始まって以来の入りと 聞いて、へえどんな映画かと思ったけど、ベトナム人の監督と聞いていたのに 観てみたらフランス映画で…。」

佐藤

「監督の顔が素晴らしくステキだから それでいいかなって。(笑い) いい男じゃない? 天声人語にも、出てたし朝日は凄い 肩入れしちゃってんのよ。」

地畑

「若い監督が撮ったから今風の感覚かなと 思ってたら、時代を描いているっていうのもあるげれど封建的。でも絵は綺麗。 現代音楽みたいなのはちょっと。でも、始まって以来ってほどのものなのかな?」

佐藤

「宣伝がうまかったんじゃない?」

関口

「私は全くダメ。ウチのサークルの男性軍 (40〜50代)にはとても評判がよくて。男性から見れぱああいう従順な女の子って 理想なんですね。色も綺麗で。これってアートなんですね。台詞が少なくて、 色と撮影が綺麗で。私はかえって通俗的な後半の方が面白かったわ。」

松永

「私は予告編を見た時はそんなに 興味がなかったの。そのうちあちこちで絶賛されて、とーくでやるっていうので 観たら、良かったなと。パーフェクトに良かったという訳ではないげれど。 確かに封建的だげど、地に足をつげて生活を担っている女性が、描かれていましたし、 台詞は少ないけどよくできているなあって。」


◆おじさん好みの映画?

 宮崎

「今まで何本もベトナムの映画を観ているけど、 ほかの物とは全然違っていて、フランス映画と聞いて、そう観れば、ああそうなのかと。 映像美として観ればいいけれど、観たあとの男性の反応がいやだわ。 今の時代の女性にはないとかなんとか。」

地畑

「現代のマイ・フェア・レディだよな、 なんてね。」(笑い)

関口

「この映画おじさんたちが喜んでいるのよね。」

外山

「評判が良かったので観に行ったけど 最初意味ありげな音楽を使っているので、これは面白くなりそうだゾ、 と期待して観てたのね。絵も綺麗でしょ。カエルとかのアップも綺麗なのよね。 子供の目がすごく可愛くて、これはきっと何かあるんだろうと観てたんだけど、 最後まで何もなくてだまされた、という感じ。シナリオがすごく中途半端。 前の家と後の音楽家の家の関係が全然わからなくてね。」

出海

「何かあるってどういう事があるって 思ってたの?」

外山

「ドラマチックな展開があるんだろうって 期待してたんだげど、最後までなくて。あれ?なんだこれカラッポな映画だなって。」

関口

「結局、新しい映画を観に行ったのに 古くさい映画を観ちゃったって感じ」

外山

「そう。だけど画面が綺麗だなって感じはしたし、 やっぱりこれってフランス映画なんだな。」

佐藤

「フランスのスタジオで全部撮ったっていうし、 カメラ技術はうまいんでしょうね。」

外山

「だけどアップにすればなんでもいいってものでもないし。」

佐藤

「あの女の子もそんな美人じゃないけど、 すごく可愛いなんて言われているわよね。」

地畑

「五輪真弓に似てる。」


◆サイゴンヘの郷愁

 橋本

「観た友達に絵が綺麗だったと聞いていたけど、 その他の事はいわれなかったので期待してなかったけど、監督がどうしてこういう風に 写してるんだろうって考えました。フランスにずっと住んでいて、あこがれのある ベトナムの空気の流れに郷愁を感じているのかな。」

佐藤

「ベトナムというよりサイゴンにね。 昔フランス人が占領していた時代の古きよきサイゴンね。『インドシナ』や 『愛人ラマン』などと比べながら観てたんだけど、昔そこに住んでいたフランス人は、 サイゴンをとてもノスタルジックに思っているのね。沢木耕太郎なんかも、 昔のサイゴン、上海、ベルリンに憧れてるなんてどこかに書いてた。」

地畑

「監督の顔はベトナム人だけど、 心はフランス人なのね。」


◆主人公に表情がない

 橋本

「最後に妊娠していて胎動に「あっ」て、 初めて感情をこめて言う…」

松永

「あそこで黄色いパパイヤの色のアオザイを 着ているのよね。」

関口

「だからパパイヤを女性にたとえているのよね。」

佐藤

「それまでほとんどずーっとしゃべらないでしょ。 だから意志がないのかと思ってたのよ。あとで考えると素人がやったから、 アートなのにセリフをしゃべらすと下手でバレちゃうからなのかも」(笑い)

