女が作る映画誌 ー 女性映画・監督の紹介とアジア映画の情報がいっぱい
 (1987年8月、創刊号 巻頭文より) 夢みる頃をすぎても、まだ映画を卒業できない私たち。
 卒業どころか、30代、40代になっても映画に心が踊ります。だから言いたいことの言える本まで作ってしまいました。
 普通の女たちの声がたくさん。これからも地道な活動を続けていきたいと思っています。どうぞよろしく。
[シネマジャーナル]
31号   pp. 79 -- 82

女たちの映画評




94東京国際映画祭 グランプリ・最優秀監督賞

『息子の告発』

罪と儒教思想

玲子

 この映画は実話をもとに作られたという。観終わって、しばし考え込まされる映画である。 家に着くまで頭の整理がつかず、ずーっとそのことを考えていた。 パンフレットも買わず解説を読んだりもしていないので、これから述べる感想は 一観客のまったくの独りよがりな考えであるということを弁解させてほしい。

 中国北部の小さな村で、その事件は起こった。 (実際はアンホイ省で起こったとのこと、アンホイ省は長江沿いにあるので、 舞台を変えたのかもしれない)

 冬は吹雪の舞う凍てつく村、主人公の少年は時々学校をさぼったりする平凡な少年。 父はこの小さな村の小学校の校長、母は家で豆腐を作ってそれを町に売りに行く。 食卓は貧しいながら豊かである。 学校をさぼったのがバレて、父親にお尻をぶたれて泣き叫ぶ少年を母がかばったりする。 が、理由がはっきりしないのだが、どうもこの母は父を嫌っている。 セックスをこばむのだ。しっくりしないとでもいうのだろうか。 この母親役は『香魂女』『犬と女と刑老人』 のあのたくましい女優さんのスーチン・カオワー。 このイメージは『香魂女』の主人公と大変似ている。

 ある吹雪の日、少年と母は橇から転落し、きこりの男に助けられる。 父は喜んで彼を家人のようにもてなす。この男はあまりに貧しいので 妻子が家を出ていってしまったと自己紹介をする。

 恋に落ちたというのだろうか。西洋映画のようにスマートではないけど きこりとこの母は一気に燃えあがる(まったく、どろどろとした性欲…のようで、 やりきれないのだが)。

 あげくのはては、夫殺しである。 この殺人シーンもリアルで胸が痛い。毒をもったのが原因で、少年の父は死ぬ。 が、死因は病死ということで、母はきこりの男と再婚する。

 少年はこのことを胸に秘めて、村を出る。 そして十年の後、刑事と共に村に再び帰ってきた。 彼は西洋のスリラー小説を読み、死因に確信をもったのだ。死体の再検分、 動揺する母、刑事の聞き込み、そっとしておいてと泣き叫ぶ妹たち。

 母の罪が確定した。罪をかばいあう男と女。息子は黙って村を去って行く。 息子にとっては優しくて暖かかった母を告発する… 妹、弟の人生を変え、家族をも崩壊させてしまう告発という行動を彼に とらせたものは何なのか?

 中国での儒教思想は、親を敬うことを、その道徳の柱としている。 家を守り、親に孝行する考えにこの息子は真っ向から対決した。 自我をもち、個を意識する人間は、忠義を通り超して罪を深く意識し悩む。 この近代的な精神の持ち主の青年は、新しい中国の理想の若者像なのだろうか。 わいろが横行し、党幹部の腐敗がひどいという中国。 義理人情に縛られず、悪は悪として決然と対立する若者が多数生まれてくることを 切望したい。




監督:セルゲイ・ボドロフ
●1992年/ロシア/85分/カラー ●配給:アップリンク

『モスクワ・天使のいない広場』

モスクワのストリート・キッズ

玲子

 冷たい映画であった。吐く息がいつも白く、そして寒々としている。 強烈にさみしくて、強烈に凍えてしまう味画だった。 思い出すシーンがすべて冷たくて寒い。

 数人のプロを除いて、若い出演者のほとんどすべてがモスクワのストリート・キッズだという。 素人が凄く個性的なのも強烈だけど、ドキュメンタリータッチの彼らの生活がまた恐ろしい。

