日本映画の良き手引き書 勝間 私は偉そうに毎号に映画の批評を書いてはいるが、 年に何十本と見るようになったのはここ数年のこと。 今まで見てきた本数を考えると、こんな大口叩いていいのかと時々赤面している。 そしてその中でも当然のことながら、洋画の割合が、圧倒的に多い。 シネマジャーナルに加わってからようやく邦画を見る機会が増えたのだ。 こんな私にとって、この本は日本映画をこれから見直していくための良い手引きとなりそうだ。 笠さんといえば、小津安二郎監督というイメージが強いが、 なにしろ六十年以上のキャリアだから何十人もの監督の作品に出演されたのだ。 笠さんの出演作品を今から追いかけるだけでも、観客としての大仕事となりそうだ。 ただ、笠さん自身も後悔されたそうだが溝口健二監督の作品にはとうとう一度も出られなかった。 出演依頼が何度かあったのに。 この件りを読みながら思わず私も「もったいない!」とつぶやいてしまった。 ひとつだけ不満(?)を言わせていただければ、奥さんの花観[はなみ]さん (なんて素敵な名前!)との出会いについて述べられていないことだ。 もっとも、笠さんのお人柄を推察すれば、それは無理なお願いなのだろう。
女性性の愛の力を反映させた人間関係学の書 小川 著者は臨床心理士の資格を持ち、短大で教えている人なので、 一見心理学の本のようだが内容は多岐にわたっていて面白い。 後書きに「女性性の愛の力を反映させた人間関係学の書を目指した」とあり、 女性同士の関係を描いている小説、映画に一章づつ割いている。 映画については、「映画の中の女性同士」と題し、映画と両性具有性/映画の中の姉妹関係 /フェミニスト映画の登場/ハリウッドの新しいトレンド/ 女性の中の階級という小見出しを設けて書いていて面白かった。 以前、小比木啓吾の『映画でみる精神分析』(彩樹社)を読んで あまりのステレオタイプの心理学的注釈にウンザリしたが、この本では、 心理学というより、フェミニストの目が生かされた映画評になっている。 (ただ、『ワーキングガール』を評価していたところが私としては、気になるところですが) 女性の人間関係の原理は心の愛であるという著者は、ここでとりあげた映画が 「女性が他者といい関係を得られるのは、自分が自立し、 達成を遂げてようやく女同士の友情が取り戻せるというように、図式的に解釈される」 ことに問題を感じているという。 自立と依存は対立関係ではなく「自立はよい依存関係があってはじめて可能になり、 自立の目的はよい依存関係をもつことにある」 という文章に深く深く同感する。 最近、心理学に興味をもっているが、私の好きな心理学と映画の 両方について書いてあるこの本は、絶対におすすめです。
映画監督の苦悩を 夫人の視点で克明に記す 地畑寧子 著者は『地獄の黙示録』『ゴッド・ファーザー』シリーズ、 『ドラキュラ』などで有名なフランシス・フォード・コッポラ監督の夫人。 この「ノーツ」という書を基に『ハート・オブ・ダークネス』(日本では昨年公開) というドキュメンタリー映画ができた。「ノーツ」は、 『地獄の黙示録』を撮る映画監督の苦悩を夫人の視点で克明にしるしている。 自作に巨額を投じることで有名なコッポラは、芸術面で妥協することをせず、 悩み、予算のことでは常にあせっている。 エレノア夫人は子供三人をかかえながら、 彼の撮影風景をドキュメント映画にすべく撮影していく。 決して愛情一杯ではない夫婦生活、離婚の危機、 単なる監督夫人で終わりたくないと思う彼女のあせり。子供たちの学校の話。 撮影隊の家族との交流(チャーリー・シーンなど) アジア(舞台はベトナムだがロケ地はフィリピン) に初めて来た時の驚きが文章に生き生きと息づいている。 一寸先は闇という博徒打みたいな映画という仕事。 映画の難しさと奥深さを教えてくれる本だ。 惜しむらくはもうちょっと訳が上手ならもっと感動できたのに…