田野倉

「アカデミー賞外国語映画賞に ノミネートされていたのでいいのかなあと思ってました。だけど女の人に表情がなくて 能面みたい。コオロギの声や青いパパイヤの綺麗だけど漠然としたイメージだけが 残ってます。」

外山

「効果音もすごく意味ありげなのよ」

地畑

「ちょっときどりすぎだったよね。」

佐藤

「本当に。カメラもわざわざ家の中を回ったり、 セットの中をどうやって撮ったのかしら。小道具がたいへんだったでしょう。 なんてミエミエ。」

出海

「私達アジア人が見るからそう思うのよ。 西洋人から見るときっと、この不思議な感覚はあのアジア特有の能や歌舞伎にあるような とかなんとか。」

関口

「もともと西洋人が昔日本映画を好きだったのは こういう伝続美、様式美でしょ。」


◆背景とか、まわりの家族は?

. 、

 関口

「当時のペトナムってこんなに平和だったわけ?」

佐藤

「チョコチョコと出てはくるけど。 外では何かやってるって感じ。」

関ロ

「ここでは関係ないみたいなのが気になっちゃって。」

佐藤

「あのベラベラ楽器弾いてる旦那は なんだったの?」

外山

「おばあさんも嫁いじめちゃって。」

佐藤

「へんなおじいさんがあのおばあさんを 好きだったっていうのも、意味ないような気がする。」

松永

「でもね、日本映画でも戦争の足音が 聞こえているような時でも、一般家庭では普通に朝ごはんを食べているとかあるでしょ。 そういうのを出したかったのだと思うの。ベトナム映画だとなんか戦争がないと おかしいと思うし、そう期待するし、外国人がベトナムを描いたものは みんなそうでしょう。そういうものを意識的に排除したのでは?」

佐藤

「それはわかるのよ。そういう意味で ベトナム戦争などがかすかに聞こえてくる映画を作りたかったんだと思うけど、 あまりに中身がねぇ。生活をこまかく描写しているのは興味深かったわね。 どういうおかまでご飯炊いてたのかとか、お箸を使ってごはんたべてたり、 日本に似てる」

出海

「プログラムには、“基本的には母親の記憶と 重なってて、ベトナムの自分を犠牲にして夫に仕える女性の姿を描きたかった。 そうした悲劇的な生き方そのものに美を見出した”ってあるじゃない。」

外山

「そう、美に変えちゃうのよね。」

松永

「それはやっぱり男が作っているからよ。 しかも故郷を離れてフランスから見たから、よけい綺麗綺麗なのね。
 あの女主人は使用人をあんまりいじめたりしない。悪い人が出てこない。 子供の目から見ているのね。後半は付け足しだったと思うけど。私は少女の目で 同化して観てるって感じ。」

外山

「あの子がずっと一軒の家にいる方が つながりができて良かったね。」

佐藤

「監督は小津が好きだっていうげど、 イメージはどう?」

外山

「全然違うと思う。小津のシナリオなんて 完璧だもの。」

佐藤

「あの男の子が屁をするとこ、戦前の 小津昧画かなにかに…。」

地畑

「『生まれてはみたけれど』。」

佐藤

「そうそう。あの子達に似てると思わない?」

地畑

「でも私はあの一発ギャグは笑えなかったな。」

関口

「たいていああいうのって初恋なのよね。」

橋本

「ムイが感情を押し殺しているのを 際立たせるためにでてきたのでは?」


◆アジアの女性の自己犠牲って美意識?

 松永

「終わりの方に長男の嫁が出てくるでしょ。 長男は何やってるかわからないけど、女が中心になってささえてるでしょ。 そして奥さん(母親)が隠居して、前におばあさんがいた部屋にいるのね。 あの人だけがずーっと自分をおさえた生活をしてはじめは姑に後はお嫁さんにしきられて 出る幕がない。最後まですっきりしない描かれ方されてる。そんな彼女に 自分の母親を投影しているわけでしょ。」

外山

「上にいたおばあさんに、あんたに魅力がないから 女を外に作ったって言われた時そんな事ありません、って言うかと思ったら、 すいません私がいたらなくてと。ああ、この人こういう性格なんだ、 私にはできないと思ったわ」

宮崎

「でも当時のペトナムの女性の感覚が よくわかる。いい、悪いは別に。」

松永

「統治されている時とその後をはっきり 出している気がする。単なるノスタルジーだけじゃなくって…
 ただね、最後があんなシンデレラ・ストーリーになってて、ヒギンズじゃないけど 読み書きができないからと言葉を教えてもらって、最後に子供を身籠もって 黄色いパパイヤになりました、っていう所で終わるっていうのが本当にいただけない。」