 ヒロインの女の子(彼女も実際に父に死別し四歳の時、母に捨てられた ホームレスだったという)が住んでいるのは宮殿の地下のボイラー室のような 地下道のような地下室、水がたくさんたまっている、そんなちょっとしたはじっこに 彼女のベッドがある。まるで鍾乳洞のようなじとじとしたところなのだ。

 十五歳というのに彼女は生気なく、きちんとした食事もとらず、 煙草やヤクみたいなのを吸っている。彼女の信頼できる(と彼女は思い込んでいる) 友の若い男の子が、仕事がなく、未来もないような母親の悲痛な通報で警察に追われて、 乗れもしないバイクで自爆してしまうエピソードもつらかった。 その死体のポケットからメモを取り戻したくて、死体管理の医者を誘惑する女の子。 彼女の表情からただよってくるのは底知れぬ無情感だ。

 主人公の少年は、モスクワに逃げた金横領人を見つけ出し、 返金させるか、さもなくば殺すために一千キロの道をバイクでやってきた。 少年と少女の淡い恋。だが、少女は彼に真実心を寄せたわけではなかった。 彼女は人を愛する方法さえも、よくわからないのだ。

 殺伐としたモスクワの町に少年や少女の叫びが飛びかう。

 ロシアが混迷しているという。大人が希望を失ったら、 子供たちはより一層どうしていいかわからない。


 監督はセルゲイ・ボドロフ、ハバロスク生まれ、アメリカの写真家と結婚、 現在はロスアンジェルスに住む。
「自由に直面して問題を抱えている若者の実生活をえがきたかった」 「映画では悲しさを描いたが希望があると思いたい」と発言している。

 この映画は新装なったBOX東中野で観た。観客席は小さいけど スクリーンがとても大きくて、気持ちがいい。 多くの観客を魅き付ける新鮮な企画を組んでおおいに発展してほしい。




「風の丘を越えて」

R. 名越

この映画では、二つの言葉がキーワードとなっている。 その一つは「ハン」である。ハンは「恨」、「情念」、「過去」と、 少なくとも三通りに訳されていたが、この三つの言葉を総合した概念の認識 あるいは思いを現していると思う。始め映画を見始めた時、ああまたこの手の映画か、 と思ったのだが、つまりこの手と言うのは、何らかの理由で 韓国の田舎を旅する話しである。ここ数年に見た韓国の映画は殆どそうだった。 そしてとりたてて何かが残ると言うものではなく、しいて言えば ソウルの近代化とほど遠い田舎の情景が印象に残った。 しかし、この映画は一貫して「ハン」にこだわり、「ハン」を越える所まで追及している。 最後に私はこの「ハン」こそが、韓民族の心と身体にしみついている民族性の一つではないかと 感じるようになった。そうしてみると、離散家族が出会った時のあの激しい慟哭の場面や、 南北会談ですぐに決裂するあの激しいやりとりも、理解できるように思う。 恨や情念や過去にあまりにもがんじがらめになっている為に、 その過去に触れる場面に出くわすととても平静ではいられないのではないだろうか。 映画の作者が「ハン」を越えるという所まで追及しているのは、つまり、 恨や情念のしみついた過去からの脱皮の願望ではないだろうか。 過去を忘れるわけではないが、さまざまな思いを胸にしまって、明日へと旅立っていく。 いいことか悪いことか分からないけれど、世界の近代化の波は、 韓民族にそれを迫っているように思われる。

 キーワードのもう一つは、「パンソリ」の「パン」である。 「パン」とは「場」という意味だそうだ。気功を行う(煉功)と言うことは、 結局は「場」を形成することだと、今年やっと分かったのだが、その「場」である。 歌い手と太鼓打ちと踊り手とで「場」が形成される。 つまりその周辺にある種の気の状態がかもし出されるのである。 このような状態は近代化されればされるほど、出現が困難になるようだ。 世界のすたれゆく民族芸能や文化が、結局は「場」の形成によって成り立っていたのだ、 ということを知って、不思議な気持ちを感じている。 「パンソリ」がすたれる時、韓民族は一つの「場」を失い、「場」のない近代に一歩近づく。