二年前の本ですが今でもヴィヴィッド!! 増田 映画、演劇コーナーの書棚を見わたしていると、目をひく本がみつかった。 『正伝殿山泰司』、著者は新藤兼人である。読まざあなるめい! 殿山泰司(以下、タイちゃん)は息の長い役者で、新藤作品には勿論、 裕次郎映画や日活ロマンポルノ、美空ひばり共演というのまで幅広く出演している。 焼鳥屋の親父や、スケベエな坊主なんていうのをやらせると天下一品で、 まるで駅前の焼鳥屋や横丁のお寺からそのままスクリーンにあらわれるような芸をみせる。 そのかわり自民党の幹事長やトヨタ自動車の社長というような役は まちがってもやらないし、まるっきり似合わない。 監督も心得ているからそういう役には使わない。 スクリーン以外では、ユニークな随筆が絶品だった。始めて読んだのは二十数年前だった。 それが面白いのなんの。『にっぽんあなーきー伝』『JAMJAM日記』などなど。 出るのを待ち兼ねてむさぼり読んだ。 どうしてこんな八方破れの発想、文体が生まれるのか? 芸能界で内藤陳と一、二を争う読書量のせいか? ミステリー・ジャズに造詣が深いせいか? はたまた類い稀なるそのノウズイのせいか? 新藤さんのこの本には、タイちゃんの発想の出所には触れていないが『裸の島』の撮影中、 タイちゃんの文才を初めて発見したとある。 監督と役者としての付き合いの五十年は伊達じゃあない。 この本を書くために酒の飲めない新藤さんは新宿ゴールデン街の「まえだ」、 浅草の「かいば屋」等タイちゃんのよく出入りしていた飲み屋にまで取材している。 タイちゃんの広い交友関係の中には文人作家も大勢おり、その中の誰かが、 タイちゃんの伝記を書いても不思議ではない。 しかし、タイちゃんと乙羽信子さんの追悼文を書くのは新藤兼人をおいて他にはいない。 (乙羽さん殺しちゃってごめんなさい) この本を読んだら、タイちゃんの出演した映画や書き残した本を猛烈に見たくなって、 ビデオ店や古本屋を片っ端から探したが、どこにもみつからない。 どこかにないかねえ!
中野好夫の名翻訳で面白く悲しく……読みだしたらやめられない 村瀬 晩年のマーク・トーエンが言っている。 「作られたロマン(小説)はもう読みたくない。 読みたいのは日記、旅行記、良く書かれた自伝だ」 ドキュメンタリーとかノンフィクションという言葉が使われなかった時代のことだ。 確かに人間はある年輪に達すると生半可な作り物を受け付けなくなる。 チャップリンが亡くなる13年前、一九六四年に刊行された「チャップリン自伝」は、 数多い俳優の自伝はもとより、自叙伝と名付けられた書物の中でも 出色の好著作として世界各国でベストセラーを続けている。 日本でも故中野好夫氏の名翻訳で一九六六年発刊されたこの本は、 とにかく無類に面白く悲しく読み出したらやめられない。 上巻「若き日々」は、病気の母の代役として五才で初舞台を踏み、母の発狂、父の死、 孤児院を転々とし、やがてドサまわりの一座に拾われて喜劇俳優の道に進む若き日を、 下巻「栄光の日々」では彼の全映画作品にまつわる挿話の数々を率直に語り、 その透徹した洞察力と、ヒューマンな人柄に深い感銘を覚える。 以下その断片を二、三紹介したい。 「私が自叙伝を執筆していると聞いてある有名な女流作家がこんなことを言った。 『勇気を出してありのままを書いていただきたいわ』と。 私は単なる社交辞令と解釈していたが考えてみると、 これは私の性生活を指していたのだった。…だが、フロイトと違って 私にはセックスが複雑な人間行動における最も重要な要素だなどとは信じられない。寒さ、 飢え、そして貧乏を恥じるといった気持ちの方が人間心理により影響を与えそうに思える。 …思うにセックスとは非芸術的、臨床的、そして散文的なものにすぎぬ。 むしろ、私が興味を感じるのは、セックスに至るまでの過程である」 「私がどうして映画のアイディアを思いつくかという質問をよく受けるが、 いまもって満足に答えることはできない。 …アイディアを掴むにはほとんど発狂一歩手前という程の忍耐力が要る。 苦痛に耐え、長期間にわたって熱中できる能力を身につけねばならぬ」 「私は貧乏を好いものだとも、人間を向上させるものだとも考えたことがない。 貧乏が私に教えたものは、何でもひねくれて考えること、 そして金持ちや上流階級の美徳、 長所に対するひどい買いかぶりというただそれだけだった。 逆に、富と名声とが私に教えてくれたことは、むしろ物事を正しい遠近法の中で見ること、 そしてまたいくら偉い人間でも近寄ってみると案外他の人間と同様、 それぞれに欠点だらけのものであることを判らせてくれた」 自伝に書かれているのは、小説よりも波欄万丈、赤裸々で、彼が接した同時代の政治家、 科学者、芸術家、事業家、そして一般庶民、 そのすべてが隔てない眼で見事なまでに描き出されている。 一九七七年一二月二五日、クリスマスの日、スイスのレマン湖畔の自宅で チャップリンは亡くなった。八八年の生涯のうち、 日本滞在は三四日と一五時間一〇分と計算した人がいる。 一八八九年生まれだから、生きていれば百四才。