地畑

「マイ・フェア・レデイだって言った人は ラストしか観てないんじゃない? それにアジアの女性の自己犠牲って美意識なの?」

外山

「男の人から見るとそうなのよ。奥ゆかしいとか」

出海

「そして、今の女がそのことに対して 意見を言うと、昔の女性を描いているんだからなんの文句があるのか?って言うのよ。」

佐藤

「女が元気よくなったので、 こういう昔の女性像にひととき接して、心を休めているのでは? 観客に男性が多かったし…」

田野倉

「立ち見が結構いましたね。」

佐藤

「私も立ち見だった。いままでは、はじまったら 絶対入れてくれなかったのに、すーと入れてくれたし、なんじゃこれはって思った。」

地畑

「シネマスクエアで男が多いなんて珍しい。 やっぱり、これは男性好みの映画だったといえそうね。」

(まとめ関口、佐藤)



『青いパパイヤの香り』〜スゴイくせにイヤな映画〜

F. 三澤

 高校の頃、「三つ指ついて夫を迎える軍人の妻に憧れる部分が、自分の中に確かにある」 なんてことを突然言い出して、男女平等を当然のことと考えている自分たちの根底にも、 心から崇拝できるような他者(この場合は男性)に、屈伏して、尽くしたいという願望が 潜んでいることを顕にしてくれる先輩がいた。その先輩の言に同感して以来、 私は自分の中にも、そんな理性と欲望との矛盾があることを認めてきたので、 『青いパパイヤの香り』の「心をこめて尽くす喜ぴ」というコビーに触れたとき、 きっとこの映画は、フェミフェミした理屈では割り切れない人の心の不思議、 尽くすことの美学と自己陶酔を、描いてくれているのだろうと期待した。

 それに、この映画の評判はとっても高かったし、新目などで読む監督の インタビューからはセンスの良さが感じられたので、私は行く前から、 「いい映画だったね」と言いながら館を出る自分の姿を思い浮べてさえいたのだ。

 ところが、シネマ・スクエアを出ながら口にしていたのは「イヤな映画だあ〜」 というせりふだった。

 前半は、いいのである。下働きの少女ムイの毎日の仕事ぶりや、 庭のパパイヤや蟻や主人一家を見つめる彼女の目線を淡々と描くことで、 ムイの内面がいかに穏やかで柔軟で豊かであるかを伝えてくれる、 そんな不思議なカメラの動きに引き込まれて、(初日の初回だったため) 立ち見であることも忘れて気持ちよく見入っていたのだ。ムイの中では、 世界は等しくすばらしいものとして存在しているように見えた。使用人と主人とか、 虫(自然)と人とか、そういう価値感をムイは内面化していない。その上で彼女は、 仕事の中でしだいに身につけていったワザ(料理やお掃除のスタイル)によって、 たとえぱ青いパパイアから絶妙な味の一皿を引き出すように、 自然に形を与えては他人に供していく。

 当初予想していた「自己陶酔」とは全然違ったけれども、「心をこめて尽くす」 ムイの動きと眼差しとには、自我に縛られない魂の豊かさが感じられて、 とても好きだった。主人一家の三男がムイにイジワルをするあたりなんかも また実によくって、「ああ、この監督の目は侯さん(侯孝賢監督)のようだ」 なんて思いながら見ていた。

 それが、ムイが成人した途端、全く変わってしまうのだ。 (少なくとも私にはそう見えた。)

 後半(ムイ役の女優が交替した直後あたり)のシーンで、奥様を気遣いながら 舐めるように見上げるムイの目が忘れられない。あの目にやさしさや心遣いを 感じろっていわれても、私にはムリだ。大人になってからのムイの視線や、 猫背や汗でうなじに張りついた髪の毛が、私はなぜかとってもイヤで、それはたぶん、 大人の女の肉体なのに、子ども時代のものとは全く違うなんとなくドンクサイ精神が 入っているみたいに感じられたせいだと思う(猫背には大人の身体を持て余すような感じが、 うなじの汗には生々しい生理と、それを見つめる男性の視線が感じられた)。

 ラスト近くで、ムイは仕えていた作曲家の妻になって教育を施されるのだけれども、 そのシーンでのムイの目がまた生き生きと自信に満ちていて小間使いの時代と 対照的なのもイヤだったし、黄色い服をきて本を音読するラストシーンのムイが、 お腹には作曲家の子どもを身籠もっていて、黄色い服=熟したパパイヤ、 青いパパイヤの中の白いタネ=少女の中にあって子を胎むのを待っている何か、 というふうに読みとれてしまうのもイヤだった。