 近代化とは、恨や情念を人々の胸に押し込め、場を奪って、 始めて成り立つものだったのだ。韓国はいま、近代化へと脱皮しつつあるようだ。 しかし、超近代化された国や地域では、いま再ぴ「場」の医学が認識されようとしている。 おそらく医学だけではなく多くの分野での「場」の復権があるかも知れない。




マノエル・デ・オリヴェイラ監督・脚本作品

『アブラハム渓谷』

主人公エマの魂の彷徨にはロマンの香りが漂っているのか?

玲子

 私が映画を観る時、選択の基準になるのはちょっとした感性プラス新聞等の映評、 時間的にゆとりのある時は好きな批評家がどう言っているかもチェツクする。 シネジャの友人たちのアドバイスも貴重な選択肢となる。 が、この映画は、新聞評をチラと読み、封切早々かけつけてしまった。 つまり、私好みの映画と思い込み激しくワクワクして席に着いたのだが…

 三時間九分、一度も笑うことなく、泣くこともなく、ぐっと胸にくることもなくすぎた。 周りの観客もみな三時間、ただ、静まりじーっとしていた。

 こんな映画は初めてだ.あまりにショックが大きかったので、どうしても書いておきたい。 まず、宣伝文句に『ピアノレッスン』を凌ぐとあるのに、だまされた。 彼方は若い女性の監督、こちらはなんていったって84歳のおじい(さま)。 なんで彼が瑞々しいものかと私は言いたい。

 フローベルの『ボヴァリー夫人』が原作。 ヒロインを現代のポルトガルによみがえらせたという。 背景は現代になっているが、中身は古く、ヒロインがスーツを着て、 車を走らせているけど、一瞬、二、三世記前の話ではないかと錯覚してしまうことが しばしぱあった。ドロウ川沿いの由緒ある農園の娘は、娘なのにすでに官能的。 窓辺に立っている彼女を見て、運転者がハンドルをきりそこねる為、 彼女の家の前の道路は要注意となるほど。彼女に魅せられたアブラハム渓谷に住む 中年の医者が結婚を申し込む。ヒロインを二人の女優が演じるのだが、 結婚後のヒロインを演じる女優さんは、妖艶でメランコリックで、たしかに美しい。 が、彼女が着て出てくるので、はっとするけど衣裳はなんとなくフランス映画に比して 垢抜けない気がした。美しいというドロウ川も窓辺からみる山は緑少なく、 川は濁った色をしてる。

 彼女はちょっと足が悪い。少し引きずる程度なのだが、これが男の欲望をそそるのか、 彼女がもって生まれた官能性からか、彼女は夫をほっぽりだして、男と寝て歩く。 が、そのシーンは会話と行為が終わった後と思わせるベッドの乱れとかで 密やかに観客が感じるだけだ。ぐっと抱き締め、ベットにもつれ込むというシーンは まったくない。どうして彼女がそうしなけれぱ落ち着かないのか、 死をもってしか魂の彷徨が終わりをつげないのか少しも釈然としない。 上流階級のサロン風会話が延々と続くのも、グタグタとうるさい。 葡萄畑で働く労働者たちは下品で、猥雑な言葉しかはかないというような描写もいやだ。 又、彼女の思うまま贅沢三昧させ破産してしまう夫の気もしれない。 上流夫人が爛れた性生活を持つというのは、そんなに男にとって魅力的なことなのだろうか。

 ただひとつ彼女の心の対照として黒い服を著た唖の洗濯女がしばしば登場したが、 彼女の押さえた演技は素晴らしかった。豊潤、豊饒、瑞々しい、 香り高いロマンという宣伝文句に弱い体質を変革しなくてはと、 つくづく思った三時間だった.



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