底無しに湧き出るハリウッドスキャンダル 山本 ハリウッドの内幕ものは何冊か読んだりしてきたけれど、それは “ハリウッドの神話”であったり、ちょっと笑える話であったり、 映画や監督のエピソードを知って映画ファン心理を満足させたり、 また例え〈暴露〉と銘打たれていても、ほーこんな事もあったのか 流石ハリウッド?で済まされたりする程度のものだったと今にして思う。 (勿論、マリリン・モンローやロマン・ポランスキーなど 済まされるでは片付かないお話もあったけれど) しかしこの「地獄のハリウッド」程ストレートで装飾のない、辛辣な、 悪意的とも思える(と、書いたがその凄まじい実話ぶりには悪意の入りこむスキ間さえない) 本には出くわした事がない。 高いので今だに買えない「ハリウッドバビロン」(映画の本は高い!! 一人暮らしになってからは千円代の本さえなかなか買えない悲しさ) の強烈な“ブラックダリア事件”に魅かれて本屋に行く度、立ち読みしてしまっていたが (ところで「ブラックダリア」も早く文庫にならないかな) それも含んで、この「地獄のハリウッド」正に地獄へまっしぐらなのだ。 ハリウッドといえば古き良き時代とか、映画の黄金期というよりも、 やはり“スキャンダラスな”ハリウッドというイメージが私には強かったが、 この本にはスキャンダラスもぶっとぶネタがぎっしり…で、 私のようにセンサイ?な人間は、ネタなどと軽々しく呼べない事実のつるべ撃ちに、 身も心も暗く重く沈みこむのであった。 例えば、J・F・K。彼の女癖はそう目新しくもないが、 それが父親からの遣伝であるとなると笑っていいのか、やれやれ… (村上春樹風に。ミーハーだけど)なのか呆れてしまうが、この一族ときたら、 秘書を見殺しにしたところまではギャグにされても、 政治生命のためにローズマリーという娘にロボトミー手術を施したとなると、 もう完壁に笑ってなどいられない。 自殺に追い込まれたと書かれているジーン・セバーグといい、 フランセス・ファーマーを彷佛とさせるが、それにしてもやる事が極端すぎる。 例えば、ピーター・ボブダノヴィッチ。プレイメイトの恋人が、 前の男(カメラマン)に惨殺された後、彼は彼女の妹を姉そっくりに整形させて結婚した。 例えば、〈露出狂〉のデミ・ムーア母娘。 例えば、(これも最早有名な話だが)ロリコンのチャップリン。 例えば、ゾッとする程美しい腹違いの妹の恋人を至近距離から撃ち殺したマーロン・ブランドーの息子。 例えば…例えば… 底なしに湧き出るハリウッドスキャンダルのもの凄さ。 キラ星の如きスター達は、ドロ沼に片足突っ込んで微笑み、愛を語り、 家庭を崩壊させ、やがて自らも壊れていったらしい。そしてその事実は、 どうやら何年でも生き続け、私達にやりきれない思いを味合わせ続けるらしい。 実は今、これを書いている時点で、「地獄のハリウッド」の現物は、手元になく、 読んだ時の印象とつたない記億をたよりに書いているのだが、それでさえ結構気が滅入る。 本当は、本を横に置いて、いろんな事確認しながら書く方がいいのだろうけど、 でもそんな事したらきっと、初めて読んだ時のように気分が落ち込んでしまうだろう。 とにかく、あれも凄い、これも凄い、と書きたいことはたくさんあるのだが、 この「地獄のハリウッド」最大のショックと言えばやはり、 レクター博士が現実に何人も存在していたという生々しい事実だろう。 彼程頭が切れないとか、彼程魅力的でないというのは仕方ないけど、それでも、 彼よりたくさん人を殺したり、彼程死人に敬意を払わなかった (好きな人しか食べない!?)りした殺人鬼の数のなんと多い事。 “ブラックダリア事件”の犯人が結局捕まらずじまいだった事にも、 改めてブツブツ粟立つような恐怖を感じてしまった。 「サイコ」のモデルと言われるエド・ゲインに至っては、まだノーマン・ベイツの方がマシ (マシも何もないか)、『羊たちの沈黙』のバッファロービルより凄い人で、 乳房つきベストどころか…(あえて書かない)なのだから恐れ入る。 加えて、彼の写真が何とも背筋をゾクゾクさせてくれるのだ。 あんなにたくさんの人を殺し、それだけで飽き足らず様々な細工を施したというのに、 あの邪気のなさそうな微笑みは一体… “ブラックダリア事件”と“エド・ケイン事件”ぺージの写真は、 心臓の弱い人やホラーの苦手な人にはおススメ出来ない。 