 なぜ作曲家がムイを愛するようになるのか? それだって、いま一つ納得がいかない。

 まあ、私がイヤだイヤだと反発するのも、この監督のすごさを感じたからではある。 この映画には好きな場面もたくさんある。子どものころのシーンで、 主人一家の長男の友達(のちの作曲家)が来たときに、妙め物を作らせてくれという あたりとか、この家のおばあさんのことをずっと愛し続けてきた老人とムイとの交流なんか、 とってもいいと思うし、後半でも、外国帰りのお嬢様である作曲家の婚約者が、 「ベトナム女性で恋人の髪を愛撫できる人なんていない」といいながら、 ピアノを弾く彼の髪をいじっているシーンが結構好きで、あれ以来しばらく、 触りごこちの良さそうな髪の男性をみると、ついいじりたくなって困ってしまった。

 だから、こんなにイヤだイヤだといいながらも、トラン・アン・ユン監督の次回作には、 とっても期待してたりする。なんたって、わが愛するトニー・レオン (漢字で書いたら梁朝偉)が主役だしね。



なお、『青いパパイヤの香り』は以下の劇場で、上映が予定されています。

 横浜関内アカデミー/上映中
 仙台シネアート/一月中旬より上映予定


The Client / 依頼人

 40代後半のスーザン・サランドン、本当に美しかった。いい仕事してますね。 いい男たちに囲まれたスーザンがうらやましい〜。その上、ご亭主がなんとあの ティム・ロビンス様なんですよね! こうなると、ちょっと妬ましいけどスーザンなら 許せるのです。 まさしくこの 映画はシネジャー推薦の女性映画。まだ見てない人は必見です!

◆スーザン・サランドンとトミー・リー・ジョーンズが最高

出海

「いかがでしたか、皆さん」

外山

「面白かった。昔みた大好きな映画 『グローリア』を思い出したわ。『パパイア』をけなしてこれを褒めるのも なんだけど本当によかった。トミー・リー・ジョーンズも魅力的だったし」

佐藤

「あたし、まだ見てないの、券買って来たぱかり」

出海

「あたしもこの映画好きだわ。 中2の次男と見にいったけど、二人とも一言もしゃべらないで終わりまで引きずられた」

宮崎

「ねえー、最後に女性弁護士と兄が 死体を探しにいくじゃない。仕事を超えてあの子のために」

佐藤

「やめて、聞きたくない、向こうの部屋に 移動しようかな」

出海

「それと最後飛行場で別れるシーン、 あたしもう、ホロリとしちゃって」

地畑

「あたしも泣いたわ、皆な泣いていた」

出海

「それに、ほら、助手の男性が彼女の肩に 自然に手をかけて歩いていくところ。いいなー、ああいう優しい年下の味方(笑い)」

外山

「…それにしてもトミー・リー・ジョーンズ いいわね(全員頷く)」

出海

「ほら、昔『歌え、ロレッタ』とかいうのに 出てたの知ってる? 妻をカントリーウエスタンの歌手にする夫の役。 あの頃からいい男をしてたんじゃない」


◆しっかりした女性ほど泣ける映画

地畑

「わたし、何かの雑誌で読んだんだけど、 この作品って、しっかりした女性ほど泣ける映画なんですって。そういう宣伝の仕方 してなかったけど。『プリティウーマン』なんかを何よといってる人ほど ころっとくるって、なるほどと思ったわ」

関口

「スーザン・サランドンて今、 女性の理想みたいなところあるじゃない。逞しくて格好よくて」

出海

「それにお高くなくて庶民的で」

関口

「女性がほれるタイプじゃないですか」

出海

「設定がまたにくいじゃない。離婚していて、 しかも大事な子供を夫に巧妙に取られて」

宮崎

「物置で捜し物していて子供の靴が 出てくるでしょう、あたしつい泣いてしまった」

出海

「あたしも」

地畑

「あたしも(笑い)。あとよかったのは、 子供達のお母さんいたでしょ。普通なら、なによわがままで母親の資格あるの なんて見てしまうのに、スーザン・サランドンは批判もしないし、 『あなたの夢は』とか聞いて励ます。トレーナーハウスに住んでる女なんてみたいに、 見下さない。あたしも傷を持った同じ女よと言う接し方」


