棚橋 香予 アジア文化交流祭は、映画や音楽、ゲストの方々などを通してアジアの素顔を知ろう、 というイベントである。発起人は、中国をはじめとするアジア映画の上映に力を入れている ミニシアター、 シネマスコーレの木全純治支配人。 第一回は一九九二年六月。 「第一線で活躍しているアジアの映画人を、東京経由ではなく直接名古屋に招いて イベントを」という企画で、台湾から楊徳昌(エドワード・ヤン)監督をゲストにお迎えした。 第二回となった昨年は、「中・港・台は世界を制覇できるか?」と題し、 中国から『香魂女』の謝飛(シェ・フェイ)監督、 台湾から『上海暇期』の杜又陵(トゥ・ユイリン)プロデューサーをお招きした。 第三回となる九四年は、韓国に焦点を当て、且つ中国語圏も堪能しようと、当初、 次のようにプロクラムを組んだ。
ゲストは、『雲南物語』の張暖忻(チャン・ヌアンシン)監督、 『銀馬将軍は来なかった』のチャン・ギルス(張吉秀)監督、 韓国の映画評論家イ・ヨンイル(李英一)氏が海外から。 他にも各映画に因んだ方々を地元や東京からお呼びした。 さて、冒頭で述べた『雲南物語』。先号で宮崎さんが紹介したように、 戦争で中国残留婦人となった実在の日本人女性をモデルにした映画で、 彼女が中国で育んだ家庭のこと、雲南で彼女が受け入れられる過程などを描いた秀作。 主演は台湾の呂秀菱(ルー・シュウリン)。 若松孝二監督の『われに撃つ用意あり』でベトナム娘を演じ、 今回は日本人を演じたのだが、箸の持ち方は台湾人のまままだった。 これ以上は言わないけれど。 杜又陵プロデューサーは、香港資本で中国及び台湾のスタッフとこの映画を製作した。 台湾のプロデューサーは、専ら香港映画を製作しては台湾でヒットさせているようだ。 昨年六月の文化交流祭で杜又陵氏は「中国での撮影をほぼ終えたのだが 主人公が日本の父母を訪ねるシーンが残っている。実は、まだロケ地を決定していない」 とのことだった。 それを聞いて、文化交流祭の事務局を置いているシネマスコーレは、是非とも 協力させてほしいと申し入れた。九月、岐阜県郡上八幡大和町と名古屋市内で 一週間の撮影が行われた。 映画が完成したのは九四年一月。知らせを聞いた我々、交流祭スタッフは 早く『雲南物語』を見たかった。また、去年の交流祭から大和町ロケの話が 始まったことでもあるので、これを今年の交流祭の一つの目玉にしたかった。 杜又陵氏と交渉した結果、シネマスコーレが『雲南物語』を配給することになり、 交流祭での先行上映が可能になった。フィルムを輪入して宇幕を打ち込めば 本邦初公開という次第だ。これまで、私たちが上映する映画を検討する際に 一つの条件があった。それは日本語字幕のついたフィルムが存在する映画であること。 即ち、過去の映画祭上映作品か全国配給の決まっている作品だ。 それも上映権の問題などで、見たい映画が必ず上映できるわけではない。 今回初めて、見たい映画に字幕を入れて上映することができるのだ。 皆、少し興奮していた。 『雲南物語』上映は決まったものの、四月になってもフィルムが届かない。 何か手続きに不備でもあったのだろうか。杜又陵氏の事務所に連絡をとるのだが、 アジアを股に掛げるプロデューサーはいつも不在。台湾から香港、上海、北京へと 毎日ファックスを送り、電話をかける。名古屋に来るはずの『雲南物語』が、 まだ北京映画製作所にあると判ったのはゴールデンウイーク過ぎのことだった。 「すぐ送って! 字幕を打ち込む作業は、どんなに急いでも二週間はかかるのだから!」 だが北京映画製作所では、電話番からフィルム番までの伝達に何週間もかかるのだった。 五月二十日、北京からはまだ何も送ってこない。字幕はフィルムに打ち込まず、 ビデオプロジェクターで直接スクリーンに映すよう変更した。フィルムの到着が前日でも、 これなら上映できる。万一のため、張暖忻監督のデビュー作、 やはり雲南を舞台にした『青春祭』のフィルムを借りる手配もした。 それは考えられる最善の策だった。 