あまりの酷さに却って作り物っぽさを感じてしまえばこっちの勝ちだが、ああ、 これって本物なんだと納得したら最後、 かなりなホラー好きの私でも後を引いた代物だから。 殺人鬼の項にはこの他、ミステリー小説のセリフにもちょくちょく顔を出す テッド・バンティ(そういえば最近読んだ「殺人鬼愛好症〈マニア〉の男」 ってテッド・バンティっぽかった)や、「戦慄の絆」のマーカス兄弟のぺージなどもあって、 それはそれは興味深いし、それらの圧倒的な実話には衝撃を受けまくる。 さて最早ここまでに、コワい・ムゴい・ヒドいなどとあまりに悍しい形容詞を駆使して 地獄のハリウッドに違わぬ地獄ぶりを、色付き三面記事並みに (でも、決して大仰でも何でもないのですよ)書いてきたけど、 最後にこの人の事を書こうと思う。 これでもかの地獄の中でもとくにショッキングでそして絶対に忘れられないお話。 25号で地畑さんが、 92年特に印象的だったと書いていらした『ヘンリー』のモデル。 ヘンリー・ルーカス。彼のぺージを読んでいて、あまりの事に、 読み進みながら涙してしまった。 彼を殺人鬼にしたのは、紛れもなく母親だったのだ。去年観逃していた『ヘンリー』は、 最近漸くビデオで見たけれど、本を読んでいた事もあってそれはもうたまらなかった。 地畑さんも書いてらしたけど、あからさまな殺人シーンを見せたりはしていない。 見せない、見えないで、あんなに膚を刺す、直接的な恐さを感じたのは初めてだし、 母親を殺したの?とヘンリーが聞かれるシーンでは私の心が痛んだ。 ヘンリー・ルーカスは好き好んで殺人を犯していたのでは決してなかっただろう。 彼の写真はとてもいい。いいって変な言い方だけど、 少なくともエド'ゲインに感じた得体の知れなさがなく穏やかだ。 エド・ゲインだって母親が影響していたのだけれど、この感じ方の違いは、 その母親を自らの手で葬ったのか否か (エド・ゲインは母親に関しては死ぬまで待ったのだ)にあるような気もする。 とにかくこの本、読まずにいるには魅力的過ぎるが、 読むからには覚悟が必要な一冊と言っていいだろう。 様々な意味で、非常に濃ゆい本である。
カルト男が超低俗文化を徹底追求 沢田 江戸木純という人は自称<ポン引き批評家>なんていっているが、 ギャガ・コミュニケーションズという配給会社で、宣伝を担当していた。 例えば、あの世紀の怪作「死霊の盆踊り」のキャッチコピーをはじめ 「ベルリン忠臣蔵」だの「地獄のシオマネキ・カニ味噌のしたたり」 などといったとんでもない作品をコーディネイトしていたのだった。 (幻と化した「アグネス・チャンの香港大怪談/ひなげしのキョンシー」 がアグネスサイドからクレームがついた話なんてア然だ。知ってる?) そんなカルト男が、80年代〜90年代のB・C・D級ビデオ戦線から生み出された超低俗文化を徹底網羅。 岩波ホールやシネシャンテばかり行っている人たちにとっては それこそとんでもない世界かも知れないが、御一読を。 コピーライターを目指す人は勉強になります。
凄い知識量!! 縦横無尽に論を引いて映画を語る 沢田 すごいんです、知識量が。SFからミステリーから学術的見地から、 縦横無尽に論を引いて語っていくんですね。 何故アメリカで聖書スペクタクル物があんなにも作られたのか? 『市民ケーン』は実は、エラリー・クイーンの「Xの悲劇」を下敷きにしたものだったとか、 ヘエーという感嘆の声が出てしまいました。 中でも校正という職業柄、読んで眠れなくなったのが「些細な事柄」と題する一文です。 翻訳物の本の中に出てくる映画の題名が間違っている、 あるいは原題のまま訳出されているという指摘でした。 かつて翻訳物の校正をした時『宇宙家族ロビンソン』と思われるTVドラマが 『宇宙をさまよって』、また『悪魔の棲む家』が『アミティヴィルの恐怖』となっており、 疑問を出すべきか否か非常に悩んだので、瀬戸川さんの文章に力づけられた次第です。 瀬戸川さんの職業は映画評論家ではないのです。 映画評論を生業としている人たちの文章を読んで映画を観たくなったということが激減している現在、 この本は映画評論家と称する人たちの反省を促すものと信じます。