◆それに比べ男性たちがトンマ

出海

「理想よね、あの女性。でも逆に言うと 男たちがトンマじゃない(笑い)」

地畑

「そう。トミー・リー・ジョーンズは 私はトンマですってわかってトンマやってるんだから(爆笑)」

関口

「だけどひとつ文句いうとさ、予告編では 彼は悪徳検事になってたけど、どうみてもいいおじさんじゃない、 それがちょっと残念だったの」

外山

「それがいいのよ。いい人だからいいんじゃない」

出海

「佐藤さん、ぜったい見てね。 ここに出てくる家族、家庭って考えさせられるものばかり」

外山

「少年たちの母親が白い ウォークインクローゼットのある家が欲しいっていうでしょ。最後に弁護士が白い ウォークインクローゼットもつけてねっていうじゃない。 ああいう一言が泣かせるのよね」

全員

「そうそう(喚声)」

地畑

「あたしもうそこで、ボロボロ」

出海

「ほんとにね、女の人の映画なのよ、 まさしくこれが女性映画」

地畑

「トミー・リー・ジョーンズがああいうふうに サポートしてくれるから、男優さんがよかったこともいいのよね」

出海

「あれがさ。ほんとのトンマだったら大変ね(笑い)」

地畑

「あんたとやりたいなんて言い出したら こまっちゃうよね(爆笑)」


◆女性弁護士と男性の関係

地畑

「1も2もスーザン・サランドンね。 ほら男の子に、何だ女かと言われても、かっーとこないでサラリと受け流すところなんか いいなと思う」

関口

「大人よね。女性って感情的になりやすいって、 どこの映画みても前提になってるじゃない。だけどこの映画みてると男のほうが 感情的でマヌケで、男性が作った映画なのに、女性が最高に魅力的に出来ている」

出海

「何度もいうけど、あの助手の存在も うまいじゃない。スーザン・サランドンのやり方にまかせて、怒りもしないし、 でもきちんとサポートするし、彼女の仕事に一目おいてる」

関口

「いざとなったらお母さんをよろしくなんていってね」

出海

「それはかまいませんけど、なんて答えてさ。 それとあの少年と彼女の関係。恋愛感情ではなんだろうけど、いい関係なのね、 同志のようなベストフレンドみたいな」

関口

「でもあのボク、もう少し利口かと思ったけど けっこうパカだった。あの弟がね、可哀想だった、こんな兄貴もったからあんなに なってしまって」

出海

「それにしても、少年役って最近は皆な美形ね。 それなりにハンサム」

地畑

「『ターミネーター』の子に似てたわね」

外山

「あなた、美形がすきなの」

出海

「ううん、ただ『スタンド・バイ・ミー』 のリバー・フェニックスはハンサムだけどちょっと野生的な部分があったでしょ、 だけど最近は昔のトロイ・ドナヒューみたいにほんとに美形」

地畑

「トロイ・ドナヒュー!」

佐藤

「古い! 死んじゃったんじゃないの、 あの人(笑い)」

関口

「まだ、生きてる! 『漂流教室』にでてる(笑い)」

佐藤

「あんなに変になって、 何もやってないじゃないの、美形はだめよ」


◆魅力的な女性映画の見本

出海

「とにかく女性の共感を呼ぶ映画ですね」

関口

「これ、グリシャムの3部作。中では 『ペリカン文書』がひどかった。主人公の2人が超バカで、痕跡を残しながら 逃げているのね。『ザ・ファームー』はわりとよかった」

地畑

「あれが? だってトム・クルーズって 弁護士なのに机にいないのよ、いつも走っているの。おかしいよ。彼が首上げて 走っている姿しか印象にない(笑い)」

出海

「じゃあ、3つの中ではこれが一番 よくできてる?」

関ロ

「あのねグリシャムの話って、すごく枝分かれが 多いのね、前の二つは多かったんだけど、この作品はみんな切ってしまってるでしょ。 この話白体すごくストレートじゃない。だから分かりやすいのね」

地畑

「でも。やっぱりセリフが上手いよね。 ほろりとさせる。目本映画も見習ってほしいよね」

出海

「ほしい、ほしい。『天国の大罪』や 『女が一番似合う職業』と比べてほしい。このキャラクターをいただいて 吉永小百合さんがやったらどう」

地畑

「だってトミー・リー・ジョーンズがいないもの(笑い)」

佐藤

「三国連太郎さんは(爆笑)」

関口

「それに、日本だと女性の活躍ものは 『極道の女』になっちゃう」

出海

「ねえ、セックスしなくても、姉さんでなくても、 仕事仲間の子供を身ごもらなくても十分魅力的なキャリア女性を描けることが 証明されてるわけだから、目本映画を作ってる男性たちも多いに 参考にしていただきたいですね」



