と、いうわけで、当初予想していたより意外な方向にとーくが進みましたが、 概ね『ピアノ・レッスン』の評は良。ヒロインのホリー・ハンターについては、 全員一致で絶賛でした。(アカデミー主演女優賞ほか各賞を総なめも納得) ここで彼女の他作品で、あまリ話題にならなかったけれど、 オススメの作品を2作紹介しておきます。 『沈黙の裁き』七十年代のテキサス州での中絶の合法化をめぐる裁判の話。ハンターが妊婦、 エイミー・マディガンが弁護士、キャシー・ベイツがハンターの友人役。(雀) 『ミス・ファイヤー・クラッカー』小誌26号のティム・ロビンスの欄で紹介した作品。 美しい義姉に憧れる繊細で元気一杯のヒロインがハンターの役。 自分の気持ちに正直に生きる彼女と義兄ロビンスに感動。 脚本は原作者のベス・ヘンリーが担当しており、 『エンジェル・アット・マイ・テーブル』 に通ずる女の子の繊細な心情が良く描かれている。 田舎町を舞台にした綺麗な映像も手伝ってオススメの一品。(Y) * 『海から来た娘たち』と『ピアノ・レッスン』E. 出海 女性の監督作品『海から来た娘たち』と『ピアノレッスン』は偶然、 どちらも主人公の女性たちが海からやってくるところから始まる。海の色、 海の意味は違うけれど海へ再び出て行くラストは共通するものがあった。 どちらも女性が自らの意志で行動を起こす、新たな人生の出発で終わっているからだ。 そしてどちらの作品も監督が自らの問題を最適な方法(映像)で語った記念すべき作品でもある。 『海から来た娘たち』は、監督がジュリー・ダッシュ、九一年 サンダンス映画祭最優秀撮影賞を受賞した作品。 また百年余りの歴史を持つアメリカ映画史上、初めて黒人女性監督作品として一般公開されたものである。 ここに出てくる海はアメリカ南部沿岸の島々を囲む海。明るくキラキラ輝いている。 1900年初頭、島には奴隷狩りで捕らえられ、連れてこられたアフリカ・ガラ族が 伝統を守りながら生きている。何を決めるのも今だに神に祈り、 自然の脅威を信じる一代目の女性。彼女の行為を因習として批判し、自立を求めて新天地、 アメリカ本土へ渡ることを望む娘たちの世代、そしてその子供たちである三代目… と3世代の黒人女性たちが出てくる。しかし、これは『ルーツ』や『おしん』 のような大河ドラマではない。 映画は本土で働くひとりの娘が島に女友達を連れて里帰りするところから始まる。 彼女は本土で売春をし、島の家族に送金している孝行娘。その娘をバカにする姉妹たち、 一方「おばさんのお陰で暮らしていける」と擁護する姪たち。でも本人は、明るく、 洗練されてはつらつと自立している。よく晴れたキラキラ光る海をバックに、 白砂の浜を白いドレスに身を包んだ黒人の女性たちが集まり、踊り、喧曄し、喜び、 旅立つ…たんたんと流れる日々の会話の中からガラ族の歴史や暮らし、 女性たちの考え方がドキュメント風に美しい映像で描かれる。 この作品は東京国際映画祭で上映されたが、私はその後の「CineBlack 1994」で見た。 映画の前に落合恵子さんの短い講演があったが、それがとても印象に残っている。 この映画は黒人女性のこれまでのステレオタイプ(『風と共に去りぬ』『カラーパープル』 などに出てくる気のいい、歌の上手い、太った働きもののお手伝いさん) を拭い去る新しいタイプの黒人女性を黒人女性の監督自らの手で作ったことに 意義があるとおっしやっていた。そのような視点で見るとなるほどと思う。ラスト、 長老のお年寄りと一組の若夫婦を残して、一族は船でアメリカ本土へ向かうが、 船が岸を離れる寸前、馬に乗った若者が娘を追ってくる。 娘は船を飛び降り、馬に相乗りして島の奥へ消えていく。その娘の母親は、 長老の一世の母を批判して本土での新しい生活を主張する急進派。 二世の母は涙を抑え三世の娘を残して船出して行く。 モノローグの女性の声が、島に残った娘のそのまた娘であることが最後にわかる。 全編を通して映像がなんとも美しい。 『海から来た娘たち』と同じように、『ピアノ・レッスン』も海から始まる。しかし、 海は鉛色に広がる空の下、波が荒れ狂うなんとも陰鬱でじめじめした ニュージーランドの孤島を囲む海。 ここへ、再婚のため娘とピアノとともにやって来た言葉の話せないヒロイン、エイダ。 運べなくて浜に置き去りにされたピアノを彼女が高台から眺めるシーンは 彼女の心象風景として圧倒的な美しさと感動を与える。夫となる、スチュアートは 真面目で誠実だが、彼女がいかに海に置き去りされたピアノを欲しているか分からない 鈍感な男でもある。