最近の映画作りの抱える問題点にも触れる好著です 佐川 映画を観るのにあのキャメラマンが撮るからという理由で観る映画ファンは多勢いると思うが、 監督の演出に応じてドラマを映像化する仕事の内容を知る人は数少ないと思う。 そんな世界をのぞいてみたい方にお薦めの一冊である。ここでは、松竹の経験を踏まえ、 日本・外国作品を例にあげて、映画制作の上ではなるほどこういうものもあるのかといった、 ちょっと深い、そして面白い映画の観方を教えてくれる一方、 最近の映画作りのかかえる問題点にも触れている。 その中で山田太一さんの13番目のお話しは印象に残った。 「『トムは真夜中の庭で』(フィリパ・ピアス作)という童話があるのですが、 その中で子供が夜中に現実でないものをみる時に、時計が13鳴るんです。 13鳴った時に日常から離陸しているわけです。 それで、何か見える。つまり時間が24時間だっていうのがテクノロジーの世界で それが25時間あるっていう感覚っていうのかな。 テクノロジーじゃない部分を効率主義でどんどん削っていったために、 13番目の鐘が鳴らなくなった、そういうことを、僕はキャメラにも感じます。 日頃生活で見ているんだけれど、気がつかなかったものが、 映画で見えてくるようでなければいけないでしょう。(中略) そういうことがテクノロジーに対抗するひとつの道だと思います」 13番目の鐘が聞こえる作品にたくさん巡り合うことを期待したい
日本映画をバカにして外国映画しか観ない人に推薦したい本です 宮嶋 全盛時代の日本映画を好きになり、しゃにむに観た二〇代始め、 凄く役立った本に評論社から出ていた『現代日本映画(1950〜1978)』全三巻がある。 この『日本映画』はその続編と言っていい。 映画の作られた時代背景、出来上がるまでの過程、作家性そして批評と 佐藤氏の文章はわかりやすく、良質な解説と言ってしまえばそれまでだが、 僕はうなること頻りで作品が面白かったものはもちろん、つまらないもの、 さっぱり分からなかった映画もとにかく参考になる。 同書は、まえがきからいっきに読ませる。要約すると、産業としての日本映画は、 惨憺たるものだが、くだらない作品ばかりだから人が来ないのではない、 非常に良い作品でも容易に客は来ない。 数は少ないが素晴らしい日本映画は作られ続けている。 もちろん1950年代や60年代の黄金時代に較べれば、もの足りない面はあるが 卑下するにはあたらない。 いま世界の映画市場の過半を占めているのはアメリカ映画であって、 かつて名作を多数生んだヨーロッパの国々さえも産業的に衰退著しく、 自国の作品に集まる人々の割合は3%かせいぜい20%といったところが、 日本はそれでも40%は維持している、アメリカ映画に対抗し得ている例外的な国である。 質的には外国映画は実にいい作品が多いのに、日本映画は、滅多にないと思うのは、 外国映画は数十本から一本位が厳選されて入ってくる。 日本映画の場合は傑作も駄作も並べて公開され、観客は自分の好みで選ぶ。 それがはずれると日本映画はダメになったと思い、観ること自体を止めてしまう。 しかしこの本で取り上げた作品の半分でも三分の一でも観たならそう判断できないだろう。 そして、世界中見渡しても年間五、六本以上も観るべき作品を作っている国はそうたくさんないと、 締めくくり、悪条件下にかくもいい映画を作り続けている今の映画人たちに 心から敬意を込めてと、賛辞も贈っている。 映画、大衆文化、教育にと批評を書き始めて四〇年。七〇年代の初めからは、 世界各地の映画を観てきて「アジアは貧しいとか遅れているとかいうのは一般論で、 きびしい中で実によく作っている。 アジアの映画を観ることでアジアを尊敬することを学んだ」と言い切っているが 僕は中国、香港映画など評価の高かった作品を数本観ているが、胸を打つものがない。 どうもピンとこないのである。 だから氏の言うことをすべて讃えるものではないが、 ただ日本映画をバカにして外国映画しか観ない輩には、 同書に載っている作品を観て欲しいのである。