LOOKING FOR FUMIKO ルッキング・フォー・フミコ:女たちの自分探し

●サンフランシスコ国際映画祭(米国)サーティフィケート・オブ・メリット受賞
●全米教育映画ビデオ祭(米国)多文化主義部門ゴールド・アップル賞受賞
●クレテーユ女性映画奈(フランス)
●シドニー映画祭(オーストラリア)
●ボンベイ国際映画祭(インド)
●ロンドン映画祭(英国)
●マーガレット・ミード映画祭(米国)
●シンガポール国際映画祭

監督 栗原奈名子

参加者 松永 橋本
シネマジャーナル 佐藤 宮崎

佐藤

「中野武蔵野ホールの一般公開に行ったんだけど、 私が行った時には観客が3人しかいなかったわ。もっと宣伝して欲しい映画だと 思ったんだけど…」

宮崎

「自主上映や女性センターでの時は、 いっぱいだったらしいよ。私は監督とのディスカッションがある自主上映に 申しこんだんだけど、いっぱいだからと断られて一般公開で見てくださいと言われた」

佐藤

「リブに対する知識のある人や関わった人は 見てるけど、最初から一般向けの宣伝方法をとってないのが残念ね。 どうしても狭い範囲の観客動員になってしまっている感じ。朝日や読売には 出てたらしいけど」

宮崎

「宣伝チラシにウーマン・リブは七十年頃 始まって僅か五年で社会の表面から消えて行ったと書いてあって、えーっと思った。 私がリブに出会ったのは七十五年からだったから。それまではマスコミ報道しか知らなくて、 あの人達は何やってるんだろうと、逆に否定してた。それがリブの女たちに出会って 目からウロコだったの。それまで女だからという足かせに息苦しさを感じていたけれど、 そうなんだ自分が生き易いように生きればいいんだと初めて思った。そして 写真をやっていた私は彼女たちの記録を撮っておこうと、七十五年以来女たちの ムーブメントをずっと撮り続けてきたの。もちろん個人で撮るのには限度があるから、 ほんの一部分の活動だけど」

橋本

「今の私達の世代では、女性が色々な道を 選択できるようになって来たと思う。会社の中では女らしさを求められる現実は まだあるけど、この映画を見て、こういう運動があって今の世の中があることが わかってよかった」

佐藤

「リブっていうのは、中ピ連とか田中美津さんの やり方とか、ちょっと過激な部分だけマスコミにとられたけれど本当は世界的な 女性解放運動の流れの中から出てきたものなのよね。私自身のシネマジャーナルの原点も 実はそこにあるの。アメリカン・ニューシネマが出始めた頃で、新しい女性像が どんどん出てきたし、私たちもリブの視点で映画を見ることが出来たの」

松永

「ウーマン・リブが始まった時、 私は高校生だったんだけど、リブの女たちが当時の大学紛争の中で味わった男からの 疎外感を私も高校紛争の中で感じていたから、すごく共感するところがあったの。 それで初期の集会にも行ったことがあるんだけど女は便所じゃない! (注・男の排泄所ではない)というビラを配ってたりして、まだ性の経験もない 高校生だった私にとってはショッキングな内容だったのね。
 だから共感できるだけど何となくこわいお姉さん達がやっていると思って最初のうちは 遠くから見ていた。でも自分の中でそれまでモヤモヤしていた差別の構造が はっきり見えて来たし、生きていく視点がそこで培われたと思うわ」

佐藤

「みんなとリブとの関わりはわかったけれど、 映画としてはどうだった?」

松永

「よくできていると思った。押さえるべきところは 押さえてあったしインタビューの質問も的確だったと思う。実はきちんと 捕らえられているか不安があって、あまり期待しないで見ようと思ってたんだけど」

宮崎

「前評判でいろいろなことを聞いてたからね」

松永

「最後の方で、田中美津さんが今は直接 運動に関わってないと知って始めがっかりしたけどそうではなくて、鍼灸師という仕事を 通して自分の解放をやっているんだということに監督が気づくでしょう。あれはよかった。 自分の問題にあくまでも関わっていくことでまわりも変えていこうとしているということが わかったって」