『雲南物語』は来なかった? いや、六月四日午前、『青春祭』の上映開始と同時に名古屋に到着したのだ。 急遽、翌五日夜の上映を決定したものの、大勢のお客様に迷惑をかける結果と なってしまった。 フィルムを点検する。異常なし。いざ上映。主題曲が流れ、タイトルが出る。 台詞とプロジェクターの字幕のタイミングは合っているか気に掛かる。 お客様には納得してもらえただろうか。本当に、これで良かったのだろうか。 後味が悪い。と、まあ『雲南物語』ばかりダラダラと書いてしまったけど、 それでは次へいきましょう。 今回上映した作品のうち、一番入りの多かったのが、九三年の話題作 『月はどっちに出ている』だった。 崔洋一監督と李鳳宇プロデューサーがゲストということで、既に劇場で見ているけど、 もう一度という方も多かったようだ。人間が本来もつ素朴な欲望を、 他人との関係のなかで、やり抜こう、生き抜こう、表現し抜こうと思うと 軋轢を感じるのだけど、それを伸ぴ伸びとやってみると実は、この映画のように 楽しいんだ、とのこと。また、題名を決める際、本気で「キムチライダー」 にしようとしたという李鳳宇氏は 「この映画は全国七十四の映画館で拡大上映された。この館数は、 東宝、東映、松竹で製作される映画に匹敵する。日本では映画が製作される前に それを上映する劇場が決まってしまう。一般に、インディペンデントの会社では 七十から百という映画館は押さえられない。だが『お葬式』のように爆発的ヒットを 飛ぱす作品が、十年、或いは十五年に一本くらいある。それが 二、三年に一本の割合になると、日本の映画産業も変わるし、、大手 で製作される映画も刺激を受けだろう」 『銀馬将軍は来なかった』の原作者は『ホワイト・バッジ』と同じアン・ジョンヒョ。 彼の小説にはアメリカと韓国との葛藤を描いた作品が多い。またチャン・ギルス監督は 幼い頃、板門店の「米軍接待婦」が大勢住む地域で育ち、韓国におけるアメリカの影響を 追求し続けている。この映画は九一年に製作されたが、八八年までの 反共イデオロギーの強い軍事政権下では、例えば、 「子供のある女性が米兵にレイプされる」といった描写は不可能だった。 検閲の見方が変わった直後に製作された本作は、それまで韓国でタブーとされていた題材を扱い、 「これは反米映画だ」「いや、前半は反米だが後半は親米なのだ」という問題でも 議論を巻き起こしたらしい。 続くパネルディスカッションでもこの映画が話題になり、今度は韓国の女性が 非常に苦しい因習の中で生きてきたこと、また、主人公の女性の強さについて 意見が交わされた。 ところで、チャン・ギルス藍督は、成功作の続く中国・香港・台湾、監督では陳凱歌、 楊徳昌、侯孝賢の三人に注目している。これには崔監督も納得。 それは、映画を作り続ける上で、前へ行こうとする作家は、やはり、同じように 前へ行こうとしている作家を好きになる、ということだそうだ。そして、崔監督もまた、 彼らと切り結んでゆくことに誇りを感じている。 今年のアジア文化交流祭で六月四日に上映する予定だった中国・香港合作映画 『雲南物語』は、フィルム到着の遅れにより、五日夜へと日程変更せざるを得ませんでした。 この映画を目当てに遠くから足を運んでくださった方々、本当に申し訳ありませんでした。 掲載写真キャプション: 後列左から2人目より、張吉秀監督・張暖忻監督、崔洋一監督、 李英一氏、李鳳宇プロデューサー、 その他は文化交流祭スタッフ 編集部より前号で『雲南物語』のプロデューサーは、徐楓と書きましたが、 杜又陵の間違いでした。『雲南物語』は一九九五年六月頃、シネマスコーレ他で 一般公開されることになりました。また、シネマスコーレの企画で作られた 『北京電影学院物語』という本が出版されています。 副題に「第五世代前史」とあり、『紅夢』の脚本家でもあり第五世代の監督たちの 師でもある北京電影学院の先生、倪震(ニイ・チェン)さんの書きおろしです。 シネマスコーレHP : http://www.cinemaskhole.co.jp/ |