アジアヘの思いが伝わってくる本 宮崎暁美 私がアジアの映画にのめり込んでいったのは、 もともとアジアに対して興味を持っていたこともあると思うけど、 この本の著者佐藤忠男さんのアジアの映画を紹介する文章やテレビ、 映画祭での発言によるところが大きい。いわば私の導き役といっていいと思う。 佐藤さんの文章によってアジアの映画事情を知り、たくさんの作品を知った。 佐藤さんの文章は映画に対する思いと共に、その背景にあるものを導きだし、 いっそうの興味をそそる。テレビの映画解説や映画人との対談番組でも時々見かけるが、 決して雄弁ではないけど誠実な語り口に、映画に対する情熱を感じる。 と誉めてばかりいるけど、もちろん佐藤さんの映画紹介を見ていて 共感することばかりではない。佐藤さんはこう言っているけど、 私はそうは思わないなということだってある。 たとえば『黄色い大地』などは他の映画評論家なども絶賛するけど、 そんなに素晴らしいかな?と私は思うし、 『旅人は休まない』も佐藤さんは絶賛するけど私はこういう表現の仕方は好きでない。 でも感じ方は人それぞれあるのが当然で画一的では面白くない。 彼の文章は大部分は共感できるし、なによりもアジアに対する思いが伝わってくる。 この三〜四年、一般公開されるアジアの映画が増えたが、 佐藤さんの地道なアジア映画紹介の努力も大きいと思う。この本では、 佐藤さんが初期の頃のアジアの映画を紹介する裏話も書かれているが 「どうせアジアには低俗な娯楽映画ぐらいしかないだろうという先入観に対して、 こんなに程度の高い映画が存在するのだということを示してびっくりさせたいというねらいがあった」と書いている。 そのねらいは見事にあたり、アジアの映画に対する評価につながった。 それが一般公開できるアジアの映画がこんなに増えたひとつのきっかけになったと思う。 これからはアジアの大衆娯楽映画も入って来ることだろう。 また「アジアの大部分の国の人たちは、アメリカやヨーロッパの映画は見る機会もあるが、 隣国の映画はほとんど知らないでいる。日本だってつい最近まで、韓国や中国、 台湾の映画を知らなかったことを思えばわかるだろう。 アジアの映画人同士が互いの映画を見て励まし合い、競い合うことの必要性を痛感した。」 と書いてあるが、佐藤さんはそれを実行し、アジアの映画人たちの交流に努めている。 それが現在のアジア映画の興隆にもつながっていると思う。 さらにアフリカ、中近東にまで交流の輪を広げている。 私がアジアの映画に興味を持ったきっかけは中国映画だったが、 映画の中に現れる元気で積極的な女性像に惹かれた。 そしてこの本にも書かれているように「中国映画では、 共働きの妻のために夫がやさしく気を使うといった場面がよくあり…」 という男たちの姿だった。 そして佐藤さんの文章にも夫人の久子さんとの二人三脚ぶりが随所に出ていて好感が持てる。 個々には韓国、中国、香港、台湾、南アジアなどの映画を紹介した本はあるけど、 この本は現在のところ、アジアの全般的な映画事情を語った集大成の本だと思う。 佐藤さんはこの本の姉妹本として 『アメリカ映画』『ヨーロッパ映画』『日本映画』も書いている。
戒厳令下四十年を生きぬいた人びと 佐藤 二年前、侯孝賢監督の『悲情城市』を観た時の深く重い感動は、忘れることができない。 台湾で暮らす人びとの深い悲しみを思いやったことのなかった自分が恥ずかしかった。 台湾は国民党軍の残党がつくった反共の島。戒厳令がひかれていて民主的でないところ、 と思ってきた。ここに住む人々は、 日清戦争後五十年は日本人に支配されて日本語を強要され、戦後は 大陸で共産軍に破れた国民党軍の流入(外省人)によって北京語を覚えさせられたのだ。 台湾にはミンナン語とハッカ語という母語があるという。これらの言葉は、 それぞれの祖先の出身地によって使い分けられており、 人々の日常語として広く使われているというのに。 日本の植民地支配が終わって、人びとはひとときの解放感を持つ。 青年たちは自分たちの力で作る新しい国を夢想する。が、 今度は祖国からやってきた支配者に踏み潰されていく。 一九四七年二月二八日、台北でのヤミ煙草の摘発をきっかけにおこった民衆の暴動を 軍隊が鎮圧、人ぴとを虐殺した。「市内は死体が重なって目をおおう惨状だった」 そして、戒厳令がひかれる。 「以後、だれも話をしなくなった。だれも信用できなくなった。 五戸連保というのができて相互に監視をさせられた。 向かいの家にだれかが訪ねてきたということは、必ず報告しなけれぱならない。 …やらないと自分がやられるという恐怖心を植えつけた」 「国民党が恐れていたのは、大陸から入ってくる地下工作者、 日本時代の左翼の生き残りと、二・二八の不満分子が結合することだった。 だから、地下組織に関係なく危険分子というと、十把ひとからげにつかまえたんです」 三四年間牢ですごしたという男の人の話は、胸を打つ。 