佐藤

「もともとリブとはそういうものだったんだよね。 自分がいる足元から変えていこうという」

松永

「階級が無くならない限り変革はできない というのが当時の男たちの革命思想だけど、リブはそうではなくまず自分が 解放されることを大切にした。自分が変わればまわりも変わるし変えられる。 そういう地に足がついたやり方が結局は一番確実なんだよね。映画の最初のところで、 日本にリブがあることを知っていたらニューヨークには来なかったと言う 監督の言葉があるけど最後には、そんなことはもうどうでもよいことなんだ。 どこにいようと、そこで自分なりにやっていげばいいんだという風に 変わっているでしょう。そこにも私はすごく共感したし監督の確かな視点を感じたわ」

宮崎

「私もホッとした。ドキュメンタリーとしての 作り方も、七十年代から地道に活動してきて今を生きている女たちの生活を 描いているしね」

松永

「あの人選もいいよね。いろんな人たちがいた中で、 女たちで仕事も住むことも共同でやってきた岩月さんや、企業の中で孤軍奮闘しながら 自分の地位を確立してきて母親と二人暮しの舟本さん、それにあえて入籍せずに パートナーとの間に二人の子供を育てている北海道の女の人や独り暮らしで 大勢の仲間達と今も活動しているフミコさんのお姉さんという風に」

佐藤

「それぞれみんな魅力ある人達よね。 本などでよく知っているんだけど、みなさんにお目にかかったことはなかったので 彼女たちに会えてとてもうれしかった。自分自身をちゃんと表現できる人に会えるのは ほんとうに気持ちいい!」

宮崎

「ウーマン・リブのリブはリベレーション という意味の他に、女が生きるというリブという意味もあるって運動で出会った人に 言われたけれど、それがすごくよく出ていたと思う」

松永

「橋本さんはおいくつですか?」

橋本

「二二才です」

佐藤

「うわー!若いのね。そういう人がこの映画に 関心もってくれるなんて嬉しいわ。うちの娘なんか全く関心示さないから。」

宮崎

「本当はもっと若い人達に見てもらいたい映画なのにね」





補足

R. 松永

 この映画を作るために監督の栗原奈名子さんが日本で取材と撮影を始めたという記事を 朝日新聞で見たのは、碓か三年前のことだった。二十代でニューヨークに 移り住んだ女性から見た日本のリブ運動の映画ということで、何か鼻白むようなピンと こない気持ちが正直いってしたものだ。アメリカのフィルターを通して見た 日本のリブというのがどう見えるのか。ある種結末が想像されて、映画にする意義が 本当にあるんだろうかとさえ思ったりしていた。ところがこんな気持ちは見事に 裏切られてしまった。

 ニューヨークで出会った年上の日本女性フミコから、彼女が日本で関わっていた リブの話を聞いて興味を持ち、彼女の死をきっかけに彼女の生き様のルーツである 日本のリブ運動をたどることで、フミコともう一度出会うという構成は、 清々しい感動を覚える。中野武蔵野ホールで、上映前に監督の挨拶があったが、 飾らない素直な人柄で、映画の中でインタビュアとして、真摯にそれでいて 肩に力の入っていない質問をしている姿そのままの女性だった。

 映画としては短い六十分足らずの内容で様々な側面があったリブのほんの表面しか 伝えていないけれども、当時リブの女たちが自分のアイデンティティを求めて 立ち上がった運動が生活の中に引き継がれて今もずっと続いていることは、 なかなかよく描かれていると思う。

 この映画のトークが終わる頃、横で聞いていた女性たち(二人が二十代、一人が三十代) から、ウーマン・リブは突出した一部のヒステリックな女性たちがやっていたのだと ばかり思っていた、という声が上がって、いまさらながらメディアの罪の大きさに 暗い気持ちになってしまった。現在フェミニズムに共感を示す若い女性たちの中にも リブというとある偏見をもって見られるという話をあちこちで見聞きする時、 私たちがやってきたことは本当にちゃんと伝わってないなあとがっくりきてしまう。 でもそれは伝え方にも問題があるようだ。この映画の宣伝のやり方からしてよくないと さっきの三人は口々に言う。トークの内容を横で聞いていると、この映画の宣伝から 受けたイメージと全く違っているので驚いたというのだ。宣伝媒体に もっと若い女性たちの目に触れる雑誌などを使って、内容もお母さん世代は こうだったんだよという取り上げ方でやらなければ伝わらないと。 (個人的には独身子どもなしの私にとっては、お母さんとひとくくりにされると 迷惑なんだけど) でも、やっぱりそうなんだろうと思う。女性センターや運動体寄りに 宣伝していたのでは、なかなか若い一般の層には伝わらないに違いない。