また、慣れない土地での新しい生活のストレスから 自室に閉じこもりがちな妻に共応し、性的な関係を我慢、鬱積していく悲劇的な男でもある。 一方近くに夫と同じ白人だが、すべてに正反対の男が原住民と同化して住んでいる。 その男、ベインズは見かけは粗野で男っぽいが、彼女の感受性、 ピアノヘの愛情をいちはやく感じ取り、浜からピアノを運ばせて彼女に与える。 また、性的に解放されていて彼女がピアノをひく姿に欲情し、彼女に迫る。 二人は恋に落ちるが夫に気付かれ争いになる。ラストはピアノと共に エイダとベインズが島を出る。途中、ピアノを海に捨て、新しい生活を始めることになる。 最初に見たジェーン・カンピオンの映画は『エンジェル・アト・マイ・テーブル』。 実在した女性の小説家の苦悩に満ちた生涯を描いたもの。豊かな才能に恵まれながら、 感受性の強さから不器用な生き方しかできない女性。精神病院に収容され、 ロボトミー手術におぴえる日々は衝撃的だった。その後、2年程前に横浜女性フォーラムで 彼女の初期の短編『ピール』(82年)『キツツキはいない』(83年) 『彼女の時間』(83年、これは『スウィーティー』のもととなったもの) などを一挙に上映したのを見た。 10分前後のものだがどれも女性(少女)の感性が独特の構図で描かれているのに すごいショックを受けた。短編や『エンジェル・アト・マイテーブル』 に登場する女性たちはこれまでの男性たちが描いて来た女性とはまるで違うものだった。 どのように表現していいかわからないが、感性的にも容姿的にも。一言で言えば、 不美人で変な女、でも私からみるとすごく魅力的に感じる女性たち。 彼女たちの悩みは男との関係から生まれるもののみではなく、存在そのものの悩み、 生きることへの共感、ひとりの人間としての苦しみであった。 男は決して救いにはならず、自分で自分の生と性を引き受けて、 人生に立ち向かって開花する実存感である。 これは、『ピアノレッスン』も同じだ。エイダは、我がままで高慢で 自律神経失調症ぎみな女。耳が聞こえないから可哀想な娘という同情など湧く余地がない。 日本映画、特に東映あたりだったら、彼女は名取裕子か荻野目慶子。 身体障害者で父なし子を持った本当に薄幸な女。でも、幸か不幸か美人に生まれたために 妻にしたいという奇特な若旦那が現れて、嫁にいくが、夜のお勤めだけが目的の 苦しい日々であった…みたいなものになりそうだが、 こちらのヒロインは遠慮も妥協もなくて、威張ってすらみえて、 旦那さんに同情しそうになる。しかし、この映画は 彼女の不幸や女ゆえの悲しみを描こうとしたものでないと思う。 強烈に印象に残るシーンが二つある。 ひとつは、夫のスチュアートが他の男に会いに走るエイダを森で待ち構えて、 初めて力ずくで犯そうとするシーン。エイダは森にはえる植物につかまって 必死に抵抗するが、その時、娘が『皆ながピアノをいじっている』と母に言い付けにくる。 家ではマリオ人たちが好奇心に満ちた目でピアノを好き勝手にたたいている。 夫のエイダにたいするセックス、男がただがむしゃらにするセックス、 女が精神的なつながりのない相手(男)とセックスを受けるだけの時、 どのような不快感を感じているかを感覚的に描いたすごいシーンだ。 もうひとつはピアノとともに海に転落するシーン。エイダは海中で死に直面しながら、 夢中で足に巻き付いたロープを靴ごと脱いで上昇していく。 大切なものを捨てなければ浮き上がれない現実とそれを自分ひとりで決断して生を得た自信。 いろいろにも取れる印象的なシーンだった。彼女が海面から顔を出し、 大きく息を吸う時のスローモーションの感動は映像でしか表現できないものだと思う。 テーマとして女性を扱ったスバラシイ女性の監督たちは何人もいる。例えば、 フランスのアニュエス・バルダ。彼女が60年代に監督した『幸福』を好きで 今でも時々ビデオを見直すが、あれは、女性でなけれぱ描けない鋭い批判性で男と女を描いている。 女にとって男は一生でも男にとって女は取り替えがきくということを 男女間の宿命として美しいカラーを駆使した映像とモーツアルトの音楽を効果的に使って たんたんと描いている。しかし、それでいいのか。 女性はそれをどう受け止めているかの部分はない。国民性と時代の違いもある。 それから20年。80年代にいたりカンピオンが出て来た。 女性のことを扱った女性監督でなく、女性の感性を映像化する才能と実力をもった監督。 映像、音楽に精通し、脚本、演出をこなす彼女の出現は 女性の映像現場への道を大きく闘いた意味でも意義は大きいと思う。 |