「当時の牢の中では毎朝十分ほどの散歩の時間が与えられた。 その間に囚人たちは看守の目を盗んで情報を交換した。 どこどこの部屋から昨夜は三人引っ張られた。 …部屋に戻ると私たちは車座になって追悼歌を歌った。 追悼歌は大陸の左翼学生がよく歌った歌だった」 映画の中で四男文清の入った牢から、二人の青年が呼び出されて行く。 死を覚悟して身支度を整え、別れを告げるとき日本の流行歌 『幌馬車の唄』が房の内外からわきあがる。 作者はこのシーンのこの歌に関心を示し、台湾に渡り関係者に会いながら、 台湾の秘められた歴史を説き明かして行く。『幌馬車の唄』は、 確かに牢の中で歌われたのだ。それもただ一度だけ。 民主的であったというだけでとらえられた中学の校長が、妻が好んだ歌だと言って、 死への旅立ちの時、仲間に歌ってくれるよう頼んだのだ。 そして、頼んだ彼はこの歌をスコットランド民謡だと信じていたという。 「そうでなければ、だれが日本の流行歌など歌って死ぬでしょう」と証言者は、 日本人の作者に語りかける。 八七年七月にこの国では四十年ぶりに戒厳令が解除された。 『悲情城市』は台湾では、色々な意味で多くの人に議論されたという。 長い言論統制のなかで、正確な歴史が若い世代に伝わっていないもどかしさもあるのだろう。 映画=歴史的事実と思われては困るという面もあるようだ。 映画の感動が強かっただけ、その背景を知りたい欲望がおこる。 女性の目線で語られたこの本は、それを存分に満足させてくれる。
アジア映画と音楽の関係 宮崎暁美 映画の本の特集ではあるけど音楽の本を紹介したい。 なぜって映画の中にはかならず音楽が使われていて、 音楽と映画は切っても切れない関係にあるから。 それにアジアの映画がこの何年かでたくさん公開されるようになったのと時を同じくして アジアからの音楽も日本に入ってきたと思うから。 日本でアジアのポップミュージックの存在を認識させた人といえば、 言わずと知れたディック・リー(シンガポール)。 一九九〇年『マッド・チャイナマン』というアルバムが発売されたのがきっかけだった。 その後、久保田麻琴プロデユースによるアジアのミュージシャンのアルバムが ずいぶん作成された。 この本ではシンガポール、香港、台湾、中国、韓国、タイ、フィリピン、マレイシア、 インドネシア、モンゴルなどのミュージシャンが紹介されている。 もちろん日本のミュージシャンも。 香港では歌と映画、両方で活躍する人が多いらしい。サリー・イップ、アニタ・ムイ、 ビヨンドなどが載っている。サリー・イップはツイ・ハークの『上海ブルース』や 『狼たちの挽歌最終章』などで日本でも知られていたけど、 歌の方でも有名だったとは知らなかった。 アニタ・ムイは『アゲイン明日への誓い』で結構ハードなアクションを演じていたけど、 八五年から八九年まで五年連続してベスト女性シンガー賞を受賞していたとは、 これまた全然知らなかった。そしてなんといってもビヨンド。 周潤發主演のコメディ『ゴールデン・ガイ』にもファースト・フードの店員の役で 四人が出演していたけど、去年東京国際映画祭で上映された『籠民』 (シネマジャーナルニ四号紹介) ではボーカルの黄家駒(ウォン・力ークイ)が出演し、結構重要な役を演じていた。 この映画は今年の香港電影金像奨で作品賞、監督賞、脚本賞を獲得している。 ビヨンドは日本でも去年『超越』というアルバムでデビユーし、 日本のテレビにも出演している。ところが6/24フジテレピの 「ウッチャンナンチャンのやるならやらねばー」という番組の収録中、 セットから転落し黄さんは亡くなってしまった。 日本での活動がこれからという矢先のできごとだった。 『籠民』の日本公開がぜひ実現して欲しい。 この本では中国のロック歌手、崔健(ツイ・チエン)も紹介されている。 二月頃、NHKで彼のことが放映されていたが、 最近中国語圏の映画で彼の歌はよく使われている。 『おはよう北京』や『炎の大捜査線』でもバックに彼の歌が流れていた。 侯孝賢監督の『戯夢人生』に出演しているという林強(リン・チアン)のことは、 ほんの数行しか載っていなかったのが残念。 そして『パイナップル・ツアーズ』に出演したりんけんバンド、 音楽を担当したのはリーダーの照屋林賢。 今まで沖縄のポップミュージックというと喜納昌吉とチャンプルーズの名前が浮かんだが、 近年ベテランの知名定男をはじめ、りんけんバンド、ネーネーズ、 など沖縄のグループの本士での活躍が目覚ましい。 