 「あの」リブの映画だということで、見る前に敬遠されているとしたら、 本当に惜しいことだとつくづく思う。



「ルッキング・フォー・フミコ」

高野史枝

 以前、中国から来ている女性と話していた時「日本人の顔はヘン」と言われて ドキッとした。最近の子は皆ずいぶん小綺麗だし整った顔の人も増えたんじゃ… とおそるおそる反論したが、彼女の言いたかったのはそういう美醜の問題ではなく 「男の人はエラそうな顔、女の人は子供っぽい顔」という共通の印象があって 「個性のある顔が少なく覚えにくい」ということだった。

 なるほどなあ…。男性は自分と企業が合体してしまっていて、誰もが 経営者みたいにエラそうな口をきくし、女性は「いくつになっても可愛い女でいたい (ニッコリ)」など妙にクネッとしていて、子供っぽいと言われても仕方ない。

 「ルッキング・フォー・フミコ」に出てくる女性たちの、画面に出てきた瞬間から 心を奪われてしまうような表情を見たとき、
 「あ、そうか!」とひらめいた。


 「恐る(「思う」の入力ミス?)べきことをキチンと思ってないと、 顔って退化するんだ…」



 映画を見て帰った後、鏡で自分の顔をつくづく見た。キョトンとしたおばさんが、 こちらを見返しているだげで、田中美津さんや舟本さん、大和さんたちの底光りする瞳、 柔らかな成熟した表情の美しさとは比べるべくもなく、心からガックリ落ち込んだ。 映画の冒頭、栗原さんが言うセリフをもじって言うならば、「リブ運動が続いていて 私がそれを知っていたら、私はこんな顔のままでいたでしょうか。……」ま、 それは神のみぞ知ること。多大な期待を持つ訳にもいかないが。



 この映画に出てくるリブ運動が生まれた頃、私は地方の大学生だった。学生運動や 全共闘の情報はかなり入ってきていたのに、こうした女性たちの運動については ほとんどなにも伝わってこなかったといっていい。それでもテレビで時々報道される 「ウーマンリブ」の集会の様子やどこからかまわってきたリブのビラなどを見て、 心魅かれるものがあった。

 その頃尊敬していた学生運動のリーダーに「リブをどう思いますか」と聞いたことがある。 彼の答えは「あれは女セクト主義で斗争全体を見ていないからダメ」というものだった。

 つまり、革命が成功して階扱がなくなり、人間としての解放が勝ちとれれば 男と女の問題など一切なくなるはず、今、男を告発などとギャアギャア言うのは 斗争の足をひっぱるものに他ならないという結論である。

 おまけに、リブとは、基本的に「ブスのヒステリー」だから、 「君のような可愛いコは全然関係ないヨ。」と言われた覚えがある。

 別にその言葉に説得されたわけではないが、アホな私は、“何かヘンだな” とおもいつつ、結果的にはリブには出会わず終(じま)いになった。 その後は仕事だけは手放さなかったものの、普通に結婚して二人の子供を作るという 人生を選び今に至っている。



 つい自分のことぱかり書いてしまったが、映画としてみた 「ルッキング・フォー・フミコ」は充分な面白さを持っていると思う。

 映画を見るとき、私がいつも尺度にしている「作り手が何を伝えたくてこれを 作ったかわかる」「出てくる人間が魅力的」という点で、合格点が出せる。何より、 「パワーのある日本人女性監督よ、出(いで)よ」 という私の願いがかなってとても嬉しい。

 栗原さんは上映会のときの話しぶりを聞いても、著書(ニューヨーク自分さがし物語) を読んでも、器が大きく、すっとぼけた味もありそうで、次の作品が待たれてならない。 映画に出てきた「オナニーの仕方まで学んだ」という札幌リブ合宿の頃の話や、 岩月さんがプロデュースしている魔女コンサート、また田中美津さんの半生など、 リブの中にも面白そうな題材がごろごろしているようで、今度はドキュメントではなく フィクションとして実現してもらいたいものだと思う。

シネマ.ジャーナルの前号 「女ざかり」のトークにあったけれど、本当に吉永小百合さんが “女性の感性で撮られた映画が出て来ないかな”と思っているとしたら、チャンス! ロ説いて是非出演してもらえば興行的にも、話題性もあるし……と、 こちらの夢が勝手に膨らんでしまう。





監督プロフィール/栗原奈名子

早稲田大学政経学部卒業後、雑誌編集者として活躍。1984年、ニューヨークに移り住み、 現在に至る。本作で撮影・共同編集を担当したつれあいのスコット・シンクラーと 二匹の猫、アトムと曙とともにマンハッタンで暮らす。

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