りんけんバンドの中には笑築過激団のメンバーと兼ねてる人がいて 『パイナップル・ツアーズ』でもユニークな演技を見せてくれた。 それにこの映画に通して出ていたあの三線の上手な新良幸人さんのことも、 この本で紹介されていてほんとに嬉しくなっちゃった。 そして今、話題の上々颱風。 私が彼らを初めて見たのは、一九七九年七月の「誇りと笑いのまつり」だった。 続いて「たびだちのまつり」「アジアの鼓動」などのコンサートにも行った。 もっとも、その頃はまだ紅龍とひまわりシスターズと言っていた。 この三つのコンサートには喜納昌吉とチャンプルーズや白龍も参加していた。 (全部だったかどうかは覚えていないけど) その後、喜納昌吉や白龍はアルバムを出してメジャーになっていったけど、 紅龍とひまわりシスターズは自主制作のカセット『アジアが一番』が出ただけで 名前を聞かなくなってしまった。だから私は活動をやめてしまったのかなと思っていた。 ところが一咋年、なんか聞いたことのある声が響いてきた。 上々颱風だと言われたけど西川郷子の声に似ているなと思っていたらやっぱりそうだった。 彼らも続けていたということがすごく嬉しかった。そして最近の活躍ぶり。 去年はJALの沖縄キャンペーンソング「愛より青い海」がヒットしたし、 『夜逃げ屋本舗2』の主題歌も歌っている。 6/5に行なわれた「日韓ハッキリコンサート」に彼らが参加するというので 十数年ぶりに見にいったら相変わらずにぎやかにやっていた。 このコンサートの会場でりんけんバンドの『アジマァ』というCDを売っていたので おもわず買ってしまった、これには『パイナップル・ツアーズ』のテーマ曲 「黄金三星(くがにみちぶし)」が入っている。 上々颱風と韓国のスルギトゥンというグループとのセッションもまた素晴らしく、 「ペンノレ」という韓国の舟歌が感動的だった。この曲を聞いて白龍のことを思った。 彼もアルバム『ASIAN』の中でこの歌を歌っている。 彼は最近すっかり俳優になってしまって歌っていない。『橋』『その男狂暴につき』 などではヤクザや暴力的な役柄を演じていたし、『サザン・ウィンズ』 では会社の人事係の役をやっていた。最近では宮沢りえ出演のTV『西遊記』で、 三蔵法師たち一行の旅を妨害する匪賊の首領の役をやっていた。 私としてはこんな役ばかりやるのなら俳優をやめて歌に戻って欲しいな。 あの素晴らしい声をまた聞きたい。実はこのことを言いたいために、 この本のことを書いたのだった。それほど白龍の歌声は素晴らしい。 この本では他に坂本龍一や細野晴臣、それに伊藤多喜雄などのことも載っていて とても興味深い。 映画の本 ちょっとSHOT■『映画愛』 武藤起一著/大栄出版 「日本映画を変える俳優たち」と題して 元ぴあフィルムフェスティバルのディレクターである武藤さんがインタビュー集を出した。 その中にあの豊川悦司が入っているというので、本はまだ読んでいないのだけど、 パルコでやっていた写真展に行ってきた。 つみきみほや永瀬正敏、佐野史郎など八人の俳優たちに交じって 豊川さんの大きな写真が四〜五枚飾ってあった。迫力ある写真だった。 ■『イルカと海へ遠る日』 ジャック・マイヨール/著関邦博編訳講談社 著者の名を聞いてピンとくる人は映画通です。この人は、L・ベッソン監督 『グラン・ブルー』のモデルになった人。この映画をこよなく愛する人は、 この本もこよなく愛して欲しい。 ■『フィルムの中の女』 田嶋陽子著/水新社 女性学はよくわかるけど、映画をこんなふうに解釈するのって理解できない。 怒りで手がふるえて、途中でやめてしまった。 あのトリフォーの『突然炎のごとく』や『赤い靴』までズタズタ。 彼女が『シコふんじゃった』をけなしていたのにも?!ビックリ。 映画じゃないところで女性学して下さい。 (私自身清水美砂がいいとは思わないけど、女性をどうこうっていう作品じゃない。 へんなの) ■『食欲的映画生活術』 渡辺祥子著/早川書房 鰊ばかりが食卓にのぼる『ペレ』、 おいしそうなケーキを作っているおおきなお菓子工場がでてくる 『シラノ・ド・ベルジュラック』。 『マルセルの夏』では太ったつぐみの丸焼きと焼きたてのパン。 食事シーンを見るのは映画の大きな楽しみのひとつ。 もっと詳しい料理の本になっているともっといい。 西村玲子さんのシネマの本も私は好きです。 |